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それぞれの『失われた時を求めて』 

それぞれの『失われた時を求めて』第2巻『スワン家のほうへⅡ』

 それぞれの『失われた時を求めて』第2回『スワン家のほうへⅡ』|新訳でプルーストを読破する
 
 
 
講師:工藤庸子、司会:坂本浩也
2017年12月9日、立教大学池袋キャンパスにて
テキスト:『失われた時を求めて』第2巻「スワン家のほうへ Ⅱ」岩波文庫、2011年
 

「スワンの恋」は恋愛小説か、「変」愛小説か?

 前回のセミナーの最後で、重要単語としてあがったのがcocotte。たいてい「高級娼婦」と訳されますが、吉川訳では「粋筋の女」と訳されています。フランス文学の伝統ともいえる「ココットもの」のーー最後の?ーー傑作、コレットの『シェリ』の名訳で知られる工藤庸子先生をゲストにお迎えし、「スワンの恋」の特異性を解説していただきました。
 
 このイベントレポートは、忠実な文字起こしではなく、読みやすさを考慮して(ときには大胆に)要約・省略・補足・再構成したものであることを、おことわりしておきます。引用はすべて吉川一義訳、岩波文庫。丸囲み数字が巻、アラビア数字がページを指します。
(構成:坂本浩也)
 

声の小説

坂本 『失われた時を求めて』は、19世紀小説の集大成にして、20世紀小説の先駆と見なされるわけですが、フローベールを中心に、最新作のスタール夫人にいたる多様な作家を論じ、コレットを中心に多くの作家を翻訳してこられた工藤先生にとって、プルーストとは、どのような存在ですか。プルーストとのつきあいを簡単に振り返っていただけますか?
工藤 私は19世紀の「姦通小説」の専門家を称していて、なおのこと「姦通小説」ではないプルーストに興味があります。昔は「プルーストは私の愛人で、19世紀小説は亭主みたいなもの」と、蓮っ葉な言いかたをしていたのですが、今は、プルーストは「永遠の友」かなという気がしています。何度か原典で読んでいますが、それにくわえて、家事をしながらフランス語の朗読で親しんでいるのが、私のつきあいかたの特徴だと思います。
 プルーストは私にとって、声の小説です。ところで19世紀の小説は、意味のあるセリフ、決定的なことを書くわけですが、「スワンの恋」に出てくるヴェルデュラン家の会話って有意義ですか? どうでもいいようなことしゃべっているように思いません? すこし先で話題になる「ゲルマントの才気」も、ふつうの意味ではおもしろくない。それが、なぜ肉声で発せられたときにエスプリ(才気)といわれるのか? この肉声という切り口がおもしろいのです。ほかにも、ジルベルトの名前が放物線を描いて芝生に着地する場面では肉声のマテリアリテ(物質性)というのか、声がモノになるというほとんど神秘的なプロセスを言葉にしてしまっている(②451)。これは19世紀小説ではありえない。カンブルメール老夫人が話しているときの「唾液」のしつこいほど長い記述も、やはりありえない(⑧487)。
 
私のそばを通りすぎたとき、[べつの少女が呼びかけたジルベルトの名前]は、この禿げた芝草の、枯れた芝生の一部であると同時にバドミントンに興じるブロンド娘の午後のひとときをも示す地点に[中略]、ヘリオトロープ色の小さなみごとな一筋の光を投げかけると、それは反射光と同じで触れることはできないものの絨毯のようにふわりと芝生のうえに置かれ、その上をいつまでもぐずぐずとさまよい歩く私の足取りには、満たされない冒涜の想いが込められていたかもしれない。(②451)
 
