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それぞれの『失われた時を求めて』 

それぞれの『失われた時を求めて』第8巻『ソドムとゴモラⅠ』

それぞれの『失われた時を求めて』第8巻『ソドムとゴモラⅠ』

 

 

講師:野崎歓、司会:坂本浩也
2018年12月1日、立教大学池袋キャンパスにて
テキスト:『失われた時を求めて』第8巻「ソドムとゴモラⅠ」岩波文庫、2015年

>>「それぞれの『失われた時を求めて』」について

「心の間歇」から「ネルヴァルのほう」へ

『失われた時を求めて』読破の長い道のりも、とうとう後半に入ります。

今回とりあげる第8巻のタイトルは「ソドムとゴモラⅠ」。旧約聖書のなかで「悪徳」が栄えたゆえに神に滅ぼされたとされる二つの都市の名を、プルーストはそれぞれ男性同性愛、女性同性愛を指す隠語のようなものとして用いています。本巻では、シャルリュス男爵という作中人物を軸にして、このテーマが物語と理論の両面から本格的に扱われます。

もうひとつの、そしておそらく最大の読みどころは「心の間歇」と題された章にあります。バルベックを再訪した主人公がホテルの部屋でブーツを脱ごうとしたとたん、今は亡き祖母の優しい顔が鮮烈によみがえり、それと同時に、はじめて祖母の死の現実を理解するという、おそらく全巻を通してもっとも胸を打つエピソードです。

このセミナーでは、いわゆる「プルースト研究者」ではないかたを積極的にゲストにお招きしています。「心の間歇」の魅力を誰に語っていただくか、と考えてすぐに思いついたのが、トゥーサンやウエルベックなど、現代フランス文学の翻訳紹介をリードするだけでなく、映画や日本文学にいたる多彩な分野で魅力的な著作を発表し続けている野崎歓さんの名前です。

『異邦の香り──ネルヴァル「東方紀行」論』(読売文学賞受賞)や、新訳『火の娘たち』(岩波文庫)からもわかるとおり、野崎さんの仏文学者としての仕事の中心には、プルーストが偏愛した19世紀前半の作家ジェラール・ド・ネルヴァルの存在があります。「心の間歇」を「ネルヴァルのほう」から読みなおすと、なにが見えてくるでしょうか?

いつもどおり、このイベントレポートは忠実な文字起こしではなく、ところどころ要約・省略・補足・再構成したものです。引用はすべて吉川一義訳、岩波文庫。丸囲み数字が巻、アラビア数字がページを指します。

(構成:坂本浩也、編集協力:小黒昌文)

プルーストへの抵抗

坂本 まず、プルーストとの出会いとつきあいを語ってください。

野崎 思い返せば今からもう40年前のことになります。新潟から東京に出てきて大学に入った僕は、井の頭公園で開かれたクラス親睦会に参加しました。最初はおたがいを知りませんから名簿順にカップルを作っていきます。そこで知り合ったのが「中野さん」でした。いまや国際的に活躍しているプルースト研究者の中野知律さん(第12回のゲスト)です。それから仏文科で出会った先輩の一人で、留学中じつによく一緒にワインを飲んだのが、やはりプルースト研究者の湯沢英彦さん(第4回のゲスト)でした。そして、僕がパリから帰って就職した一橋大学は、なんといっても鈴木道彦先生が教えていらしたところです。鈴木先生はすでに退官されていましたが、真屋和子さんが来ておられて、彼女もまた素晴らしいプルースト論をお書きになっています。
 つまり僕のまわりは「プルースト一人勝ち」のような状態で、「なんで優秀な人たちから順番にプルーストに取り憑かれるんだ?」とぼやきたくなるくらいだったわけです。
 僕はジェラール・ド・ネルヴァルを専門にしていますが、「ネルヴァルを読む会をやりましょう」と声をかけても、今日の10分の1ほどの方々しか集まらないんじゃないかとも思うわけです(笑)。
 この「プルースト一人勝ち」は、彼の同時代の作家たちについても言えることです。たとえば僕にとってジャン・コクトーは中学生の頃から憧れの的でしたし、アンドレ・ジッドも身を入れて読みました。でも、コクトーを研究してるという人にはほとんど出会わないし、ジッド作品の文庫もずいぶん減ってしまった。
 あるいはマルタン・デュ・ガールもそうですね。じつは今ごろになって初めて『チボー家の人々』を通読したんですが、これが大変に面白い。でもマルタン・デュ・ガール研究者なんてどこにもいませんよね? つまりプルーストの周りの作家はみんななき者にされてしまう(笑)。「果たしてそれでいいのか?」というのが、僕がプルーストに対して抱き続けていたひがみっぽい思いなんです。
 学生のころ、まず手に取ったのは井上究一郎先生の翻訳でした。井上先生は、僕が敬愛する文章家のひとりで、エッセーの美しさには比類がない。でも、ご高訳を読み通すことができなかった。その時につくづく感じたのは、自分のなかにあるプルーストへの強い抵抗=レジスタンスでした。それはなぜか。大貴族に憧れ、フォーブール・サン=ジェルマンに憧れる主人公に対して、そんなものに魅せられててどうするんだよ、という乱暴な気持ちが湧いてきてしまうんです。
 たとえばプルーストの作品を日本の文脈にあてはめて翻案すると考えてみてください。そうすると「ゲルマント」という名前などは、「武者小路」とか「綾小路」になるかもしれない。僕なんかは、そんな名前を聞くと、それだけで関係ないや、と思ってしまう。
 そんな偏狭な感想しか持てない理由についても考えてみたのですが、それはフランスという国に何を求めているか、ということに関わってきます。ちなみに坂本さんはどうでしたか? もう最初から、フランス文化といえばプルーストだったんですか?

