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横路佳幸 科学を否定する人々に私たちは何が言えるのか[『図書』2023年7月号より]

科学を否定する人々に私たちは何が言えるのか

 

 先日、岩波書店から拙訳『哲学がわかる 懐疑論──パラドクスから生き方へ(ダンカン・プリチャード著)が刊行された。本書は、懐疑を題材とする哲学の入門書になっている。「懐疑」と聞くとやや取っつきにくい印象を持たれるかもしれないが、実際は身近で奥深い。というのも懐疑のあり方を考えることは「どう生きるか」を考え直すことに繋がっているからだ。

 例えば、自分自身に対する懐疑を考えてみよう。世の中には、自己主張が強く自分を疑うことを知らない人もいれば、逆に不安や迷いを感じて自己を卑下する人もいる。前者は、堂々としていて確かに自信があるだろう。だが、独りよがりだったり傲慢な態度に陥るきらいがある。他方で後者は、控えめで謙虚な姿勢を保つ反面、自信に欠け他人に流されることが多い。理想的で望ましい生き方はどちらかと問われたら、おそらくどちらでもない。とすると、よりよく生きる上で鍵となるのは、自分を疑わないわけではなく、かといって疑いすぎない心掛けではないだろうか。こうして本書では「自己に対する健全な懐疑」とは何かを明らかにし、自信と謙虚さを絶妙なバランスで維持する生き方を模索している。興味がある方はぜひご覧あれ。

 CMはそこそこにして、ここからはひとつ、ある特殊な懐疑について考えてみたい。懐疑は懐疑でも、なかんずく科学の否定や陰謀論と蜜月関係にあるような懐疑について、である。科学を懐疑し否定する人々に対して、私たちは何が言えるのだろうか。より厳密に言えばこうである。十分に確立された科学的な根拠や合意を疑い、ついには否定するに至った科学否定論者がいるとして、彼らに対して私たちはどんなことが言えるだろうか。翻訳を進める中で、この疑問がどうしても私の頭から離れなかった。

 まずは、科学否定論の輪郭をはっきりとさせよう。今に始まった話ではないが、SNSと一部のメディアでは、科学的な根拠や合意を否定する言説が平然と跋扈している。やれワクチン接種は人体に有害であるだの、標準治療は効果がないので拒否すべきだの、気候変動は人間の活動のせいではないだの、種類は多岐にわたる。中にはビジネスと化し、社会に悪影響を及ぼすものさえある。いわゆる陰謀論は、そうした言説の説得力を高めるのに一役買うだろう。「ワクチンは人口削減目的で開発された」や「温暖化のデータは利権を貪る科学者たちによる捏造だ」などがそれである。

 もちろん正しい情報とそうでない情報を区別できる注意深さと専門知があれば、有象無象の怪しげな言説に惑わされる心配はあまりない。しかし、不安や警戒心から生まれた小さな疑念でも、やがて大きな不信や否定に至る場合がある。科学的に十分確からしくすでに合意も形成されている事柄をいったん疑い始めると、巷で飛び交う陰謀論も相まって、まったく信用できなくなるかもしれない。そうしたとき、周りの人々や社会は一体どうしたらいいのか。

 真っ先に思いつくのは、理屈で反論することだろう。例えば、科学哲学者カール・ポパーのやや埃をかぶった概念を持ち出せば、信頼できる仮説の特徴は一般に「反証可能性」にある。ざっくりと言えばこれは、当の仮説の間違いを示す証拠や反例を実際に突き付けられたら困るものの、突き付けられるリスク(可能性)は引き受ける、ということだ。反証可能なのに、どれだけ事例を集めても反証されずに生き残った仮説は信頼に値する。逆に言うと、反証不可能、ないしは反証が見つかった仮説は、具体的な証拠が出揃う前から自分は間違いえないと勝手に確信しているだけか、単純に間違っているということだから信頼ならない。

 そこで、反証可能性を使って科学否定論者にこう問うてみればいいだろう。万が一どういった証拠があったら、自分の間違いを認めるのか、と。「そんな証拠はない」と応答するなら驚くべきことだ。彼らは、間違う可能性が最初からありえない反証不可能な仮説を信じていることになるのだから。そんな独り合点の仮説をどうやって信じろというのか。反対に「万が一こういう証拠があれば、間違いを認めよう」と応答してくる場合もあるかもしれない。それなら話は単純、その証拠を探し出して彼らに突き付けるまでだ。

 しかし、こうした理詰めの対応策は明らかに限界がある。まず、こちら側の議論をまともに取り合ってくれる科学否定論者などほとんどいない。どれだけ理性的な反論や反例をぶつけても、のらりくらりとかわされるか、「あなたは何もわかってないんだね」で一蹴されるのが関の山だろう。しかも、理論武装があだになる場合すらある。説得しようと言葉を尽くせば尽くすほど、「ここまで必死ということはやはり裏に何かあるのでは」とより一層疑念が深まりかねない。科学否定論にどっぷりつかっている者からすれば、科学者や大手メディアの権威は失墜しきっているので、その権威に追従する理屈を並べたところで、ただの詭弁か下手なごまかしにしか聞こえないのだ。