工藤 ところで坂本さんの修士論文のテーマは、プルーストと電話でしたよね。電話が声と肉体を切断するという話。
坂本 声はふつう肉体の現前と結びついているわけですが、電話の技術によって肉体と切り離されてしまうという話をしました(指導教授は工藤先生でした。第5巻の祖母との電話の場面を参照)。
工藤 じつは今回ひと月かけて、『失われた時を求めて』を全篇、聞き返したというか、聞き流してみたわけです。そうするとまた違うプルーストが見えてくる。
坂本 プルーストの同時代人が、まるで会話がマイクで録音されていたかのように生き生きとしていると書いていて、昔、フランス語がろくに読めないころは全然ピンとこなかったのですが、朗読を通して、声の現前として聞くと、それもわかるような気がします。
工藤 私は最近(スタール夫人論と関連して)サロンの問題を考えているのですが、サロンの会話というのは、話をしている人々の合意、暗黙の了解があるから、おもしろいことになっているというのが、じつはおもしろさのポイントだと思う。朗読を聴くと、その会話に参加している複数の人々の集団、つまり「共同体」に引き込まれる効果があるのかもしれませんね。
 

「お気に入り」と「感情移入」

坂本 先生は以前、「スワンの恋」の嫉妬の描写を「見事な出来栄え」だとは思うけれど「本当にその通り」とは思わない、しみじみ「本当にその通り」と思うのは、母と祖母と女中フランソワーズが構成するブルジョワ家庭の生活空間にかかわっている、とお書きになっています(「それぞれのプルースト」、『砂漠論 ヨーロッパ文明の彼方へ』所収)。参加者から「先生の気に入りの作中人物は?」という質問が届いているのですか、やはりこの女性3人でしょうか?
工藤 私のプルーストの読みかたは10年ごとに変わっています。母と祖母と女中に現実味を感じると書いたときとは違って、今は死が目前に迫っているという感覚が新鮮で切実です。ここでは、お気に入りの作中人物はだれか、という質問を参加者のみなさんに送り返したいと思います。スワンがお気に入りという人は? (会場を見回す) 意外と手があがらないですね。
坂本 作家のフィリップ・フォレストは、『スワンの恋』を世界最高の恋愛小説と見なしていて、「私はスワンだ」と言い切るほど思い入れがあるようですし、男性読者にかぎらず女性読者でも、スワンに感情移入するのは定番だと思うんですけれどね。
工藤 坂本さんはどうなのですか?(会場笑)
坂本 昔はもちろんスワンに感情移入する読みをしていたと思いますが……。
工藤 お気に入りと感情移入は違いますよね。
坂本 お気に入りは、コタール夫人ですね。(会場から「あああああ」と声)
工藤 なるほど、なかなかいいですね。ではスワンに感情移入する人? (会場を見回す) だいぶ増えましたね。オデットに感情移入する人? (会場を見回す) きわめて少ないということは、何か意味がありそう。
 

「ココット小説」としての「スワンの恋」

坂本 ではその違いをふまえたうえで、スワンとオデットの関係を考えるとして、まずは「粋筋の女」を主人公とする《ココット小説》の系譜を解説していただきましょう。
工藤 コレットに『シェリ』という小説があります。元ココットの女性が美青年を愛するという話で、青年が結婚して二人の仲が終わる小説なのですが、レアというヒロインは、美しいだけでなく非常に聡明な女性なのです。オデットは、聡明ではないですよね。だからといって愚かですか? そのあたりは難しいですよね。
 娼婦の小説というのは、19世紀小説の大きな伝統です。典型的なのはデュマ・フィスの『椿姫』。19世紀の《娼婦もの》では、純情な青年が美しい娼婦に憧れる。そして娼婦のほうも青年の愛にほだされて、ついに改心してしまう。これが基本パターンです。18世紀の小説『マノン・レスコー』も、厳密には娼婦ではないですけれど、底なしの娼婦性を秘めたヒロインという設定で、やはり男の純粋な愛情にほだされて、死ぬときに改心するわけです。ところがプルーストの小説は、《ココットもの》でありながら、女が改心することはないし、だいいち堕落しているかどうかもわからない。スワンはオデットが本当に堕落しているのではないかという妄想に突き動かされて、それこそ自殺したいと思うほど、異様に追いつめられるのだけれど、本当のところは? 真実がはっきり示されることは、結局ないのですね。
 少し脱線しますけど『椿姫』も『マノン・レスコー』も、女の死体が重要な役割を果たしています。『椿姫』では、墓を移動すると称して女の死骸を掘り出すんですよ。『マノン・レスコー』では、砂漠で死んだ女を男が自分だけで埋葬する。改心した女が愛のために死ぬという経緯が、結論の真実として可視化されなければならないのです。
 でもプルーストは愛の証みたいなものを見せない。したたかなのです。オデットが本当に娼婦性を秘めているのかどうかもはっきりしないけれど、そもそもスワンが純真じゃないのですね。これが今日のポイント。じつは私のお気に入りも、もちろんスワンです。共感はないのですけれど、本当におもしろい。スワンは遊び人で、その点は最初から強調されています。遊び人の男とプロフェッショナルであるらしい女とが組み合わせになっているのなら、勝手に遊べばいいじゃないですか? それをドラマにしてしまうのがすごい。この発想は19世紀にはないわけです。『ボヴァリー夫人』の場合は、娼婦ものではないけれど、遊び人という役を演じるのはロドルフで、ロドルフは遊んだら健康的に女を捨てる。ロドルフとスワンの違いを考えるとおもしろいかもしれません。
 