坂本 私の場合、おっしゃるような抵抗はなく、むしろかなり早い段階で、フランス文化の象徴としてのプルーストに出会ってしまいました。

野崎 育ちが違うんですね(笑)。僕にとってのフランスは、まずは革命であり共和主義精神でした。たとえばフランスに滞在したひとから「郵便局やデパートであんなに感じの悪い対応をされるとは思わなかった」という話をよく聞きます。実際そうですよね。「お客様は神様です」なんてことは一切ない。でも、それでいいんです。彼らには「人のうえに人をつくらず」という精神を必死で実現してきた経緯がある。王政を打倒した共和国こそが、僕にとってのフランスだったんです。
 そこからするとプルーストはかなり不思議ですよ。ベルエポックから第一次世界大戦ぐらいまでの時期は、フランス文化がこのうえなく光り輝いて、パリはあらゆる前衛運動の坩堝になっていた。学生の時分、僕はアポリネールからシュルレアリスムまでの流れに痺れていたんです。そういう時代に生きながら、プルーストは、社交界を克明に描き、ゲルマント家でのパーティーがどうしたこうした、という話を書いていたわけですから。

坂本 プルーストが前衛として読まれていた時代というのがありますね。私が大学に入ったころは、プルーストがフランスの現代思想と結びついて、前衛的な読みの対象になっていました。

野崎 たしかにそうですね。でも、そう思って作品を開くと「武者小路」の世界が待ってるじゃないですか。
 僕がこのあいだまでハマっていたのは『ダウントン・アビー』というイギリスのドラマで、プルーストとほぼ同時代の物語です。広大な領地を持つ貴族が、近代化の波の中でどうなっていくのかというストーリーなんですが、こちらはすんなり入れるんです。イギリスはいいんですよ、王様がいるんだから。でもプルーストは第三共和政の申し子ですよね。もう王政復古はないということは、ある時点から明らかだったと思うんです。にもかかわらず依然として貴族が存在感を放つ世界を描いた作品が成り立っているのはなぜなのか。でもそう考えていくうちに、だんだんプルーストの面白さがわかってくるような気もしてきたんです。
 たとえばネルヴァルは1808年の生まれですが、彼の目に貴族がどのように映っていたのかを示す文章を取り上げてみましょう。『火の娘たち』と題されたネルヴァルの短編集におさめられた「アンジェリック」に次のような一節があります。

アレクサンドル・デュマのおかげで名が知られたクロシュ・ホテルは、今朝、ずいぶんにぎやかでした。犬が吠え、狩人たちは鉄砲の準備をします。猟犬係が主人にいう言葉が聞こえてきました。「こちらが侯爵様の猟銃でございます」 つまり、侯爵なるものがいまだ存在しているのです!(第4の手紙)

ふだんパリで暮らしているネルヴァルが郊外に足を伸ばして、「侯爵様」という言葉を耳にして驚いている。七月革命も二月革命も経験したネルヴァルの世代にとっての貴族とは、つまりそういうものだったわけです。では、貴族が背負っていた「高貴さ」をめぐる価値観はどこに向かうのでしょうか。

文芸の共和国は、いくらかは貴族制の影響を留めるべき唯一の共和国でしょう、──学問や才能の貴族制が否定されることは決してないのですから。(第1の手紙)

これは僕にもよくわかります。ノーブルなものとは、出自でも「青い血」(フランス語で「貴族」を指す表現)でもなく、学問や才能においてのみ認められるという考えです。そこからすると、プルーストの時計は逆戻りしているのではないかというのが最初の印象でした。ところがもちろん、そんな単純なものではなく、その時計は小説の最後までいくと、まったく違う時間を指し示すに至る、ということなのだと思いますが。

死の否定

坂本 では、今回あらためて読みなおしたうえで、「プルースト的」なものとは何だと感じたか、ひとことで、またはキーワードでお答えください。

野崎 僕が考えたのは「死の否定」という言葉です。いま話題にした貴族制についてもその「死」を否定していると言えるわけですが、それ以上にプルーストの世界は、死を根本的に否定し、受け入れまいとする意志に貫かれているように思えます。揺るぎないカトリック信仰があるのなら、そんなことを頑張って主張する必要はない。でもプルーストの世界では、死んだら何もかも失われてしまうのではないか、という切迫感を感じます。そしてプルーストは、言葉によって、あるいは芸術によって、死に抗おうとする。
 なかでも、自分が愛する者がいなくなってしまうことが、彼にとっては受け入れがたい、許しがたい事態なのではないでしょうか。そして祖母の死をめぐるエピソードを読むとわかるように、死を否定する力は、死んだ者を復活させようとする企てにつながっていきます。つまり、滅びゆく姿をしっかり見すえるいっぽうで、同時に復活のための魔法(マジック)を求め続けている。そこに作家の力量を感じます。

坂本 では、「死の否定」というキーワードにつながる前巻までの読みどころをあげてください。

野崎 たとえば次の一節には、プルーストの作品で反復される一種のシナリオが凝縮されているように思えます。

私は、ケルトの信仰がじつに理に適っていると思う。それによると、亡くなった人の魂は、動物とか植物とか無生物とか、なんらかの下等な存在のなかに囚われの身となり、われわれには事実上、失われている。ところが多くの人には決してめぐって来ないのだが、ある日、木のそばを通りかかったりして、魂を閉じこめている事物に触れると、魂は身震いし、われわれを呼ぶ。そして、それとわかるやいなや、魔法が解ける。かくしてわれわれが解放した魂は、死を乗り越え、再度われわれとともに生きるというのだ。(①110)

