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それぞれの『失われた時を求めて』 

それぞれの『失われた時を求めて』第4回『花咲く乙女たちのかげにII 』


講師:湯沢英彦司会:坂本浩也
2018年4月28日、立教大学池袋キャンパスにて
テキスト:『失われた時を求めて』第4巻「花咲く乙女たちのかげにII」岩波文庫、2012年

 

ひと夏の海辺の恋の物語

 今回とりあげる『花咲く乙女たちのかげに』第二部「土地の名ーー土地」は、「全篇に夏の光と青春の香気があふれ、『失われた時を求めて』のなかでも読みやすく人気の高い巻」です(訳者あとがき④669)。
 
 海辺の避暑地バルベックを祖母と訪れた「私」は、ゲルマント一族の貴公子サン=ルー、謎めいたその叔父シャルリュス男爵、高名な画家エルスチール、そして活発な少女たちの一団に出会います。
 
 講師は、このきらめきに満ちたエピソードの草稿分析を出発点に、プルースト研究をリードしてきた湯沢英彦さん。『失われた時を求めて』の恋愛小説の側面と、芸術家小説の側面のつながりを語っていただきました。
 
 いつもどおり、このイベントレポートは忠実な文字起こしではなく、要約・省略・補足・再構成したものです。引用はすべて吉川一義訳、岩波文庫。丸囲み数字が巻、アラビア数字がページを指します。
(構成:坂本浩也、編集協力:小黒昌文)
 

ヤング・ガールズ・オン・ザ・ビーチ

坂本 まずは、研究者の殻を脱ぎ去って、プルーストとのパーソナルな出会いを聞かせてください。
湯沢 プルーストと出会ったのは高校時代です。当時はカミュやサルトルのような実存主義文学を愛読していました。『失われた時を求めて』の存在は、地元の図書館の薄暗い書庫で初めて知ったのですが、まだインターネットもない1970年代、どういう作品かわからないまま、いきなり読んでみた。すると、睡眠の場面に「いったい何だこれは?!」と驚かされました。これから何が起きて、どういう世界が始まるのか、まったく見当がつかないというのが最初の印象でした。
 最後まで読み通したのは大学に入ってからです。入学当初は哲学の勉強をするつもりで、メルロ=ポンティをよく読んでいたのですが、そのメルロ=ポンティがプルーストをしばしば引用していた。そこでたしか秋ごろ、新潮社の翻訳を手にとった。でも寝転がって読んでいると睡魔に襲われて、ハードカバーの分厚い本が顔のうえにどさっと落ちてきて眼鏡がずれる(笑)。とりわけ『花咲く乙女たちのかげに』の前半がしんどくて、ノルポワやベルゴットが延々と喋る場面の面白さがちっともわからない、と思いながら読みすすめたのを、よくおぼえています。
 なんとか読み終えたあとは、卒業論文と修士論文でプルーストを扱い、パリ第4大学で、海辺の乙女たちの生成過程をテーマに博士論文を書きました。そのあと、事務手続きの必要から博論のタイトルを英訳したら、「海辺の乙女たち」Les jeunes filles à la plage が Young girls on the beachとなった(会場笑)。これじゃどう考えても、カリフォルニアあたりの海岸で楽しそうにビーチバレーをしている女の子たちしか思い浮かばない。いったい3年間パリで何をやっていたのだろう、と思いました。
坂本 吉川訳の印象は?
湯沢 踏み絵みたいな質問ですが(笑)、非常に読みやすい、すばらしい訳だと思います。わかりやすいといえば、鈴木道彦先生の訳業もあります。あちらが「楷書」のイメージだとすれば、吉川さんの訳は、もちろん的確で読みやすいのですが、ところどころ文が長めにのばされていて、やや「行書」のような雰囲気がある。豊富な図版のすばらしさもさることながら、柔らかめの訳文のおかげで、プルースト的な流動感にうまく乗って読んでいける。
 

「プルースト的」といえば?

