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それぞれの『失われた時を求めて』 

それぞれの『失われた時を求めて』第1巻『スワン家のほうへⅠ』

 
 
 
講師:吉川一義、司会:坂本浩也
2017年10月21日、立教大学池袋キャンパスにて
 
   記念すべき第1回は、訳者の吉川一義氏ご自身をゲストに迎え、翻訳までの道のりと、翻訳者としての経験をうかがいながら、第1巻『スワン家のほうへ Ⅰ』の多面的な魅力に迫りました。
 
  なお、このイベントレポートは、当日のセミナー全体の忠実な文字起こしではなく、読みやすさを考慮しながら(ときには大胆に)要約・省略・補足・再構成したものであることを、おことわりしておきます。引用はすべて吉川一義訳、岩波文庫。丸囲み数字が巻、アラビア数字がページを指します。
 (文責:坂本浩也)

 翻訳の舞台裏

坂本 吉川先生は、プルーストの草稿研究のパイオニアで、さらにはプルーストと絵画の関係についての膨大な研究業績がおありですが、今回は翻訳者としてのお仕事について、うかがいます。セミナーの参加者から事前に寄せられた質問のなかに、具体的な翻訳作業について知りたい、第1巻で特に苦労された箇所があれば教えていただきたい、という声がありました。
吉川 京都大学を定年退職後は、学会に呼ばれる場合などを別にすれば、ほぼ翻訳に専念しています。家人から見ると、どうして朝から晩まで机に向かっているのか、と不思議なようですが、やっている人間からすると非常に面白い。もちろん今までもプルーストを読んでいたつもりですが、翻訳するとなると、すべて一字一句わかるように読まなくてはならず、発見が多い。見かけは机に座っているだけですが、頭のなかは興奮状態にある。
坂本 第1巻の訳者あとがきに「知的人生こそもっとも波乱万丈な人生である」というプルーストの言葉が引用されていますが、これを翻訳者としても実感していらっしゃるのですね。では、第1巻でいちばん苦労された部分はどこでしょう?
吉川 訳したってどっちみち原文とは違うじゃないかという人がいますが、文学のいちばん重要な点は、印刷してあるものではないんです。それぞれ読者が自分の頭のなかに思い浮かべている内容、それが文学です。読者一人一人にプルーストの世界がある。だから翻訳でもプルーストの真髄は伝わる、という信念と希望をもって訳しています。ひとつだけ選んで、と言われますが、すべてが苦労。とはいえ、やはり長い文章をそれなりに日本語でも息の長い文章に訳すのが難しい。第1巻では、スワンさんの来訪の際に木戸の鈴が鳴る場面。原文のフランス語の構文と、翻訳の日本語の構文を比べてみるとわかるのですが、ぜんぜん違います。単語の出てくる順番が同じになるように工夫してあるんです。
 
夜、家の前の大きなマロニエの下で、私たちが鉄製のテーブルを囲んで座っていると、庭のはずれから聞えてくる呼び鈴が、溢れんばかりにけたたましく、鉄分をふくんだ、尽きることのない、冷んやりする音をひびかせる場合、その降り注ぐ音をうるさがるのは「鳴らさずに」入ろうとしてうっかり作動させてしまった家人だとわかるのだが、それとは違って、チリン、チリンと二度、おずおずとした楕円形の黄金(きん)の音色が響くと、来客用の小さな鈴の音だとわかり、皆はすぐに「お客さんだ、いったいだれだろう」と顔を見合わせ、それでいてスワン氏でしかありえないのは百も承知なのだ。(①45-46)

Les soirs où, assis devant la maison sous le grand marronnier, autour de la table de fer, nous entendions au bout du jardin, non pas le grelot profus et criard qui arrosait, qui étourdissait au passage de son bruit ferrugineux, intarissable et glacé, toute personne de la maison qui le déclenchait en entrant « sans sonner », mais le double tintement timide, ovale et doré de la clochette pour les étrangers, tout le monde aussitôt se demandait : « Une visite, qui cela peut-il être ? » mais on savait bien que cela ne pouvait être que M. Swann […]. 
 