亡くなった魂が何かに囚われて保存されている、という発想は面白いですね。そしてケルトへの言及を通して、「ヨーロッパの古層」あるいは「ヨーロッパの無意識」とでも呼ぶべき深みにまで降りていっている点にも着目できます。
 あるいは『スワンの恋』にある次の一節はどうでしょう。

もしかすると虚無こそが真実であり、われわれの夢はなにもかも存在しないのかもしれない。しかしそうだとすると、われわれの夢との関連において存在するこのような楽節や概念もまた、やはり無と考えるべきだと感じられる。われわれは死滅するだろう。だがわれわれはこのような崇高な囚われの存在を人質にしており、この囚われの存在もわれわれと運命をともにするだろう。このような存在とともに死ぬのであれば、死もそれほど辛くはなく、それほど不名誉なことでもなく、もしかするとそれほど確かなことでないのかもしれない。(②358-359)

最後の一文はまさに「死」を「否定」するものですね。人間の魂が、ヴァントゥイユのソナタのような美しい作品のうちに無傷のまま保たれるかもしれない。最初の引用にある「樹木」と「ヴァントゥイユのソナタ」が、つまりはケルトの信仰と芸術作品とがパラレルになっていることがわかると思います。
 そして『失われた時を求めて』には植物をめぐる印象的な一節が数多くありますが、第4巻にある次の文章は本当に不思議ですね。

私の見た、必死に腕を振りながら遠ざかる木々は、こう言っているような気がした。「きみは今日ぼくらから学ばなければ、このことは永久に知らずじまいになるんだよ。この道の下からきみのところまで背伸びして行ってやったのに、そのぼくらをこの下に捨ておくのなら、せっかく届けてやろうとしたきみ自身の一部は永久に無に帰してしまうよ。」実際、このあと私は、またも今しがた感じたこの種の歓びと不安をふたたび見出し、ある夜──遅ればせながら、しかし永久に──この想いに専念することになったが、それとは裏腹に、木々が私にもたらそうとしてくれたものについても、私が木々をどこで見たのかについても、二度と知ることはなかった。そこで馬車は辻を曲がり、私は木々に背を向け、木々は見えなくなった。ヴィルパリジ夫人はなぜそんな夢見るような顔をしているのかと私に訊ねてきたが、私は今しがた友人を失ったような、以前の自分ではないような、死者に会いながら知らぬ顔をしたような、神に出会ったのにわからなかったような悲しい気分だった。(④181-182)

 結局のところ、ここで木が発しているメッセージの謎は解けないままに終わります。ジル・ドゥルーズは『失われた時を求めて』を「徴(シーニュ)」の小説だと言いましたが、この作品には読み解けない「徴」も数多くありますね。そこにはケルト的な何かが、あるいは芸術作品によって開かれる永遠の扉のような何かがあったのかも知れない。でもそれをわれわれは、いつも見失ってばかりいるのかもしれない。そう痛切に思わせてくれる一節です。
 このようにして、死と正面から向き合いながら、それに抗おうとするプルーストのイメージがあるわけですが、それとは対照的に、いわば「うたかたの日々」を生きる主人公──貴族社会にいたずらに憧れては幻滅を繰り返す日々──というのも、この物語の重要な側面だと思います。そのことを端的に表しているのが次の引用です。

(......)妖精というものは、その名に対応する現実の人物にわれわれが近づいたとたんに生気を失ってしまう。(⑤25)

これはプルーストにとっての実感でしょう。彼は非常に憧れの気持ちが強い人だったように思います。そして憧れの対象への想いを募らせながら、その対象に触れるうちに大きな幻滅を味わう。ひょっとしたら、それはわれわれの人生そのものかもしれません。このあたりから僕は、プルーストに対してシンパシーを感じてしまうわけです。「妖精」という言葉を用いているところが、彼の可愛いところというか、ロマンティックなところで、僕にとっては、この甘さもまた魅力なんです(⑧532にもそうした例があります)。これがプルーストにおける、夢想と幻滅のひとつのパターンだと思います。
 続いて、復活というテーマに関連した次の一節を見てみましょう。

目覚めるさいの──眠りというこの恵みぶかい精神錯乱の発作のあとの──復活という現象は、つまるところ、人が忘れていた名前や詩句や反復句(ルフラン)を想い出すときに生じることと似ているにちがいない。そうだとすると死後の魂の復活も、ひとつの記憶現象としてなら理解できるかもしれない。(⑤188)

不思議な響きのある一節ですね。「復活」という言葉を軸として思考がつむがれていく。目が覚めるようにして死後の世界で復活できるのかも知れない、というプルーストの願望が激しく脈打っているのを感じさせられます。

公爵夫人の招待客たちは、アグリジャント大公とかシストリア大公とか呼ばれようと、ありきたりの愚鈍さや聡明さや肉体という外見を備えた普通の人間になり果て、公爵邸の玄関マットに降り立ったときの私は、想い描いていたような名の棲まう魔法の世界の入口に着いたのではなく、魔法の世界の果てに来ていたのだが、そんなことにはお構いなく、引き合いに出されたさまざまな名前は、かえって招待客たちを非現実化する効果をもったのである。アグリジャント大公自身も、その母親はモデナ公爵の孫娘にあたるダマース家の人だと聞いたとたん、不安定な化学的伴侶から別れるみたいに、大公の神髄を捉えるのを妨げていた本人の顔やことばから解放され、単なる称号でしかないダマースやモデナと結びついて、はるかに魅惑的な化合物をつくりあげた。ひとつひとつの名前は、なんの親和力もないと思われたべつの名前に引き寄せられて移動し、私の頭脳のなかで習慣ゆえにとどまって色あせていた不動の場所から離れると、モルトマール家とかスチュアート家とかブルボン家とかと結びついてそれと一体化し、このうえなく優雅な効果と千変万化する色合いを備えて枝分かれする系図を描き出した。(⑦439-440)

