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『図書』2022年3月号[試し読み]阿部公彦/川上和人

◇目次◇

南米発のケルトの声 阿部公彦  
柳家小三治とその周辺 (上)……矢野誠一
邪気の「あるとない」……ブレイディみかこ
早春の賦……柳広司
究極の自己責任、その名はダイエット……栗田隆子
ルネ・マグリットの《夢の鍵》……司 修
ドードー・絶滅・後始末……川上和人
「失われた時」とは何か……塚本昌則
それまでの日本にお別れを……片岡義男
旧正月の李箱の手紙……斎藤真理子
三月、春は翼に乗って……円満字二郎
光の夕……岡村幸宣
離散集合……時枝 正
鍋沢モトアンレクの虎杖丸……中川 裕
戦後の零落……四方田犬彦
こぼればなし
三月の新刊案内

 (表紙=杉本博司) 

 

◇読む人・書く人・作る人◇

南米発のケルトの声
阿部公彦

 
 三〇年前、英国の大学に留学していた。まだEメール普及前夜で、よく郵便局に通った。どこも窓口に銀行と同じように防弾ガラスのような仕切りがある。でも店舗を兼ねる所も多く、ごちゃごちゃした店内はせわしなく日常的で牧歌的だった。

 商店街の交差点近くにあったその郵便局も雑貨屋を兼ね、午前中に行くとインド系の装いの若い女性が窓口にいた。料金を払うと、いつも大きな舌を出して切手の裏を舐め、貼ってくれる。この人は一日に何枚の切手を舐めるのだろう、と少し心配になったものだ。(英国の切手の糊はあまりおいしくない)

 一九一六年のアイルランド独立派による「復活祭蜂起」の舞台も郵便局だった。ダブリン中央郵便局は太い柱の列で支えられたポルチコが目を惹く立派な造り。政府庁舎を思わせる威厳が漂うが、それでも郵便局だ。建物には皮肉に満ちた歴史が凝縮されることになる。支配者と被支配者とが地理的心理的に近接し、対立の構図も単純ではない。市民の反応も揺れた。

 マリオ・バルガス=リョサの巨編『ケルト人の夢』(野谷文昭訳)の主人公ロジャー・ケイスメントは、そんな時代、南米、欧州、アフリカを巻き込む巨大なうねりのただ中を生きた実在の人物だ。アイルランド出身ながら大英帝国の外交官を務めた彼は、植民地の実態調査を行い、人権侵害を告発する。現地の惨状を描き出すリョサの筆力は圧倒的だ。やがてロジャーは密かに母国の独立運動にかかわるが……。南米発のケルト物語。独房からの語りは痛ましくも美しい。野谷さんの記念すべき訳業だ。

(あべ まさひこ・英文学者)

 

◇試し読み◇

ドードー・絶滅・後始末
川上和人
 
 ハンプティ・ダンプティは高い塀に座っていた。
 子供がそんなことをしたら、危ないからやめなさいと親から説教されるだろう。しかし、彼はもう大人だったため、誰も注意をせず見て見ぬふりをした。
 それが災いした。
 バランスを崩した彼は地面に落ち、木っ端微塵に割れてしまった。
 王様が気づいた時には手遅れで、その権力をもってしても割れたハンプティを元に戻せなかった。
 
 ハンプティは卵の紳士である。
 卵の殻に顔があり、殻から手足が生えている。ジョン・カーペンター監督にかかれば、遊星からの奇怪生物としてパニック映画が完成しそうな風貌である。
 彼の死が事故か他殺かも気になるが、ここでは物語に見られる二つの含意に注目したい。
 一つ目は、割れやすいのに塀に登るような無茶をするな、という教訓である。
 二つ目は、世の中には一度生じると元に戻せない事象がある、ということだ。
 この二つ目のような事例をハンプティ・ダンプティ問題と呼ぶ。生物の絶滅はしばしばこの問題を生じさせる。
 