吉川 フランス語原文では、庭にいる「私」の家族の認識の順序にそって、単語が出てきます。翻訳の日本語でも、その順番にそって言葉が出てくるように、構文を工夫しているわけです。
坂本 これは大学の授業で訳読するときとはまったく違って、フランス語原文を読んだときのイメージを、日本語の読者の頭にそのまま再現するような超絶技巧だと思います。では、べつの参加者からの質問。外国語を日本語に訳すとき、日本語の主語(一人称の代名詞)の多様性のせいでよく悩むのですが、吉川先生は、どのように区別をされていますか?
吉川 語り手は「私」という漢字、オデットやアルベルチーヌは蓮っ葉っぽいので「あたし」、ヴェルデュラン夫人は、気取っているので「わたくし」とひらがなにして、ざあます調にしてあります。ただし、夫と話すときはただの「わたし」になる。気取る必要がないので。スワンが嫉妬に荒れ狂うときは「俺」。シャルリュス男爵がいばっているときは「わし」。ちなみに、現在の翻訳では「彼」「彼女」というのは一切使っていません。なかなか難しいですが、そのおかげで自然に読める日本語になっているのではないかと思います。
 

辞書と図版

坂本 吉川先生は白水社の『ル・ディコ』というフランス語の辞書の編纂もなさっていますが、『失われた時を求めて』に出てくる「仏単語」で印象深いもの、重要なものはありますか? という質問も届いています。
吉川 重要なのは、cocotteですね。第2巻で出てくるオデットがそうです。私の訳では「粋筋(いきすじ)の女」と訳しています。高級娼婦と訳されることもありますが、そうすると、高いお金を払いさえすれば買える娼婦だと誤解されてしまう。むしろ日本の芸者というか、芸や教養を身につけた女性で、特定のパトロンがいるのです。ほかに、どんな辞書にも出てこない単語もあります。transvertébrationという単語で、第1巻の冒頭、主人公「私」が寝室で幻灯を見る場面で使われています。馬に乗ったゴロという悪者が、カーテンや壁の上に映し出されます。

家族の者が幻灯器を動かすと、ゴロの馬はひきつづき窓のカーテンのうえを進み、襞の山のうえで膨らんだり、襞の谷底に降りたりするのが手にとるように見えた。ゴロの身体自体、馬の身体と同じで超自然のエッセンスで出来ているから、たとえいかなる障害物に出会い、いかなる邪魔者に遭遇しても、なんとか折り合いをつけ、相手を骨格として内部にとりこんでしまう。それはドアの取っ手でも同じで、すぐに相手に順応し、なんとかそのうえゴロの赤い服や青白い顔を浮かびあがらせるのだが、そのように相手を骨格としてとりこんでも、その顔はいつも同じように高貴で、憂鬱そうで、いっこうに困った気配はなかった。(①38)

吉川 かなり意訳したんですが、「骨格にとりこむ」という部分ですね。原文のtransvertébrationのなかにはvertèbresつまり「椎骨」、簡単に言えば「背骨」という単語が含まれています。transは移すという意味で、transplantation、移植という単語もあります。この幻灯の場面では、取っ手を自分の背骨にする、という意味になります。どうしてプルーストはこんな辞書にものっていない単語をつかったのか。椎骨といえば、レオニ叔母の額のうえに「まるで茨の冠のとげや数珠(ロザリオ)の玉のように椎骨が浮き出ていた」という描写があります(①127)。アンドレ・ジッドがこんなおかしな文章を書く人は新フランス評論からは出版できない、といってことわったという伝説がある場面です。もしかすると、これともつながっているのかもしれません。
坂本 岩波文庫版プルーストの特徴は、吉川先生が今なお続けておられる緻密な実証研究の成果として、われわれ研究者もみたことのないような貴重な図版が掲載されていることだと思います。図版を選定するうえで、心がけていらっしゃることは?
吉川 できるだけ本文に即して、プルーストが参照していた図版をあげるようにしています。たとえば、これは図版がなければほとんど理解不可能だと思うのですが、語り手がヴェネツィアの写真と比較しながら言及する、ティツィアーノによるラグーナの不正確なデッサン(①図7)。これはいったいなんなのか。ティツィアーノの有名な画集はいろいろありますが、どこにも出てきません。じつはこれはプルーストが愛読していたラスキン全集に載っている図版なんですね。もうひとつ、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の損傷前の状態をとどめるラファエル・モルゲン作成の版画(①図6)というのが出てきますが、これは20世紀の初めに出版されていたローランス版「大画家シリーズ」、私が仕事で50冊くらい集めて持っているシリーズの、ダ・ヴィンチの巻に載っています。プルーストは、おなじ本に収録された違う図版に『囚われの女』で言及しています(⑩図20)。あと、10巻には男子公衆トイレが出てきます。シャルリュス男爵はこのまんなかに1時間も入っているのですが、それには深い理由がある。岩波文庫に収録した図版(⑩図16)を見るとわかります。おたのしみに。
坂本 翻訳の仕事というのは横書きを縦書きになおすだけではない。翻訳と実証研究が同時進行でおこなわれていて、その最新の成果が反映されている、驚くべき翻訳ではないかと思います。