「名家」だの何だのに対するこの憧れの強さというのはやっぱりよくわかりませんが、とはいえ僕にとって面白いのは、最終的に貴族の「名前」が何に到達するのか、という点です。引用の最後に「系図」という言葉が出てきます。フランス語では « arbre généalogique »、つまり「樹木 arbre」ですよね。そう考えると最初の引用との一貫性が見えてきます。死んだはずの人たちの魂が「樹木」に宿っているのであって、「名前」こそはその「樹木」へと至る鍵なんだということです。アグリジャント大公と知りあってがっかりしたとしても、その「枝」をしっかりと押さえておけば、もっと太い「樹木」の存在を確かなものとして感じ取ることができるわけです。でも、同時にそれは幻影(イリュージョン)とも非常に近いのではないでしょうか。

われわれが惹きつけられるのは、われわれに未知のものとして見えるあらゆる生活であり、破壊される運命にある最後の幻影である。(⑦492)

これを読むと、プルーストには何もかもよく分かっているんだなと思わされます。彼は、さっき僕が楯突いていたようなことなど百も承知なんです。そんなのは彼にとっての出発点であり、だからこそ「幻影」のさらに向こうに何があるのかをつきとめようとする、永遠の幻影を求めようとする必死の努力が積み重ねられていく、ということでしょう。

「超映画」としての『失われた時を求めて』

坂本 死への抵抗というテーマは、第8巻の「心の間歇」というエピソードのなかでとりあげられます。ここで参加者からの質問をひとつぶつけてみたいと思います。野崎先生は、文学だけでなく映画に関するお仕事もたくさんされていますが、考えてみるとプルーストの時代は、ちょうど映画が発明された時代。最近プルーストらしき人物がうつった当時のフィルムが発見されて話題にもなりました。そこで質問。プルーストの小説は、映画(あるいは映画をはじめとする当時の映像文化)の影響を受けていると思いますか? それとも逆に、映画では表現できない文学固有の力を発揮していると考えるべきでしょうか? その場合、文学にしか表現できないものとは何でしょうか?

野崎 共感できるご質問だと思います。よく思うのは、19世紀以降の小説の書かれ方にはすでにして、映画そのものと言いたくなる部分があるということです。つまり、小説と映画をあまり厳密に分けて考えなくてもいい、われわれとしては同じ物語芸術として楽しめばいいのではないか、ということです。
 18世紀までの小説には、ヴィジュアライズされる要素が非常に少ない。そもそも描写が本格的に始まるのは、バルザックからですね。リアリズムが誕生するのも19世紀のことです。そしてバルザックが『ゴリオ爺さん』を書きはじめたのとほぼ同じ時期に現れたのが写真術でした。« photographie » とは「光」« photo- » で「書く」« -graphie »、あるいは「光」を「書く」術であるわけですが、それから50年ほどして登場するのが映画術 « cinématographe » であり、それはつまり「運動」« cinéma- » を「書く」« -graphie » 術だった。名前からもわかるように、写真にせよ映画にせよ、「書く」ための手段と認識されていた。視覚的なものを文字で書くようにして記録する、ということですね。
 こうした技術畑における発明と、小説畑のバルザック、フローベール、ゾラにおける徹底的な描写の視覚化というのは、広いパースペクティブで見れば通底した現象だと思うんです。見えるように書くのであり、見えている光や運動を書くわけです。『ボヴァリー夫人』では映画のカメラワークが先取りされているなどと言われますが、ある意味でそれは当然です。
 視覚第一主義のもとで、世界は文字の力でヴィジュアライズされるためにあるのだと言わんばかりの小説が生まれる──プルーストはその頂点に立つ人ですから、彼の小説は映画として書かれていると言ってもいいでしょう。
 それから、プルーストは随所に視覚をめぐる反省──自分に見えているものは、本当に見えているのか──を書き込んでいますね。見えているものが実は見えているとおりではなかったという、先ほどの「妖精」に通じる反省が散りばめられているわけです。たとえば、「ヴィヴィアーヌ」かと思ったら「長靴をはいた猫」だったというのは、もはやある種のトリック撮影です。つまりプルーストの小説はナイーブな映画ではなく、眼差しそのものを対象化する「超映画」でもある、と言えそうです。視覚のメカニズムを問題にし、見るという行為はつねにイリュージョンを孕んでいることを指摘するわけですから、この小説は最先端の映画だと言いたくなるわけです。
 いっぽうで、プルーストが同時代の映画(リュミエール兄弟以降の映画)に影響を受けたかと言えば、それはほとんどなかったのではないかと思います。つまり、彼には映画がそれほど面白いものだとは思えなかったのではないか。彼の眼差しは、偉大な絵画芸術によってあまりに強く規定されていて、映画が視野に入ってくる余地はなかったのではないか。小説の語り手が描き出すのは何よりも一幅の絵画 « peinture » であり、これはプルーストがバルザック以来の道を極めた人であることの証なのだろうと思います。

坂本 プルーストは映画と出会いそこねた、と言われています。みずから映画を観に行ったわけではないけれども映画をめぐる言説にはふれていたようで、最終篇「見出された時」では映画に対する批判(映画と文学は違うのだという主張)を展開しています。

なかには小説はもろもろの事物を映画のように羅列すべきだと言い募る者もいる。こんな考えほどばかげたものはない。そうした映画もどきのヴィジョンほど、われわれが現実に知覚したものから遠いものはないからである。(⑬463。⑬477も参照)

つまりプルーストは、映画を視覚の表層的な再現へと還元したうえで、映画を否定している。でも小説のなかでは視覚的な要素が非常に大きな位置を占めていて、4巻で見たように、作中の画家エルスチールの美学との関連で語られているわけです。

同性愛の主題をめぐって

坂本 ここからは8巻の読みどころについて考えていきましょう。まず、冒頭で描かれるシャルリュスとジュピアンの出会いの場面と、それにつづいてプルーストが「呪われた」「種族」というかなり強い表現で呼んでいる男性の同性愛者たちをめぐる考察は、どのように読みますか?

