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山田裕樹 佐藤正午さんの孤高[『図書』2024年7月号より]

佐藤正午さんの孤高

 

 「すばる文学賞」受賞者の佐藤正午さんを担当することになった。一九八四年一月刊行の『永遠の1/2』である。

 実は、この作品が受賞・刊行となるまでにひと騒動あった。私も絡んでいる。というより、巻き込まれた。

 この頃の私はといえば、北方謙三さんの長編群が文学賞をいくつか受賞していたし、島田荘司さんの書き下ろしをもらったり、赤川次郎さんの本も四冊造っていた。編集者になった、という自覚はまだないものの、いつもツイている奴、程度の評価は周囲からいただいていた。

 集英社の単行本セクションのA班B班は、解消・統合されて「文芸書」セクションになっていた。たとえば、中上健次さんが「すばる」に短編を書き、「週刊プレイボーイ」でエッセイの連載もしていたが、するとA班B班から一人ずつ担当を出さねばならない。少ないスタッフの無駄遣いである、というのが統合の理由だった。私のように、両方にまたがって仕事をしている者もいたし。

 ある日、「すばる」の担当者が来て、「原稿を読んでくれ」と言われた。なんでも「すばる文学賞」に応募された原稿らしい。

 しかし、北方ハードボイルドの一作目を出そうとした時に「すばる」編集部に罵倒されたこともあり、私は「すばる」とは少し距離を置いていた。

 「なんで、私が読むのですか?」

 「候補にならんのかもしらんのだよ」

 「それでなぜ、私が読む必要があるんですか? 「すばる」編集部の問題でしょう」

 「原稿がとてもいい」

 「じゃあ、候補になるでしょう」

 「ところが、その原稿は七〇〇枚もあるのだよ」

 仰天した。「すばる文学賞」の応募規定には枚数制限があって、当時はたしか二五〇枚以内だったはずだ。その応募者は、無知なのか豪胆なのか。

 「だから、読んでくれ。そしてできれば、候補にならないなら、お前が書き下ろしで出す、と言ってくれ」

 これはつまり、「すばる」内部の争いに巻き込まれることを意味している。旗色の悪い方が、ツキだけはある他部署の私に、連携を求めてきたということか。

 「では、読ませていただきましょう。いま、できる約束はそれだけです」

 ぶ厚い原稿の束を持ち帰って、一晩で読んだ。その当時、文学雑誌の応募原稿の過半を占める、と言われた村上春樹調かと思ったが、すぐに作者が自分の世界を持っていることがわかった。文章が実に上手い。読んでいてリズミカルで快い。競輪にハマりつつ、随所で現れる自分のドッペルゲンガーかもしれない存在に怯えながらも、その存在に興味を抱く、佐世保の青年がなんとも巧みに書けていた。

 まったく長く感じなかった。

 「とても面白かったです。このままほっとくのは、確かに惜しいですね。でも「候補にしないなら書き下ろしという手もないわけではない」と言っていた、くらいにしといてくださいね」

 と、件の「すばる」担当者に返事をしつつ釘を刺した。またヤマダが外から勝手なことを、と言われるのには辟易していたからだ。

 しかし、私の発言のせいであるはずもなかろうが、その「永遠の1/2」という枚数過多小説は、一転して候補になり、選考会では満票近い評価を受け、受賞してしまったのである。

 「すばる」側は、単行本の担当者に私を指名してきた。逃げるわけにはいかない。

 一一月の授賞式に現れた佐藤正午さんは、一八〇センチの長身で筋肉質、野球部のサードで四番だったという。豪胆どころか、繊細で無口な青年だった。私よりも三歳若く、初めて自分より若い作家を担当することになった。デビュー本の口絵写真の撮影をしたのだが、笑顔を作らせようとしてうまくいかなかったのを覚えている。

 そして無事、『永遠の1/2』の見本本ができた。それを持って佐藤さんの住む佐世保に飛び、生け簀のある店で鯛と伊勢海老を掬ってその刺身をたらふく食べ、彼の行く三軒のスナックにボトルを入れた。翌朝、佐世保競輪場に一緒に行き、競輪が終わるとそのまま長崎空港に向かった。競輪は初めてだったが、面白かった。しかし、自宅に近い立川競輪場に行くのはやめよう、と思った。ハマったら面倒だ。

 刊行された『永遠の1/2』は、一〇万部には少し届かなかったものの、よく売れた。

 

 さて、ものには続きがある。一九八四年の夏にまた、件の担当者が私のところにやってきた。トラブルの予感がする。

 なんでも佐藤正午さんが受賞第一作の短編「青い傘」を書いて「すばる」に掲載された後、中編「王様の結婚」も「すばる」編集部に送ってきた。しかし、編集長が「載せない」と言っているそうな。理由は、通俗的である、という純文学畑の決まり文句らしかった。

 当時の純文学雑誌の新人への対応は、受賞作と受賞第一作はそのまま載せるが、それ以降は、当時の「純文学」の流行に合わせるべく新人作家に手直しを要求する、というものだった。読者よりも批評家を見ていたのだ。その手直しに納得できない若手が、干されて消えてしまうことも多かった。私の、「売れたら連打」などという単純な子供の発想とは、まったく逆だったのである。

