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〈リレー連載〉人物から見た世界歴史|『岩波講座 世界歴史』(全24巻)完結!

二人の明治期日本人のアフリカ 永原陽子

 馬杉篤彦ますぎあつひこ(一八七二―一九二四)は、近代日本の眼科学の草分けの一人である。専門分野での業績を別として、その経歴に特段変わったところはない。知られる履歴は以下の通りである。

 一八九三(明治二六)年に今日の京都府立医大の前身である療病院医学校を卒業後、半年ほど東京帝大の医学部専科に在籍してから軍医となり日清戦争に出征。帰国後、軍籍のままドイツに私費留学し、一八九八年から一九〇二年までブレスラウ(現在のポーランド、ヴロツワフ)およびフライブルクで眼科学を専攻。一九〇一年にブレスラウで医学博士号を取得(『コカイン影響下での穿孔性・非穿孔性角膜損傷の治癒過程に関する実験的研究』)。帰国後、東京衛戍病院、陸軍士官学校勤務を経て、日露戦争に出征。一九〇六年に帰国し、一九〇九年から翌年にかけて旭川衛戍病院長。一九一〇年には京都衛戍病院長、次いで陸軍第二師団軍医部長。第一次世界大戦中に陸軍一等軍医となり、一九一八年には青島守備軍軍医部長となっている。帰国後、第一師団軍医部長。一九二一年に予備役に退き、郷里の甲賀郡水口みなくち町に戻って眼科を開業し、晩年まで過ごした。なお、青島出征直前には京都帝大からも医学博士の学位を得ている(『眼科治療臨床月報』)

馬杉篤彦(日本眼科学会百周年記念誌編纂委員会編『日本眼科を支えた明治の人々』思文閣出版、1997年、219頁)
馬杉篤彦
(日本眼科学会百周年記念誌編纂委員会編
『日本眼科を支えた明治の人々』思文閣出版、1997年、219頁)

 要するに、軍医として順調な出世を遂げ、三度の戦争で任を果たし、医学者としては臨床眼科学の堅実な研究に専念した、とまとめることができよう。一〇歳上の森鷗外などと比べれば、同じ軍医にしてドイツ留学といっても、目立たない存在である。

 学位論文や一九〇四年の著書の題(『眼科顕微鏡検査法』)から窺われる通り、馬杉の研究上の関心はいたって地味なものであったと思われる。その中にあってやや異質なのが、一九一二年にドイツの専門誌『形態学人類学雑誌』に発表した論文「アイヌの結膜半月ヒダとくに軟骨小片について」である。冒頭でみずから説明する通り、この論文は馬杉が旭川衛戍病院長であった時期の調査を基にしている。一年半ほどの旭川在任中、馬杉は徴兵検査や休暇中の旅行で道内各地のアイヌ集落(芦川、増毛ましけ、室蘭、白糠しらぬかなど)を訪れ、眼科検診や治療を行いつつデータを収集した。四四〇人のアイヌの目を診るうちに、馬杉は「結膜半月ヒダが日本人よりはるかに目立つ」ことと「軟骨小片の出現頻度がはるかに高い」ことに気づいたという。「気づいた」のかどうかについてはのちに検討するとして、論文は、「ヒダ」とその中の「軟骨小片」について、その有無や大きさ、形状について、「アイヌ」と他の諸集団を比較したデータを示している。

 門外漢には耳慣れない「結膜半月ヒダ」とは目頭のピンク色の部分のことで、動物の瞬膜に相当するが進化の過程で役割を失った、いわゆる痕跡器官(ヒトの尾骨のようなもの)であるらしい。つまり、この部分への着目は、進化への関心と結びつくことがわかる。

 とくに「軟骨小片」に着目する馬杉は、それが「あらゆるサルに見られる」ことを指摘した上で、他の研究者の研究に依拠して、それが認められるのが「黒人ニグロ一六人中一二人。欠落している四人はエジプト出身の、おそらくはエジプト人」、「ヨーロッパ人五四八人中四人(〇・七パーセント)」とし、「日本人」については「二五人中五人」、さらに「ヘレロ八人中五人、ホッテントット一七人中六人」とのデータを示す。そして、自身の調査による「アイヌ」の数字を「一二人中五人」とする。

 様々な人間集団の身体部分を計測してその数字を比較するのは、一九世紀後半から二〇世紀にかけてヨーロッパで流行した「人種研究」の基本スタイルである。特定の集団について調査し、それを他の集団についての既存のデータと引き合わせるというのもお定まりの手法だ。とりわけ好んで計測されたのが骨、とくに頭蓋骨であり、そのために植民地などでは墓の盗掘が盛んに行われた。また生身の人間の身体部位も計測された。それらの数字から、集団間の「進化上の優劣」を語るものもあれば淡々とデータだけを示すものもあるが、いずれにせよ、ブレスラウはベルリンやフライブルクなどと並ぶその種の研究の拠点だった。馬杉が「日本人」のデータを借用した足立文太郎は京都帝大の解剖学教授で、馬杉と同じころシュトラスブルク(ストラスブール)に留学しており、両者には交流の機会もあった。足立はヨーロッパの学界に「日本人」関連のデータを大量に提供している。アイヌの「人種研究」に力を注いだ東京帝大の小金井良精よしきよはじめ、京都帝大の清野謙次や東北帝大・東京帝大の長谷部言人ことんどなどといった顔ぶれも前後する時期に同じ界隈で学んでいる。

