藤森晶子 パリで消えたナチ占領下日記[『図書』2025年5月号より]
パリで消えたナチ占領下日記
一昨年末『パリの「敵性」日本人たち──脱出か抑留か 1940—1946』(岩波書店)を刊行してからというもの、読者の反響にびくびくしている。この本では、連合軍がノルマンディに上陸してきたことで、在仏日本人が、フランスを脱出するか残るかの選択を迫られたときの様子を描いた。それだけなら反響に怯えることはないのだが、その前段階であるドイツ占領下フランスで、ドイツによって日本人が一般のフランス人より優遇されていたという事実を明らかにすることで、傷つく人がいるかもしれないからだ。
日本がドイツの同盟国であったことは誰もが知る史実であるものの、ドイツ占領下フランスで日本人がどういう状況におかれていたのかについては探究されてこなかった。在仏日本人たち本人の回想録では、この時期のことについては言葉を濁すことが多い。ドイツ人と仕事していたことは認めつつ、不本意であったといったような、はたまた表向きは協力していたが裏ではレジスタンス的な行動もしていたのだというニュアンスが加わることもある。この時期の在仏日本人をテーマに書かれたいくつかの評伝を開くと、日本人も、被占領国の国民と同じように厳しい生活を強いられていたかのような記述が目立つ。
ところが、フランスの公文書館にある史料から、一部の日本人は、ナチ・ドイツの主催するイベントに参加したり、プロパガンダ活動に勤しんでいたり、特権的な立場を利用して、たとえば配給切符を余分に請求するなど一般のフランス人よりも優遇されていた事実が明らかになった。これについては追加で切符を請求した人名が記された文書があり、これを見ると、全員ではないが、多くの人がその権利を使っていたと言わざるをえない。
戦後、当人たちはそのことについてあまり語ってはこなかったと思われる。まるで口裏合わせをしたかのようだ。ドイツとの同盟関係という、当時の日本人としては都合が良かった事実は、もはや不都合なのであった。
『パリの……』の登場人物には親族がいらっしゃる。もし、こういった記述を読まれたなら、祖先のそんな過去など知りたくなかったと思うのではないか。気分を害された方がいらっしゃるのではないか。そういう方からの連絡がこわかった。
実際、パリ解放後にスパイ容疑で収容された日本人、齊藤哲爾のご親族とつながることになった。
調査に協力してくれたパリ郊外に住む老紳士からは「齊藤さんには親戚はいないはずだから自由に書いて大丈夫」と言われていた。齊藤は長くパリに暮らし、この老紳士と知り合いだった。齊藤には、フランスに親戚はいなかったかもしれないが、日本にはいたのである。老紳士もそこまでは知らなかったようだ。
連絡を取り合うこととなったのは齊藤の弟のお孫さんで、偶然にも私の夫の職場の先輩だった。私はお孫さんの奥さんと会って話す機会を得た。
齊藤はドイツ占領下では画家を名乗っていたが、諜報活動をしていた疑いで、パリ解放後にフランス警察によって収容された。日本人の中では最も長い期間収容所で過ごした。そして、収容所体験をフランス政府に「保護されていた」として、戦後フランスにやってきた日本人には語っていた。
齊藤のお孫さんの奥さんは、フランスで暮らした大伯父について、その日記をもとにまとめようとしているところだという。『パリの……』の読後の反応は、私が心配したような種類のものではなく、むしろ日記に何の説明もなしに散見されるかなりの数の個人名について、それぞれどういう人なのかがわかってよかったという好意的なもので安堵した。
他方で、岩波書店のウェブサイト上の「読者の窓」を通じても、いくつか連絡をもらった。登場人物の親戚で資料提供を申し出てくださる方、間違いを指摘してくださる方、表紙の写真の東洋人の可能性を示唆してくださる方、そして、淡(だん)徳三郎関係史料の、パリ・ナンテール大学附属史料館への寄贈者について、情報を提供してくださる方がいた。
淡は戦前、フランス、ドイツ、ソ連での抑留を含む海外生活をはさみ、戦後、文筆家や翻訳家として活躍した。ナンテール大学附属の史料館には、淡が彫刻家の高田博厚と一緒に約5年間発行していたガリ版刷りの日刊紙『日仏通信』の半分弱とともに、フランス時代の淡の様々な書簡や、私的なノート群が保管されている。ちなみに『日仏通信』は日本近代文学館にも一部所蔵がある。
この史料はもちろん、私が発見したものではない。私の知り合いというごく限られた範囲だけでも、フランス現代史の専門家が、私などよりずっと前に、この史料を目にしたことがあったと『パリの……』が出てから知った。『日仏通信』にしろ、淡が所有していた文書にせよ、技量がある人ならそれだけで論文か何かにできるくらい充実した史料だ。正直、私の手には余る。
A4判全20冊を超えるノートは、日本の大学ノートよりも厚みがある。表紙は不思議と色褪せの度合いが一冊一冊異なるが、赤や青や薄茶、かつては緑だったのかもしれない色がある。これらのノートは、新聞記事のスクラップ、手紙の下書き、ロシア語の勉強、といろんな用途に使われている。このなかでも日々の雑事が書かれたノートが、在仏日本人の活動に興味がある私の目を引いた。
淡がフランスに来てすぐの1935年には、日記をはりきってフランス語で書こうとしていたようだが、結局は日本語に落ち着いたのには親近感がもてる。また、フランス滞在後半の数年間は「終日在宅」といった、ほんの一行だけの日もありながらも、ほぼ毎日、何らかの記録を残しているのには頭が下がる。