坂本 ここで参加者の事前質問をひとつ。湯沢先生のご著書のタイトル『プルースト的冒険』にもある「プルースト的」という表現は、ひとことで言うと、どういう意味でしょう?
湯沢 プルーストの小説は、波瀾万丈の冒険物語とはまったく違う。ストーリーを要約するのも難しい。でも大胆な冒険の試みはふんだんにあるはずで、それを伝えるために『プルースト的冒険』というタイトルをつけました。では「プルースト的」とは何なのか……。これは素人をよそおった専門家いじめの質問ではないでしょうか?(笑)
 プルーストを読んですごいと思うことが、ふたつあります。ひとつは、いったいどこに向かうのかまったくわからない融通無碍な語りの芸。次から次へと話題が繰り出され、ディテールにディテールが重なってゆき、どこか変なところに行ってしまうのではないかと思ったら本筋に戻る。これはあきれるほどにすごい。たとえば第4巻、ステルマリア嬢の「すぐに乾く潤いのないまなざし」の描写は、言葉の意味はわかるけれど、本当にそんなものがあるのか、と思わざるをえない(会場笑)。もしみなさんが俳優で、こんなまなざしの演技をしろと注文する演出家がいたら絶対つきあえないと思うでしょう。ですが、ホテルでちらっと見かけた女性についてここまで語る名調子、話芸を読むのは、じつに楽しい。
 
すぐに乾いてしまう瞳の奥にちらっとよぎるまなざしには、卑屈といえるほどの優しさが感じられた。それは、なによりも官能の快楽を好んで追い求めるきわめて誇り高い女に備わるもので、やがて女が認めることになる威信はただひとつ、だれであれその快楽を味わわせてくれる人だけがまとうものになり、相手がたとえ俳優であろうと軽業師であろうと、その人のためにいつか夫を捨てることになるかもしれない。[以下略](④119)
 
湯沢 それから、ごく日常的な感覚を捉えて描写するくだりには、ドキッとするほど素晴らしいものがある。たとえば、波打ち際にたったホテルの寝室で横になると、自分の身体が海に取り囲まれるようだという、なにげない感覚の描写。
 
私はベッドに横になる。すると、暗闇のなかをしんと静まりながら目を覚ましている白鳥の群れのようにゆっくりと私のかなりそばを進んでゆく船という船が不思議なことに闇のなかに浮かびあがり、私はそんな船の寝台に横たわったつもりになって、四面を海のイメージにとり巻かれていた。(④360)
 
湯沢 こうした感覚のとりあげかたは読み返すたびに新鮮に感じられます。いまでも二、三日時間のあるときはプルーストをずっと読んだりするのですが、自分の日常生活のさまざまな局面が違ったように感じられる。プルーストに感染したようなぐあいになることがよくあります。
 

「見出す」という言葉の意味

坂本 第4巻には「見出す」という訳語が頻繁に登場するという指摘が寄せられました。これは最終篇のタイトル『見出された時』にも含まれる「プルースト的」な言葉ですね。
湯沢 そのとおりです。原語はretrouver。かつて見知っていたはずなのに忘れてしまっていることを「ふたたび発見する」という意味で、それがまさに「プルースト的」なところに関わってきます。たとえば、めずらしい、見たこともない気がするイメージが提示されたとする。プルーストによると、それを見てすばらしいなと思うのは、じつは、そのイメージが自分自身の心のうちにすでに潜在していた「ある印象を思い起こさせる」ことによって、自分の内側に「立ち返らせてくれる」からです。
 
エルスチールが画を描きはじめたころから、われわれの眼前には風景や街のいわゆる「すばらしい」写真があらわれた。この場合、写真の愛好家たちがそう形容したものを明確にしようとすると、普通この形容詞が適用される対象は、既知のものが特異なすがたをまとったイメージで、われわれがふだん見慣れているイメージとは異なり、特異とはいえ本物のイメージである。それがわれわれの心を二重に捉えるのは、われわれを仰天させ、ふだんの習癖から抜け出させると同時に、ある印象を思い起こさせることによってわれわれ自身に立ち返らせてくれるからである。(④424)
 
湯沢 ここはまさに「プルースト的」です。彼の生きた20世紀初頭には、新奇なイメージが文学でも美術でも生産されていましたが、プルーストの場合、斬新なイメージを語るけれども、同時にそうしたイメージがじつは自分のうちに潜在していたもの、かつて経験したことに、もういちど立ち返らせてくれるものである。そこにプルーストのプルーストたる所以があると思います。
坂本 経験することなく経験していたものを再発見するということですね。
 