野崎 僕にとってこの8巻は、困ってしまうようなプルーストと最良のプルーストが共存している一冊です。困ってしまうのは、たとえば次の一節。

おまけに正直に言えば、そんな新参者のなかには、内部で女が男と一体をなしているばかりか、それを醜く外にあらわす者がいて、ヒステリー患者のように両膝と両手を震わせ、甲高い笑いをともなう痙攣にとり憑かれると、とうていふつうの男には見えない。隈のできた憂鬱そうな目をしたサルが、前足でものをつかむことができ、スモーキングを身にまとい黒のネクタイをしているからといって、男には見えないのと同様である。(⑧60)

あえてきつい言い方をすると、彼が「〜と同様である」という場合、賛成できないような、ハズレの場合もあるんじゃないかと思うんです。同性愛をめぐっては、誤った一般論や不必要な比喩と思える表現が散見されます。もちろん、敵のロジックをいったん身にまとって書くという戦略もあったのかもしれません。
 翻訳者の実感として言うと、こういう部分がなければもっと翻訳がさくさく進むのになあと思ってしまいます。バルザックなどはこういう書き方が大の得意で、彼は自分が社会の物事を何でも知っているんだということを読者に伝えたいし、一般的な真実を読者に教授したい。それを省いてくれたら、物語はどんどんアクションが進んで早く翻訳が終わるのですが、そのあたりを吉川先生がどうお感じになったか、うかがってみたいところです。もちろん、ストーリーの停滞する部分にこそ思考の面白さがあるのも確かなのですが。
 時系列的には先に触れておくべきシャルリュスとジュピアンの出会いのエピソードを第8巻の冒頭にまで残しておいたということは、プルーストが同性愛に対して並々ならぬ覚悟を抱いていることの表れですよね。つまり、ここからプルーストがギアをいれて、あまり一般には語ることのできない題材を正面から描くんだという意思表示をしているようにも読める。その描き方には、ただ単に当時の偏見に留まるのではない発見と豊かさがある。ホモフォビアの小説などというのとはまったく違う読後感が得られるのは確かです。
 プルーストの性は一元的な決定をどんどん逃れていき、男と女という役割を流動化させて正体不明なものにしていく。そのダイナミズムを支えている人物こそは、シャルリュス男爵でしょう。彼が出てくる場面はすべて面白い(笑)。貴族のなかでも「男爵」だけはいいんじゃないかとさえ思えてくる。シャルリュスという人物を創造したことは、プルーストの偉業だろうと思います。シャルリュスがどうなってゆくのかという興味だけでも全巻を通読できるくらいで、そこでは「男/女/異常者としての同性愛者」という見方は突破されていく。
 どうしても、バルザックが『幻滅』その他で活躍させたヴォートランと比べたくなります。ヴォートランはあらゆる世事に通じた人物であると同時に、美青年好きの中年男として立ち回り、若者を自分好みの人間に作り上げてゆこうとする。これはシャルリュスと主人公の「私」との関係に受け継がれている。プルーストはバルザックにずいぶん鼓舞されたんじゃないでしょうか。
 ただし、いくつもの矛盾を孕んだ豊かな世界のなかでは、シャルリュスもさることながら、いちばん怪しいのは語り手の「私」ですよね。名前が明かされないことによって、そこだけ空虚になっている。言ってみればこの男にはスパイじみたところさえある。色々なところに隠れていて、シャルリュスのいちばん見られたくないところなんかを見てしまっている。語り手に言わせれば、倒錯者は声で聞き分けられるし、倒錯者こそが他の倒錯者を嗅ぎ分けられるのですが、その考え方でいくと、誰よりも倒錯者を見つけ出している語り手こそが倒錯者だという理屈になりますよね(笑)。
 アルベルチーヌもかなり強烈な魅力を放っています。アンドレと踊っている場面には相当ないやらしさがありますが、あれは通常の性差を超越した「私」だからこそ捉えられるものではないかと思います。あそこで女性の快楽について指摘するのはコタールですが、果たしてあの真面目なコタールにそんなこと言えるでしょうか(笑)。いやらしい目で見ているのは、やはり語り手その人ですよね。

坂本 たしかにコタールはそんなこと気づかないだろう、とも思うのですが、同性愛を扱ったあの場面に医者の視点を導入したかった、という可能性もありますね。まとめると、シャルリュスという具体的な登場人物の創造によって同性愛のテーマは非常な豊かさをえているいっぽう、語りの地の文で、さまざまな比喩を用いながら一般化をしつつ論じているところには退屈さが感じられる、ということでしょうか。

野崎 いや、議論の部分ももちろん素晴らしいんだけど稀には、ということですよ(笑)。世の中に出回っていた偏見をいったんすべて表にだすという試みは、何と言っても壮大なものだと思います。

坂本 そうした偏見は、読者がそこに同意したり共感したりすべく提示されているわけではないですよね。

野崎 ユダヤ人問題も同様ですね。賛否を問うわけではない書き方は、小説にこそ許されるものでしょう。新聞の投書欄ではないわけです。

坂本 おそらくは、プルーストの批評的な視点が全体を貫いているがゆえに、偏見を無防備に書きこんだり、場合によってはそれをサディスティックに助長したりすることさえ可能になってしまう、ということかもしれません。

