それぞれの『失われた時を求めて』第9巻『ソドムとゴモラⅡ』(講師:青山七恵 司会:坂本浩也)
講師:青山七恵、司会:坂本浩也
2019年1月19日、立教大学池袋キャンパスにて
テキスト:『失われた時を求めて』第9巻「ソドムとゴモラⅡ」岩波文庫、2015年
プルーストという名の希望
「『失われた時を求めて』を読めば読むほど、ここに書かれている記憶の光景に自分の記憶の一片も紛れこんでいるかもしれないという、希望のような予感のような切望のような、狂おしい気持ちが募っていくのを感じる」──今回講師にお迎えした作家、青山七恵さんは、セミナーの開催に先立って、こんなふうに語っていました。
プルーストを読んでいると、自分はなんという世界に生きているのだろうとびっくりします。五感が研ぎ澄まされるという感じではなく、身の回りにあるものがそれじたいの力で、光っているところをより輝かせ、影をより濃く染め、ぼんやりしているところはより複雑な厚みを増すように見えてきます。もちろん、作家の巧みな比喩や微細な感覚にたいする集中力にも感嘆するのですが、一読者の精神世界ではなく、プルーストの言葉はもっと大きな世界をじかに元気づけているように感じられて、そこに感動してしまいます。
(セミナー広報用のチラシに特別寄稿)
第9巻の舞台は、前巻にひき続き、ノルマンディー海岸の避暑地バルベック。ブルジョワのサロンの滑稽な描写にまじって、男性同性愛(ソドム)と女性同性愛(ゴモラ)の主題があらたな展開を見せるなか、プルーストらしい睡眠と夢をめぐる思索も提示されます。前巻に続いて今は亡き祖母と母とのつながりが喚起されるだけでなく、鉄道、自動車、飛行機といったモダンな乗り物のモチーフが物語の演出に活用されていきます。繊細な作家=読者の感覚を頼りに、プルーストの小説がおよぼす作用と副作用について、さまざまな角度から考えてみたいと思います。
いつもどおり、このイベントレポートは忠実な文字起こしではなく、ところどころ要約・省略・補足・再構成したものです。引用はすべて吉川一義訳、岩波文庫。丸囲み数字が巻、アラビア数字がページを指します。
(構成:坂本浩也)
輝きだすメガネ
坂本 青山さんは高校時代にサガンの『悲しみよ こんにちは』(新潮文庫)を読んで衝撃を受けたという話をインタビューなどでされていますし、今回はちょうどフランスのサン=ナゼールという街に作家として2ヶ月滞在するプログラムを終えたばかりです。これまでフランス文学に親しんでこられたわけですが、プルーストとはどのように出会ったのでしょう?
青山 本当に出会ったといえるのは今回です。大学時代に第二外国語でとったフランス語への憧れの延長線でフランス文学を読むようになって、プルーストは20代のうちに読み始めたんですけど、マドレーヌの場面に行き着く前に「あ、ダメだ」と。つまらないんじゃなくて、「じぶんはまだこの小説を読む環境にいないな、命にかかわらない軽い病気で入院するときに読もう」と思ったんですね(笑)。それからだいぶ時間が経ちましたが、去年[2018年]のサン=ナゼールの滞在は、まさに理想としていた「入院」に近くて。このセミナーのお誘いを受け、「ついにプルーストを読む時が来た」と岩波文庫を5冊フランスに持っていって、向こうで4巻の途中まで読みました。読んでみると、20代のときの印象とは明らかに違いました。冒頭の不眠のシーンで、「ここには今フランスの慣れない寝室にいるじぶんの身に起こっていることが書いてある!」と直感して、夢中になって読んで今に至る、という感じです。
坂本 いつもの質問になるのですが、青山さんにとって「プルースト的なもの」、「プルーストらしさ」とは何でしょう?
青山 よく考えたんですけど、ひとことでいうと、「輝きだすメガネ」です。9巻に、大学教授のブリショがかけているメガネの描写があります。
その巨大なメガネは、咽喉の専門医が患者の喉を照らすために額につけている反射鏡のようにきらきらと光り、まるで教授の両目から生命を借りうけたように見えるうえ、もしかすると教授のほうが自分の視力をそのメガネに合わせようと努力するせいか、まったくなんでもない瞬間でさえ、メガネ自身がたえず注意ぶかく異様なほど目を凝らして見つめているように思われた。(⑨61)
視力を補助する道具であるはずのメガネが、かけている人の命を借りうけて、それ自体が生き生きと輝き出す。これに似た瞬間が、1巻からずっといろんなところに現れているように思います。9巻では、アルベルチーヌと一緒に見学する教会が夕日に照らされて、レリーフが光の帯に流されていたりとか、自然が人間の感情なんか寄せつけるまもなくそれ自体で輝いていたりする(⑨368-370)。プルーストの筆はとくに人工物が不思議な命の力を得て輝き出す瞬間を絶えず捉えていて、そこがすごく魅力的だと思います。
坂本 いま青山さんのお話をうかがって思い出すのが、プルーストの愛した画家シャルダンです。4巻の最初のバルベック滞在のエピソードに、シャルダンの絵を下敷きにした描写がありました(④42)。シャルダンの静物画ではコップのような無生物もまるで生きているように見える。フランス語では「静物」を「死んだ自然natures mortes」というのですが、プルーストによるとシャルダンは「死んだ自然=静物」に「深い生命」が宿ることを示す画家です(④488)。青山さんは、プルーストのシャルダン的側面にひかれているのかもしれません。
「スワンは私だ」
坂本 前巻までの読みどころを、青山さんが選んだ3つの抜粋を見ながら振りかえります。まずは2巻の「スワンの恋」から、オデットの写真についての抜粋。
テーブルのうえに置いたオデットの写真に目がとまったり本人が会いに来たりすると、写真の顔にせよ本人の顔にせよ、それと自分のうちに棲みついた狂おしい不断の心の波立ちとがとうてい同じものとは考えられない。スワンは驚いたふうに「これがあの女か」と思った。突然、目の前に自分の病根がとり出されても、それが苦しんでいる当のものと似ても似つかないのに驚くようなものである。[中略]そしてスワンの恋という病いは、あまりにも多様化し、スワンのありとあらゆる習慣のなかに、あらゆる行為や思考や体調や睡眠のなかに、要するにスワンの人生のなかに、いや、死後にそうありたいと願っているもののなかにまで深く浸透していたから、スワン本人をほぼそっくり破壊するのでなければその病いを除去することはできなかったであろう。もはやその恋は、外科でいう手術不能だったのである。(「スワンの恋」②272-273)
青山 これはさっきの「輝き出すメガネ」とは違って、自分の頭のなかにある幻想と現実のギャップを語っている場面です。オデットの写真を見て「これがあの女か」というセリフがすごくいい。このスワンの状態がすごくよくわかるんですよ。「恋という病い」が、ありとあらゆるものにとり憑いてしまって、「死後にそうありたいと願っているもののなかにまで深く浸透していた」という絶望感が、よくわかる。
坂本 「スワンは私だ」と?