「偶像崇拝」的な恋愛

坂本 「スワンの恋」の特徴として、芸術の趣味が女性への愛情と結びついていることがあげられます。スワンは相手の容貌や個性ではなく、自身の芸術趣味によって、もともとはタイプではなかったオデットに惚れてしまう。具体的には、ボッティチェリの描いたチッポラとの類似によってオデットに魅力を感じ、ヴァントゥイユのソナタが、ふたりの「愛の国歌」、愛のテーマソングになる。このような態度をプルーストは「偶像崇拝」と呼んで、厳しく糾弾した、と「訳者あとがき」に書かれています(②532)。この点について疑問を抱いたかたがいて、「スワンは作者自身も共感できる人物、語り手の「私」と同様、作者の分身に見えるのに、批判・糾弾するとはどういう意味か?」という質問を寄せられました。
工藤 吉川さんは芸術家小説としてプルーストを読むという立場から「偶像崇拝」の問題を掘り下げたわけですね。その観点からすると、その幻想がはじけとんだのでスワンは恋から醒めた、という自己批判的な物語になりそうですが、吉川さんの研究の繰り返しになってもつまらないので、今日はほかの読みを提案したいと思います。
坂本 念のため補足しておくと、スワンはヴァントゥイユのソナタを聴くことで、じぶんが芸術への愛と女性への愛を混同していたことに気づくわけですね。一瞬、芸術独自の真実への扉が開く、でも芸術の探究に向かわずに、けっきょくオデットと結婚してしまう。小説の先のほうでは、より芸術の探究を深める方向へと「私」がむかうので、スワンはあくまで偶像崇拝の段階にとどまった存在として批判されているといえます。
工藤 以前フェリス女学院で教えていたとき、学生から、スワンがなぜ結婚したのかわからない、恋愛心理と言われても納得できません、という反応がありました。スワンが芸術の世界にいかないことと、彼が結婚してしまうことは論理的には結びつかないでしょう?
坂本 プルーストの小説では、芸術は社交や交際をたった孤独者、独身者のものだと思います。
工藤 つまり、芸術家にならない人間は結婚してもよい、ということ。(会場笑)
 

「真実」の探求

坂本 芸術と恋愛の話の延長線上で「真実」を扱ったすばらしい場面があります。嫉妬したスワンが夜中にオデットの鎧戸を叩くと、見知らぬおじさんが出てくるという(②204-205)。この場面では、嫉妬するスワンが「知的な喜び」や「真実探求の情熱」を味わっていると書かれていますが、その点は芸術作品に対する態度と重なるのではないでしょうか? という質問も届いています。
 
もしかするとこのときスワンが快いまでに感じたのは、疑惑や苦痛の鎮静とはべつの、知的な喜びだったのかもしれない。恋に落ちてからというもの、スワンがものごとにふたたび昔日のような甘美な関心をそそられたのは、ものごとがあくまでオデットの想い出に照らし出されていたからだったのにたいして、今や嫉妬のおかげで勤勉だった青春時代のべつの能力、すなわち真実探求の情熱がよみがえったのである。(②204)
 