ネルヴァルと「心の間歇」

坂本 ではここで、いよいよ「心の間歇」というエピソードをとりあげたいと思います。これは『失われた時を求めて』という小説のタイトルを決める際の候補にもなった重要な言葉でもあります。野崎先生の専門であるネルヴァルとのつながりで言えば、プルーストがネルヴァルの全作品をまとめて「心の間歇」と呼べるのではないかと考えていたという事実も思い出されます。セミナーの参加者のかたからは2つの質問が寄せられました。
 一人目のかたは、野崎先生の『フランス小説の扉』をお読みになって、心の間歇そのものより、祖母の死から記憶の蘇りまでの一年間という時間の長さをめぐる表現が気になったとのこと。主人公はこの一年のあいだに流れた時間をどのように感じたのか、その「あいだ」の期間をあらわす表現があるとすれば、どのような言葉なのか?

野崎 素晴らしい質問ですね。僕にとっては、「魂の枯渇」(⑧351)こそが、この一年を表す言葉であるように思えます。そこで「私」の目からは涙がとめどなく流れるわけですが、これは「枯渇」に潤いがもたらされているとも読めるでしょう。「私」は枯れかけた「樹木」でもあったのではないか。このエピソードに関連して、ネルヴァルの詩をひとつ紹介しましょう。

「祖母」(1831年[?])

ぼくの祖母が亡くなって三年たつ
善良なひとだった――葬儀のときには
親戚、友人、だれもが泣いた
心からなる悲嘆の念をこらえきれずに!

ぼくはといえば、呆然として家の中を歩き回った
心痛にかられてというよりも。そして祖母の棺に
近づいたとき、ぼくを責める人がいた。
涙も流さず、叫び声をあげもしないといって。

騒ぎ立てるなら悲しみはすぐさま過ぎ去る。
三年のうちに、ほかのもろもろの感慨、
嬉しいこと、つらいこと、世の転変によって
人々の心から祖母の記憶は拭い去られた......

でもぼくは祖母を想い、しばしば涙する。
ぼくのうちでは、時とともにいよいよ力を増して、
木の幹に彫りつけられた名前のように、
祖母の思い出がより深く刻まれていく。

書かれた年はわかっていませんが、母方の祖母が亡くなってから3年と考えると、1831年と推定されます。この作品はプルースト研究者の目に、どのように映るでしょう。

坂本 プルーストとネルヴァルとの関係を語る際にとりあげられることのある一篇ですね。まさに、祖母が亡くなってすぐの時期における悲嘆の不在が描かれた作品だと思います。

野崎 一般的に言って、記憶というものはだんだんおぼろになっていくものじゃないですか。でもネルヴァルは、歳月とともに彫りが深くなっていく記憶について語っている。ネルヴァルは、自らの発見であり、おそらくは体験でもあっただろうこの指摘を通して、私たちと時間との関係についての考え方を変えるきっかけを与えてくれています。プルーストは、それを壮大かつ壮麗に小説化している。つまり、ただ単に時が経つことでみんな消えていく、というわけではないんだということですね。
 対照的なのが小説に登場する貴族たちで、彼らは死の話を露骨に避けながら、華麗な現在だけを楽しむ社交界に身をおいている。そこで流れている時間は、ネルヴァル的・プルースト的な時間とは対照的ではないでしょうか。パリの社交界から身を引き剥がしてやって来たバルベックだからこそ、「私」はそういう時間に触れられるのだろうとも思います。

坂本 主人公にとっての「死」と、貴族にとっての「死」には大きな隔たりがあって、前者のありようを際立たせるために社交界があるとも言えそうですね。

水の匂いと夢の世界

坂本 さて、先ほど「枯渇」を潤す「涙」=水に関するお話がありましたが、ここでもうひとつの質問です。野崎先生はフランス文学や映画だけでなく日本文学についての著作も書かれていて、この夏、『水の匂いがするようだ──井伏鱒二のほうへ』と題する井伏鱒二についての本をだされました。この本を読んだ参加者の方から、「心の間歇」のなかにも「水の匂い」が漂い、「水音のリズム」が響いているのではないか、との質問が寄せられています。同じかたが、先生のネルヴァル論『異邦の香り』をひいて、水の流れをめぐる神話的なイメージの使用にも着目されています。たとえば「忘却の川(レテ)」のイメージが用いられています(⑧360)。記憶と水のイメージには深いつながりがあるのでしょうか?

野崎 プルーストと井伏鱒二ほど違う作家はいないのではないかと思ういっぽうで、プルーストの世界にも「水の匂いがするようだ」という気がしています。プルーストの作品の深さを形作っているのは、人間存在の深みにひたひたと流れている何か、なのではないか。そしてそこから水を汲み上げることによって、我々は枯渇せずに生きていけるのではないか。あるいはその流れによって系統樹が育ってゆくのではないか。そして質問をくださった方が指摘しておられるように、「心の間歇」には、そうした原型を成す流れをめぐる体験というものが非常に見事にあらわれています。
 プルーストと水というテーマで忘れ難いのは、雨をめぐる美しい描写もさることながら、コンブレーに流れるヴィヴォンヌ川ですね。あの流れこそはゲルマントのほうの最大の魅力だという記述があったと思いますが、プルーストは水の人なんだというイメージを支えているような気がします。

坂本 それでは最後に、恒例となっている「私の選ぶ1ページ」を挙げてください。

野崎 僕が選んだのは、「心の間歇」という記憶のよみがえりのあとに描かれる夢のなかの情景、亡くなったはずのお祖母さんをめぐって、夢のなかで語り手が父親と対話している場面です。