青山 はい(笑)。
坂本 これは、スワンがヴェルデュラン家のサロンから追放されてオデットと会えなくなる時期の話ですね。オデットも最初に出会った頃と変わってきている。昔のオデットの写真を見ても、「自分のうちに棲みついた狂おしい不断の心の波立ち」と、現実に存在しているオデットが結びつかない。「病い」は、プルーストが恋愛を定義する際のキーワードです。
青山 『失われた時を求めて』は恋愛の心理描写にかなりページ数を割いていますけど、私は2巻の「スワンの恋」がいちばん自分にフィットするというか、よくわかる。単純な共感というより、ある時期ある恋愛のさなかにあった自分のうちで何が起こっていたのか、スワンの実例を通して分析してもらっているという感じで、とても思い入れが強いです。9巻にスワンは出てこないんですけど、2巻に続きヴェルデュラン家のひとたちが出てきたので、すごく嬉しかったです。
坂本 青山さんにとって、プルーストの小説のなかでいちばん自分に近い、いちばん親近感を持つ登場人物は、スワンですか?
青山 上位3位には入ります。
坂本 「嫉妬」の描写にも身につまされるものがある?
青山 嫉妬よりも執着のほうが苦しいのではと思います。先程の抜粋にもある、自分に取り憑いて離れない苦しみと、その苦しみの病根が現実にとっている姿、そのギャップに驚き失望しつづけるスワンをついある時期の自分と重ねてしまいました。「スワンの恋」で描かれる恋愛にかぎらず、このような幻想と現実のギャップはいろんなところに現れていて、作品の一つの核心だと思います。
坂本 抜粋の最後、「もはやその恋は、外科でいう手術不能だったのである」の「その恋」は原文だと「son amour彼の恋」で、タイトルの「スワンの恋」と響きあっています。まさにこのパートの核心になるパッセージです。
神話的な「わたしのおばあちゃん」
坂本 スワンだけじゃなく、主人公の祖母も、青山さんにとって印象的な登場人物のようですね。『失われた時を求めて』には「おばあちゃん子」小説という側面があります。青山さんの短篇集『ブルーハワイ』(河出書房新社)のなかにはずばり「わたしのおばあちゃん」と題する作品があって、最初すごくしみじみとしてちょっとおかしみがあって、でも途中で「えっ!」て驚いて、また最初から読み返したくなるんですが、おばあさんと孫という特別な関係は、プルーストの小説ではどう描かれているのか? 1巻の「コンブレー」からの抜粋です。
しかし祖母だけは、どんな天気でも、たとえ猛然と雨が降ってきて、柳で編まれた大事な肘掛け椅子が濡れないようにフランソワーズが大慌てでとりこむときでも、驟雨の叩きつける無人の庭で、乱れた灰色の前髪をかきあげ、健康にいい風と雨をたっぷりと額に浸みこませるのだ。祖母は「やっと息がつける!」と言い放ち、水浸しになった小径を歩きまわる(①40-41)
主人公の祖母の印象的な登場シーンですが、ここを選んだ理由は?
青山 これは1巻のわりと最初の方に出てきますね。フランスで不眠のシーンを読んで、いまならかなりプルーストを好きになれそうという予感があったんですけど、この雨のなかで歩き回るおばあさんの場面まで行き着いたときに、もういっぺんにプルーストが大好きになったんです。そもそも私がおばあちゃん子だったっていうのもあるんですけど、このおばあさんの圧倒的なイメージ、「驟雨の叩きつける無人の庭で、乱れた灰色の前髪をかきあげ」「風と雨をたっぷりと額に浸みこませる」すがたが、実際に目の前にしているかのように、ありありと頭のなかに迫ってきて。けっして私の祖母ではないはずなんですけど、なぜか私の祖母もそうしていたような気がしてくる。どんどん自分の記憶と、ここに書かれていることが不可分になっちゃう感じ。そういう強烈な印象があって、なおかつ神話に出てくる人のような、ちょっと現実離れしたイメージもあって。祖母は私が小学生のときに亡くなってしまって、実際に祖母がどういう人だったのかよくわからないまま亡くなったあとも祖母を愛していたわけですけど、そのわからなかった祖母の一片がここにある気がして、強く心を摑まれてしまいました。
坂本 神話的とおっしゃいましたけど、原型、ザ・祖母っていう感じがする?
