思想の言葉:アジア系アメリカ人意識の衝撃 油井大三郎【『思想』2025年4月号】
精神分析の超越論的技法論
氏原賢人
商品に抗するアナキズム
──資本の統治を免れる
大黒弘慈
江戸後期における西洋知識の問題
ハンスン・ショーン/塚原東吾+平岡隆二 訳
グローバル・ヒストリーの中の蘭学
──「江戸後期における西洋知識の問題」解題
塚原東吾
昭和農本主義という幻像
──加藤一夫と権藤成卿(前)
蔭木達也
概念史,認識論的歴史,日本の近代化
──世界の近代化と前近代世界の概念体系(3):近代初期の翻訳概念(2)「宗教」
彌永信美
アジア系アメリカ人意識の衝撃
本年は、第二次世界大戦の終結から八〇年の節目にあたる。米国史では強制収容された日系アメリカ人史の見直しが必要になっている。強制収容された一世や二世はそれを「恥」と考え、戦後長い間沈黙し、黙々と働いて、一九六〇年代半ばには白人から「モデル・マイノリティ」と言われるまでになった。それが、一九六〇年代末から政府に謝罪と補償を求めるリドレス運動を始め、一九八八年に謝罪と補償を実現したのである。一九八〇年当時、日系人は米国の総人口の〇・三%程度しか占めていない「極少マイノリティ」であったのに、なぜリドレスに成功したのか。この疑問を解くため、私は、本年二月一九日(一九四二年、日系人強制立ち退きの大統領令が出た日)に『日系アメリカ人 強制収容からの〈帰還〉──人種と世代を超えた戦後補償運動』を岩波書店から刊行した。
この研究を進める中で、私は、日系人が長年の沈黙を破り、リドレスを要求し始める一つのきっかけとして、自分たちが「アジア系」であるとの自覚が大きな影響を与えていることを知り、それは一体なぜなのか、と不思議に思った。そもそも「アジア系」という自己規定を初めて使用した団体は、一九六八年五月に、カリフォルニア大学バークリー校の大学院生であったユージ・イチオカとその妻で中国系のエマ・ジーが、彼らのアパートで友人とともに結成した「アジア系アメリカ人政治連盟」が最初であったという。つまり、日系と中国系を糾合したメンバー構成を「アジア系」としてまとめたのであった。
その第二回大会の折に、中国系のメンバーが日系のメンバーに対して、「なぜ日系人は第二次世界大戦中の強制収容に抗議しないのか」と尋ねた。そのことが日系にリドレス運動を始めさせる一つのきっかけとなったという。つまり、中国系からすれば、日系人の強制収容は明らかに政府による大規模な人権侵害であるのに、日系人がなぜ沈黙するのか、疑問に感じたのであった。その結果、当時学生だった日系人の若い二世や、戦後生まれで収容体験を持たない三世が中心となってリドレス運動を始めたのである。
元来、米国におけるアジア系移民集団は、日系や中国系など出身国別に分かれるのが一般的であった。それが、一九六〇年代末ごろから「アジア系」としてまとまる動きが見られるようになった。日系や中国系という結合では出身国の母文化(言語や歴史的体験の共通性)が結束の契機となっていたので、そうした集団は「エスニック集団」と呼ばれた。しかし、アジア系となると、言語も歴史的体験も多様であり、米国に来てからの「人種差別」という共通体験の下でまとまる面が強かった。ベトナム系の研究者イェン・リ・エスピリトゥ(Yen Le Espiritu)は、アジア系を「汎エスニシティ」と呼び、複数のエスニック集団を糾合した大集団に分類している。
それではなぜ、このような大集団志向が生まれたのであろうか。エスニック集団の場合は、伝統的な文化に起源を求める「原初主義(Primordialism)」と、状況的な必要性から説明する「道具主義(Instrumentalism)」の対立があるが、「汎エスニック集団」と言われるアジア系の場合は何が結合の契機になったのだろうか。
それまでも「汎エスニック」な団体として、南カリフォルニアには「東洋系(Oriental)団体評議会」というものがあったが、「オリエンタル」という表現には西洋人から見た「蔑称」的ニュアンスがあったので、それを拒否して「アジア系」を名乗ったという。
その第一の動機として、ベトナム戦争の中で米兵がアジア人に対して「グーク(gook)」という蔑称を使って、虐殺を繰り返していたのを知り、アジア系が他人ごとでなく感じたことがあった。つまり、米国によるアジア侵略と米国内におけるアジア系差別を同根の問題と意識したことが契機となった。その上、白人を中心とする反戦団体では、「米兵を家に帰せ」といったスローガンが多用されたのに対して、アジア系の参加者の場合は、「アジアの仲間を殺すのは止めろ」というスローガンが身近であった。しかも、アジア系の学生が反戦集会に参加する場合、それまではアジア系独自の団体がなかったので、個人がばらばらに参加するしかなかったことも、独自団体結成の動機となったという。
