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サエキけんぞう 異才の衝突が生んだ音楽革命[『図書』2025年1月号より]

異才の衝突が生んだ音楽革命

──北山修と加藤和彦

 

 僕は日頃バンドのボーカルや作詞家など主にアーティスト活動を生業にしているが、音楽に関する文章を書いたりトークイベントを主催するのも大事な活動としている。なかでも力を注いできたのが、90年代にスタートさせた「コアトーク」というイベントだ。これは時代を画した多彩なミュージシャンをゲストに招き、当事者としての貴重な証言を聞くもので、音楽トークイベントの草分け的存在である。

 おかげさまで昨年(2024年)5月、100回目を迎えることができた。その記念すべき夜に、作詞家、精神科医、そして何より「帰って来たヨッパライ」などで知られる伝説のバンド、ザ・フォーク・クルセダーズ(以下、フォークル)のメンバーだったきたやまおさむ(北山修)さんを呼ぶことにした。

 実はこの決断は、自分にとっては清水の舞台から飛び降りるようなものだった。なぜなら人生で初めて買った(小学4年生の時だ)レコードである、フォークルのアルバム『紀元貳阡年』(1968年)にとてつもない影響を受けたからである。医学生の時にデビューした北山さんの人生を数十分の一で縮小再生産したかのように、僕は歯科医を目指す大学生だった頃にロック・バンド「ハルメンズ」でデビューし、またその後、作詞家になるというキャリアまでも踏襲している。北山さんが医学者として大成した一方、僕は臨床を8年目に断念しているのでお恥ずかしい限りだが、やはり北山さんは尊敬してもしきれない大先輩なのだ。

 日本のポピュラー文化を大きく変革したフォークルについては、プロとしての活動が1年ということもあり、謎が多い。多大な影響を受けてきた僕としては、禁断の扉を開かずにはいられない。北山さんを「コアトーク」にお呼びして、失礼を承知で土足で踏み込むような質問を繰り出した。(以下、敬称略)

露出力を備えたボーカルの突出性

 京都の医大生だった北山修は1965年、同じく京都の大学生だった加藤和彦による雑誌『メンズクラブ』の「メンバー募集」欄への投稿に応募する形でバンドに加入。ベースが空席ということでベーシストに収まった。以後、2人を中心に結成されたフォークルは、京都のフォーク・シーンを牽引する勢いで活発に活動する。高校生の頃から信じられないほどの本格演奏指向で、早期にマーチン製のギターを手に入れていた加藤と違い、北山は「ベースが空席だった。演奏は何とかなるだろう」という軽い気持ちでメンバーになったと回想する。「そんなもん、テキトー」などとすぐに謙遜する北山だが、いやいや、極めて立派な演奏であった。数種類発売されているフォークルのライブ盤を聴けば明らかだ。

 それだけではない。吉本興業などの漫才師顔負けの北山のトークは、キレ味がすさまじかった。当時小学生だった僕は、それを聴いてすぐに学校のお楽しみ会で漫才コンビ「低能ブラザース」を組み、音楽よりもむしろお笑いへと走り出してしまった。

 今回のイベントのトーク中にも、僕の相槌がちょっとだけ上の空になった瞬間に「サエキ君、いま僕の話聞いてなかっただろ」と突っ込まれた。焦っていると、「これは(昔から舞台で使われた)ネタなんだよ!」と思わぬ「芸能系の指導」をされた。かように北山の「芸」は玄人はだし、いや玄人そのものある。

 歌についてもそうだ。北山の自伝『コブのない駱駝』(岩波現代文庫)にも、ある音楽プロデューサーから「北山は下手」とからかい半分で言われたエピソードが書かれている。しかし、もしフォークルに北山の歌がなく、他の2人のメンバー(加藤と端田宣彦)の歌だけだったら、あれほどのブレイクはしなかった。

 「悲しくてやりきれない」の「胸にぃ~しみる空の」の「胸にぃ~」と歌う部分の北山の声の威力はどうだろう。この“実感力”は他のメンバーにはけっして出せないインパクトを持っている。「あの素晴らしい愛をもう一度」の「赤トンボの唄を~」の部分もそうだ。ビートルズでいえばジョン・レノンの役割。ロック、ポップスの分野において露出力を備えたボーカルの突出性は、バンドがシーンのメインを張れるかどうかが決まる一番重要なポイントだ。

無茶ぶりが生み出す飛躍

 さて、そんなフォークルの最大の謎といえば、レコーディングである。メジャー・デビューするきっかけとなった大ヒット曲「帰って来たヨッパライ」は、彼らが初めてつくったオリジナル曲だった。曲づくりは、同じく盟友だった松山猛が詞を書き、フォーク・ブルース曲を下敷きに地味でマニアックな曲調で始まった。そのままいけば、学生のつくる、ありがちなフォーク曲になっていたかもしれない。ところが、西本願寺の近所にあった北山家の応接間で始まった制作は「みるみるうちにものすごい変貌を遂げていったんです」と、同じく「コアトーク」102回目のゲストとして登壇した松山が回想している。

 応接間には北山家所蔵のオープン・リール・レコーダーがあり、再生速度を二段階に調節する機能があった。それを使うことで、有名なテープの早回しの“ケロケロ声”がつくられたのだ。しかし、あれだけハチャメチャな曲ができたのは、はたして機材だけの問題なのか?