青山 そうですね、ザ・祖母。このおばあさんが額に雨を浸み込ませているように、このページで祖母浴をする感じです。
坂本 天気が祖母のキャラクターを形づくる重要な要素になっています。しかも悪天候。雨や風に体をさらすことで健康になる、孫にもそうさせたいけれども……という葛藤が、おばあさんの心のなかにずっとある。このあと4巻では祖母と孫で海辺の避暑地に行くわけですが、今回、青山さんが選んだのは、6巻の最後に出てくる祖母の病と臨終のシーンです。
そのとき祖母は、わが身のなかに、自分よりも人間の身体に通じている者が存在するのを感じた。消滅したさまざまな種と同時代の者、考える存在たる人類の創造よりもはるか昔、最初にこの地上に棲みついた者がいるのだ。祖母は、この太古以来の盟友が、自分の頭や心臓や肘にやや痛みを覚えるほどに触れるのを感じた。(『ゲルマントのほう』⑥285)
坂本 おばあさんが高熱を出して、解熱剤キニーネを投与される場面です。ここは意外な動物のイメージが豊富な場面で、この前にはタコの比喩があり、すこし後では体温計がサラマンダーに喩えられています。
われわれの身体に憐憫を求めるのは、タコを前に駄弁を弄するに等しく、こちらの言うことなどタコには水の音と同様なんの意味も持ちえず、われわれは生涯こんなものといっしょに暮らさざるをえないことに愕然とする。(⑥281)
そこで私たちは体温計をとりに行った。その管のほぼ全体には水銀がない。ごく小さな桶の底にうずくまる銀色のサラマンダーがかろうじて認められるだけで、それは死んでいるように見える。(⑥283)
青山 死の瀬戸際にある人間の肉体の周辺に、タコとかサラマンダーとか急に突拍子もない動物が出てきてびっくりしますよね。「考える存在たる人類」が作られるよりずっと昔にこの地上に棲みついた者。人以外の者。自分が生きてきた過去どころか、人間さえいないずっと昔の太古の時間が、突然祖母の体のなかに現れて、祖母がそれを感じる……。ひとつの生きた個体のなかに、想像しきれないぐらいの多くの時間がどっと一気に流れこんでくる。弱りつつあっても、生物としての魂が太古の何かと共鳴し合っているという時空間の途方もない飛躍に圧倒されます。読んでてつらいんですけどね。
坂本 人間の身体というまとまりじゃなくて細胞とか物質とかのレベルの話が出てきて、別の時間につながっているわけですね。先ほどのスワンに話をあえて引きつけると、自分のなかにある、ふだん意識できないもの、手のつけられなさみたいなものが、プルーストの描写のなかで青山さんの関心をひくのでしょうか?
青山 そうですね、じぶんの手でつかみえないもの。
坂本 それをプルーストは病や動物などの比喩を使って描き出しているわけです。祖母が亡くなった後の、「死は、中世の彫刻家のように、祖母をうら若い乙女のすがたで横たえた」(⑥378)という描写のほうは、いかがですか?
青山 公園で具合が悪くなって帰宅するところから、彫像のようになった祖母の死のシーンまで、そこだけほかとは違うとくに濃密な時間が流れてる気がします。祖母というひとりの人間を通して、人類全体、生きもの全体が生きるってどういうことか、生きているものが死ぬときっていったい何が起こってるのか、なかなか自分の身近な人の死では感じられないものをじっくり見せてくれているなと思う。でも、まったく別人のようになって苦しんで、小さくなって痩せちゃったおばあさんが、最後には「うら若い乙女のすがた」で横たえられたと書くのは、すごく優しくて美しい弔いになっていると思います。
こめかみが「美しいふたつの天球」になるとき
坂本 いつもは「ゲストの選ぶ1ページ」を最後のクライマックスにとっておくのですが、青山さんに相談したら、1つ選ぶのは難しいということで、今回は5つの読みどころを、参加者のかたからの事前質問をからめながら、順番に見ていきたいと思います。まず最初は、ヴェルデュラン夫人の顔の描写。
ヴェルデュラン夫人の額は、バッハをはじめ、ワーグナーやヴァントゥイユ、さらにはドビュッシーの音楽を聴いて数え切れぬほど顔面神経痛をおこしたせいで、リューマチで変形した手足のように異様に膨れあがっていた。両のこめかみは、熱狂の苦痛のせいで乳液状となった美しいふたつの天球のように、内部で「音楽」を奏でては、その両側に銀色に光る髪の房を投げだし、[中略]いまや夫人の目鼻立ちは、あまりにも強烈な美的感銘をつぎつぎと演じて見せる労をとらなかった。その目鼻立ち自体が、荒廃して崇高となった顔にあって、そんな感銘をつねに表現するものとなっていたからである。(⑨130)
面白い描写ですけど、ここを選んだ理由は?