貴族の経済事情

坂本 それでは第4巻における「お金」「芸術」「恋愛」という3つのテーマを順番にとりあげます。まず「お金」にまつわる質問。バルベックのグランドホテルに長期間滞在するには、それなりの費用がかかるはずで、ブルジョワはともかく、ヴィルパリジ侯爵夫人のような貴族の面々は、共和制なのに、どのようにして収入を得ていたのか?
湯沢 貴族制度は1790年6月に廃止されたものの、その後もさまざまな政体を経てなんとなく維持されていた面がある。でも第三共和政が始まった1870年には、貴族のあらゆる特権が廃止されます。ただし大土地所有は認められていたので、一部の大貴族は土地収入によって豊かな生活を維持することが可能だった。とはいえ20世紀初頭にはそれもかなり困難になっていたようです。第4巻でも「巨大「企業」の取締役会長の職にある公爵」への言及などを読むと、貴族が労働の対価として収入を得ることがさほど珍しいことではなくなっているのがわかります(④151)。アンシャンレジームの時代には不名誉だった労働も、第三共和政、ベルエポックには、そうも言っていられない状況だったように思います。
 

ヴァントゥイユのソナタ

坂本 第4巻では画家エルスチールが印象に残りますが、芸術といえば、前巻までに、すでに音楽家ヴァントゥイユが登場しています。
湯沢 第2巻のスワンがヴァントゥイユのソナタを聴いて「不分明な印象」を受ける場面をとりあげて、エルスチールとのつながりを考えてみましょう。
 
こんなに不分明な印象を受けたのは、スワンがこの音楽を知らなかったからかもしれない。しかしその印象は、ただひとつ純粋に音楽的といえる印象にほかならず、拡がりをもたない、隅から隅まで独創的で、ほかのいかなる次元の印象にも還元できないものだった。この種の印象は、いっとき、いわば無実体のものとなる。そのとき聞こえる音は、高低や長短によって、たしかにわれわれの眼前でさまざまな大きさの表面を占めてアラベスクを描き、われわれに拡がりとか、繊細さとか、安定とか気まぐれとかを感じさせてくれる。しかしこのような感覚がわれわれの心の中で充分に形成される前に、その音は消え失せ、次の音や同時にでた音が既に呼び覚ましている感覚のなかに呑みこまれてしまう。しかもこの印象は、流動感あふれる「ぼかし効果」によって、ときおりそこからかすかに現れでては、すぐに沈んで消えてゆくモチーフを包み隠す。それを知るにはそれがもたらす特殊な喜びによるほかのない、描き出すことも想い出すことも名づけることも不可能な、いいようのないモチーフなのだ。(②66-67)
 
湯沢 ここはアルベルチーヌを中心とする少女たちの初登場シーンとすごく似ている描写です。輪郭がよくわからず、実体がはっきりしないものが次々と出てきては消えてゆくように描かれる乙女たちの姿は、この一節と明らかに連動しています。これは草稿研究の立場からも確認できることです。『スワン家のほうへ』のなかのヴァントゥイユのソナタを聴いた経験を描く文章は、花咲く乙女たちの、断片的で流動的でつかみようがないけれどすばらしいイメージの描写に、直接の影響を与えています。
 もうひとつ、ソナタについて、さきほど強調した「見出す」というプルースト的な経験ーー自分自身の心のうちに潜むものが「見出される」体験ーーと同じことが書かれています。スワンにとって、ヴァントゥイユの小楽節の魅力は「自分の心にひそむ数多くの富を明るみに出してくれる」ところにあります。「われわれの心」には芸術家の発見に応える何かがある。芸術がなければ「われわれの魂」は「空虚な無」であり「巨大な闇」である。でも独創的な芸術家の作品は、その豊かさを明るみに出してくれるというわけです(②356-257)。
 つまり、斬新なイメージをすばらしいものとして受けとることができるのは、わたしたちの魂のなかに、すでにそういう独創的な芸術作品の姿に呼応するものが潜んでいるからなのだ、という説明です。こうした考えかたは、エルスチールの絵画の描写にも見られます。海と陸の境界線を取り払って、世界を新たに創っているみたいだという一節。語り手は、自分自身の過去の経験を芸術家の独創的なヴィジョンと照らしあわせることによって、それまでまったく重要ではないと思っていた自分の経験がひとつの富であったことを理解します。
 