工藤 これは真実の探求なのだと、いきなりスワンは考えはじめるわけですが……、たかが「のぞき見」でしょう? 健全な読書としては、いくらプルーストの作中人物だからといってそれほど尊敬する必要はないわけで、男ってこういう勝手な理屈を言うわけよ、と皮肉な距離をとりながら、読み進めていい。ところが、鎧戸の向こう側にあるものが、最終的には中世の写本みたいに見えてくる。その探求している精神の緊張に次第にスワンが酔ってくるわけ。
 
命を投げ出しても正確に復元したいと思ったありのままの状況が、光の筋のついたこの窓の背後に読みとれるのである。貴重な写本が、黄金色に彩色された表紙ーー写本を調べる学者ならその芸術的豊饒さ自体に無関心でいられないほどの写本の表紙ーーの下に読みとれるのと同じである。スワンは、自分が夢中になっている真実を、はかなくも貴重で、半透明の物質からなる、かくも熱くて美しいこの一部きりの写本のなかに読みとることに、えもいわれぬ快感を覚えた。(②206)
 
工藤 黒い鎧戸の向こうに光の筋が見えるーーたしかにイメージ自体は非常に美しい。そのうちこれは真理探求の純粋なるしぐさに完全にダブるのだという陶酔をおぼえる。ここは恋愛小説が芸術家小説に一体化するところでしょうね。でも真実は見えたものとしては絶対に開示されないのが、プルーストの作品です。光源、つまり芸術の真実に近づいたというプロセスだけが描かれて終わるわけですね。
坂本 真実といえば、スワンの心理がはっきりと語られ、精緻に分析されるのに対して、オデットの内面は直接的には語られません。だからオデットが何を考えているのか、読者にはよくわからない。オデットの態度の変化は、「追いかけられるより、追いかけるほうが好き」というタイプの心理にもとづいていると解釈してよいのでしょうか?ーーという質問もきています。
工藤 オデットは一応プロフェッショナルですからね。わからなくしておかないとプロフェッショナルというのは成り立たないのかもしれない。質問者のかたは、オデットに感情移入して読めているような気もしますが。
 

「所有」とは何か?