青山 こめかみに天球があって、しかもそれが音楽、ハルモニアを奏でるというのは、なかなか思いつかない強烈なイメージで、わけがわからないんですがなんとなくすごいなと。もうひとつ面白いのは、顔に現れる時間の書きかたです。「私」という人物のなかで、間歇的に、順不同に、いろんな記憶、いろんな過去、いろんな昔の時間が蘇ってくるという、時間の脈絡のなさが描かれる一方で、スワンが出入りしてたころから20年ぐらい経った時間、つまり脈絡のない時間ではなくて厳然と一定方向に流れる時間が、ヴェルデュラン夫人という人間の顔にどう作用してるのかが書かれている。この小説では、おばあさんが死んだり、私の好きなスワンも死んでしまうし、ベルゴットも死んでしまうし、一定方向の時間が人間の肉体をどう荒廃させていくかという、老いの様相が書かれていると思うんですけど、ここでヴェルデュラン夫人の顔に表れているこめかみの「天球」というのは、からだが弱っていくというネガティブな作用ではなくて──見た目はネガティブなのかもしれないですけれど──、「時」の作用が肉体をより崇高で何か力強いものにしているという、どちらかというとポジティブな作用が、神々しいイメージで表れている気がして、すごく好きだなと思いました。
坂本 この夫人の描写は、たぶんリアリズムとは違いますね。こめかみがいくら膨らんでも「ふたつの天球」にはならないんじゃないか。むしろ「天球の奏でる音楽」という古代ギリシャ以来のイメージがある。そもそもヴェルデュラン夫人はふだんから美的な感銘を演じていて、ずっと演じ続けるあまりそれがもう物質的に顔の一部になってしまった、つまり仮面が本当に自分の顔に張りついて外れなくなったイメージでしょう。その意味で、老いや死とは違う時間のなかの変化、荒廃が崇高でもあるという表現も面白いところです。
車内の語源談義と女性のマナー
坂本 「ソドムとゴモラ」後半の特徴としては、社交界の会話がサロンだけじゃなくて移動する汽車のなかでも行われているところがあげられます。その点に注目した質問が届いています。青山さんの小説でも、電車や駅が重要な役割を果たしていて、私のイチオシでもある『めぐり糸』は、本当に力技で、語り手が夜行列車に乗りあわせた見知らぬ乗客に自分の過去を語るかたちでスタートして、分厚い一冊がまるまるその語りになっている。なかでも花見に行く電車のなかで訪れる特権的な瞬間がプルースト的とも言えて鮮烈な印象を残します。芥川賞受賞作である『ひとり日和』(河出文庫)など、他にもいろんな作品で、電車や駅が重要なシチュエーションを提供しています。実作者である青山さんから見て、この9巻のなかで、移動する汽車のなかでの会話だからこそ面白いと感じられたところは、どこでしょうか?
青山 車内の会話で、面白いというか、つまらないなと思ったのが、ブリショの地名の語源談義です。そういうものが好きな人にとったら面白いところだと思うんですけど、私は、長い、疲れた、もう終わってくれって思いながら読んでました。でもなかなか終わらなくってすごく長く続く。でもこの退屈さ、聞いたそばからどんどん右から左へ通り抜けていく感じがいかにも車内の会話っぽい。車窓の景色も見えたらすぐ消えて次のものがどんどんどんどん見えてくるわけですから、つるつる耳に滑っていく感じこそが車内ならではの会話の特徴だなと思います。フランスに2ヶ月行った後に、私の著作のドイツ語版の翻訳者さんが車でドイツ国内をいろいろ旅行させてくれたんですね。車なのでつぎつぎ景色が移り変わるわけですけど、会話がちょっと途切れると、彼女が道路標識を見て、「ここは黒い山だよ」とか、「ここはクマの森」っていう意味だよとかって、その土地の名前を教えてくれる。つまりドイツ語の土地の名前を日本語に訳してくれているんですけど、おもしろいなあと思いながらも聞いたそばからつるつる忘れてっちゃう。私たちは高速で移動してますから、その景色と名前は、どんどんその場に、後ろに残されて置き去りにされていくんですけど、私たちに置き去りにされても、人間の頭のなかに一瞬流れでた言葉とかイメージは、その現場に、景色のなかに残るんじゃないかなって感じもして。ブリショが延々と話していた土地の名前も、意味もなく流れでたわけじゃなくて、実際の街とか景色の養分になっているのかもしれないと思います。
坂本 ブリショの語源談義は「土地の名」という詩的なテーマの延長線上にありますね。主人公はバルベックにかぎらず、いろんな地名の音の響きから色彩を思い浮かべます。2巻の「土地の名──名」というセクションは詩的な描写であふれていますが(②434-441)、それとは対照的なかたちでブリショは地名を説明する。青山さんにとって地名は想像力をかきたてるものですか?
青山 そうですね。とくに日本語は漢字がありますから直観的に想像が働きますよね。たとえば私が熊谷出身なんですけど、「熊」と「谷」という漢字が続けば、大きい黒いクマが谷からのっそり出てくるイメージを感じとってしまう。逆に漢字からイメージを排除することはとても難しいですね。私がこの箇所を退屈に感じたのは、語源や歴史の知識がないからかもしれないけれど、たぶんブリショの話しかたにも問題があるんじゃないかな。もっと話し上手な落語家さんだったら、車内のいい暇つぶしになって楽しめるはずなのに。でもこの「私」はそこそこ楽しんではいるんですよね。
坂本 他の人はぜんぜん関心ない、と露骨に書いてあります。逆に言うとプルーストはそういう退屈なものを退屈なものとして書いたのかもしれない。
青山 でもプルーストは楽しんで書いた?
坂本 プルーストは大好きだと思います(笑)。ここは移動していくなかでそれぞれの地名、駅名との関係のなかで会話がなされていくこと、つまり土地の移動と話の展開が結びついているのがポイントですね。この駅ではこういうことがあって、あの駅ではああいうことがあって、と小説の構成のなかでもひたすら路線図と物語の展開が重なってるところがある。そういう地理小説みたいな狙いがあったのかもしれません。同時に、電車って移動する密室じゃないですか。しかも、そもそも社交の場であるサロンは密閉された空間ですけれども、ここでは仲間しかいない空間が移動していて、その仲間じゃない人も駅から見ている、いわば演劇空間になっている。
青山 高貴な人が乗ってるから君たちは乗らないでくれと農民の人をむりやり降ろすシーンがありましたね。あと印象的だったのが、シェルバトフ大公妃を最初に見たとき、これは娼館のおかみだと思ったのに、あとで高貴な貴族とわかるシーンとか、シャルリュス男爵も声をかけられるまでは気づかないふりをしてるとか、それぞれの人の過ごしかたがよくわかるなと思いました。これはボックス席になっているってことですか?