リアルタイムの体験は重要ではない

坂本 それでは第1巻の内容について、参加者からの事前質問にお答えいただきます。まず、有名なプチット・マドレーヌのエピソード(①116)について。主人公「私」は文学志望ですが、このエピソードと文学の問題に関係はありますか? という質問。じっさい、『失われた時を求めて』とは、主人公が作家になりたいといいながら、ぜんぜん仕事にとりかからない物語です。
吉川 マドレーヌの挿話ではなく、すこし先、レオニ叔母さんのハーブティーの描写を見てみましょう(①126)。こちらが「私」の思い出す、もともとの体験です。本では後に出てきますが、時間の系列では前のこと。このときのリアルタイムの体験は書いていないのが重要です。リアルタイムの体験は、言ってみればどうでもいい。すぐに忘れてしまったからです。ここで問題になる感覚は味覚と嗅覚、もっとも原始的な感覚で、すぐ忘れてしまいます。聴覚と視覚がいちばん知的で抽象的ですが、味覚と嗅覚は、すぐに忘れるからこそ、無意識の底に残っている。リアルタイムの感覚は、プルーストにとっても我々にとっても重要ではない。回想として浮かぶものこそが重要なのです。ひとつ例をあげましょう。
 
あのロワゾー・フレシェという古い旅籠(はたご)では、地下の換気口から料理の匂いが立ちのぼっていたが、その匂いは今もなお私の心に、変わることなく間歇的にふつふつと立ちのぼってくる。(①120)。

吉川 このワンセンテンスの前半にはリアルタイムの描写、後半には思い出が書いてある。だからこそ読者にとって印象的なんですね。感覚が、精神のなかに、言葉によって想起され、イメージとして浮かぶことが重要。マドレーヌの挿話はそれを表現しています。心のなかの出来事に「精神の光を当てる」こと(①113)。ここにプルーストの文学の鍵がある。マドレーヌの感覚を言葉にして、精神が消化できるようにする、そうしてはじめて読者の心に消化できるものになる。感覚、リアルタイムの現実はなんの感動も与えないのに、文学は感動をあたえます。たとえば、フランソワーズがお産で苦しんでいる下働きの女中をいじめる場面。女中のお産の苦しみは無視するのに、医学書を読んで泣いていたという記述があります(①273)。この医学書でさえ文学である。文字に記されて、それを読んだフランソワーズの脳裏に浮かぶイメージこそ真実、リアルタイムの女中の苦しみは感動をもたらさないわけです。へんだなあ、と思うかもしれませんが、それがプルーストの文学の要諦ではないかと思います。
 