 テニエルの呪い
 絶滅は生物の必然である。過去には多くの生物が絶滅を経験し、現在絶滅していない生物もいずれ絶滅する。そして人類はその絶滅に加担してきた。最も有名な例はドードーだろう。
 ドードーはモーリシャス島で進化した無飛翔性のハトだ。体重一〇㎏以上にもなる巨大な鳥で、頑丈な足と小さな翼、大きな頭とくちばしという特徴を持つ。
 一五〇〇年代の終盤、アフリカ東部に浮かぶモーリシャス島を訪れた船乗りがこの鳥を発見した。そこには捕食者となる地上性哺乳類がおらず、ドードーは警戒心が薄かった。
 船乗りたちは食料のため、時には見せ物のためこの鳥を乱獲した。さらに、意図的・非意図的に侵入したブタやネズミなどがその巣を捕食したと考えられている。経緯はともかく、一六〇〇年代なかばにドードーは世界から姿を消した。
 人間によって絶滅した鳥は多い。ジャイアントモア、リョコウバト、オガサワラガビチョウ。絶滅鳥類紳士録にはさまざまなエピソードとともに多数の種名が連なる。そんな群雄割拠の絶滅界でドードーを有名にしたのはルイス・キャロルだ。彼は名著『不思議の国のアリス』にドードーを登場させた。
 画家のジョン・テニエルが挿絵に描いたドードーはずんぐりむっくりしている。この愛らしく特徴的な姿のおかげで、当時すでに絶滅して久しかったこの鳥の姿が世界中に知れわたった。このイラストはその後のドードー像の基礎となり、丸々としたイメージが流布した。しかし、近年の研究ではドードーは意外とスリムだったと考えられるようになってきた。今後は図鑑などに描かれる姿も変化していくかもしれない。
 このイメージの変化の背景には、ハンプティ・ダンプティ問題がある。
 ドードーは有名な鳥ではあるが、実は外見に関する情報は少数の絵画と断片的な記述しか残されていない。剥製もなければ博物画もない。このため、本当の姿はよくわかっていないのである。翼の形、各部の羽色、体型、歩き方、そんな基礎的なことも正確には不明だし、今後も永遠にわからないままだろう。
 ドードーは十分な記録が残される前に塀から落ちたため、往年の姿を復元できなくなった。いざ事件がおこった後には、割れる前のハンプティの形を誰も覚えていなかったのだ。
 
 誰のための絶滅
 絶滅という言葉には悲劇的な響きがある。絶対的に滅びてしまうのだから、それはもう悲しいことに違いない。
 では誰にとって悲劇かというと、それは人間にとっての悲劇であり、絶滅する本人にとっては特段の悲劇ではない。なぜならば、「絶滅」という事件を認識できるのは人間だけだからだ。
 人間は生物を分類し分布を明らかにしてきたおかげで、対象とする種の生息状況を認識できる。このように生物の集団を俯瞰的に捉えられる存在は人間しかいない。
 野生生物自身が認識できるのは集団全体ではなく、自らの行動圏の中だけだ。
 自分が属する種が世界にどれだけいるかは、個体の生活には無関係であり知りようもない。認識可能な行動圏内にライバルがいれば戦い、配偶者となる個体がいれば恋をすればよいのだ。
 個体が一人ぼっちになった時、その原因が絶滅寸前の密度低下のためだろうが、単に集団から離れて孤立しただけだろうが、当事者にとっての意味は変わらない。配偶者なきままに死ぬことは、自然界で珍しくない。
 そもそも彼らにとって意味があるのは絶滅という「種の死」ではなく、あくまでも「個体の死」である。
 医療技術の発達した人間社会では、同胞の死は日常的なものではない。その一方で、野生の世界は死に満ち満ちている。仮に、毎年一〇個の卵を生むカルガモが一〇年間生きるとしよう。ヒナがみんな生き延びて成鳥になり毎年拡大再生産が生じると、遠からず世界は羽毛に埋まってモッフモフになる。それはそれで心地よさそうだが、実際には多くのヒナが死に、モフモフ天国またはモフモフ地獄は実現されずに済んでいる。
 野生下では死は稀な出来事ではなく、日常的なシステムの一部なのである。
 死ぬ理由は多様だ。捕食者に襲われ、病気になり、餓え、人間に狩られる。様々な要因で野生生物に死が訪れる。
 人間は死因を気にするが、野生生物にとって死の理由は重要ではない。生きるか死ぬかが重要なのである。生まれた途端にサメに食べられようが、宇宙人に解剖されようが、いずれも死という事実があるだけで、非業の死も荘厳な死もない。たとえその死が種の絶滅の瞬間だったとしても、本人にとっては自らの死という以上の意味はない。死は本人にとっては死因によらず等価なのだ。
 しかし、外野にいる人間にとって野生生物の死の価値は状況によって異なる。
 自然の捕食者による死はやむを得ないものだが、人間の影響での死は非業の死である。一万個体いれば一個体の死は許容範囲だが、絶滅前の最後の一個体の死は重大事件だ。
 絶滅して本人が可哀想かといえば、そんなことはない。何しろ本人は絶滅したことを知る由もない。人間だけがそこに意味を見出すことができる。その点で、生物の絶滅は人間のための事象なのだ。
 