私はまたしても泣きながら父にこう言った、「早く、早く、アドレスを、ぼくを連れてって!」ところが父は言う、「それがね……会えるかどうかわからないんだ。それに、ほら、ずいぶん弱っている、ひどく弱っているんだよ、もう以前のお祖母さんじゃない、会ってもお前のほうが辛くなるだろう。おまけに通りの正確な番地を想い出せなくてね。」「でも、どうなの、お父さんならわかるでしょ、死んだ人はもう生きていないというのは本当じゃないって。人がなんと言おうと、やっぱり本当じゃないんでしょ、だってお祖母さんは、まだ生きているんだから。」父は悲しげに微笑んだ。「いや! それだってかろうじてだ、そう、かろうじてなんだよ。お前は行かないほうがいいと思う。なに不自由なくしておられて、手伝いの人が来てなんでもきちんとしてくれているんだから。」[中略]「でもお父さんだってわかるでしょ、ぼくがずっとお祖母さんのそばで暮らしてゆくことぐらい、シカ、シカ、フランシス・ジャム、フォーク。」しかしすでに私は、蛇行する真っ暗な大河をさかのぼり、生者の世界が開ける水面にまで浮上していた。それゆえ、いっとき前には私にまだごく自然に明快な意味と論理をあらわしていた「フランシス・ジャム、シカ、シカ」という一連のことばも、私がもう一度それをくり返しても、もはや私になにも提示せず、私もそれがなんであったのか想い出せなかった。(⑧362-364)

それにしても「心の間歇」というエピソードは、なぜこれほどまでに胸を打つんでしょう。社交界が虚栄の世界であるのに対して、祖母と「私」の関係に虚栄が入り込む余地はなく、とくに祖母が「私」を思う気持ちは純度100%のものです。鼻持ちならない、嫌な奴がたくさん登場してくるなかで、ふっと祖母が姿を現すことは、読者にとっても救いになります。そのように人間たちの一個の世界を作り上げたプルーストは、やはり大作家だと言わざるを得ない。けっきょくお前も軍門にくだっているじゃないか、と言われてしまいますが……。
 さて、この夢の場面には、「私」の父親が不思議な導き手として登場しますが、祖母の居場所をたずねても、正確な番地が思い出せないという。死んでしまうということは、もはやその人がどこにいるかわからないということであり、そこには忘却というテーマもからんできます。同時にこの夢は、死の否定を発動させることのできる特権的な場所になっている。そうはいってもお祖母さんはまだ生きているんでしょう? という息子の問いかけに対して、父親は「かろうじて」という不思議な言い方で応答しますね。「かろうじて」生きているといういささか中途半端な表現によって(柴田元幸さんの「死んでいるかしら」という名エッセイなどもふと思い出されますが)、父親は息子を気遣っている。吉川先生が見事に訳しておられるように、主人公の「私」がこの場面で幼児退行を起こしていることもわかります。
 「シカ、シカ、フランシス・ジャム、フォーク……」という一文も不思議ですが、そこまでの夢がほつれ始めるとともに、夢と覚醒のあわいにあって、言葉があぶくのように出てきているのでしょう。プルーストが書いているように、覚醒が「水面」のうえに浮上することだとすると、夢の世界はまさに「水面下」のものであり、眠りは水のなかに沈み込むことでもあるということもわかります。
 そのうえで、プルーストのこの一節もネルヴァルへの応答のように読めてしまうということを指摘しておきたいと思います。次の一文を見てみてください。

私が広々とした客間に入っていくと、そこには大勢の人たちが集っていた。いずこを向いても知った人の顔が目に入った。私が泣いて死を悼んだ今は亡き親戚の顔立ちが、より昔の衣装を着たほかの人たちのうちに蘇っており、私をやはり親身な態度で迎えてくれた。一族の祝宴のために集まっているらしかった。それら親戚の一人が近寄ってきて私をやさしく抱擁した。古い衣装は色あせて見え、髪には 髪粉がまぶされていたが、ほほえみを浮かべたその顔にはどこかしら私に似たところがあった。この人は生者だという印象を他の人たち以上に与え、私の心といわばより楽に意思疎通できるのだった。──それはわが叔父であった。叔父は私をそばに座らせ、私たちのあいだには一種の会話が成り立った。というのも、私には彼の声は聞こえなかったのである。ただ、私が何かを考えると、すぐさまそれに対する明確な説明が返ってきたのであり、観念があたかも生命を帯びた絵のように目の前にまざまざと像を結んだのだ。
「では、本当なのですね」私は有頂天になって言った。「私たちが不死であり、自分の暮した世界の観念がここに保たれているというのは。私たちが愛したいっさいのものがわたしたちとともに存在し続けると思うと、なんて幸せなんだろう!……ぼくはすっかり人生に疲れてしまっていたんです!」
「まだ早いぞ」叔父は言った。「そんなに喜ぶのは。おまえはまだ地上の世界に属していて、さらに試練の歳月をしのばなければならないのだ」 (第1部第4章)

これはネルヴァル最後の作品『オーレリア』からの引用です。彼は50歳にもならずに自殺と思われる不自然な死に方をしました。とりわけ最晩年は錯乱の発作との闘いが続いていましたが、そのなかで彼は、自分の錯乱や夢を作品の材料として、最後に『オーレリア』を書きました。ネルヴァルは、プルーストが描いた「真っ暗な大河」にどっぷり浸り込んで、出られなくなってしまっていたとも言えます。
 ここでの「私」は夢のなかで死者たちに囲まれており、ただひとり叔父だけが生者のような佇まいを残しています。そして「私」は、プルーストの主人公がそうであったように、少年時代に戻ったかのような雰囲気を漂わせている。ここでネルヴァルが見ている夢の世界は、死者の世界とつながっていて、それは地上ではなく地下の世界なんですね。そしてどうやらその地下の世界にはひとつの流れが、つまりは「真っ暗な大河」があるわけです。
 ネルヴァルは大きくいうと幻想文学の枠組みに分類されますが、プルーストは幻想文学やリアリズムといった捉え方を超えているのだということを、夢をめぐる先ほどの一節がはっきりと示しています。幻想と現実のあいだを自由に行き来するような書き方がなされているわけですね。

