出久根育 母といっちゃん[『図書』2024年6月号より]
母といっちゃん
今年のはじめ、東京で開かれた個展のために、チェコから日本へ帰国をしていました。ひと月半ほどの会期を終えて山梨の実家へ行くと、それまでの緊張がほどけたのか体調を崩して熱を出しました。布団に入って寝ていると、すこし腰が曲がり始めた母がたびたび部屋に入ってきて、五十を過ぎた娘に、まるで子どもの看病をするように、「お茶を飲みなさい」、「熱を測ろうか」、「食事を持ってこようね」と言って、やけに楽しそうにしています。風邪がうつるから入ってこないでと言っているのに、
「あら、もうとっくにうつっているわよ」と、笑っています。
子どもの頃、二番目の姉と私が熱を出して学校を休んだことがありました。普段はカーテンで半分に仕切られた子ども部屋のふたつの二段ベッドで、二人の姉、私、妹の四人で寝ていましたが、その日母は、隣の畳の部屋に布団を並べて敷き、二番目の姉と私はそこで寝ることになりました。そして、階段の手すりの二階と一階に紐を渡して輪にすると、キャンディの入っていた取手付きの缶をその紐にくくりつけ、ロールカーテンの上げ下げをするように紐をたぐって、缶を移動させる仕組みができました。母は缶の中に「オレンジジュース、リンゴジュース、おろしリンゴ、ヨーグルト、なんでもございます」とメニューを書いたメモをいれました。
「風邪ひきさんへ、特別のデリバリーサービスです!」
欲しいものを書いたメモを入れて缶を送り返し、階段の手すりをコンコンとノック。しばらく布団の中で待っていると、
「お待たせしました」と、母がジュースやおやつを持ってくるのです。きれいな縞模様のストローまでついていました。何度でも風邪をひいて学校を休みたくなってしまうくらい、愉快だったことを覚えています。
私は四人姉妹の三番目です。四人姉妹なんていいわね、とよく言われましたが、私たちはあまりに元気で、当時まだ新築だった家はあっというまに傷み、父はよく怒っていました。ソファーを移動して基地をつくるやら、二段ベッドの板をはずして船と海をつくるやら、作詞作曲をして大演奏会をやるやら、家の中は大騒ぎの毎日でした。
私は幼少時代のことをいつか絵本に描いてみたいと思っていました。あるとき、岩波書店の編集者から、〈岩波の子どもの本〉の創刊七十周年に新刊を出す企画があり、おはなしを書いてみませんかという思いがけない提案をいただいて、とても驚きました。『こねこのぴっち』『ひとまねこざる』『ちいさいおうち」……〈岩波の子どもの本〉シリーズは、私が物心ついた頃には我が家の本棚に並んでいましたから。
私はとくに、『はなのすきなうし』が大好きでした。姉も妹もともだちと外でよく遊びましたが、私は部屋で絵を描いたり本を読んだりするのが好きな子どもでした。あんまり家にいるので、両親が特別に私に自転車を買ってきたほどです。姉たちはずるいと言って怒りながらも、一緒に練習をしてくれましたが、私にはちっとも楽しくなくて、結局自転車は姉たちが乗り、私はというと、相変わらず家で絵を描いていたのです。『はなのすきなうし』のフェルジナンドも、子牛たちと遊んで強さを競うよりも、お気に入りのコルクの木の下に座って花の匂いを嗅ぐのがなにより好きでした。私はそんなフェルジナンドに、自分を重ねていたのかもしれません。赤い表紙にモノクロのペン画の挿絵、子どもを子ども扱いしない凛とした美しい本のたたずまいに、誇りを持っていいのだよと励まされているようで、自分をよくわかってくれる良き理解者に出会った気がしていました。そんな『はなのすきなうし』のシリーズに、私の本が並ぶ!? 家族みんながとても喜んでくれるに違いありません! 両親への贈り物として、家族のことを描こうと決めました。
はじめは家族を、その次には四人姉妹を主人公にして描けないだろうかと考えていましたが、なかなか思うようなおはなしになりません。子どもの読者が感情移入できるようにするには、主人公の心の起伏をなぞるのが良いのではないかと思い、私自身を主人公にしました。四人姉妹の名前も、すこしずつ変えました。まーちゃん、みっちゃん、よーちゃん。そして主人公の私、いっちゃんの誕生です。さあ、のびのびと元気にね。