人間には二面性がある

坂本 次の質問は、ヴァントゥイユ嬢と女友達のサディスムのエピソード、刊行当時、道徳的な見地から削除したほうがいい、という指摘も受けた場面について。亡くなった父親の肖像につばを吐くことによって快楽をえる現実の場面と、それにつづく比喩のなかで逆転があるのはなぜか、という鋭い質問です。現実の場面(①351)では、女友達がヴァントゥイユ嬢に向かって、写真に唾を吐けと言っているのに、次のページでは、「娘だけを生き甲斐にしてきた父親の肖像写真に、当の娘が女友だちをそそのかしてつばを吐かせるといった場面」と書かれています。
吉川 これは、ふたりのあいだでしばしばおこなわれた冒瀆の行為です。じつは場面の最初で、写真がテーブルの上にわざわざ目立つようにおいてある。そこでヴァントゥイユ嬢のほうが、「あらいやだ、お父さんの写真が私たちを見ているじゃないの」と言う。つまり、唾を吐きなさいとは言っていないけれど、わざわざ気がつくように仕向けています。これは、のちの小説の重要な伏線になる場面ですが、それだけでなく、ヴァントゥイユ嬢は心優しい女性だという点にも注意が必要です。心優しいのに、自分の快楽のために細工をする。人間には二面性がある。
 
ヴァントゥイユ嬢のような種類のサディストは、きわめて純粋な心情の持主であり、生来の美徳を備えているから、官能の歓びさえ悪いものであり、悪人の特権だと考えてしまう。そこでそんな歓びにしばし身をまかせる段になると、みずから悪人の皮をかぶり、それを共犯者にもかぶらせようとする。そうすれば自分の潔癖で優しい心から一時的に抜けだし、非人間的な快楽の世界に入りこむ幻想が抱けるのだ。そこで私は、娘にはそうするのがどれほど不可能だったかを見て、どれほどそうなりたがっていたかを理解した。(①351)

吉川 これがプルーストなんですね。相反するものがせめぎあっている。ヴァントゥイユ嬢も、自制心と快楽に走る心、両面がある。一瞬ごとにせめぎ合う。こういう点がありとあらゆる人物に出てくる。したがってプルーストの人物には、これが善人、これが悪人とはいえない。幾重にも複雑な実態をひとりの人物が担っている。主人公のお母さんやおばあさんですら、そうなのです。
坂本 プルーストの人物は二面性や多面性が特徴だということですね。それでは、第1巻で、ひとりだけ注目に値する人物をあげるとすれば?
吉川 これはやっぱりルグランダンですね。たぶん多くの人はレオニ叔母さんとかフランソワーズとかを選ぶと思うんですが。ルグランダンは幼い主人公を夕食に招きます。はっきりとは書いてないんですが、少年愛を秘めている人物です。おまけに「革命で貴族をみんなギロチンに欠けなかったのは間違いだ」と言って貴族を批判しているくせに、じつは貴族に憧れるスノッブで、妹をノルマンディーのカンブルメール家という貴族に嫁がせていて、それを隠している。主人公がおばあさんとノルマンディーに滞在することになって、お父さんがルグランダンに「あちらにお知り合いがいらっしゃらないか」とたずねる場面があります(①290-293)。ルグランダンは、「あちらでも、どちらでも同じですが、私はどなたとも知り合いですし、またどなたも存じあげないのです」と言って、けっして妹が近くに住んでいることをなかなか打ち明けず、はぐらかし続けますーーこの「あちらでも、どちらでも同じですが」というあたりがじつは翻訳者の工夫なのですがーー。このあと擬人法をおりまぜた美文調が続きます。

ものはたくさん知っていますが、人はあまり知らないのです。でもあちらでは、もの自体が、たぐいまれな繊細なエッセンスでできた、人生に幻滅したにちがいない人物に見えてしまうのです。ときに断崖のうえでお目にかかる小さな城館が道ばたに足をとめ、おのが悲嘆をなおもバラ色に染まる夕べと引き比べるのです。ときあたかも黄金色の月がのぼり、玉虫色の水面に航跡をひいて戻ってくる小舟は、マストに夕焼けの炎を想わせる長旗をかかげ、万国旗のような暮色を身にまといます。(①292)