現存するうち、最後の青い表紙のノートは1942年11月1日から1943年7月31日の日記で、日々のことがときに端的に、ときに詳細に書かれている。だが私が最も読みたかったのは、あったはずのその次のノートだった。この続きであるから1943年8月1日から始まり、半年から1年間の出来事や感想がそこには綴られていたはずだ。
それはちょうどラジオ・パリでの日本の番組『ニッポン』の放送や「日本人」によるパリでの盛大なコンサートなど、フランスでの日独の文化協力がいよいよ活発になってくるドイツ占領期の後半から、連合軍ノルマンディ上陸作戦以降、日本人がパリを離れるか留まるかの選択を迫られた時期にあたる。
淡徳三郎の娘の民子さんによると、淡は中学生のころから日記をつけていた。戦後日本に帰国してからの日記もご自宅に残っている。このことから、青いノート終了をもって日記をつけることをやめたとは考えにくい。絶対に続きがあったはずだ。にもかかわらず、それはナンテールにはない。どこにいってしまったのだろう。
淡は、連合軍の戦車がパリ市内に入る直前の、1944年8月13日ごろにパリを脱出した。ベルリンへ向かい、ベルリンからシベリア鉄道で満洲へ送り届けられたのが1945年春。終戦前に帰国すると政治犯として逮捕される危険性を感じ、すぐには本土へは渡らなかった。ところが新京で反ソ分子として捕えられ、カザフスタンの収容所で過ごすこととなった。もしかしたら書きかけだった続きのノートを、淡は持っていったのではないだろうか。どこかの段階で没収されたのか、結局なくなってしまった。民子さんの手元にもノートはない。フランスに置いていってくれていたなら、と嘆いても、仕方のないのはわかっている。
そもそも、なぜナンテール大学附属の史料館は、淡の史料を大量に保管することになったのか。史料部長によると、史料が寄贈されるときには、その経緯も同時に記されるという。ところが、淡関係の史料は1960年代前半に3度に分けて寄贈されたことしかわからなかった。だが目録にはAkomatsuという人名が見受けられる。
「アコマツ」という名前はフランス人の名前というより日本人の名前に近いが、あまり一般的とは言えない。日本人にとってフランス人の名前がややこしいように、逆も同じである。だから、A. KomatsuかAkamatsuではないか。後者ならば、手続きを担当した者が、書き写すときにaとoを間違えたのだろうと推測していた。
「読者の窓」を通していただいた連絡は信州にお住まいの方からで、AkomatsuはAkamatsu、パリ在住の赤松ピエール淑郎さんではないかというものだった。
赤松さんはフランス探訪のグループを率いておられ、連絡をくださった方はそれに参加されたことがあるそうだ。
ありがたいことに赤松さんについて書かれたウェブサイトや参考文献も教えてくださった。その1つは湯浅年子『パリ随想 ら・みぜーる・ど・りゅっくす』(みすず書房、1973年)だ。赤松さんはパリ生まれだが、戦時中は東京で過ごした。父親は日本人宗教学者、母親はフランス人で日本の陸軍士官学校のフランス語教師をしていた。父親が早くに亡くなり、戦時中、一家は苦労したが、戦後、大使館の世話でフランスへ戻った。
赤松さんがフランスに戻ったのは戦後であるから、1944年8月にパリを離れた淡徳三郎とは、現地で直接の接点はなかっただろう。民子さんの調査では、淡が次にパリに行くのは1953年で、平和運動家たちと共に欧州を歴訪した際だ。赤松さんと淡がこのときに知り合う機会がなかったとは言えないが、このとき淡が史料を持っていて赤松さんに渡した可能性はないだろう。ただ、淡が1944年にパリを離れる際に、誰かに託したりどこかに隠したりした史料が赤松さんに渡った可能性はないとは言えない。
それでもしっくりこない点がある。淡徳三郎関係の史料には、親独のフランス人記者、ドイツ人や日本人のメディア関係者が書かれた名簿が含まれており、この文書には、何かに使われたと思われる書き込みがある。そもそも、なぜこのような名簿を淡が持っていたのか、あるいは自ら作成した文書なのかも謎として残るが、パリ解放時、軍の警察組織やレジスタンス組織などによって日本人の住まいが捜索されたという事実から、私の想像を書いてみる。
ベルリンへ脱出して本人のいない淡の家も捜索の対象となった。記者だった淡の家からは大量の『日仏通信』、数年分の日記、例の文書やらが押収された。『日仏通信』や淡の日記は日本語でフランス人には意味不明だが、名簿などのフランス語で書かれた文書は親独フランス人記者やドイツ人軍政幹部の捜索には有用だった。
戦後しばらくして、どこかに眠っていたこれらの文書がひょっこり見つかった。個人の日記も含まれていることだし、フランス当局は日本と関係のある赤松さんに渡した。そんな私的なものを渡されて赤松さんは困った。もし赤松さんと淡が知り合いだったなら、きっと本人に返却しただろう。そうでなかったから赤松さんは史料の保管場所を考え、そしてきっと歴史史料としての価値を見出して、史料館に相談した。
赤松さんは2017年にお亡くなりになっている。私がパリの「敵性」日本人の調査を始めようとした年だ。直接お話を伺ってみたかった。
(ふじもり あきこ・著述業)
*仏文学者の支倉崇晴先生が『図書』第917号(2025年5月)に掲載されたエッセイをお読みになり貴重な証言をお寄せくださった。これを踏まえ記述を一部変更している。支倉先生は、航空エンジニアだった赤松ピエール淑郎氏の生涯の友である。淡関係史料に関わった人物としての可能性は、ピエール氏よりも、4歳下の弟で日本史研究者だったポール氏の方が高いと推測されていることを追記したい。