坂本 そうだと思います。
青山 そうするとよけいに移動する密室という色あいが強くなりますね。少し先で、アルベルチーヌが別荘ラ・ラスプリエールのお化粧室でお化粧すると、語り手の私が何かよからぬことしてるんじゃないかって心配するので、電車のなかで化粧直しができるように化粧箱を持たせるシーンがあります(⑨416)。その当時は婦人が人前で化粧を直したりするのって受け入れられたことなのか、ちょっと気になりました。
坂本 タバコを吸う女の子が出てくるのはおぼえてますか? 主人公が目をつけて、アルベルチーヌに知ってる人かって聞いて、「安心していいわよ、人はかならずどこかで再会するものらしいから」(⑨80)なんて言われる。その当時タバコを汽車のなかで吸う若い女の子はいなかった、と言ってるのがジャン・コクトーです。1950年代に『失われた時を求めて』を再読しながらプルーストの悪口を言っている日記があって、当時は汽車のなかでタバコを吸う女の子なんかいなかったって書いています。だからどこまでが本当なのか創作なのかは微妙なところです。
青山 「プルーストが書いたんだから、いるよ」って言いたいですね。
坂本 コクトーは晩年、プルーストの名声に嫉妬してるところもありました。
「睡眠の二輪馬車に乗せられて」
坂本 青山さんは冒頭の不眠の描写でプルーストにハマったとおっしゃっていましたが、つぎにとりあげる読みどころも眠りの描写です。
こうしてわれわれが睡眠の二輪馬車に乗せられて深淵へ降りてゆくと、もはや想い出はこの馬車には追いつけず、精神はその深淵の手前でひき返さざるをえない。睡眠の車につながれた馬は、太陽の車につながれた馬と同じで、もはやなにものも止めることのかなわぬ大気圏のなかを一定の足どりで進んでゆくので、われわれとは無縁な隕石のようなものが落ちてくるだけで(いかなる「未知なる者」によって青空から投下されたのか?)、規則正しい睡眠はかき乱され(睡眠は、そうした邪魔がなければ歩みを止める理由はなく、いつまでも同じ動きでつづいてゆくだろう)、その歩みはいきなりねじ曲げられ、現実のほうへとひき戻され、生活に隣接するさまざまな地帯──変形されていまだ茫漠としているとはいえすでに微かに感じられる生活のざわめきの音を、眠っている人が耳にする地帯──を一足飛びに通りすぎたうえで、いきなり目覚めへと着地する。すると、そうした深い眠りから夜明けの光のなかに目覚めた人は、自分がだれなのかもわからない。[中略]真っ暗な雷雨のなかから、まるで墓石の横臥像のように、なんの想念も持たずに出てきたすがたは、いわば中味を欠いた「われわれ」であろう。(⑨300-302〕
青山 ここでは寝て目覚めるときに何が起こってるかが書かれています。寝入りばなのときに、睡眠の車につながれた馬が、大気圏のなかを一定の足どりで進んでいくというのが、眠りの実態にすごく近い感じがしたんですね。なおかつ目覚めるときは、いきなり歩みがねじ曲げられて、現実にひき戻されて、着地する。私はすごく寝つきが悪くて、ロングスリーパーで、目覚めも悪いんです。たぶん1日の半分近くを、寝ようとすること、眠ること、起きようとすることに使ってる気がするので、このプルーストの睡眠論に心惹かれました。いつもベッドから下りるとき、「上陸だ」と思うので、この着地する感覚も、自分の実感に近いです。それから少し先には、眠ってる時間がもうひとつの人生であるとも書いてあります。寝ているあいだに「目を覚まそうとする私の努力は、私がそのときまで生きていた睡眠という判然とせぬ暗いかたまりを、ひとえに時間の枠内へ収めようとする点にあった」(⑨305)というところも、やっぱり、こういう力技が行われてるから目が覚めたときぐったりしてるのかなって腑に落ちました。朝起きて今こうやってこの場にいる、目覚めている時間で区切られる人生とはまったく様相が違う、時間の枠にとらわれない生が、寝ているあいだに繰り広げられている。並行しているのか交替しているのかわからないんですけど、意識している時間とは異なるもうひとつの生が、眠ってるあいだにも存在しているという考えは魅惑的です。こういうところも、プルーストが私たちの生のありかたを未知の側面から見せてくれている箇所だなと思います。
坂本 馬車が着地するイメージは鮮烈ですね。ポイントとしては時間意識の違いというか、そもそも時間と呼んでいいのかどうかわからない、「時間の範疇に従わない」(⑨305)ところでしょうか。いま青山さんのお話を聞いて納得したんですが、やっぱりプルーストを読めるかどうかは眠れているかどうかと関係があるんですね……。プルーストを研究していると自己紹介すると「最初の不眠の場面は素晴らしいよね」って言われることがよくあって、そのたびに、じぶんは不眠とまったく無縁の人生を送ってきた人間だからプルースト研究者失格なんじゃないか、と思ってしまうんですが、またコンプレックスを呼び覚まされてしまいました(会場笑)。この引用最後の「中味を欠いた「われわれ」」も重要なポイントですね。アイデンティティを喪失する体験、「私」がなくなってしまう体験としての眠り。「ソドムとゴモラ」というタイトルと重なりますが、眠る人は、「両性具有者である」という表現もあります。しかもそれが「最初の人類と同じく両性具有者である」(⑨300)と書いてある。「最初の人類」はさっき青山さんが引用してくれた「考える存在たる人類の創造よりもはるか昔」にもつながります。睡眠にはタイムスリップのような側面がありますが、男性・女性としてのアイデンティティみたいなものがかき乱されてわからなくなってしまう、いったんリセットされてしまう経験としての眠りも面白いです。
青山 ちょっと後に、寝ているときに記憶を忘れるとか、日常的なものこそ忘れると書いてあります。それから「想い出すことのできない想い出」(⑨309)という話になって、「私には自分の背後にある一部の想い出がそっくり欠け落ちていて、それが見えず、それを自分のもとへ呼び寄せる能力が欠けているのだとすると、この私のあずかり知らぬ膨大な集合体のなかに、私の人生以前にまでさかのぼる想い出が含まれていないとだれが言えよう?」(⑨309)と語られています。この「睡眠という判然とせぬ暗いかたまり」(⑨305)のなかに、原始の時代、一個体の人生以前にさかのぼる太古の生物としての想い出みたいなところが含まれているんじゃないかという、ダイナミックな考えには痺れますね。こういう飛躍のしかたは本当に魅力的だなと思います。
坂本 このあたりは、前回とりあげたネルヴァルともつながってくるところですね。ネルヴァルは「夢は第二の人生である」と述べています。自分の狭い個体としての記憶を超えた記憶、思い出せない記憶、自分が死んだ後にも残るかもしれない記憶という壮大なヴィジョンが出てくる面白さがあります。
なぜプルーストは脱線するのか?