 科学否定論者には、理屈がなかなか通用しない。それを踏まえた上で、ここで少し、類似した事態を別の角度から眺めてみよう。よく考えてみると理屈や証拠の棚上げは、科学否定論者に限らず、実は誰にもあることではないだろうか。例として、わが子に殺人の嫌疑がかけられ、それを示す証拠もあるケースを考えよう。このとき、「あの子の声を聞くまでは信じない」という態度をとるのは道理に合わない行動だろうか。ある意味ではそうだ。わが子への信頼感や愛情ゆえに一時的に証拠を見て見ぬふりしているのだから。しかし十分に理解できる行動ではある。私たちは物事をいつでも中立的で公平無私に判断できるわけではない。この意味では、客観的な証拠よりも身近な家族や友人を信頼して、判断をいったん保留したり先延ばしにするのは、自然な振る舞いと言える。

 同じことはワクチンや標準治療、気候変動にも当てはまるのではないか。データをいくら並べられても、それを捏造だと言い張る人物を信じたい気持ちが強ければ、科学的な根拠や合意をおいそれと受け入れることはできないだろう。少なくとも、信頼が置ける人物を優先して、赤の他人にすぎない科学者の言うことに疑念を持つ態度それ自体は、愚かだと切り捨てられるものではない。

 もちろん、これはまかり間違うと道理が通らない事態へと発展する。実際、科学を否定する言説にまで至ると、懐疑や判断の保留どころではなくなる。「各データの意味を自分で理解するまでは、気候変動の原因が人間の活動だとは信じない」と「気候変動の原因が人間の活動だとはまったく思わない」の間に、無視できない隔たりがあるのも事実だ。にもかかわらず、ふとしたきっかけで懐疑や判断の保留が不信へと変貌すると、この隔たりは易々と飛び越えられてしまうだろう。つまり、科学否定論者には確かに危ういところがあるとはいえ、その萌芽はすでに私たち自身のうちにあるのだ。

 では、何が懐疑を不信に変貌させるのか。個人の心理的背景による影響はおそらく大きいのだろう。非専門家への(信頼を超えた)過度な依存、深いトラウマによる思い込み、特定のコミュニティへの帰属意識は、科学否定論や陰謀論の芽を育てるのにうってつけの土壌である。SNS上の閉鎖的な交流は、風通しをますます悪くするだろう。結局、科学否定論にはまり込む一因は、各人の心のひずみにあると考えられなくはない。

 裏返して言えば、この見立てはひょっとすると、科学否定論者に対するもう一つの対応策を示唆している──私たちがなすべきは、反証でも論破でもなく、対話を通じた寄り添いではないだろうか。彼らの肩を掴んでいい加減目を覚ませと叫ぶのではなく、膝を突き合わせて彼らの話に耳を傾けること。否定論者一人ひとりの奥底でくすぶっている思いや悩みをくみ取ること。一定の理解と共感を示しながらやさしく諭すこと。こうした姿勢で接すれば、依存心やトラウマ、偏った帰属意識を少しでも緩和し、視野狭窄に陥ることを防げるかもしれない。心の穴を埋めるような言葉は、不合理な認識に凝り固まった者にとり最良の解毒剤となりうる。

 しかしながら、この対応策も楽観論の域を出ていないと私は思う。まず、一定の理解と共感は、陰謀論の正当性を示す印象操作に利用されやすい。ちょっとした歩み寄りの発言のつもりが、「あの人もようやくワクチンを身体に入れてはいけないものだと認めてくれた」と受け取られることだってある。生半可な理解と共感は逆効果になりかねない。

 また、ワクチンにはマイクロチップが入っているとか、健康食品で改善する免疫力を標準治療は台無しにするといった言い分に耳を傾け一人ひとりと対話することは、反証よりもよっぽど手間と時間がかかる。寄り添いや対話と言うと聞こえはいいが、誰がそんな面倒事を引き受けるというのか。

 そのように考えていくと、科学否定論者に何か言おうとすること自体、そもそも間違っていた気がしてくる。何を信じようと、結局は個人の自由、ないしは自己責任ではないか。しかしその一方で、科学否定論を放置しておくと、ときに自己責任では片づけられない弊害が社会に生じる。試しに、気候変動データの捏造を謳う言説が蔓延した結果、温暖化対策が一向に進まなくなった未来を想像してみるとよい。手遅れになる前に、私たちは何か手を打たなくてはいけない。

 では、結局私たちは、科学否定論者に向かってどんなことを言えばいいのだろう。こうして表題の問いはいつも振り出しに戻り、今も私の頭をぐるぐると駆け巡っている。

(よころ よしゆき・哲学)


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