嘉指信雄 「日本被団協」初代理事長・森瀧市郎の問いかけ[『図書』2025年5月号より]
「日本被団協」初代理事長・森瀧市郎の問いかけ
戦争をとめることはできるか
昨年、「日本被団協」(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を受賞し、被爆者の方々による長年の活動に改めて光があてられた。「日本被団協」が創設されたのは1956年。その準備段階から牽引し、初代理事長も務めたのは森瀧市郎(1901―1994)であった。氏の略歴を見ると、原爆孤児救済運動、原水爆禁止世界大会、百万人街頭署名運動、原爆ドーム保存のための募金活動、反核世界一周行脚など、文字通り獅子奮迅の活動に驚く。
氏は、広島に生まれ、広島大学(1949年までは広島文理科大学)で長年教えた哲学者であったが、その哲学徒としての歩みが語られることはあまりない。それは、「被団協」創設をはじめとする後半生の足跡の大きさゆえでもあろう。しかし、戦前、氏が京都帝国大学で学び、西田幾多郎の謦咳にふれる機会をもったことは、その後半生を貫く実践の源の一端となっているように思える。以下、断片的な紹介になるが、氏自身の言葉をその日記などから引きながら、哲学者としての思索と深く絡み合った反核の歩みを振り返り、その核心にあった問いに光をあててみたい。
「森瀧日記」のなかの西田幾多郎
森瀧市郎は、広島高等師範学校卒業後、2年間中学校で教えたのち、1927年、27才で京都帝国大学文学部哲学科に入学。西田幾多郎は翌年には退官するが、1920―30年代は、西田の周りに多くの俊秀が集まり「京都学派」が形成された時代であった。氏は、学部は3年で、大学院修士課程も1年で終え、師範学校教授の職に就くため広島に戻ってきているが、その日記や著作には、西田などから受けた多大な薫陶が明らかである。
たとえば、『ヒロシマ四十年 森滝日記の証言』は、終戦直後の思いを次のように伝えている。
原爆そして終戦。この歴史の分岐点で、広島高師教授として歩んだ日々と研究と自らの価値観は大きく切断された。
「哲学の西田幾多郎先生から、倫理や哲学をやる者は自己否定の覚悟を持たねばならん。ことによると、棺おけに入る直前になって自説を全部否定しなければならんかも知れんよ、と言われたことがある。この時私はそれを思い知らされた」。
戦前、戦中に書いた論文、学生に講じた倫理学の中身は誤っていたのか──魂の一部をえぐり取られる思いだった。(中国新聞社編[1985]17頁。「 」内は、取材に応えた氏の言葉であり、その前後は編集者の記述)
また、広島大学で最終講義を行った1965年2月20日には次のように記されている。
《曇って小雨。午後一時より思い出深い文学部大講義室で最終講義。題目「私の歩んだ道」。
西、西田、田辺三教授の教えを受けた私の経歴から、私が抱いた倫理哲学体系の大要を話し、戦後、力の文明を批判し愛の文明を強調したこと。西倫理学の国民道徳論の「種」的立場から「類」的立場に進まざるを得なかった原爆体験を語り、「人類は生きねばならぬ」という至上命法に立脚する平和倫理の研究と、実践に生きの日の限り進みたき願いを語る。》(同上書、204頁)
西田とのつながりは、「慈の文化」(1951年)などにおいて「無の場所」といった表現が用いられているところにも認められよう。なお「西」とは、いわゆる「国民道徳」論で知られる西晋一郎(1873―1943)のことである。森瀧は、高等師範学校生だった頃から西に親炙するのみならず、広島に戻ってまもなく、西の次女しげと結婚している。西を通じて培われた儒教的素養は、戦後においても大きな意味を持ち続けたように思われる(森瀧「現下道徳教育の根本問題──人間像・徳目・人間性」『学校教育』402号、1951年、7頁)。
戦後、京都学派の哲学者たちも「核時代の危機」についてさまざまに論じているが、氏の「核絶対否定」の思想と実践はその具体性と粘り強さにおいて際立ったものとなっている。氏をそうした思索と行動へと駆り立てたのは、右目を失った自らの被曝体験であり、また、三菱重工江波造船所の学徒派遣隊長として「多くの学生を誤った方向に導いた」という痛恨の思いであった。
加えて、氏の専門分野が、当時、京都学派でも主流であったドイツ哲学ではなく、イギリス道徳哲学であったことも注目される。1950年に広島文理科大学に提出された氏の博士論文「英國倫理研究」(広島大学図書館所蔵)は原稿用紙で1070頁。自らの被曝体験などへの直接的言及はされていないが、核時代の危機意識のもと、「良心」を主題としてなされた考察は、氏自身のその後の反核運動を支え続けた思想的柱のひとつとなっていると言えるのではないか。
「座りこみ抗議」と少女の問いかけ
森瀧市郎の写真として最も広く知られているのは、「核実験反対」と大書されたタスキをかけ、広島の原爆死没者慰霊碑前で行った「座りこみ抗議」の写真であろう。晩年まで続けられた「座りこみ抗議」は四百数十回にのぼり、とくに1962年4月、エスカレートする米ソによる核実験に反対するため、大学に辞表を出したうえで12日間に及び行われた抗議には延べ5000人が参加し、大きなうねりを生み出したと伝えられている。
