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太田裕信 「構想」する動物としての人間──三木清「構想力の論理」の現代的可能性[『図書』2023年9月号より]

「構想」する動物としての人間

  ──三木清「構想力の論理」の現代的可能性

  三木清の『構想力の論理』が岩波文庫として刊行された(二分冊)。西田幾多郎とハイデガーのもとで学び、戦前の哲学界においてマルクスに積極的に取り組みながら様々な著作を残し、太平洋戦争前夜には日本の国粋主義を批判しながらアジアの連帯を意味する「東亜協同体」論を説いた異例の哲学者の主著である。現在の哲学研究において三木は西田や九鬼周造らの同時代の哲学者に比しては注目されているとは言えないが、近年では田中久文ほか編『再考 三木清』(昭和堂、二〇一九年)や、ちくま学芸文庫のアンソロジー(森一郎編『近代日本思想選 三木清』二〇二一年)の出版など徐々に再評価の機運が高まっており、今回の岩波文庫化もこの流れにさお)さすだろう。なお「岩波文庫」という日本初の文庫本レーベルの立案には三木が関わっており、巻末の「読書子に寄す」は三木が書いた草案に岩波茂雄が手を入れて成ったとされる(『岩波文庫の80年』岩波文庫、二〇〇七年)

 本書は『第一(第一章「神話」第二章「制度」第三章「技術」)と『第二(第四章「経験」)に分けられ、前者は一九三九年、後者は著者の獄死後一九四六年に出版されている。三木の生涯や本書の概要は岩波文庫版『第二』に付された藤田正勝の行き届いた解説に譲ることにして、ここでは、戦前に書かれ、忘れられた感もある本書が、二十一世紀の現代において岩波文庫となり読まれることの意義を、素描的に考えてみたい。

 まず、この著作の面白さと可能性は、概して哲学が「理性」や「意志」に見てきた人間の本質を、まさに「構想力」に見ていることそのことにある。「構想力は理性よりも根源的である。人間と動物との最初の区別をなすものは理性ではなく構想力である」(一・五三)。「構想力の根柢に意志があるのでなく、むしろ意志の根柢に構想力がある」(一・六三)。「構想力」とはドイツ語のEinbildungskraftの翻訳語であり、Bild(イメージ)を形成する能力、一般的に言えば「想像力imagination」である。三木はこの語をカントから借りているのだが(第四章はカント解釈である)、カントにおいて「構想力」とは、感性と悟性(知性)の根底にあるとされる能力であり、対象が目の前になくてもそれをイメージする「再生的構想力」と、現実を超えて新たなイメージを作り出す「生産的構想力」に分けられる(二・八八)。三木はこの「構想力」を、カントのように悟性と感性の根源としてだけでなく、「ロゴス」(言葉、論理、理性)と「パトス」(感情、情念)の根源として捉えている。

 「構想力」を重視する哲学は管見では少ないが、霊長人類学者の松沢哲郎は、進化の過程において最も人間に近い動物であるチンパンジーと人間との根本的差異は「想像するちから」にあると言っている(『想像するちから』岩波書店、二〇一一年)。チンパンジーが基本的に「今、ここの世界」に生き、過去や未来の想像は短い時間幅に限られているのに対して、人間は「一年先の収穫を見越して田植えをする」など、遠い過去や遠い未来を想像する。こうした見解は三木にも通ずる。三木は「過去の構想的回復」と「未来の構想的予料」(二・二九)が人間の「経験」の本質的契機であると言う。私たちの日常生活や教育にあっても「論理」や「主体性」などの重視に比して「構想力」は軽視されている向きがあるが、これこそ人間に固有な本質を形づくる。本書はこうした「構想力(想像力)」の哲学探究に益するであろう。

 また本書の特徴は「構想力」を単に個人的なものではなく、社会的な「集団表象」(一・三一)に関わるものとして捉えている点にある。三木は、人間は「構想力」によって、自然的な「環境」から「超越」し、「道具」などの「技術」によって自然環境を作り変え「文化」的な世界を形成すると言う(一・二八二―二八三)。三木はそうした集団的な「構想力」によって産み出されるものを「形」と呼び、そうした「形」として「神話」と「制度」を論じている。「芸術」や「衣食」だけでなく「神話」や「制度」も広義の「文化」として捉えるならば、三木の「構想力」論の現代的可能性は広義の「文化哲学」にあるように思われる。

