思想の言葉:寺田俊郎【『思想』2025年10月号 特集|哲学教育/哲学対話】
【特集】哲学教育/哲学対話
〈座談会〉哲学教育を考える
阿部ふく子、池田 喬、神戸和佳子、土屋陽介
──哲学教育の現在──
哲学者は学校教育に貢献できるのか
──教育基本法と知的徳の観点から
山田圭一
ドイツの哲学教育
──「哲学教授法」の批判的次元
阿部ふく子
フランスの哲学教育
──エリート選抜と教育の大衆化の結節点としてのバカロレア
坂本尚志
──方法としての哲学対話──
elephant in the room
──分断された社会における「無知」と哲学対話
西山 渓
ソクラティク・ダイアローグの展開
──レオナルド・ネルゾンとグスタフ・ヘックマン
太田 明
道徳教育と哲学対話
林 泰成
──実践の現場から──
教室で“てつがくする”ということ
──それぞれの現れが教室の文化を創る
岡田博元
道徳の授業に哲学対話を取り入れる
剱 仁美
哲学対話と嫌いな先生、あるいは告白した後の友情について
中川雅道
Dr. J,ハワイに答えはありますか?
──ある教員にとってのp4c
古賀裕也
哲学プラクティスのビジネス的転回
──企業における哲学対話の可能性
堀越耀介
──***──
哲学対話のこれまでとこれから
梶谷真司
「目的自体」としての哲学的対話
哲学的対話の活動を始めてから、早いもので、二十年余りになる。
最初は街中で開いた「哲学カフェ」、続いて学校での「子どもの哲学/哲学的対話の授業」、比較的最近始めたのが企業での「ビジネス・パーソンの哲学的対話」である。どれもまだ続けている。社会の中に哲学的な対話と思考の場を開き続けたいという気持ちは変わらないし、興味をもつ人たちは絶えないし、何よりも楽しいから続いている。時が経っても、場所が変わっても、進め方はほとんど変わらない。輪になって座り、哲学的な問いを、ゆっくり、じっくり、言葉を交わしながら考える。「十年一日の如く」どころか「二十年一日の如く」である。進行役(ファシリテータ)としての技量は、年を重ねて、多少向上した気がする。
始めるにあたって参考にしたのは、「ネオ・ソクラティク・ダイアローグ」だった。新カント派の哲学者、レオナルト・ネルゾンの哲学教育法「ソクラテス的方法」に由来する哲学的対話の手法で、参加者の主体性を大切にする。その精神に倣って、できるだけ対話に介入しない進行を心がけてきた。当初は、臨床哲学の仲間たちと細々と続けている感じだったが、次第に哲学的対話に対する関心が日本社会にも広がり、二〇一〇年代には、さまざまな人たちがさまざまな場所と形で実施するようになっていた。そして、いつしか「哲学対話」という馴染みやすい呼名で親しまれるようになった。
哲学的対話を始めたころは、それを哲学の学術的研究に直接結びつけて考えたことはなかったが、並行して続けるうちに、二つはだんだん響きあうようになっていった。今では、ぼくにとって哲学的対話の活動は、イマヌエル・カントの「世界市民的意味での哲学」の実践の一つの形であると同時に、哲学を研究することの意味を深めてくれるものである。そのことをいくつかの文章で書いた。その一つが五年前に編集した『哲学対話と教育』に収められている(1)。本書には、中川雅道さんの文章と、それをめぐるぼくと中川さんとの「往復書簡」も収められているが(2)、そこで浮上したのが「〈目的自体〉としての哲学的対話」という論点である。ここで、あらためて考えてみたい。
「目的自体」としての哲学的対話
中川さんは、哲学的対話を学校で実施する難しさを語り、その理由として、学校には「目的」があるのに対して対話には「目的」がないことに着目する。そして、カントの「理性の公的使用」と「私的使用」の区別を引いて、学校という組織にはさまざまな公共的な目的が課され、その実現が求められており、対話の自由がないと論じ、それに対して、哲学的な対話とは「ロゴスの正しさや美しさを理解すること」であり、その精神は「何のためでもない」ところにある、と田中美知太郎を引きつつ論じる。さらに、カントが道徳の根本原理とする「目的自体」としての人格と「目的の国」の理念が、ハワイで「子どもの哲学」を研究・実践するトマス・ジャクソンの提唱する「インテレクチュアル・セーフティ〔知的安全性〕」と「溶けあう」と述べる。
