『科学』2025年10月号 特集「超高圧物質科学の新展開」|巻頭エッセイ『「小さな」研究が開いた「大きな」科学』永原裕子
◇目次◇
【特集】超高圧物質科学の新展開
室温に近づきつつある高温超伝導……榮永茉利・清水克哉
レーザーショックによるテラパスカル領域の物質科学……尾崎典雅
高圧合成で展開する2次元原子層材料科学──六方晶窒化ホウ素単結晶の合成と活用……谷口 尚
温めると縮む負熱膨張材料……東 正樹
超高圧下でのX線吸収実験の新展開──超高圧環境下の物質の状態をどのように捉えるか?……石松直樹・境 毅
超高圧を利用した透明ナノセラミックスの合成……入舩徹男
[巻頭エッセイ]
「小さな」研究が開いた「大きな」科学……永原裕子
フェイクメディアの脅威と対策技術……越前 功
散りゆく大質量星の傍らで太陽系は生まれた──宇宙核時計で超新星爆発の年代を測定……飯塚 毅
貝殻をつくる細胞の運命特異化機構を探る──原腸からの誘導は必要か?……守野孔明・和田 洋
[新連載]
人間の言語能力とは何か──生成文法からの問い1
初代カミオカンデが現代に投げかける問い……古川雅子
[連載]
ウイルス学130年の歩み4 排除されるウイルス:麻疹ウイルスと風疹ウイルス……山内一也
17~18世紀英国の数学愛好家たち5 公開講義……三浦伸夫
野球の認知脳科学5 打者の眼は「神」ではない……柏野牧夫
3.11以後の科学リテラシー153……牧野淳一郎
[科学通信]
メートル条約150年の歩みと単位系の進化……臼田 孝
次号予告
表紙デザイン=佐藤篤司
地震や津波,火山噴火に関わるニュースを目にしない日はない。トカラ列島の地震は2025年6月後半から8月初めまでに震度1以上の地震が2200回を超えたという。7月末にはカムチャツカ半島付近でマグニチュード8.8という巨大地震が発生し,直後にクリチェフスカヤ火山が,約5日後にはその南にあるクラシェニンニコフ火山が噴火した。ほぼ同時期,インドネシアのレウォトビ・ラキラキ火山が噴火した。
これらの変動は直接あるいは間接的にプレートの沈み込みにより引き起こされるが,沈み込んだプレートは上部マントルを沈降し,深さ約660kmの「遷移層」下部に滞留する。地質学的な時間の後にさらにそれ以深の下部マントルを落下し,深さ2900km,コアの直上に達することもある。その大きな構造の理解のためには,地震波などを用いた地球内部の地球物理学的観測結果と,マントルにどのような物質が存在し,沈み込んだ物質は地球内部でどのように変化するかという化学的・物質科学的情報が必要である。その物質科学的理解をもたらしたのは,小さなダイアモンド2個の間に微小な試料をはさんで締め上げることで超高圧を発生させることのできる「ダイアモンドアンビルセル」という手の平に乗るほどの小さな実験装置と言って過言でなかろう。2000年代以降,その微小な試料にレーザーを用いた加熱と放射光を用いた各種X線分析手法が導入され,飛躍的な発展がもたらされた。例えば,下部マントル(地球を卵に例えたときの白身)を構成し,地球内部で最も多い鉱物はブリッジマナイトであること,マントルとコアの境界に存在する厚さ200 km弱の地震波の伝わり方が特異である層は,下部マントルとは異なる結晶構造をもつ鉱物相であること,下部マントル条件下では沈み込んだプレートに含まれる成分が水を多く含むことのできる高圧の相となりうることなど,多くの発見が積み重ねられてきた。
最近では,「地球の黄身」であるコアに関する研究が活発に展開され,地球の構造に関する長年の謎である「コアの低密度」をもたらす軽元素の一つとしてヘリウムもありえることが指摘されている。地球科学にとどまらず,木星や土星などの巨大惑星の主要な構成要素であり強烈な磁場の生成に関わると考えられる金属水素の確認(ただし研究者間の合意に至っているかどうかは不明),海王星や冥王星などの環境では超高温・高圧下において水が強い酸へと変化する可能性が示されるなど,惑星科学上の重要な知見が得られつつある。超高圧物理学はさらに,極限状態における新規物質の発見や合成,超伝導を初めとする極限状態でのみおこりうる新たな量子現象の発見をめざす分野として大きく広がっており,その展開が大いに期待される。
めざましい超高圧物理学の発展をになってきたのは研究室あるいは小さな単位の研究グループであり,科研費などの基礎科学支援の研究費に支えられてきたものが多い。自由な発想にもとづき未知の解明をめざした結果といえよう。現在の日本では「役にたつ科学」が声高に求められ,予算の多くがそこに振り向けられ,それが研究者をめざす若い人のポストの提供につながり,研究者として自立する段階で目的が初めから設定された立場に身を置かざるを得なくなる。このような状況がもたらす結果は今さら指摘しなくても明らかであろう。なんとかして若い研究者に自由な研究を,10年くらいのスパンで思う存分展開できる環境を提供できるようにしたいものである。