 それにしても、また「すばる」内部の争いに巻き込まれてしまった。

 すぐ「王様の結婚」の原稿を読んだ。不思議な作品だった。青春期の終わった若者たちの閉塞感と焦燥。プロットだけで読ませるわけではないが、快い文章は健在だった。読んでいると、ある酩酊感に襲われる。掲載するにはなんの問題もないと思われた。

 しかし、「すばる」はこの中編に無関心を装い、載せないのであれば原稿を返却すべきなのに、編集長の鍵付きキャビネットの中に眠らせたままだった。たぶん、穴埋め原稿にでも使うつもりだったのだろう。

 今度は、佐藤正午さん本人から電話で連絡があった。どうなっているのか教えてくださいよ。たぶん、同じ問いを何度も「すばる」にしてうやむやにされたのだろう。

 「ちょっと時間をください。私の考えが固まったら、連絡します。もし私が動くとしたら、根回しとかもしないといけませんから、しばしお待ちを」

 コピーしておいた「王様の結婚」の原稿をまた精読した。短編「青い傘」も読み直した。文芸書編集部の上司、宣伝、販売の関係部署とも話をした。私のことを「寝技師」などと失礼な呼び方をする人もいたが、根回しは、私にとって当たり前のことであった。

 そして、手順を整えた後に、佐藤さんに手紙を書いた。こんな内容のことを書いたと記憶する。

 「リングにあがる実力のある者をリングにあげるのが、私たちの仕事です。そして、あげるなら、いいコンディションの時期にあげるべきでしょう。佐藤さんのその時期は終わっておりません。「王様の結婚」は書き下ろしとして、受賞第一作の短編一編と併せて一〇月に刊行、というのはいかがですか? 「すばる」当局が考えを変えるなら別ですが」

 「すばる」編集部だけがカヤの外だった。もちろん、件の担当者にはこちらの意見と経過を話してあったが。私はその手紙のコピーを編集長の机において、短信をつけた。

 「掲載不可なら、その旨と理由を彼に伝えて、原稿返送すべきだと考えます」

 編集長に対して、なんと失礼な言い草か。はるか後年、私が「小説すばる」の編集長になり、若い者に似たようなことをされて、「俺もやったしな」と思ったものである。当然、激怒するわけにはいかない。

 するとなぜかまた、「すばる」の対応がコロリと変わった。一一月号に載せるから、ヤマダ、そう怒らずに。怒ったりしていませんよ。呆れているだけです。

 結局「王様の結婚」は一一月号に掲載され、翌一二月、単行本が店頭に並び、何度か版を重ねた。「苦すぎたあの愛。過去完了。もうひとつの愛。現在進行形」が、この本の帯のネームだ。誰も褒めてくれなかったけれど、この頃からネームの腕があがってきたように思う。

 さて、『王様の結婚』刊行の結果、「すばる」編集部との溝はさらに深まった。編集長に事後報告ばかり、というのは確かにまずかろうが、結果オーライなら文句ないでしょう、というのが私の言い分で、これでは完全停戦はありえない。

 その後、佐藤正午さんとは、書き下ろしの『リボルバー』、「青春と読書」連載の『童貞物語』、「すばる」掲載の短編集『夏の情婦』の三冊の本を一緒に造った。私は「すばる」からさらに距離を広げ始めていた。それで、佐藤さんを純文学からひき離そうとしたのだが、作家の足取りを軽視して、自分の都合で佐藤さんにミステリー的な世界をお願いしたことは、私の傲慢だった、と反省している。

 その後、佐藤さんの書籍担当を別の人に譲った。そもそも私に「永遠の1/2」の応募原稿を読むよう頼んだ編集者が、「すばる」編集部から異動してきたのである。代わるのが筋だと思ったのだろう。

 佐藤さんの才能を疑ったことはない。しかし、私の軸足はすでに、冒険小説、ミステリーに移っていた。あの筒井康隆さんの預言した次世代による豊饒な小説世界が、手の届くところにあったのだ。

 

 佐藤正午さんは、その後も佐世保を出ないまま、莫大な量の文学と小説を分析的に読み、ひとり孤独な瞑想と創作を持続したのだろう。そして、彼に心酔し、行動力のある編集者が並走していたのかもしれない。私が彼の作品に触れなかった一〇年ほどの間に、佐藤正午という作家は大きな存在になり、再び私の前に現れた。たゆたうような酩酊感のある文章はさらに進化し、プロットはより明快になって文章に溶け込んでいた。そして再読、再々読するとさらに別の発見がある、という高みに達していた。

 私は、彼に二年か三年、東京で暮らして同業者や編集者と付き合いつつ、業界を見ておく時期が必要だと勧めたことがあった。しかし、そんな必要などなかったことを、佐藤さんは自らの仕事で証明してみせたのだ。

 業界用語だと思うのだが、「一作家、一ジャンル」という敬称がある。帯にそう書かれたが、消えていった作家も多い。現在私がその言葉で想起する現役作家は、筒井康隆さんと村上春樹氏と川上弘美氏くらいだろうか。

 しかし今こうして振り返ると、佐藤正午さんもその「一作家、一ジャンル」の列に並んでいたことに気がついた。

 孤独な長い時間に耐えて大きな存在となった佐藤さんに、あらためて敬意を捧げたい。

(やまだ ひろき・編集者)


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