坂本 プルーストの恋愛観におけるキーワードとして「所有」があげられます。恋が生まれるのはいつかといえば、「相手を所有したいという非常識で痛ましい欲求」、「この世の法則からして充たすのも不可能で癒すのも困難な」、「不安な欲求」が特定の存在に向けられるときであるーーこれは「まるで黄泉の国のような」大通りの暗闇でスワンがオデットを探し回る場面に書いてある言葉です(②114)。この夜ふたりは「カトレアをする」わけですが、その「肉体所有の行為」についても、言葉だけで「そもそも何も所有しないのだが」とプルーストはしっかりことわっています(②120)。「スワンの恋」の読みどころは、「他人[つまり女性]を所有するという、あくまで不可能な欲求」(②386)に突き動かされている男性の嫉妬を描ききることに見えるわけですが、男性の参加者から、女性読者の観点を知りたい、というリクエストがありました。わたし個人も、この男性が女性を「所有」するという強固な図式をどう受けとめてよいのか、やや当惑します。
工藤 フェミニズムの観点からすると抑圧的な性差の構造だということなるわけですが、それではプルーストの読解が全然おもしろくならない。この話題、いくらでも考える素材はありそうですが、まず19世紀の「姦通小説」の「所有」と、プルーストの小説の「所有」は違うと思います。「姦通小説」では、まず前提として夫が妻を所有している、法的に夫の権利が保証されているわけです。結婚した女には、未成年と同様に法的人格はありません。この婚姻制度にもとづいて「姦通小説」というのが成り立っている。青年が他人に「所有されている女」(=人妻)に憧れて……、という構図自体が、あらかじめナポレオン法典のなかに書き込まれており、ここでの「所有」は、市民社会における「所有権」という法的概念が基盤になっている。でも、プルーストの場合は、遊び女でしょ? ココットでしょ? ココットの場合、所有されることが職業ではないですか? 倒錯的ですよね、問題設定が。所有されることで報酬がもらえるわけですから、19世紀の「姦通小説」とは権利をめぐる構造がぜんぜん違う。おまけにスワンが純情な青年ではなくて遊び人だと、最初からけっこう執拗に書いてある。青年と人妻ではなく、遊び人とココットの組み合わせというのは、法的関係という意味では、男女の両方が「脱構築」されているわけ。だからとっても変なのですね。やっぱり変だというのは天才の証です(笑)。
 もうひとつつけたせば、19世紀の「姦通小説」の人妻というのは、男にとっての「財産」なんですね。『ボヴァリー夫人』でも『感情教育』でも『谷間のゆり』でもそうです。ハンナ・アーレントは『人間の条件』で「所有」propertyと「富」wealthをわけて考えなくてはいけない、混同してはいけないと言っていますが、プルーストはこの差異を明確に意識していると思う。貢いでいるのはスワンのほうで、しかもオデットと結婚したとたんにスワンの社会的地位は地に落ちるわけです。つまり「所有」は「富」と無縁であり、むしろ嫉妬という負債をもたらす。坂本さんが紹介してくださったように、プルーストは「所有」の本質に潜む、救いようのない、悲劇的な性格を描こうとした。これは正しいと思う。
 ついでながら英語のpropertyとフランス語のpossessionは、かなり違う語感をもつ言葉なのじゃないか、とも思っています。英文学には「婚活小説」とわたしが呼んでいるジャンルがある。典型はジェイン・オースティンですが、結婚というゴールに至るまでの物語。女性作家による「婚活小説」には、夫による妻の一方的な「所有」という発想はもちろんありません。人格的には対等な相互契約としてのproperty(英語の辞書によればuseとdisposalへの権利)を想像し、これにもとづく男女の関係を夢見ているのですから。」
坂本 『シェリ』のレアの場合はどうですか?
工藤 レアの場合は、シェリを手放すわけですから、そもそも「所有」ではないのですよ。コレットには開き直りのすごさがあります。女は穀物倉です、というわけ。男が疲れたときに自分のところにくればよい、美味しい食べ物と、精神の安らぎと、健康な性をわたしは提供する、疲れが癒されたら男は出て行く、と。かっこいいでしょ? だれも納得してくれていないようですが。(会場爆笑)
 

スワンは「ワル」である

工藤 なぜスワンはかっこいいと思うか、という話をしましょう。スワンはカタカナの「ワル」なんです。フランス語でいうとmufle。物語の終盤、第6篇(第12巻)に主人公の「私」がヴェネツィアを訪れて、自分が生涯最大の恋から醒めたことに気づく場面がある。かつての自分とはべつの人間になっているのに、その変化に驚きもしない。そこで語り手は、mufleという言葉を使って、こんなコメントをします(吉川訳では「粗野」)。
 
人は、歳月が経って時代が順ぐりに変わるにつれてべつの人間になっても悲しまないし、また同じ時期にも、毎日のようにつぎつぎ意地悪になったり感じやすくなったり、繊細になったり粗野mufleになったり、無私無欲になったり野心家になったり、相矛盾した人間になっても悲しまない。人がそれを悲しまない理由は、両方の場合とも同じである。それはすがたを消した自我がーーこの自我の消滅は、後者の場合のように性格が問題になるときは一時的で、前者の場合のように恋の情熱が問題になるときは永久であるがーー新たな自我を嘆こうにもその場にはおらず、その時点では、あるいはその後も、新たな自我がその人のすべてであるからだ。粗野な人間が自分の粗野を笑ってすませるのは自分が粗野だからであり、忘れっぽい人が自分の記憶の欠如を悲しまないのは忘れているからである。(⑫499-500)
 
工藤 このmufleという単語が、「スワンの恋」の最後にも出てきます(吉川訳では「野卑」)。スワンが夢のなかで再会したばかりのオデットが、初対面のときの不快な印象を呼び寄せて、そのおかげで、というか、じつは心理的な因果関係はわからないのだけれど、ふっと失恋の不幸から立ち直ってしまう瞬間の描写。
 
