ヴァルター・ベンヤミン ――危機のなかの世界史 小川幸司
高校世界史の授業でベンヤミンを読む
私の高校世界史の授業は、いつも1枚の資料プリントを読みながら、テーマとする歴史をめぐって解釈や意義づけの考察を行うことを常としてきた。大学入試に備えるために必要な教科書の「通史」の解説はなるべく簡潔に済ませ、授業の力点を資料プリントの読解や批評、そして互いの対話に置いてきた。プリントの内容は「人権宣言」とかオランプ・ド・グージュの「女性の人権宣言」のような一次史料もあれば、李沢厚の『中国の伝統美学』のような研究書もある。そして3年生の最後の授業で、「この文章を皆さんと読むことを目指してボクは世界史の授業をしてきたのかもしれません」と前置きしてから、ヴァルター・ベンヤミン(一八九二―一九四〇)の『歴史の概念について』を読んできた。
西洋史学科でドイツ史を専攻した私にとって、恩師たちの歴史学方法論はカーやブローデルといった歴史家たちを参照するものであり、ベンヤミンとの出会いは個人的な読書体験であった。高校時代に本屋で何気なく購入した野村修『ベンヤミンの生涯』(平凡社、一九七七)に描かれた、ナチズムの迫害から逃れる亡命の旅の途上、フランス・スペイン国境の町で自死したベンヤミンの生涯の記憶が、私の心の片隅に不思議な痛みとなって留まり続けてきた。
論理を明晰に積み上げるというよりも、閃いた直観を鮮烈なイメージをともなう文章表現に刻印していったのが、ベンヤミンの著作であった。その最たるものが、死の数か月前に亡命先のパリで書き上げたと思われる断章集『歴史の概念について(歴史哲学テーゼ)』である。「過去のイメージは一度逃したらもう取り戻しようのないもの」であるとか、「過ぎ去ったものを史的探究によってこれとはっきり捉えるとは、〈それがじっさいにあったとおりに〉認識することではない。危機の瞬間にひらめく想起をわがものにすることである」(訳文は鹿島徹訳・評注『歴史の概念について』未來社、二〇一五)といった過去への向き合い方は、私が職業として選んだ高校世界史とは、あまりに異質であった。しかし教員生活の七年目に、「一定の星座的布置がさまざまな緊張をはらんで飽和状態にいたっているときに、思考作用が急に停止すると、その布置は衝撃を受け、モナドとして結晶することになる」というベンヤミンの言葉に、私は改めて向き合うことになる。そのときから私の最後の授業は、ベンヤミンを参照する歴史認識方法論になったのだった。
松本サリン事件の日々とベンヤミン
一九九四年六月に松本サリン事件が社会を震撼させ、翌九五年三月に地下鉄サリン事件が続いた。大量殺人の実行犯たちがいまだ逮捕されないなか、教員七年目の私は四月に松本サリン事件の現場に近い松本深志高校に転勤して世界史を受け持ち、有志の生徒たちと図書館ゼミナール活動を行うことになった。そのなかには、事件の第一通報者でありながら警察やマスコミから「薬品調合を間違えた」と殺人犯扱いをされていた河野義行さんのお子さんがいた。全国から寄せられる脅迫や嫌がらせ、そしてお母さんがサリン中毒の後遺症で意識不明であるなか、背筋を伸ばして毎日登校し、図書館で好きな本のことを語り合っていた彼女の姿を思い出すたびに、私は今でも胸がいっぱいになる。
河野義行さんが『命あるかぎり』(第三文明社、二〇〇八)で回想しているように、松本深志高校も含め三人のお子さんが通う三つの学校では「まだなにもはっきりしていないのだから三人にはいつもと同じように接するようにしよう」ということに徹していた。六月になって、ようやく捜査当局が、「松本サリン事件はオウム真理教による犯行である」と断定する。その頃から私や生徒たちの心の中には、「なぜ人間は大量殺人をなしうるのか」とか「不条理にも理由なく殺害された人々の生きる意味とは何だったのか」といった問いが湧き上がってきた。河野さんの無実が証明されたことに安堵するとともに、マスコミの報道を鵜呑みにして河野さんを疑った自分自身のことを問題化すべきだとも思われた。生徒たちは複数回にわたる討論会を開催した。隣の友には「いつもと同じように」つきあい、世界には「いま目の前で起きていることを徹底して対象化する」ように対峙したのだった。そして夏が終わり、図書館ゼミナールを運営する主体が1・2年生になると、生徒たちと私は、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の歴史の中で問いを探究することを始めた。