第二の動機として、アフリカ系が自らの尊厳の回復をめざした「ブラック・パワー」運動を始めていた影響があった。この運動にはアフリカ系の自治の思想とともに、「ブラック・イズ・ビューティフル」というスローガンに象徴されるような、自己の尊厳回復の要求が含まれていた。とくに、一九六六年一〇月、バークリーの南隣にあるオークランドで「ブラック・パンサー党」が結成され、アフリカ系コミュニティの武装自衛や自治を強く要求していたことの影響は大きかった。アジア系アメリカ人政治連盟の創立者の中にはこのブラック・パンサー党のメンバーも入っていたので、なおさらであった。
それまでのアフリカ系運動は、キング牧師が主導した公民権運動のように、「法の下の平等」を主張して、南部の人種隔離(ジム・クロー)制度を否定、アフリカ系の米国社会への「統合」をめざすものが主であった。この運動の結果、一九六四年に公民権法、翌六五年に投票権法が成立し、南部の人種隔離制度は一掃された。しかし、北部大都市のゲトーに集住させられていたアフリカ系の貧困問題は未解決のままであり、ブラック・パンサー党はまさにこの経済的社会的不平等の解決をめざしたのであった。それをアフリカ系コミュニティの自治によって解決しようとしたのがこの党独自の革命戦略であり、それはアジア系にも、自己の尊厳の回復やコミュニティ改革の必要性を自覚させることになった。
このようにしてアジア系の学生は独自の政治組織をもったのであったが、その実力が試されたのは、一九六八年一一月からサンフランシスコ州立大学で始まった「第三世界スト」であった。ブラック・パンサー党員だった英語教師の解雇に反対して始まったこのストライキは、アフリカ系学生連盟とともに、アジア系と中南米系が参加した「第三世界解放戦線」が担う形で、翌年三月まで続き、非白人マイノリティの研究・教育を推進する「エスニック研究学部」の創設を大学側が約束することで終息した。一九六九年一月からはカリフォルニア大学バークリー校でもストライキが発生し、同様の学部の開設が約束されるに至った。
それまでの米国の大学では西洋文明を中心としたカリキュラムが一般的で、非西洋系の学生にとっては疎遠な印象をぬぐえなかった。しかし、このエスニック研究学部の創設によって、非白人の学生は自分の文化的なアイデンティティを確認することができるようになった。このような学部は全国の大学に普及してゆき、「アジア系研究学科」もこの中に含まれたので、「アジア系」意識が多くの学生の間に定着することになったのである。
その後もアジア系意識を強めざるを得ない事件が幾つも起こっている。一九八二年、デトロイトで中国系の青年、ヴィンセント・チンが日本人と間違えられて、白人の失業者にバットで撲殺される事件が発生した。この事件の背景には、当時、日本と米国の間で発生していた深刻な貿易摩擦があり、米国の自動車産業の拠点であるデトロイトでは、日本車の大量輸入の影響で米国の自動車メーカーの業績が悪化し、労働者の大量解雇が発生していたことがあった。
また、ごく最近の例では、二〇二〇年三月、感染が拡大し始めていた「新型コロナウイルス」について、トランプ大統領が「チャイナ・ウイルス」と決めつける発言を何度もおこなった。この差別発言がアジア系に対するヘイト・クライムを助長することを恐れて、二〇二〇年三月に「ストップ・アジア系アメリカ人と太平洋諸島系アメリカ人ヘイト通報センター」が発足し、被害者からの情報収集を開始した。八月までに寄せられた被害の六〇%は中国系以外の人々であり、とくに女性の被害が男性の二・四倍に達していたという(キャサリン・C・チョイ『アジア系のアメリカ史―再解釈のアメリカ史・3』佐原彩子訳、勁草書房、二〇二四年、二六頁)。具体的な事件としては、二〇二二年一月にニューヨークの地下鉄で、四〇歳の中国系アメリカ人ミシェル・ゴーが列車の前に突き飛ばされて死亡する事件が起こった。また、二〇二三年一月にはカリフォルニア州モントレーパークで、旧正月を祝う集会で銃乱射事件が発生し、一一人が死亡した。このようなアジア系に対する暴力や差別が続く限り、「アジア系」という結束は今後一層強まってゆくに違いない。