坂本 参加者のかたから、「この9巻は構成がめちゃくちゃじゃないか」という指摘が届いています。プルーストはたくさん加筆修正をおこなった作家ですが、この構成は、その独自の創作手法に由来するのか? たとえば、アルベルチーヌとのドライブの場面から、急に運転手の話になって、運転手つながりでシャルリュスの話になるみたいに、どんどん脱線に脱線を重ねていって、まとまりを欠いている、という指摘にはうなずけるところもあります。その脱線がどんな効果を呼んでいるのかといえば、語り手の脳内を直接体験しているような効果がある気もすると、質問者のかたも述べているのですが、はたしてそれがプルーストの狙いなのかどうかよくわからない。この脱線だらけの展開を実作者の視点から青山さんはどんなふうに読んだのか、青山さんご自身は書くときにそういうことを意識したりするのでしょうか?
青山 すごく個人的な意見なんですけど、プルーストがこういうことを目論んだ、あるいは目論見を失敗してこうなったというよりは、プルーストが書いた一文一文の積み重ねから、この小説にとってもっとも自然だと思われる書きかたをしただけなんじゃないかなと思うんです。このアンバランスさとか、とりとめのなさとか、あらすじでまとめるのが難しい複雑さが、一部の読者、はっきりした起承転結を求める読者を遠ざけているのは事実であるにしても、そこがこの小説の最大の魅力だなと私は思っています。とはいっても、くり返されるモチーフもあります。モンジュヴァンののぞき見のシーンが、シャルリュス男爵とジュピアンののぞき見のシーンにつながったり、この9巻でも、ゲルマント大公とモレルののぞき見のシーンにつながったりとか。巧妙に伏線を張ってるように見える場所もあるんですけど、それも、プルーストが当初から緻密に計算してそうしたというよりは、書かれてるうちに小説のほうが、小説自体に内在する力が、小説を小説として作っていったのではないかと思ってしまいます。書くのはもちろん著者なんですけど、やっぱりこれだけ長大な小説になると、小説自体が力をもって、内的作用でそういうふうになっている、不可避な結果としてそうなっている気がするんですね。プルーストはいろいろ考えて、綿密な計算でこうしたのかもしれないけど、小説に忠実であろうとすると、こういうとりとめのない形でしか、結果的には書けなかったんじゃないかなっていうのが、私の感じるところです。
坂本 すごく面白いです。一文一文の積み重ねで小説は成り立っている、一文書くごとに次の必然性が生まれてくる。その動きに忠実になった結果、こういう形になったんじゃないか、そこにまさにプルーストの魅力があるんじゃないかと。たしかに、書けば書くほど選択肢が狭まって、何らかの必然性が生まれてきますから。たとえば『めぐり糸』(集英社)も書けば書くほど動かされていくという感覚がありましたか?
青山 あるていど前もって構想するわけですけど、書いていくうちに、なぜだか違う方向に行ってしまうのが自然なんじゃないかなと思います。あと、私にとってはとても長かったけど、プルーストからしたらぜんぜんっていう長さの『めぐり糸』でも、終わりかたがよくわからなくなって、どの道に行っても終わりづらい感じになってしまう。それは著者よりも小説、そこに積みあげられた文章の力の方が勝ってきてしまう結果なんじゃないかなと思います。
坂本 もうひとつ面白かったのが、とりとめもないようでいて、のぞき見のように、ときどき反復される要素があるというご指摘です。9巻では、シャルリュス男爵が娼館で誰かと密会するモレルをのぞき見ようとする場面と対になっている、ゲルマント大公の別荘でモレルがシャルリュスの写真に見られている気がしておびえて逃げ出す場面はすばらしいですよね(⑨503-511)。反復されるモチーフがあるおかげで、逆にいくらでも脱線できる。ひたすら脱線していても、必ず反復されるべきものは反復されてくるのかもしれません。
自動車と「海の微風」
坂本 さきほど乗り物の話題が出ましたが、9巻には汽車よりも新しい自動車という乗り物が出てきます。それによってアルベルチーヌとの恋愛に新しい局面が生まれる。さらには飛行機を目撃する場面もある。プルーストは懐古主義の作家と思われていますが、じつは同時代の技術革新がもたらした新しい体験に関心を示していて、それがかなり深いレベルで小説のなかにとり込まれています。青山さんも、今回の読みどころとして、ドライブのエピソードの一部と飛行機の目撃シーンをあげています。まず自動車でアルベルチーヌを辺鄙な教会まで送り届けたあと、主人公が微風を受けて彼女に想いを馳せる場面から。
私のまなざしはそこ[アルベルチーヌのいるところ]まで届かなくても、私のそばを通りすぎるこの強くて優しい海の微風は、まなざしよりも遠くまで届くことができ、なにものにも妨げられずにケットオルムまで駆けおり、サン゠ジャン゠ド゠ラ゠エーズを葉叢で覆っている木々の枝を揺らし、わが恋人の顔を撫でることによって、ふたりの子供がときに声も届かず姿も見えないほど遠く離れていても互いに結ばれている遊戯と同じように、かぎりなく広がりはするが危険の及ばないこの隠れ処において、恋人から私へと二重のきずなを張りわたしてくれる気がしたのである。(⑨364-365)
プルーストが幸福な恋愛を描くのはきわめて稀ですが、ここではアルベルチーヌとの幸福な時間が喚起されています。選んだ理由は?