エルスチールと印象派の美学

坂本 エルスチールの美学はきわめて印象派的ではないか? との質問も届きました。
湯沢 たしかにその通りです。エルスチールの作品のモデルについては非常に精緻な研究が重ねられていますが、決定的な答えは出ていません。ターナー、ホイッスラー、モネの名前はあがりますが、結論としては、海を描いた印象派的な絵画をプルーストなりに総合して描いたのがエルスチールの海の絵だということになると思います。エルスチールの美学をかんたんに説明するのは難しいのですが、有名な一節を読んでみましょう。
 
ひとつひとつの画の醍醐味は、詩でいうところのメタファーと同じでいわば描かれたものの変容にあり、父なる神がこの世の事物の想像にあたりひとつひとつに名前を与えたのにたいして、エルスチールはそれらを再創造するにあたり、その名前を剥奪したりべつの名前を与えたりしている(④419)。
 
湯沢 さらに海洋画では、「陸と海とを比較して両者の境界をすべてとり払う」と書いてある(④420)。問題は、どうやってとり払うのか、ということです。わたしは美術も研究しているので、いろいろな絵を見ますが、ぱっと見て海と陸の境界線がすべて取り払われていると素直に思える絵に出会ったことはありません。プルーストは、船が地上の建築物の一部に見えるとか、船が海に浮かんでいるように見えないとか、教会が水上に浮かんでいるとか、沖合の船が街中を航行しているように見えると書いています(④420-421)。でも、じつはプルーストの文章を手に持って印象派の展覧会にいったことがありますが、こんなふうにはまず見えない。むしろ、プルーストが言葉で独自にこういう世界をつくっていると考えたほうがいいだろうと思います。
 ここでプルーストがおこなっているのは、本来は海に属するものを陸へと移し換え、陸に属するものを海に移し換えるという作業です。結果として得られるのは単なる錯覚の描写なのではないかと思われるかもしれません。知性がもたらす認識が正しいという前提にたてば、たしかに錯覚です。ただし、その前提を取り払えば、船は海に浮かび、教会は陸に建つ、という退屈な世界から逃げ出せる。そういう世界から解放されるような「目の経験」をぜひしてほしいというのが、プルーストの主張ではないでしょうか。
 エルスチールは、海を描くときも、ある部分は空のように、ある部分は陸のように描く。同一の海だというイメージに押し込めたりはしない(④423)。プルーストの言葉は、そんな世界が経験可能であると思わせてくれるのです。
 

「ミス・サクリパン」の肖像

湯沢 海の話から離れますが、「ミス・サクリパン」という女性の肖像画も同様です(④447)。「あいまいな目鼻立ちにこだわ」って描かれた人物が、男性かと思うと女性に見え、女性かと思うと男性に見える。対象のキャラクターがまったく固定できない状況にこだわった「プルースト的な」とらえかたです。そういう対象と出会うと、プルーストの言葉はまちがいなく活発になってくる。
坂本 念のため補足すると、「ミス・サクリパン」の肖像は、スワン夫人オデットの過去と、大画家エルスチールの恥ずかしい過去を明らかにする小道具でもあります。
湯沢 エルスチールの美学をまとめると、世界の表情が(海か陸か、女性か男性か)固定化されてしまう手前のところには、かならず、わずかな揺れやブレがある。そのみずみずしい運動感覚を伝えようとすること。言いかえると、世界があるものへとまさに誕生しつつある、そんな現場をとらえようとするのが、この巻のプルーストの特徴のひとつで、わたしがいちばん好きなところかなと思います。
 そんなふうにまとめると、アルベルチーヌを中心とする少女たちの描写にも一気につながります。プルーストによれば、ひとは年を重ねてゆくことでその表情が固着してしまうけれども、「そんな完全な固定化が生じる以前の」思春期の少女たちには対照的な特徴が認められる(④562)。それは「海を前にした人が見つめる自然の基本要素のたえまない再創造を想わせる」。この「たえず変化して不安定な」流動状態に目を向けることが、この巻では重要になっています。
坂本 ヴァントゥイユの場合もエルスチールの場合も、とらえがたいもの、名づけがたいものが、同時にわれわれのなかにある何かを呼びさます。この点がプルーストの芸術観のポイントですね。「印象派」と言えばわかったような気がしてしまいますが、それではプルーストが描いたものを印象派の既存のイメージに回収してしまうおそれがある。むしろ大切なのは、固定化される前の不安定な生成状態をとらえることのほうだ、と。しかもそれは、芸術だけでなく、海や少女にそそぐまなざしにもあてはまるわけですね。
 