そこでスワンはもはや不幸ではなくなり、同時に自分の道徳的水準が低下したときにたちまち間歇的に頭をもたげる野卑な口調で、心中でこう言い放った。「いやはや、自分の人生を何年も台なしにしてしまった、死のうとまで思いつめ、かつてないほどの大恋愛をしてしまった。気にも入らなければ、俺の好みでもない女だというのに!」(②422)
 
工藤 これがスワンの魅力、色気です。すごく繊細で、ちょっとワル。先ほどの第6篇の引用にもありましたが、ワルな人間は、じぶんのワルさを笑ってすませる、なぜならそのときワルだから。これ名言ですよね。したがって、このセリフをいうときに、スワンはニヤッとしなくてはいけないわけです。ところがシュレンドルフの映画版ではあまり上手にニヤッとしていない気がして不満なのです。
 
     *      *      *
 
(後記)このあと、プルーストの愛読者にはあまり評判がよくない作品ですが、1983年の映画版『スワンの恋』で、スワンの捨て台詞の場面を確認しました。『失われた時を求めて』の映画化はもちろん難しく、ヴィスコンティをはじめとして、いくつかの企画があったもののなかなか実現せず、ようやく撮ったのは、フォルカー・シュレンドルフというドイツ人の監督でした。スワンが語り手の位置を占め、彼の1日の生活のなかに回想が差し挟まれる複雑な形式で、原作を読んでいないと少しわかりにくいかもしれません。とはいえ、資料的な価値は高く、衣装や内装、作法(しぐさ)は見応えがあります。はたしてスワンの「ニヤッ」はじゅうぶんに「ワル」かどうか、実際にDVDなどでお確かめください。第3回は、吉川訳第3巻の「訳者あとがき」に図版提供者として名前があがっているジュール・ヴェルヌ研究のリーダー石橋正孝さんをお迎えし、同時代の大衆文学・大衆文化との接点を探ります。
 
講師:工藤 庸子(くどう・ようこ)
東京大学大学院総合文化研究科教授、放送大学教授をへて、東京大学名誉教授。フローベールの『ボヴァリー夫人』を軸に、「恋愛小説」「風俗小説」「姦通小説」をめぐる考察を展開。近年は政治的・宗教的・法的次元へと考察を広げ、文学と歴史を接続する近代ヨーロッパ論を発表している。「粋筋の女」を描いたコレットの小説『シェリ』の名訳でも知られる。著訳書多数。
主要関連著作
『プルーストからコレットへーーいかにして風俗小説を読むか』中公新書、1991年
『フランス恋愛小説論』岩波新書、1998年
『恋愛小説のレトリックーー『ボヴァリー夫人』を読む』東京大学出版会、1998年
『ヨーロッパ文明批判序説ーー植民地・共和国・オリエンタリズム』東京大学出版会、2003年、2017年(増補新装版)
『近代ヨーロッパ宗教文化論ーー姦通小説・ナポレオン法典・政教分離』東京大学出版会、2013年
『評伝 スタール夫人と近代ヨーロッパーーフランス革命とナポレオン独裁を生き抜いた自由主義の母』東京大学出版会、2016年
『世界の名作を読む 海外文学講義』(編著)角川ソフィア文庫、2016年(2007年、2011年)
『論集 蓮實重彦』(編著)羽鳥書店、2016年
『〈淫靡さ〉について』(蓮實重彦との共著)はとり文庫、2017年
訳書に、コレット『シェリ』など多数。
 
司会・レポート:坂本浩也(さかもと・ひろや)
立教大学教授。著書に『プルーストの黙示録ーー『失われた時を求めて』と第一次世界大戦』(慶應義塾大学出版会、2015年)、訳書に、ピエール・ブルデュー『男性支配』(坂本さやかとの共訳、藤原書店、2017年)など。ツイッター「新訳でプルーストを読破する」を更新中。

 

 

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