青山 私が今回1ページだけ選ぶとしたら、ここかなと思います。「私の性格がたどる一種の軌跡の深刻な単調さ」(⑨365)を悟ることにもつながるところです。訳注にもありますが、1巻にも風について似たようなシーンがあります。少年時代の「私」が、自分の足元に吹き付けてきた風はジルベルトのところを通り過ぎてきた風なのだと想像するシーンです。このシーンもすごく好きだったんですけど、今度は相手がアルベルチーヌになっている。この風が運んでくる「二重のきずな」ってなんだろうなって思ったんです。ここだけ読むとすこし意味が取りづらいのですけど、1巻の風のシーンを思い出すと、いま風が顔を撫でてきたかもしれないアルベルチーヌと私のきずなと、かつて吹いた風が、かつて恋していた少女の近くを通ったっていう、私と過去とのきずな、その二重のきずなってことなのかなと感じました。風に吹かれながら、道をたどりながら、「私」はかつてゲルマント夫人とすれ違った道をくだりながら感じたことを想い出す。そして「その道は、幻影ばかりを追うのが、つまりその現実の大部分が私の想像のなかにある存在ばかりを追うのが、私の宿命だと想い出させてくれた」(⑨365-366)と悟る。「私」という人物の核心をすごく明快に示している場面だと思います。少年時代に感じた風は、立ちどまって優しく吹いてくる風だったと思うんですけど、この時代はオープンカーで、自動車に乗って風を感じていたということは、あるていど強い風、自然の風ではあるけれども、主人公が動く車に乗っていることで引き起こされるテクノロジーの風でもある。新しい技術が、自然や人間の想像力と結びついて、人間の本質に不意に近づかせるシーンは、いまでも更新され続けている、文学の普遍的な場面なのかなと思います。
坂本 参加者のなかにも、この一節を「私の1ページ」に選んだかたが複数いました。子供が遊んでいて、声も届かず姿も見えないほど離れていてもつながっている気がするというイメージも印象的ですよね。その子供の信じる力が「幻影」という表現に変わっていって、つかみどころのなさ、はかなさが強調されていく。でもそうした幻影を追いかけるだけではダメだ、というのが、つづく木の描写の意味かもしれません。前回野崎先生が、プルーストにおける木が大事だっていう話をしていました。ここでは木々が「永遠の休息の時がいまだ告げられていないうちに仕事にとりかかるようにとの忠告」(⑨367)をしているように感じられる。幻影はここではおもに恋愛のテーマを指していて、それに対して芸術というテーマがさりげなくほのめかされている点も重要な気がします。
飛行機のもたらす啓示
坂本 飛行機を目撃する場面に移りましょう。
突然、私の馬は後ろ足で立ちあがった。なにか異様な音を聞いたのである。私はなんとか馬を鎮めて振り落とされまいとしたが、やおらその音がしたと思われるほうへ涙でうるんだ目をあげると、私から五十メートルほど上方の陽光のなか、きらきら光る鋼鉄の大きなふたつの翼に挟まれて運ばれてゆくものが見え、その判然としないものは私には人間のすがたかと思われた。私は、はじめて半神と出会ったときのギリシャ人と同じように感動していた。私は涙まで流していた。その音が頭上から聞こえてくるからには──当時、飛行機はまだ珍しかった──私がはじめて見ようとしているのは飛行機なのだと考えただけで、もう泣き出しそうになったからである。(⑨399-401)
青山 ここは世界をじかに感じて、じかに体で反応する「私」の感受性の強さがよく出ていて好きだなと思う場面です。初めて見た飛行機というテクノロジーが、ギリシャ神話とか絵画芸術──エルスチールの絵が直前で言及されてるんですけど──とあわせて語られる。電話のシーンでも交換手の娘たちを女神みたいに書いていましたけど(⑤290-291)、最新のものと太古のものをフラットに扱う態度が、すごくいいなと思います。
坂本 現代のものを描くときに神話的な存在のイメージを使うのはプルーストがよく用いる手法ですね。ここはめずらしく馬に乗ってケンタウロスになったような姿で散歩している「私」が、エルスチールの絵に描かれている神話的な風景のなかに入りこんで、飛行機という神話的な存在と出会う。ところで、どうして涙を流してるのか、納得いきましたか? もちろん主人公の感受性の表れなのですが、飛行機を見たぐらいで泣かないだろうという人がいたり、あるいはアルベルチーヌのモデルでもある、プルーストの運転手兼秘書だったアゴスチネリの飛行機事故と重ねて読みたがる人もいる。
青山 何も疑わず、そんなこともあるだろうなという思いで読みました。このシーンの「私」には飛行機が飛行機として見えていない。飛行機なんだけど、「人間の姿」に見えたんですよね。飛行機を見ることが、まるで神の啓示のような、ひとつのサインとして、自分がそこに生きていることが絶対的な何かに証明されているような、神秘的な出来事だったんじゃないかなと。
坂本 啓示、サインとおっしゃられて、さすがだなと思いました。まさにそういうシーンですね。これは、「私を束縛していた慣習がいきなり廃棄される」ような経験を描いたエピソードです(⑨398)。退屈な慣習から離脱する可能性が啓示される瞬間といってもいい。仕事もせずアルベルチーヌとドライブに興じている毎日のなかで、慣習に囚われの身になってる自分がいる。それとは違う、解放された自由な存在として、神に等しい飛行士が現れて、別の生のありかたを啓示してくれる。さきほど出てきた「幻影」ばかりを追っている「私」の生活に対して木々が忠告してくれるところとも呼応している。青山さんには、ここの涙もあくまで自然なものですね?