恋愛における反転

坂本 それでは「ひと夏の恋の物語」でもある本巻のメインテーマ、恋愛にかんする参加者の質問をいくつか。まず、主人公「私」は、美しいけれども第一印象のよくない女性に恋をする傾向があるのではないか? ジルベルトもアルベルチーヌも最初は「品行方正」とは思えない(④334を参照)。ひょっとするとスワンのオデットに対する第一印象とも似ているのではないかとの指摘も届いています。
湯沢 花咲く乙女たちの場合は、文学好きで病弱でまだおばあさんにべったりの主人公にとって、自分とはまったく違う世界に住んでいるように見える彼女たちが絶対の憧れだった。「競輪選手の愛人」だと思いこんだりもしている。ところがエルスチールを通して知りあってみると、じつは彼女たちが知的な関心をもち、品行方正だとわかってがっかりする。ですから、オデットに対するスワンの第一印象の悪さとはちょっと違う。ただし第一印象を裏切られながらも、まったく関心を失ってしまうわけではない。そのとき物語のベースとなるのがエルスチールの美学です。主眼は、女の子たちの表情が捉えどころなく変わることに移っていく。第一印象と違うといえば、この巻のサン=ルーもおなじ。最初は冷酷に見えたけれど、いったん知りあうと非常に親切。こうしたひっくり返しはプルーストによく見られるもので、乙女たちもその一例です。 
坂本 ひっくり返しは、プルーストが登場人物を描く際のパターンですね。つぎはプルーストの伝記的な情報に結びつけた質問。小説の刊行当初から言われていたことですが、プルーストは自分の同性愛の体験を異性愛の体験に偽装して物語に取り込んだのではないか? という見かたがあります。花咲く乙女たちは、じつは花咲く美少年たちではないか? つまり、プルーストに女性は書けないのではないか? こんな否定的な読みかたを、どう思われますか。
湯沢 プルーストは同性愛者と言われているし、実際そうだっただろうとも思います。バルベックのモデルとなったカブールという土地で美しい少年たちに関心を寄せていたという点を完全に否定することはできない。ただ同時に、女の子たちとも楽しくつきあって遊んだという事実もあります。乙女たちの背景に美少年が潜んでいるとまで読む必要性は、あまり感じられません。
坂本 まったく同意見です。たとえば、鳥のようにさえずる少女たちの描写は、プルーストが少女たちの未分化な状態をリアルにとらえていると読めます。無理やり伝記的な情報に引きつける必要はないでしょう。
 

花咲く乙女たちとは何か

坂本 では最後の質問。ずばり湯沢先生にとって、花咲く乙女たちの一団とはどんな存在でしょうか。
湯沢 すこし軽い話をすると、大学時代、はたして本当に女の子たちは、乙女たちの初登場シーンのように見えるのかと、東大の駒場キャンパスで観察してみたことがあります。ただ、いかんせん絶対数が少ない。高校時代の友人に誘われて女子大に行ってみると、今度は右も左も女子の集団ばかりで、目移りしてよくわからずじまいだった。
 結局プルーストは本当に言葉の人であって、リアルなものにイメージを求めても、なかなかぴったりこない。むしろ、プルーストの言葉だからこそリアリティが生まれてくるのではないか。つまり、こういう女の子(あるいは男の子)を見たからこう書いた、という発想とは違う次元で考えたほうがいい。
 最後にお話ししたいのは、アルベルチーヌに焦点化された物語の展開と、集団としての少女たちのありかたとの関係についてです。主人公は、アルベルチーヌから「あなたのこと、好きよ」と言われたことを思い起こしながら(④580)、いまの自分は「何人もの娘たちに同時に分割された恋心の状態」にあり、なによりも大切なのは「娘たちの集団全体」なのだと言っています(④581)。
 
いちばん愛したいと願った相手はだれだったのか、それを言えといわれても私には無理だった。恋の初めには、その終わりのときと同じで、われわれは恋の対象にのみ執着するのではなく、恋の発端となる愛したいという欲望は(恋の終わりではそれが残してくれる想い出が)、置き換え可能なさまざまな魅力ーーときには単に自然や食い道楽や住まいの魅力ーーを宿す地帯を心地よくさまよい、たがいに調和の取れたどの魅力のそばにあっても恋心は違和感を覚えない。(④582)
 