 馬杉は「黒人」に関して、「エジプト人は純粋な黒人ではない」とした上で、「ヘレロ」と「ホッテントット」を挙げている。両者は当時のドイツ領西南アフリカ(現在のナミビア)の住民である。馬杉がなぜそれらを比較対象に選んだのか、その集団についてどのような認識をもっていたのかについては知る由もないが、これらの人々の歴史を勉強してきた筆者としては詮索せずにいられない。

 もとより「データがあったから」なのであるが、では、馬杉の引用元であるP・バルテルスは「ヘレロ」と「ホッテントット」という「試料」(バルテルス、馬杉もともに使う表現)をいかにして手に入れたのか。馬杉は一九〇九年のバルテルスの短文(研究仲間での発表の簡単な報告)を参考文献に挙げているが、その叙述からはほかにも同年発表のバルテルスのもう一つの長い論文に依拠していることが明らかだ。それによれば、両集団の観察に使われたのは「ホルマリン漬けの頭部」である。なるほど、「結膜半月ヒダ」のような骨ではない身体部位を測定するには、通常、馬杉がそうしたようにみずから対象とする人々のいる場所に赴くか、さもなければ生きた人間を連れてくるほかない。しかし、バルテルスはなんと、現地の軍人にアフリカ人の「頭部」を注文したのだった。一九〇四年から〇八年にドイツ領西南アフリカでは抵抗する「ヘレロ」と「ナマ」(蔑称「ホッテントット」)の人々をドイツ軍が無差別殺戮などにより徹底的に鎮圧する戦争があった。バルテルスは自身の「人種研究」のためにそれを恰好の機会をとし、ホルマリン漬けの手順を指南した。

 馬杉がこの戦争のことを知っていたかどうかはわからない。しかし、馬杉が学び、帰国後も関係をもっていた当時のドイツ医学界において、植民地の人々を進化と結びつけた「人種」の優劣研究のための「試料」とすることは広く行われており、「結膜半月ヒダ」もそうした観点から盛んに論じられた主題の一つだった。

 馬杉はそれらの研究に触発されて「アイヌ」の調査を思い立ったのか、それともバルテルスらドイツ人研究者あるいは他の日本人研究者に促されたり依頼されたりしたのか。余計な解釈に踏み入らずバルテルスの研究に「アイヌ」のデータを付け加えただけの馬杉の論文は、寡黙なだけにいっそう、多くを考えさせる。

 

 ところで、件のドイツ領西南アフリカでの戦争中、抵抗する「ナマ」諸集団の中で最も有力な指導者であったのがヘンドリク・ヴィットボーイである。独立後のナミビアではその肖像が紙幣に採用されたほどの英雄である。当時、ドイツ軍に対する徹底抗戦を指揮したこのヴィットボーイには、様々な国から手紙が届いたという。郵便を取り扱う現地の軍司令部が、その首に賞金を懸けるほどの相手にそれらの書簡を手渡したはずもないが、中に日本からのものが一通あったことをM・バイアーという軍人が一九〇九年の回想録で述べている。文脈からすると一九〇五年前半のことである。それによれば、発信者はヴィットボーイに対して、「白人の支配を打ち倒すために最後まで闘おう」「有色人はアーリア人に対して団結しなければならない、ヨーロッパの諸民族に対して、だ」とたどたどしい英語で呼びかけているという(「ヨーロッパの諸民族」は、ヴィルヘルム二世の有名な「黄禍論」演説の中の表現)。書き手の名は知れぬが、その書きぶりからは、日露戦争の最中に「白禍」との闘いを訴えたアジア主義的な心情の持ち主であったと推測される。

ヴィットボーイの肖像が印刷されたナミビアの紙幣
ヴィットボーイの肖像が印刷されたナミビアの紙幣

 西南アフリカでの戦争については、実は当時の日本の新聞でもベルリンやロンドンからの外電の短い記事でとはいえ、かなり頻繁に報道されている。たとえば一九〇四年一二月一三日の『東京朝日新聞』は、「獨領南西阿弗利加の叛徒ホツテントツト酋長ヘンドリツク、ウヰトボイの主陣地獨逸軍に襲はれ叛徒は東方に潰走しつヽあり」と報じている。しかしそのような記事に目を留めた読者がどれほどあっただろう。「謀叛」だの「叛賊」だのといった言葉が飛び交う記事は、ただでさえ遠いアフリカを余計遠くへと退けているようだが、この人物は少なくとも「ホッテントット」を同時代の人間ととらえ、それに直接かかわろうとした。ただ、「白禍との闘い」の観念に駆られた「ホッテントットとの連帯」が、他の多くのアジア主義者たちのその後の「アジアとの連帯」とどれほど異なったかは想像に任せるしかない。

 一〇〇年以上を経て、私たちが「アフリカ」を見る目、あるいは「アフリカ」を通じて世界と日本を見る目は、ここに取り上げた二人のそれとどれほど変わっただろう。

(ながはら ようこ・アフリカ史)


『図書』2023年4月号に掲載

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