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【文庫解説】武田利勝訳『フリードリヒ・シュレーゲル 断章集』

 「ロマンティックな文学のみがひとり無限であり、ひとり自由であり、そして詩人の恣意はいかなる法則の重圧も被らない」
 近代ドイツ文学の一大潮流となったロマン主義。そのマニフェストとなったのは、Fr.シュレーゲル(1772-1829)が展開した断章群でした。本書では「リュツェーウム」「アテネーウム」「イデーン」の3つの断章集全てを掲載します。「イロニー」「反省」などを用いて既存の価値観の打破を試みたその思想は、近代の批評的精神の幕開けを告げるものでした。
 C.シュミットやベンヤミンなど、後世の多くの思想家にも論じられたロマン主義の精神とは何か?
 以下は、訳者・武田利勝先生による解説からの抜粋です。

 


 

六 フリードリヒ・シュレーゲルと断片の体系

 一七九〇年代のドイツにおけるほど、哲学や文学の領野で若い才能が湧きたち、高熱量の議論が闘わされた例は、歴史的にそうはないだろう。カント、ゲーテ、シラー、ヘルダー、フィヒテといったベテラン・中堅世代が新著を世に問うたび、それらは若い世代に吟味され、咀嚼され、また彼らの体内で独自に発酵し、消化不良も日常茶飯とはいえ、時にはそこから新たな言葉の芽を吹いた。だからこの時代の言葉の多くは、実に魅力的で新鮮な揺らぎのうちにある。
 しかし一七九〇年代の思想を大きな視点から振り返るなら、この時代はドイツ観念論胎動期とされている。カントからフィヒテを経てシェリング、そしてヘーゲルへ──という単線仕立ての哲学史はいかにも古めかしいし、そんなに単純でないことは誰もが承知していながら、この大河的なストーリーを無自覚の主要参照軸にしてしまっていることは、よくある。
 言うまでもなく、ドイツ観念論哲学とは体系の哲学である。シェリングもヘーゲルも、それぞれが絶対的な体系を追究した。混迷する時代だからこそ、全体を一つに束ねるための確固とした体系が必要だった。そうした意味では、『純粋理性批判』におけるカントの以下の要請によっていわゆるドイツ観念論は始まった、と言ってもいい── 「理性の統治下にあっては、我々の認識はそもそも断片のつぎはぎラプソディであってはならず、認識は一つの体系システムをなしていなくてはならない」。カントが「純粋理性の建築術」の名のもとに構想する体系は、内的・有機的連関によって構成され、彼自身の表現によれば「動物的〔この場合、人間の〕身体」のシンメトリーを範とした一個の古典的建造物であり、強固な建造物なら当然のこととして、「断片のつぎはぎラプソディ」であってはならない。この体系モデルが、一七九〇年代の哲学の主流を決定づけた。
 同世代のシェリングやヘーゲルが「体系」の構築を目指す一方、フリードリヒ・シュレーゲルの関心はむしろ、「体系」の反省に向かった。この辺りの機微を、ヴァルター・ベンヤミンがきわめて的確に表現している──「彼〔シュレーゲル〕が求めたのは絶対的なものを体系的に把握することではなく、むしろ逆に、体系を絶対的に把握することであった」(『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』)。「体系」を希求しつつも常にそれを疑わざるを得ない、という意味できわめてアンビバレントな思考の道筋は、彼の遺稿断章のなかにおびただしく見出されるが、そこには例えばこう書かれている── 「いかなる体系も多量のものからなる断片のつぎはぎラプソディであり、さまざまな断片のつぎはぎからなる塊である」 (FPL V, 939, KA XVI, S. 164)。彼が、カントの指示した方向からどれだけ逸脱しているかは明らかだ。
 ギリシア語rhaptein(縫い合わせる)を語源とする「ラプソディ」の本来的な意味は、多様な諸部分の縫合である。そして諸部分が一個の体系へと縫い合わされる──というよりも縫い合わされてはじめて一個の体系が出来上がる、という観点に立つならば、「いかなる体系も諸断片からのみ生長する」(FPL V, 496, ebd., S. 126)としか見えないであろう。そのうえまた、それら体系もさらなる縫合可能性のうちにあることから、「いかに偉大な体系といえどもやはり断片にすぎない」(FPL V, 930, ebd., S. 163)のである。こうして断片から体系へ、そして体系から断片へと、どこまでも無限循環的に続くラプソディ的生長プロセスはもはや、カントが要請するような、人間身体のシンメトリーをモデルとした体系とは別次元にある。それは敢えて言うなら、断片の萌芽から多様な枝分かれを繰り返すうちに巨大な樹木へと生長し、さらに無数の種子へと回帰し、このプロセスの無限反復のうちに鬱蒼と繁茂しつづけてゆくという、植物の生長に似ている。悟性の限界を奔放に突き破りながら、予測不可能な全体を無限に更新し続けるのだ。
 これが、フリードリヒ・シュレーゲルの見た体系のビジョンである。そして彼の考えるところの体系が、その基盤をどこに有しているかといえば──それは理性でも悟性でもなく、おそらくもっと根源的に人間に備わる、そしてシュレーゲルから終生離れることのない、あの「伝達/分有」の衝動であったろう。最後に、彼の遺稿断章の一つを引用しておきたい。「伝達/分有」の衝動を、ここでは「理解」と言っている。

一人の人間が他者を理解するということは哲学的には不可解であるが、それはおそらく魔術のごときものだろう。それは神へと生成してゆく神秘なのである。一人の開花はもう一人にとっての種子である(PL IV, 713, KA XVIII, S. 253)。

体系は、一つの作品で完結するのではない。また、一個体において完結するのでもない。着想の種子を他者のなかへと撒布しつづける「魔術」的な営み、その意味で植物的生長としか言いようのない伝達/分有のプロセスこそが、体系なのである。
 シュレーゲルがレッシングから受け取った「暗示」や「仄めかし」、あるいは彼自身が言うところの「ハリネズミ」(『アテネーウム断章集』206番)──物陰から不意に姿を現すが、それに気づく人は少なく、まして、鋭いとげのために捕まえることは困難だ──のような、断章たち。それらは、「整然と行進する兵士たちの一連隊」(『アテネーウム断章集』46番)としての、つまり絶対的統一のもとにおかれた堂々たる正規軍としての「体系」からすれば、たしかにきわめて異質である。ところがそれは、混乱する近代がどうしても発せざるを得なかった体系の要請に対しての、特異にして重要な、そしてあるべき応答の一つなのだった。

(全文は、本書『フリードリヒ・シュレーゲル 断章集』をお読みください)

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