 なぜ最初に「神話」が論じられるのかはそれ自体問題となりうる。本書はレヴィ=ブリュルなど当時最新の文化人類学の知見を整理しながら書かれており、日本神話は一切論じられていない。しかしこの神話論の執筆の動機には、「万世一系」の「皇国」としての日本という日本神話に基づくイデオロギーをもった天皇制ファシズムの分析・批判があることはおそらく間違いではない。ただし「神話」は単に消極的に論じられてはいない。三木によれば「神話」は、個々の成員とその共同体の「連帯性」を強固にするために作られた共同体の世界観や道徳の表現である。また、それは原始社会に特有のものでなく「あらゆる社会においてつねに存在するもの」(一・三八)として考えられている。たとえば「自由、平等は十八世紀の神話」(一・三九)であり、マルクスの「資本主義社会の破局」という観念も「階級闘争と社会革命とを具象化するため」の「一つの神話」だと言う(一・六七)。ここで言う「神話」は現代的に言えば、人間がその共同体の維持や社会変革のために構想される「物語」といった意味であろう。

 第二章の「制度」も興味深い。ここで「制度」とは、司法制度や選挙制度といった法や政治に関わる狭義のそれだけでなく「言語、慣習、道徳、法律、芸術、等々をも含めて」(一・一二二)考えられている。それは「信用」を基礎としながら「規範」の性格を帯びた「慣習」的「擬制fiction」として定義される。人間世界は、単なる物理的世界でなく「フィクションが一層重要であるような世界」(一・二〇七)である。

 ここでは「道徳」について考えよう。三木は「道徳」という「擬制が発明されるためには、且つそれが実効的であり得るためには、空想、想像、構想力が働かねばならぬ」(一・一二七)と言う。たとえば「隣人愛」というキリストの道徳は「すべての人間は汝の兄弟である、汝らはすべて神の子である」(同上)という擬制に基づく。世俗的な例で言えば、人権や平等という規範が成り立ち、それが人々に通用し実効的であるためには、個々人を想像的に繋ぎ「同胞」とする感情や構想力がなんらかの仕方で必要であるということだろう。それが地域社会や国際社会などさまざまなレベルで失われる場合、「道徳」は実効性を失うということではないだろうか。こうした構想力に基づく倫理学の試みも興味深い。

 近年注目された歴史学者のハラリも「サピエンスが世界を支配しているのは、彼らだけが共同主観的な意味のウェブ──ただ彼らに共通の想像の中にだけ存在する法律やさまざまな力、もの、場所のウェブ──を織り成すことができるからだ」(『ホモ・デウス上』河出書房新社、二〇一八年)と述べているが、こうした発想を哲学的に掘り下げて考える可能性が本書にはあるように思われる。

 このように本書の可能性・意義は、構想力(想像力)論そのもの、およびそれに基づく広義の文化哲学にあるように思われる。ただし本書は、本人が認めるように「体系的叙述」ではなく「研究ノート」(一・九)であり、その急逝によって途絶した未完の書である。とくに第五章として「言語」が予定されていたが幻となった。しかし、その内容は「解釈学と修辞学」(一九三八年 前掲・ちくま学芸文庫所収)や「レトリックの精神」(一九三四年。『哲学ノート』[一九四一年]中公文庫、二〇一〇年所収)などの論文から想像することができる。それらの論文で三木は「構想力の論理」の一部として「レトリックの論理」というものを提示している。一般に「レトリック」は文章の修飾の技術として理解されるが、三木の「レトリックの論理」はそうしたものではなく、むしろ古代ギリシアのポリスを一つの範例とした言語的コミュニケーション論である。他者の存在や言葉を理解し対話するためには「構想力」が必要になってくるだろう。アーレントやハーバマスにも通じるような、この言語論・公共哲学も踏まえて本書を読めば、三木が考えた「構想力の論理」の全体像はより明確になるだろう。

 さらに三木が考えようとしたことの再構成にとどまらず、「構想力の論理」の現代的なポテンシャルを見出し批判的に継承していくためには、さまざまな他の哲学や他の学問領域の仕事と比較考察することが、有意義であろう。たとえば哲学研究としては、「神話」や「言語」などを「シンボル(象徴)形式」と呼び、カント解釈をもとに一種の「文化哲学」を形成したカッシーラー『シンボル形式の哲学(全三巻 一九二三、一九二五、一九二九)との比較研究が思いつく。三木自身もカッシーラーの文化哲学は「構想力の論理に従って書き)えられねばならぬ」(一・四六)と述べている。他の学問領域との突き合わせとしては、文化人類学(神話論や制度論に関わる)や霊長人類学(技術論に関わる)、さらには「無意識」をめぐる精神分析(構想力の原理論に関わる)などとも主題的に通じ合うところが多いように思える。このように本書は、さまざまな可能性に開かれているのである。

*『構想力の論理』からの引用は岩波文庫版による。表記は(巻数・頁数)の意

(おおた ひろのぶ・哲学)


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