 加藤和彦の音楽脳は、そこで突如としてスイッチが入った。楽器音のダビングや歌を早回しする際、メトロノーム音を入れて歌と曲が安定する指標としたのだ。そして、そこに北山は妹が弾く「エリーゼのために」のピアノ演奏や、家にあった木魚、さらにはビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」の歌詞のお経などを加えていった。まさに音楽効果の嵐である。こうして、早すぎたテクノ・ポップ曲ができあがったのだ。

 それは明らかに前年(1966年)に出たビートルズのアルバム『リボルバー』の影響である。ドラッグの影響下に、とんでもないエフェクトの数々と新しい録音手法を編み出した、このアルバムはどのようにつくられたか? 最初に録音された曲「トゥモロー・ネバー・ノウズ」で、ジョン・レノンは「数千人ものチベットの僧侶が経典を唱えているような感じにしたい」と無茶ぶりをした。ここが大きなポイントである。無茶ぶりは、創作にしばしば大きな飛躍を与える。この無理なオーダーに、利発だったビートルズの新人エンジニア(ジェフ・エメリック)がスパークし、同アルバムの録音は次々と新技術の嵐になったのである。

 このジョン・レノンのような突飛なアイデアを北山が次々と出したのではないか? なぜなら、フォークル後も加藤はサディスティック・ミカ・バンドをはじめ様々な音楽活動をすることになるが、『紀元貳阡年』ほどアイデアにあふれた録音は他にないからだ。北山といる密室(スタジオ)、そこで加藤の脳がありえないほど覚醒した。そんな痕跡がこのアルバムには多数見受けられる。

分裂とカオスに満ちた作品

 『紀元貳阡年』のポイントは、ここで開花した北山の作詞作品にもある。実は北山はアマチュア時代には詞を書いていない。「帰って来たヨッパライ」が深夜放送で火がつき、1年間、休学しメジャー活動をすることになってから、北山は初めての作詞作品「コブのない駱駝」を書き下ろすことになる。のちに北山の自伝のタイトルにもなったこの作品は、人間存在の不可思議さを説話のような荘重さで語る。奥深い内容を歌っていながら、ユーモアがあるおかげで、なんともいえない親しみがあり、疲れることがない。北山の魅力が凝縮されている。これに加藤の才能がまたスパークし、アラブ風のキテレツな曲がついて、いままでにない不思議な世界観ができあがった。

 珍妙なパーカッションが炸裂する「レディー・ジェーンの伝説」もすごい。これもボーカルが早回しになっており、加藤の最高にコミカルなボーカルが水を得た魚のようだ。「ドラキュラの恋」は北山のソロボーカルだが、ブラック・サバスなどが登場するよりも前に、ゴシック調の世界観を展開している。その発想の新しさ、先見性はビートルズをも凌駕している面があるかもしれない。

 こうしたノベルティ調の“おもしろ曲”と、「花のかおりに」「オーブル街」のような可憐な叙情性をもつリリカルな楽曲が同居する。さらに「何のために」のような政治的批評性をもつ曲もある。『紀元貳阡年』は、まさに分裂しきった人格性を詰め込んだかのようだ。人格の分裂……それは『「むなしさ」の味わい方』(岩波新書)など精神分析学者としての著書も多く著してきた北山の研究の対象ではないのか?

 加藤と北山がつくり出した『紀元貳阡年』のカオスは、まさに北山自身の分析の対象とすべき内容であり、その後の2人のソロ作品には見られないものだ。「エリナー・リグビー」もあれば「イエロー・サブマリン」もある、ビートルズの『リボルバー』をお手本にしたマナーだが、それをもっと発展させていると思える。北山の知的な批評性を伴った、お笑いの玄人ともいえる「ツッコミ」は、加藤の脳をありえないほど刺激したのではないか?

得体の知れない火花が散る

 加藤は「帰って来たヨッパライ」のヒットを期に変身した。フォークルとしてメジャー・デビューする際、それまでかけていたレンズの厚い黒縁の眼鏡を外した。美青年のミュージシャンに変貌し、ザ・タイガースのジュリーやザ・テンプターズのショーケンにも負けない黄色い声援も浴びるようになった。その後、加藤はサディスティック・ミカ・バンドでも髪を緑に染め、第二の変身を遂げる。さらに安井かずみとの結婚に際してもスタイリッシュに変身する。まるでデヴィッド・ボウイのような人生を送ることになる。

 北山はそんな加藤の変身をどのように受け止めたのであろうか。北山は実はフォークルの活動の「プロデューサー」であったことを自伝でも吐露している。北山に見守られてのびのびと変貌を遂げていった加藤のフォークル時代は、そうしたミュージシャン人生の飛躍の時期といえるのかもしれない。

 フォークル解散から3年後の1971年につくられた不朽の名曲「あの素晴らしい愛をもう一度」がどうやって生まれたのかを、加藤の恋人でサディスティック・ミカ・バンドのボーカルだった福井ミカが著書『ミカのチャンス・ミーティング』(JICC出版局)で語っている。

 「ある日、トノバン〔加藤〕がギターを弾いて、キンタ〔北山〕が歌って、私がインド製の皮張りの小さな椅子をパーカッション代わりに叩いて、かわいい歌が出来上がったの」

 密室に加藤と北山が集う時、得体の知れない火花が散る。とんでもない大騒ぎをするうちにあの傑作が生まれたのである。

(さえき けんぞう・ミュージシャン)


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