湯沢 つまり、最初は少女たち全体に恋心が漂っていて、いったんアルベルチーヌに特化したのち、もう一度、少女たち全体に戻る。アルベルチーヌは空っぽで自分の欲望に応えてくれないし、アンドレは自分と似過ぎていて面白くない(④634)といって物語を終わらせてもよいところで、さらにプルーストはこう書いています。
 
それでもアンドレは、ロズモンドやジゼルと同じように、いやこのふたり以上にやはりアルベルチーヌの友だちであり、その生き方を共有し、その物腰をまねていて、最初に見かけた日には私にはふたりの区別がつかなかった。バラの何本もの茎のように海を背景に浮かびあがるのが主たるその魅力というべきこの娘たちのあいだには、私がまだ娘たちと面識がなく、そのうちのだれかが現れても例の小さな集団が近くにいると告げて私を感激させてくれたあの頃と変わりのない、不分明な状態が支配していた。(④636)
 
湯沢 まず少女たち全体に気持ちが向かい、アルベルチーヌへの恋が終わると、また少女たち全体に向かう。つまり恋物語がサンドウィッチの中身のようになっていて、その始まりと終わりが同じかたちで構成されている。それにくわえて、少女たちの表情がつぎつぎと変わる。たしかにアルベルチーヌは中心的な存在だけれども、大事なのはそこではなく、少女たちの輪郭が集団全体に溶け込んだ未分化状態と、ひとりひとりの表情が多様に変化していく様子の繰り返しにあるのではないか。恋物語だけでなく、恋の前と後に描かれてエルスチールの美学に通じる状態こそが重要なのだと思います。
坂本 オーソドックスな物語では、集団から恋愛対象となる個人が特定されると、その個人に話が集中する。でもプルーストの場合は、そこから未分化な集団に話が戻る。それは、まさにアルベルチーヌやアンドレ、あるいはジゼルといった個別の少女への集中よりも、少女たちの集団性、運動性、流動性が大切だからなのですね。プルーストは「星雲」というメタファーを使っていますが、個々の輪郭が溶け出して生じる物質的な感覚の集合体としての「花咲く乙女たち」がエルスチールの美学につながることがよくわかりました。
 
(後記)愛読者のあいだでは、「推し」がアルベルチーヌかアンドレか、はたまたジゼルかという議論もありえるところですが、サン=ルーの赤面シーンに勝てる「乙女」はいない気がします(④481)。いずれにせよ今回の話のポイントは、むしろ集団の未分化状態の重要性。いま目の前で誕生し変化しつつある世界の多様性にそそぐまなざし。メルロ=ポンティからプルーストに導かれたことが納得できるお話でした。第5回は、いよいよ『ゲルマントのほう』に突入。根本美作子さんをお迎えして、プルーストの「残酷さ」に迫ります。
 
講師:湯沢英彦(ゆざわ・ひでひこ)
明治学院大学文学部フランス文学科教授。主要著訳書に『プルースト的冒険ーー偶然・反復・倒錯』(水声社、2001年)、『クリスチャン・ボルタンスキー 死者のモニュメント』(水声社、2004年、吉田秀和賞)、『魂のたそがれーー世紀末フランス文学試論』(水声社、2013年)。フィリップ・ミシェル=チリエ『事典プルースト博物館』(共訳、筑摩書房、2002年)、「カイエ26」(序文、注解、転写))。
 
司会・レポート:坂本浩也(さかもと・ひろや)
立教大学教授。著書に『プルーストの黙示録——『失われた時を求めて』と第一次世界大戦』(慶應義塾大学出版会、2015年)、訳書に、ピエール・ブルデュー『男性支配』(坂本さやかとの共訳、藤原書店、2017年)など。ツイッター「新訳でプルーストを読破する」を更新中。
 
編集協力:小黒昌文(おぐろ・まさふみ)
駒澤大学准教授。著書に『プルースト 芸術と土地』(名古屋大学出版会、2009年)、訳書(澤田直との共訳)に、フィリップ・フォレスト『夢、ゆきかひて』(白水社、2013年)、『シュレーディンガーの猫を追って』(河出書房新社、2017年)など。
 
 

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