記憶をたぐりながら、その頃に思いを巡らせると、私は小さないっちゃんに戻っていきました。夜、なかなか眠れないいっちゃん、すぐにめそめそするいっちゃん。愉快な家族の中にいながら、いつも何かを怖がったり、姉や妹にからかわれてばかりでいじけているいっちゃん。同じ環境で育っていながら、どうして私だけこんなに弱虫で泣き虫だったのでしょう。父や母は、私のことをいつも歯痒い思いで見ていただろうと思います。思い出すたびにどこか切ない気持ちにもなりました。でも、そのいっちゃんの気持ちを丁寧に描いていくことが大切でした。私が『はなのすきなうし』を大好きだったように、いっちゃんみたいな子どもにとって、ともだちのような存在の本になってくれるかもしれません。そして、夜のこどもべやでの出来事から、愉快な冒険へ、そして最後には姉妹四人がともに「ああ、面白かった!」と安心して眠りにつけるように物語を締めくくろうと思いました。
ところで、本の中に、本当の子どもの大きさの天使の人形が登場します。モデルは実際に我が家にいたお人形なのですが、その後いったい、いつ、どこへいってしまったのか、家族の誰も記憶していないのです。駆け出しの人形作家に、広告代理店の若い社員だった父が、ある広告のイメージキャラクターとして天使の人形制作を依頼したのです。その作家はずいぶん張り切って作りましたが、完成した天使がまるで本当の子どものようで、怖いほどでしたので、残念ながら起用されなかったのだそうです。作家にとってそれは大きな挫折だったに違いありません。天使は我が家にやってきて、しばらくの間、子ども部屋の天井に吊るして飾られていたのです。それを私があんまり怖がったので、姉たちが私を脅かして面白がりました。今思えば、あんな怖い人形が天井からぶらさがっているなんて、それだけでもずいぶんとおかしな家だったかもしれません。姉も妹も当時を振り返り、白い肌にブルーの目、金髪の男の子だった、お洋服は着ていたかしら、いなかったかしら、と話し懐かしみました。子ども時代をともに過ごした天使さん、どこからか飛んできてはくれないだろうか、もう一度会いたいと、本を作りながらそう思っていました。本には、こどもべやでの夜のできごとを三つ入れ、タイトルは『こどもべやのよる』としました。
これまでやってきた絵本作りと違い、小さな判型でページ数も多い体裁でしたから、ストーリーをしっかり作ってゆく必要がありました。いっちゃんの心の中がわかるようにしなければなりません。たくさん言いたいことはあるけれど、言葉を厳選して省いていく作業がこんなにも楽しいことだと知りました。言葉をシンプルにするほど、いっちゃんという子の姿がいきいきと見えてくる気がしました。
締め切りまでわずかになって、どきどきしながら絵に取り掛かりました。はじめに、表紙カバーのラフスケッチを描いて、表紙と背表紙に手書きでタイトル文字を書き入れると、それを束見本に巻きつけました。そして、部屋の本棚の『こねこのぴっち』と『はなのすきなうし』の間に、『こどもべやのよる』をそっと差し込みました。
絵を描き上げてからしばらくして、本が完成しました。個展のために帰国をした東京で、担当編集者からできあがったばかりの本を手渡されたときは、まるで初めて作った絵本を手にしたような気持ちでした。いつもは日本を離れて暮らしているために、本を手にするのは、読者よりもずっと後のこと。何日も経ってプラハの自宅の郵便受けに届くのです。『こどもべやのよる』が出版された今年は、初めての絵本を世に出してからちょうど三十年目にあたります。小さな頃から絵本とともに過ごしてきました。絵本を作る人になってからは、その根元の支えになっているのは、賑やかな家族の中でちょっといじけながら頑張っていたちいさないっちゃんです。いっちゃんは急いで母に報告しなければと思い、本を抱えて山梨の実家へ向かいました。
「あら、新しい本ね」
本を受け取った母は、拍子抜けするくらいいつもの調子でした。そういえば母は、これまで私の本を一度も手放しで褒めたことはありません。母の中では、いっちゃんはやっぱりいっちゃんのままなのでしょう。でもね、ちいさいいっちゃんのままではこの絵本は作れなかったよ、と言いたかったけれど言えませんでした。
夜、居間の灯がついていました。相変わらず夜更かしの母の後ろ姿をそっと覗いてみると、母は『こどもべやのよる』を読んでいました。
(でくね いく・絵本作家)