ぼく自身の哲学的対話の経験からも、それは目的のない活動であり、したがって「目的自体」である、と言うことができる。ふだん立ち止まって考えることのない問いを、ゆっくり、じっくり考えることだけが目的である。しかも、そういう問いを、ふだん自分が担っている地位や職務から解放されて、一人の人の立場に戻って考える。そうであるかぎり、哲学的対話の参加者はみな、特定の組織の目的から自由である。
いや、哲学的対話が問いを立てることから始まるかぎり、その答えを見出すという目的があるではないか、と言われるかもしれない。たしかに、哲学的対話は、問いの真なる答えを見出すことを、少なくともよりよい答えを見出すことを、目指している。だから、真理の探究であり、真理を目的としていると言うこともできる。だが、その答えを見出す手段は、他の人と対話しながら考えること、つまり、率直に意見を述べあい、それを理解し、吟味し、より理に適った、より納得のいく意見をともに探っていくこと、それしかない。真理は、対話を方向づけるものではあっても、実質的な手段を規定するような目的ではないのだ。哲学的対話は、やはり「目的自体」である。
哲学的対話が「目的自体」であるゆえん
このような哲学的対話のあり方は、中川さんも言うように、カントのいう「理性の公的使用」を思わせる。理性の「公的使用」とは、人が「学者として読書界の全公衆を前にして理性を使用すること」であり、「特定の市民的な地位または公職において自分の理性を使用すること」である理性の「私的使用」に対置される(3)。ここで「学者」とは狭く学術の専門家ではなく、特定の地位や公職にとらわれない立場で言論する人を指すことは明らかだろう。「私的」と「公的」の用法が、一見したところ通常と逆だが、そこが肝心な点である。たとえ公職にある人でも、特定の組織のために理性を使用するかぎり、それは「私的使用」であり、むしろ、一人の人間の立場で世界に向かって理性を使用することこそが「公的使用」なのだ。そして、理性の「私的使用」はつねに何らかの組織の目的に拘束され手段となるのに対して、「公的使用」はそのような目的と手段の連関から自由であり、その意味で「目的自体」である。
しかし、すでにお気づきの方もあるように、カントの「目的自体」の思想として一般に知られているのは、以上のような意味での「目的自体」ではない。道徳の根本原理である「定言命法」の公式の一つを構成する「目的自体」である。「あなたの人格のうちにある人間性も、他のあらゆる人のうちにある人間性も、つねに同時に目的として用い、けっしてたんに手段として用いないように行為しなさい」(4)。われわれはふだんから互いを手段として用いあっているが、たんに手段として用いるべきではなく、同時に目的として用いるべきだという道徳の原理である。
「手段として用いない」はよいとして、「目的として用いる」とはどういうことか。一つの解釈は、各人が自分自身の目的をもち、それを実現する手段を考え、行為する主体であるということを尊重しつつ互いに関わりあうこと、というものである。各人は自由に自分の目的を立て、理性的に考えてそれを実現しようとする。だから、人を「目的自体」として尊重するとは、その人を自由で理性的な行為主体として尊重するということだ。そして、そのような行為主体として、どのような目的をもっていようとも、各人は互いに対等である。だから、人を「目的自体」として尊重することには、その人を自分と対等な人として承認することも含まれている。さらに、どのような目的を立て、それをどのように追求するかは、その人の人となりやその人が大切にしているもの、つまり「その人らしさ」による。したがって、「その人らしさ」を尊重することも、人を「目的自体」として尊重することの一部である。まさにこのような原則によって哲学的対話は成り立つ。