青山 そうですね。これは作者プルーストではなくて、「私」という青年の純な涙だと思います。
祖母化する母
坂本 最後の質問は主人公の母親の「おばあさん化」についてです。「ソドムとゴモラⅡ」を締めくくる第4章で、主人公はアルベルチーヌがヴァントゥイユ嬢の影響で「悪徳」に染まっているのではないかと苦悩している。すると目の前に、死んだはずのおばあさんが現れる。ところがそれは錯覚で、「まぼろし」の正体はじつはお母さんだった。「私のことを亡くなったお祖母さんだと思ったんでしょ」と母は息子に言います(⑨609)。前回の「心の間歇」でも、母が祖母と同じような服装をして、ほとんど一体化したような様子が描かれていました。プルーストの小説におけるおばあさんの存在に注目する青山さんにとって、このお母さんのおばあさん化というテーマは、どのような意味をもつのでしょうか?
青山 ふたつの「祖母化」があるかなと思います。ひとつは「私」が行う母の祖母化です。自分の話をして恐縮なんですけど、私も祖母が亡くなってからずっと祖母的な人を無意識のうちに求めてしまっていました。年上の女性とお友達になったり仲良くなったりすると、祖母の要素を求めてしまう自覚があります。主人公の「私」にとっても、自分のなかにある祖母の型のなかに母親を入り込ませようという祖母化があると思います。それにくわえてもうひとつ、実際に祖母の娘である母親が、現実的にお母さんである祖母に内面からも外見からも似ているという祖母化、いってみれば「お母さんのお母さん化」が起こってるんじゃないかなって思うんです。実際に娘が母親に似てくるのは、これも実体験として歳をとるにつれてそうなってくるのはわかるんです。でもそれだけじゃなくて、時間が肉体に及ぼす作用として──さきほどのヴェルデュラン夫人のこめかみは独自に夫人が発展させたものでしょうけど──、死んだ肉親や祖先、あるいは血縁がなくても生活を共にした誰かが、生きている者にタイムカプセルを埋めるみたいに残していくその人の痕跡みたいなものがあると思うんです。個人から個人に植えつけられたその痕跡が、時間が経つにつれ開花するようにその人の性格の一部になっていくと思うんですね。次の巻を先取りして申し訳ないんですけど、10巻になると「私」がパリに戻ってきて引きこもりっぽくなる。ベッドでウトウトしたりする時間が長くなって、これってレオニ叔母さんじゃんって自覚するシーンがある。つまり「私」がレオニ叔母化してしまう。母の祖母化と「私」のレオニ叔母化について書かれているようにも思える文を引用します。
われわれはある年齢を超えると、かつて自分がそうであった子供の魂や、死者となった祖先の魂から、われわれが味わう新たな感情に協力したいと、それぞれの資財と悪運をふんだんに授けられる。[中略]人はある時期が到来すると、はるか遠方から自分のまわりに集まってくる親族をひとり残らず受け入れなければならないのである。(⑩170-171)
今までの話とも通じるんですけど、母の祖母化というのはひとりの人間の肉体に起こっている現象ですが、じつは個人を成してるものは、たったひとつの肉体とかたったひとつの精神じゃなくて、もっと前から存在していた死者たちの魂のかたまりなんじゃないか、それが私たちの実態なんじゃないかと思えてきます。プルーストのすごく大胆な人間観がうかがわれる箇所かなと思います。
坂本 なるほど。プルーストは個人の枠組みを超えたものを描いてると。
青山 そうですね。「私」というひとりの内面をすごく綿密に書いてるように見えて、実は書いてるものはひとりの人間じゃない。もっと厚みのある人類の営みが集積したものとしての「私」を書いてるのかなと、母の祖母化の場面を読んでいると思います。
坂本 とてもよくわかりました。孫である「私」の願望としての祖母と母の一体化、つまり祖母が欲しいから祖母を見てしまう部分がいっぽうにある。それに対して、母自身が祖母という死者を受け入れることによって祖母になっていく。個人の意志とは無縁に変わっていく部分がある。プルーストといえば個人の内面分析を極めた作家というイメージがあるわけですけれども、むしろこのお母さんの祖母化には個体を超えた生のありかたを示唆している部分があるということですね。
(後記)第7回の高楼方子さんのときもそうでしたが、やはり「書く人」(作家)は「調べながら読む人」(研究者)とは違う言葉で、プルーストの魅力を教えてくれます。青山七恵さんの「メガネ」をとおして見ると、スワンや祖母がより愛おしく感じられ、眠りや微風や飛行機がいっそう鮮やかに輝きだすようでした。次回は『プルースト 芸術と土地』(名古屋大学出版会)の著者である小黒昌文さんをお迎えし、「囚われの女」となったアルベルチーヌと主人公との奇妙な同棲生活の謎に迫ります。
青山七恵(あおやま・ななえ)
作家。筑波大学図書館情報専門学群卒業。2005年「窓の灯」で文藝賞を受賞してデビュー。2007年「ひとり日和」で芥川賞、2009年「かけら」で川端康成文学賞を受賞。ほかに、『やさしいため息』『風』『ブルーハワイ』(以上、河出書房新社)、『お別れの音』『すみれ』(以上、文藝春秋)、『わたしの彼氏』『快楽』『はぐれんぼう』(以上、講談社)、『あかりの湖畔』『踊る星座』(以上、中央公論新社)、『花嫁』『みがわり』(以上、幻冬舎)、『めぐり糸』『私の家』(以上、集英社)、『繭』(新潮社)、『ハッチとマーロウ』(小学館)など著書多数。
司会・レポート:坂本浩也(さかもと・ひろや)
立教大学教授。著書に『プルーストの黙示録──『失われた時を求めて』と第一次世界大戦』(慶應義塾大学出版会、2015年)、訳書に、ピエール・ブルデュー『男性支配』(坂本さやかとの共訳、藤原書店、2017年)など。X(旧ツイッター)「プルーストを読破した@立教」を更新中。