 絶滅エンターテインメント
 では、絶滅は人間にとってどんな意味があるのだろうか。
 私たちは野生生物の絶滅を悼む。同じ世界に棲む野生生物の絶滅は、ただそれだけで悲しむべきことである。
 そして、そこから絶滅の原因を学び、反省し、次の絶滅が生じないよう努力する。私たち人間が生きていけるのは野生生物が生態系の中で様々な機能を果たしているからだ。彼らが絶滅するとその機能が損なわれ、人間の生活も脅かされる。野生生物が生きていけない世界では、人間も生きていけないだろう。
 というのが、教科書的な回答である。だが、これは嘘ではないが本音でもない。
 私たちがドードーから得ているのは、そんな道徳的な情報ではない。
 前述の通り、最近の研究によりドードーが思いのほかスリムだったとわかった。これは特に次の絶滅の抑制につながるものではない。では、太ってノロマというイメージの払拭で名誉挽回となりドードーが喜ぶかといえば、そんなこともない。すでに絶滅した彼らには関係ないことである。これは、人間にとって興味深い新事実がわかったというだけだ。
 また、最近のドードー研究では江戸時代に一羽のドードーが生きたまま日本に持ち込まれたとする文献が注目されている。これをテーマに、川端裕人氏により単行本『ドードーをめぐる堂々めぐり』(岩波書店)が執筆された。読み応えのある面白い本だが、一個体が輸入されただけで本が一冊できたと考えると、ドードーというコンテンツの強さがわかる。
 わずか数百年前に生きていた鳥のことをいかに知らないかを痛感することで、絶滅という事件の罪深さを知ることもある。しかし、ドードーに関する新事実がわかると、反省よりもむしろ知的好奇心が鎌首をもたげ、「ふむふむ、なるほど、そうなのか、おもしろい、おもしろい」と感じる。つまり、私たちは絶滅種すらエンターテインメントの対象にしているのだ。
 人間の本質は飽くなき知的好奇心にある。それが人類の発展を支えてきた。絶滅はハンプティ・ダンプティ問題を生じ、ミステリー小説的謎解きの楽しみも加味される。好奇心が刺激されるのはやむを得ないことだ。
 ただし、もしドードーが生き残っていればさらに多くの知見が得られただろう。絶滅により私たちが知識の源泉を一つ失ったことも忘れてはならない。
 過去の絶滅はもう仕方がない。十分に反省したら、私たちはそれを悼みつつも楽しめばよい。そんなことができるのは、人間しかいないのだ。

(かわかみ かずと・鳥類学) 

 

◇こぼればなし◇

◎ 柳田国男の『遠野物語』は、意外にも限定三五〇部の自費出版として、一九一〇(明治四三)年六月に産声を上げました。初版刊行から百十余年、今年一月刊行の『柳田國男自筆 原本 遠野物語』(原本遠野物語編集委員会編)は、作品世界の新世紀を開く書物です。

◎ ここにはA4判のたっぷりの版面を使って以下が収録されています。一、毛筆で書かれた「草稿」の影印とその翻刻。二、原稿用紙にペンで書かれた「原稿」及び印刷所が出した校正刷に朱筆で修正が施された「初校」の影印。さらに三、自費出版当時の「初版本」影印。

◎ 毛筆草稿を下段の翻刻と対照しながら眺めているだけで、時の経つのを忘れます。また、一、二、三故加藤敬事さんがご覧になったらどんな感想を漏らされたかな、などと夢想したりします(『思言敬事』「あとがき」参照)。

◎ 柳田が「原本」と呼び、自身で綴じていた草稿群の全体像に広くアクセス可能となったわけですが、その意義は、編集委員会委員長である三浦佑之さんの本書「解説」の一節から。「…今回初めて柳田国男の筆跡も鮮やかなままに、毛筆草稿を読むことができるようになったのである。加えて、印刷のために清書されたペン字原稿と、制作途中の初校もあわせて照合できるので、今までは不可能だった遡源作業が容易にできるようになった。それは、成立から一一〇年を経た『遠野物語』がまったく新たな作品として再生したことを意味する」(二〇九頁)。

◎ 遠野出身の佐々木喜善からの聞き書きを柳田が文章化してできた『遠野物語』。赤坂憲雄さんの「はじめに」によれば、それは「日本の近代が産み落とした最高の文学作品のひとつとして、しかも宮沢賢治や宮本常一、石牟礼道子へと連なる耳の文学の系譜において読まれてゆくことになるはずだ」(ⅵ頁)と。いち柳田ファンとしても楽しみです。

◎ 貴重な「原本」群が辿ったドラマも広く知られてほしいと思います。柳田から一式を託された当時二六歳の門弟・池上隆祐氏の並々ならぬ決意のもと、戦火の時代も生き延びて長年守り抜かれ、やがて池上家から一九九一年に物語の原郷たる遠野市に託されるまでの歴史。遠野市の関係者の皆様のご努力。それは小田富英さんの「解説」や、木瀬公二さんのnote連載「やっぱり遠野物語は面白い」で読むことができます。

◎ ご報告です。「新書大賞2022」の第六位に濱口桂一郎さん『ジョブ型雇用社会とは何か』、第八位に芝健介さん『ヒトラー』が入りました。

◎ 本号からブレイディみかこさんと谷川俊太郎さんのコラボ「言葉のほとり」が始まりました。ブレイディさんのエッセイと、谷川さんの詩が往復する豪華な連載です。どうぞご期待ください。まずは今回の「有邪気」なユーモアという球を、谷川さんがどう打ち返してくるか!

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