坂本 「心の間歇」のエピソードの最後にリンゴの木をめぐる描写があります。この場面を野崎先生はどのようにお読みになりますか。

陽は射していたが、あちこちにできた水たまりはいまだ乾いておらず、あたりの地面はまるで沼地のようになっていて、私は、かつて祖母がちょっと歩いただけで泥だらけになったことを想いうかべた。ところが街道に出たとたん、目もくらむ光景があらわれた。かつて祖母とともにやって来た八月には、ただ葉叢しか見えず、そこにリンゴの木々があるとわかるだけだったのに、いまやその木々は、未曾有の豪華絢爛たる一面の花盛りであった。その木々は、足を泥のなかに浸けたまま舞踏会の衣装に身をつつみ、類を見ないみごとなバラ色のサテンを陽光にきらめかせ、それを汚すまいとする気遣いなどさらさらない。遠くに見える海は、リンゴの木々からすると、まるで日本の浮世絵版画に描かれた遠景であろう。私が顔をあげて、花のあいだに、からりと晴れて鮮烈なまでに青い空を眺めようとすると、花のほうは隙間をあけてこの楽園の奥深さを見せてくれるように思われる。[中略]やがて太陽の光線にかわって不意に雨脚があらわれ、あたり一面に筋目をつけ、その灰色の網のなかに列をなすリンゴの木々を閉じこめた。しかしその木々は、降りそそぐ驟雨のなか、凍てつくほど冷たくなった風に打たれながら、花盛りのバラ色の美しさをなおも掲げつづけていた。春の一日のことである。(⑧403-406)

野崎 これはもう、じつに美しい場面ですよね。まさに心が洗われるような、大好きな一節です。樹木や雨といった、甦りのモチーフが散りばめられていると捉えることもできそうです。

坂本 泥だらけになったかつての祖母の姿が、花盛りのリンゴの木と重なる光景として読むと、つよく胸を打たれます。夢のなかでは冥府下りでしたが、ここは「楽園」という言葉も相まって、「天国」において祖母と再会しているようにも読めてきます。

 

(後記)いったん「プルースト研究者」の看板を掲げると、プルーストの作品への違和感を率直に表明しづらくなります。その点、「ゲルマント」は日本で言えば「武者小路」とか「綾小路」のような特権階級の世界だといいきって、プルーストの貴族趣味を断罪したり、同性愛をめぐる記述に含まれる「誤った一般論や不必要な比喩」を指摘したりする野崎歓さんの声は、とても自由に清々しく響きました。でも、もちろんそれにとどまらず、「死の否定」にこそプルースト文学の本質があると看破し、「ネルヴァルのほう」から「心の間歇」と夢の世界に迫っていく語り口に、会場は魅了されました。第九回は作家の青山七恵さんをゲストにお迎えし、「ソドムとゴモラ」後半の読みどころを探ります。

 

講師:野崎歓(のざき・かん)

フランス文学者、翻訳家、エッセイスト。放送大学教養学部教授、東京大学名誉教授。『ジャン・ルノワール──越境する映画』(サントリー学芸賞)、『赤ちゃん教育』(講談社エッセイ賞)、『異邦の香り──ネルヴァル『東方紀行』論』(読売文学賞)、『夢の共有──文学と翻訳と映画のはざまで』(岩波書店)、『水の匂いがするようだ──井伏鱒二のほうへ』(角川財団学芸賞)、『無垢の歌──大江健三郎と子供たちの物語』(生きのびるブックス)など著書多数。訳書に、ネルヴァル『火の娘たち』(岩波文庫)、ジャン=フィリップ・トゥーサン『浴室』『ムッシュー』『カメラ』『ためらい』(以上集英社文庫)、サン=テグジュペリ『ちいさな王子』、スタンダール『赤と黒』(以上光文社古典新訳文庫)、ボリス・ヴィアン『北京の秋』(河出書房新社)、ミシェル・ウエルベック『素粒子』『地図と領土』(以上ちくま文庫)、同『滅ぼす』(共訳、河出書房新社)など多数。2000年にジャン=フィリップ・トゥーサンの翻訳でベルギー・フランス語共同体翻訳賞(フランス語版)、2021年に小西国際交流財団日仏翻訳文学賞(特別賞)、2024年にモアメド・ムブガル・サール『人類の深奥に秘められた記憶』の翻訳で、第4回みんなのつぶやき文学賞(海外篇)を受賞。

司会・レポート:坂本浩也(さかもと・ひろや)

立教大学教授。著書に『プルーストの黙示録──『失われた時を求めて』と第一次世界大戦』(慶應義塾大学出版会、2015年)、訳書に、ピエール・ブルデュー『男性支配』(坂本さやかとの共訳、藤原書店、2017年)など。X(旧ツイッター)「プルーストを読破した@立教」を更新中。

編集協力:小黒昌文(おぐろ・まさふみ)

早稲田大学教授。著書に『プルースト 芸術と土地』(名古屋大学出版会、2009年)、訳書にアラン・コルバン『木陰の歴史──感情の源泉としての樹木』(藤原書店、2022年)、フィリップ・フォレスト『洪水』(澤田直との共訳、河出書房新社、2020年)など。第10回のゲスト講師を担当。

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