このように「目的自体」の概念は「定言命法」の公式の一つを構成するものだが、実は「定言命法」自体が、他のどの公式によって表現されようと、「目的自体」としての行為を表現するものでもある。というのも、「定言命法」は、「~という目的を実現したければ…せよ」と命じる「仮言命法」とは対照的に、端的に「…せよ」と命じるからである(5)。道徳的行為には特定の目的がないことになる。それを、カントは、道徳的行為は「目的自体」を目的とすると表現するが(6)、道徳的行為が「目的自体」だと表現してもおかしくない。道徳的行為とは、人が人を「目的自体」として扱うことによって成り立つと同時に、その行為自体が「目的自体」であるような行為なのである。そして、すべての人がそのような行為を行う共同体を、カントは「目的の国」と呼ぶ(7)。
哲学的対話とは、まさにそのような行為である。それは、目的と手段の連関に拘束される「仮言命法」の世界から解放された「定言命法」の世界に属する営みであり、いわば「目的の牢獄」ではなく「目的の国」に属する営みである。
組織の「内」「外」と哲学的対話
さて、カントは、同一の人間が理性の「私的使用」と「公的使用」を使い分けることを想定している。だが、そのようなことは、はたして可能だろうか。ある特定の組織に属し、その目的に拘束される人が、同時にそれから自由に考えることはできるのだろうか。一つ考えられるのは、組織の内と外とをきっぱりと区別し、組織の内では「私的使用」を行い、外でのみ「公的使用」を行うことだ。実際、哲学的対話は、哲学カフェのように、特定の組織の外で行われることが多い。「理性の公的使用」を論じるカントも、それを念頭に置いているように思われる。
「そうするしかない」という消極的な見解ばかりでなく、「そうするほうが望ましい」という積極的な見解もある。たとえば、学校という組織には自由がないので、そもそも哲学的対話はできない、学校の外で行うべきだ、と考える人もいる。面白いことに、カントにも類似の考えがある。たとえば、一国の君主が哲学することを戒めてむしろ哲学者に傾聴することを奨め(8)、また、社会の諸目的に関わる学部である神学部、法学部、医学部の外に(下に)哲学部があることの意義を強調するのである(9)。いずれも、特定の目的に拘束された人々には哲学する自由がないことを理由とする。
これらの主張にはもっともなところがあるが、とりわけ学校教育に深刻な問題を突きつける。なぜなら、カントは「理性の公的使用」の自由こそが、人々が未成年状態から脱して自律的に知性を用いることができるようになる(「啓蒙される」)ために必要だとも考えているからだ。学校も組織である以上、その内に理性を公的に使用する自由がないのだとすれば、学校では自律的に考えることを学ぶことができないことになる。それは教育というものを否定することではないか。ならば、やはり学校の内に理性を公的に使用する自由が、その一つの形態としての「目的自体」としての哲学的対話が、あるべきではないか。そのためには、学校という組織は、いつもその「内」に「外」を許容するような組織でなければならないように思われる。そして、同じことは、他の組織についても多かれ少なかれ言いうるのではないだろうか。
だが、ここでも忘れるべきではない。哲学的対話は「目的自体」であって、何らかの目的を実現するための手段ではない。子どもが自律的に思考することを学ぶという目的ですら、それが目的として絶対化され、哲学的対話がたんにその手段と見なされるなら、その意義は失われてしまう。哲学的対話には、自律的・共同的思考の育成、対話的コミュニケーションの促進、市民的徳の涵養などさまざまな「効用」があるが、それらを最終的な「目的」と見誤るべきではないのだ。それは、街中の哲学的対話であれ、学校や企業の哲学的対話であれ、同じである。その意味で、哲学的対話はどこまでも「目的自体」として組織の「外」になければならないのである。
(1)中岡成文監修、寺田俊郎編『哲学対話と教育』大阪大学出版会、二〇二一年、第三部、第一一章。
(2)同上、終章。
(3)イマヌエル・カント「啓蒙とは何か」VIII 37.カントの著作からの引用・参照はいわゆる『アカデミー版カント全集』の巻数(ローマ数字)と頁数(算用数字)で示す。訳文は引用者による。
(4)イマヌエル・カント『道徳形而上学の基礎づけ』IV 429.
(5)同書IV 414.
(6)同書IV 427, 428.
(7)同書IV 433.
(8)イマヌエル・カント『永遠平和のために』VIII 369.
(9)イマヌエル・カント『学部の争い』VII 19―22.