同じ年に東京日仏学院で、クロード・ランズマン監督がユダヤ人虐殺の生存者たちにインタビューをして完成させた九時間三〇分の大長編映画『ショアー』が上映されて衝撃を与えていた。私と生徒は、松本サリン事件のなかで生きている「いま・ここ」で、『ショアー』の上映会を行うことにした。過去が認識可能になる瞬間があるとすれば、それは「いま・ここ」なのかもしれない。「いま・ここ」を逃したら、過去はまた長い忘却の彼方に沈んでいくだろう。いつのまにかベンヤミンの言葉が、私を動かしていた。
松本深志高校の『ショアー』の上映会は、その年の師走、寒風が吹く放課後に三夜連続で行われた。数名の仲間で粘り強く観ればよいと思っていたマラソン上映会は、いつしか全校の関心を集め、図書館には毎回一〇〇人を超える生徒たちが溢れるほどに集まった。最終日の上映が終わって蛍光灯を点けた時、入り口近くの立ち見の生徒たちはユニフォームや柔道着のままの姿であり、部活動が終わって着替えるのももどかしく駆けつけたことを物語っていた。真冬の図書館が熱気で溢れていた。映画『ショアー』のラストは、ワルシャワ・ゲットーの蜂起を戦って地下トンネルから脱出したあと、廃墟と化したゲットーに戻った人物が、独りでさまよい歩いているうちに、自分が「最後のユダヤ人」ならば「ドイツ兵」に殺されてもよいと「平穏な気持」で死を待望したという証言で終わっている。人が生きていくときには根源的に他者が必要なのであり、だからこそ他者のいのちを守らなければならないという映画のメッセージを、高校生が受け止めていた。
星座的布置をめぐる私たちの記憶
その年の夏の文化祭では、図書館ゼミナールを進めていた生徒たちが文集を編んでいた。ひとりの生徒がこう書いている。――最近の高校生は自ら考えることを放棄した「学んでいるつもり症候群」にかかっているようなものだ。でもこの図書館ゼミナール活動を通して、「「学んでいるつもり症候群」から「学んでいる人たち」が多数生まれている」のではないか、と。
この生徒の気づきは、危機の時代に世界の星座的布置を編み直す考察を重ねているうちに、学んでいる自分のありようもまた、核心となるモナド(自ら考えること!)を発見して編み直されたということになるだろう。
図書館ゼミナール活動はその後も様々な生徒たちによって続けられ、生徒たちが自由に立てたテーマに基づいて討論会や講演会が重ねられていった。一九九八年度には河野義行さんをゲストにして、日本社会における人権の状況を考えるゼミナールを行った。松本サリン事件から四年が経過しているというのに、校長のところには強い抗議が寄せられた。「オウム真理教の信者にも人権があると主張している問題の人物」を、高校生に会わせるべきではないという抗議だった。心配する校長に私は「ゼミナールは絶対にやります」と言い張った。自ら考える場としてのゼミナールが成り立つためには、「構成員が対等の立場で参加すること」と「学ぶ対象にタブーをつくらないこと」が、大前提の条件として存在しなければならないからだった。
その後の私は様々な高校で「生徒と教師がともに考える世界史」を試みてきた。来年から始まる高校の新しい学習指導要領の「歴史総合」の設計にも文部科学省のワーキンググループに入って携わった。そして今年の一〇月から刊行が始まる『岩波講座 世界歴史』の編集委員となり、第1巻の編集と展望論文を書く機会を与えられた。私のテーマは、古代文明の時代から現代に至るまで、人類がどのように世界史を構想したかについて星座的布置を描き、歴史を探究する方法や意義について、研究者だけではなく一般市民の営みに視野を広げて考察することである。危機の時代だからこそ見えてくるものを掴まえたいという思いは、四半世紀前の松本サリン事件の時代(それは前回の『岩波講座 世界歴史』の刊行直前でもあった)に、対等の立場で、学ぶ対象を限定せずに、歴史に向き合うことを大切にした「私たちの記憶」の延長線上にある。
ベンヤミンや高校生との対話のことを「果実の種子」のように隠しつつ、『岩波講座 世界歴史』第1巻を、深刻な気候変動、世界の構造的暴力、猛威を振るう感染症に直面する「いま・ここ」の江湖に問いかけることにしよう。
(おがわ こうじ・世界史教育)
『図書』2021年10月号に掲載