しかし氏は、「『座りこみ十年』の『前史』と理念」(1984年)で次のように回顧している。
或る日私が座りこんでいる前を往ったり来たりしていた小さな女の子がつぶやいた、「座っとっちゃ止められはすまいでえ」と。このつぶやきは私の胸に深くつきささった。……(=中略、以下同様)更に推して言えば、いったい平和運動は戦争をくいとめることができるのかという大きな質問として。……
私は考えに考えた。……平和運動はやはり飽く迄も非暴力行動によって世論を呼び起し世論を高め強めるより外はないのである。……
私は慰霊碑前で座りこんでいて、ふと気がついた。何か日常的な自分とはちがうのである。……たとい三十分間でも一時間でも、その間は少なくとも、自分のために座っているのではない。……
比喩に過ぎないかも知れないが、人間の自我の核を破り得て精神の連鎖反応を起し得たらどんな力が発揮されることだろう。(『核絶対否定への歩み』渓水社、1994年、80―82頁)
残念ながら今日の世界は、物質的力によって「精神の連鎖反応」が押し切られてしまいかねない瀬戸際にある。氏の「座りこみ抗議」は、原爆死没者慰霊碑を背にして行われた、いわば「共同の坐禅」であり、危機に瀕する世界への呼びかけ、たゆまぬ問いかけであった。
「平和利用」という言葉の魔力
森瀧市郎は、1955年の「アメリカから広島への原発の贈り物」計画や翌年の「平和利用博」開催をめぐる論争が起きた時から、放射性廃棄物などの問題に強い懸念を表明していた。しかし、被爆20周年においても「核絶対否定」という表現は、「単に「核兵器絶対否定」の略語であって」(同上書、18頁)、原発も含めた「核絶対否定」の理念がはっきりと表明されるに至ったのは、ようやく被爆30周年においてであった。
1979年に書かれたエッセイ「人類は生きねばならない──私の被爆体験から」のなかで氏は、端的に、「言葉の魔力というものは実に恐ろしいものだと思うのですが、軍事利用はいけないが、平和利用だったらいいのじゃないか、と考えたのです」と書いている(初出、『部落解放』139号、29頁)。
「核の平和利用」が欺瞞であると見きわめる決定的な契機は、海外の科学者との交流などを通じ、低レベル放射線リスクを明確に理解したことにあった。1971年5―6月、氏は世界一周の旅に出たが、その目的の一つは、「原発について憂慮する学者を歴訪し、その意見を聞いたり資料を集めたりすること」にあった。「科学者の良心」(1979年)には次のように書かれている。
私は、サンフランシスコからワシントンへの機上で、ポーリング博士から贈られた小論文の抜刷を読んだ。……博士は、……「許容量というごとき〝敷居〟は存在しない、少なくとも遺伝での問題では」と主張しているのである。……私は、この旅行で原子力平和利用に伴う公害問題で欧米の心ある学者たちが真剣に考え行動し始めていることをじかに知ることができた。(『核絶対否定への歩み』、22―23頁)
さらに、「反原発の理論」(1979年)では、次のようにまとめている。
被爆二八周年(一九七三年)の原水禁大会には、……タンプリン博士が来日した。……博士は、「原子炉は、いまだかつて人類が経験したことのないような大事故の可能性をもっている」とし、炉心溶解による大量の放射能流出を語る。……
さらに、博士が力説したのは原子炉が大量につくりだす放射性物質の問題、放射性廃棄物の究極的処理の未解決の問題、最後に、最大の問題としてプルトニウムの軍事転用と核拡散の問題はもとより、その絶望的な猛毒性の問題、その管理のために私たちの子孫が永久的にこうむる重圧の問題──。原発反対の基本理論は、ほとんど解き尽くされたのである。(同上書、25―27頁)
もし氏が東電福島第一原発事故を目の当たりにしていたら、その憤りと嘆きは如何ばかりのものであったろうか。氏の思索と実践は、核兵器問題を軸としつつも、それに限定されたものではなく、原子力発電による放射能被害、さらには、「戦争をとめられるか」という根本的な困難をも見すえてのものであった。ロシアによるウクライナ侵攻後、原子力発電所攻撃のリスクをも含めた意味での「核の危機」は一層切迫したものとなっており、森瀧市郎の問いかけはますます重いものとなっている。
最後に、氏の視点と遺志を引き継いだ次女・春子氏も、反核運動だけでなく、劣化ウラン弾禁止運動、インドやコンゴのウラン採掘場での汚染問題、被害者や医師への支援活動などに取り組んできていること、そして被曝80周年にあたる今年の10月、広島では2015年に続き、「世界核被害者フォーラム」が再び開催されることを記して本稿を閉じたい。
(かざし のぶお・哲学、日本思想)
*本稿は、拙稿「原点から問い直す反核・平和思想──平塚らいてう・丸山眞男・森瀧市郎」(『平和研究』45号、2015年)をふまえたものである。森瀧市郎のエッセイの多くは、増補改訂版『核と人類は共存できない』(七つ森書館、2015年)に再録されている。昨年見つかった被曝直後の記録については、「被爆時マグネシウム様の光 故森滝市郎さん「さいやく記」惨禍次代に伝える」(中國新聞デジタル、2025年1月1日)を参照されたい。