吉川 これはいかにも美しい立派な文章に見えますが、ここにはプルーストの批判が込められているんですね。プルーストの理想の文学はこれではない。ルグランダンはあとでも出てきますが、コンブレーほど生彩を持って描かれている場面はありません。ルグランダンはプルーストにおける三つの重要なテーマを担っています。同性愛、スノビスム、それから文学です。面白おかしい人物に描かれていて、読者も最初は笑いながら読んでいるだけなのですが、じつはプルーストの重要なテーマが潜んでいるのです。
坂本 では最後に、第2巻を読むうえでのアドバイスをお願いします。
吉川 うってかわってパリの社交場面で、コンブレーの隣人だったスワンの過去の、おどろおどろしい嫉妬が描かれます。プルーストはすべてズームアップの手法です。先ほど会場から、[この話の前におこなわれた参加者同士の]ディスカッションの感想として、主人公は繊細すぎてとうてい現代では生きていけない、という声がありましたが、なぜそんなことを描いたのか。ふだんわれわれは嫉妬でもなんでも、暴走しないように按配している。でも文学のなかでは、日常生活への支障を考える必要はないので、ふつうの人が気にも留めないありとあらゆる感情をズームアップできる。それだけを見るとうんざりするかもしれないけれど、それも小説の一面です。第2巻も第1巻と同じで出だしが難しい。前口上が長いのですが、でもあるていど進むと読めるようになります。
坂本 第2巻は話がひとつで第1巻より読みやすくなりますね。今日は長時間ありがとうございました。
 
          *        *       *

(後記)開始時刻には定員105人の教室が満席。企画者は漠然と「はじめてプルーストを読むかた」の参加しか想定していなかったのですが、ほぼ半数は既読者で、すでに全巻通読済みの熱心なプルーストファンもいらした模様。吉川先生のお話からは、翻訳の背後にある膨大な研究の蓄積だけでなく、お人柄とユーモアがにじみでて、時間を延長してなお、アンケートには「ずっと聞いていたかった」という感想が多数寄せられました。このイベントレポートはダイジェスト版です。セミナー最終回、第14回にもご登壇いただくことになっていますので、それまで参加者の皆さんと楽しく読み続けたいと思います。第2回は「粋筋の女」とスワンの関係をめぐって、工藤庸子先生に語っていただきます。
 
 
講師:吉川一義(よしかわ・かずよし)
京都大学名誉教授。2010年、岩波文庫から『失われた時を求めて』個人全訳を刊行開始(全14巻、既刊12巻)。元日本フランス語フランス文学会会長(2009-2013年)。日本プルースト研究会会長。フランス政府・教育功労章オフィシエ(2010年)、フランス学士院・フランス語フランス文学顕揚賞(2010年)、日本学士院賞・恩賜賞(2012年)。著書に『プルースト美術館 : 『失われた時を求めて』の画家たち』(筑摩書房、1998年)、『プルーストの世界を読む』(岩波書店、2004年)、『プルースト「スワンの恋」を読む』(白水社、2004年)、『プルーストと絵画 : レンブラント受容からエルスチール創造へ』(岩波書店、2008年)、翻訳に、モーリス・バレス『グレコーートレドの秘密』(筑摩書房、1996年)、ジャン゠イヴ・タディエ『評伝プルースト』(筑摩書房、上下2巻、2001年)、プルースト『失われた時を求めて』(岩波文庫、全14巻、既刊12巻、2010年〜刊行中)、『現代フランス語辞典 Le dico : dictionnaire français-japonais』白水社、1993年(2003年から『ディコ仏和辞典』と改称)(共著)、Proust et l’art pictural, Honoré Champion, 2010 ; Index général de la correspondance de Marcel Proust : d’après l’édition de Philip Kolb, Presses de l’Université de Kyoto, 1998(書簡集の索引監修)など。 
 
司会・レポート:坂本浩也(さかもと・ひろや)
立教大学教授。著書に『プルーストの黙示録ーー『失われた時を求めて』と第一次世界大戦』(慶應義塾大学出版会、2015年)、訳書に、ピエール・ブルデュー『男性支配』(坂本さやかとの共訳、藤原書店、2017年)など。ツイッター「新訳でプルーストを読破する」を更新中。

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