森本あんり 幸せになる能力(たぶん)[『図書』2025年2月号より]
幸せになる能力(たぶん)
『魂の教育』を書き終えて
できあがったばかりの本を贈呈した友人の一人から、「美しい本」をありがとう、という返事をもらった。これまで何冊か本を出してきたが、そんなふうに言われたのは初めてで嬉しかった。
たしかに美しい。表紙と帯に使われている上品な枝葉の柄は「モリス調」というのだそうで、『世界』連載時の開始頁から意匠を引き継いでいる。そこにワンポイントのあしらいがついていて、日記や手帳の雰囲気を漂わせている。柔らかい白地カバーの質感や手触り、本文の紙質から活字の組み方まで、型どおりの新書や選書とはまったく違う単行本の趣がある。
いったいどんな経緯でこの本を書くことになったのか、少し記憶をたぐり寄せて記してみよう。最初に企画の提案をいただいたのは、前著『異端の時代』(岩波新書)を担当されたHさんからだった。若い読者向けに、授業で語るような調子で、わたしの読書歴を通して半生をふりかえるような本を書いてもらいたい、ということだった。大学の同窓会で受けたインタビュー記事や、新聞に掲載された「半歩遅れの読書術」(四回)などをご覧になっての相談だったが、当時わたしは長年勤めた大学を換わったばかりで、新しい仕事は懸案の大学改革を大きく前進させるという困難な役目だった。本務の他に、前任校時代から担当していた新聞の書評委員も続いており、そんな中で新しい本の執筆にどれだけ時間を割けるか不安で、お返事を何度かぐずつかせてしまった。
おまけに、ご参考にと言ってHさんが持ってこられたのは、『魔女の宅急便』の著者である角野栄子さんの『ファンタジーが生まれるとき』と、ハイデガー研究者の木田元さんによる『私の読書遍歴』だった。そんな高名な方々の本ではとても参考にはならない。わたしがどんな本を読んできたかに興味をもつ人なんて、いったいどれだけいるだろうか、というのが素朴な疑問だった。それで、少しずつ月刊誌に書いて様子をみる、ということで始めたのがこの連載である。
結局それが二〇回も続くことになったのだが、こうして一冊の本になってみると、特に前半は過去の嘘と悪行の連発で、自分で書いておきながらかなり恥ずかしい、というのが正直な実感である。名前にまつわる虚偽説明から、「アメーバの研究」でっち上げ事件、それに「懸賞論文」心情操作疑惑(それも二人分)と、関係各方面の方々に半世紀遅れでそおっとお詫びするばかりの展開になってしまった。まあみんな事実だからしかたがない。連載時の標題にした「ボナエ・リテラエ」というのは、いかにも高雅な人文主義的教養をさす中世以来の伝統的な言葉なのだが、とてもそんな立派な話ではない。それでも何とか壊れずにここまで生きてくることができた、そしてそれは読書を通して養われた力のおかげだ、というのが本書でお伝えできることである。闇が深ければ深いほど、光は明るく輝く。だから本書は、わたしにとっては救済と感謝の物語である。
実は、しばらく前にこれと似た話をしたことがある。大学祭の企画で学生に「ラストレクチャー」を頼まれた時のことである。「ラストレクチャー」というのは、二〇〇七年にカーネギーメロン大学のランディ・パウシュ教授が行ったのが最初だ。パウシュ自身はガンで余命宣告を受けており、事実それがほぼ最後の講演となったのだが、それ以後多くの人が「人生の最後を目前にしたら何を語るか」という設定で講演をするようになり、しばらくアメリカで流行した。そう言われると、たいていの講演者は子ども時代から話を起こし、自分の人生を一つの物語に編み上げて語る。単なる学問や仕事の総括ではなく、人生全体の総括である。そして若い世代に自分が大切だと思うメッセージを託し、最後は「感謝」で締めくくる。わたしの話もだいたい同じような経路を辿る仕儀になったが、最後のところで立ち止まらざるを得なかった。さて、いったい人は、自分の人生を誰に感謝したらよいのだろうか。ここには小さな神学の問いが潜んでいる。
当時わたしは、五〇歳を目前にしてようやく自分の名前にまつわる再発見をしたところだった。中学高校時代の親友だった小田嶋隆と三〇年ぶりに再会したのも、その頃だった。真っ暗な地下鉄の線路を二人で歩いたことを思い出させてくれたのは彼である。彼がその話を持ち出すまで、わたしはそんなことがあったということをまったく忘れていた。わたしの高校時代はあの地下鉄の線路と同じくらい真っ暗だったから、当時のことはなるべく思い出さないように、まるごと記憶の底に押し込めていたのだと思う。
それでわたしは気がついた。自分が三〇年もその話を忘れていた、ということに。暗い過去に縛られることなく、そんなことをきれいさっぱり忘れて今まで生きることができていた。いつの間にかそんなふうに自分が変えられていた。そのことに思い至って、ゆるゆると染みわたるような安堵を覚えた。だからやっぱりこれは救済と感謝の物語なのだ。あれからさらに二〇年近くが経つが、自分のライフヒストリーの書き出しと書き終わりは、かくしてこの連載を始めるずっと前から決まっていたように思う。
味わい深い本造りを担当してくださったのは、岩波書店編集部のSさんである。連載の全体を通してお読みいただき、それが何となく四つのまとまりになっている、ということを見極めたのもSさんだ。単行本化にあたり、連載時にはなかった図版を何枚か挿入しようということになったのだが、そのやりとりが印象的だったのでちょっと紹介しておきたい。
いちばん面白かったのは、生母の写真のことである。本文末尾に出てくる「ふとんの上で母と一緒に就寝前のお祈りをしている姿」をコピーして送ったところ、写真は「ないほうが泣ける」と言われて、思わず笑ってしまった。わたし自身は読者の涙を誘おうとして書いているわけではないのだが、そこまで読んできた人がそれぞれ自分の母親像を思い描いているのに、写真の実物が出てくるとそのイメージが壊れてしまう、ということだ。たしかに、わたしにとっては宝物のような写真なのだけれど、写っているのはいかにも昭和な着物姿の母と四歳のわたしである。よく見ると、ふすまにはもみの木や動物の切り絵が張られていて、どうやらクリスマスらしいことがわかるが、その上には洗濯物のタオルがぶら下がっている。あまりに生活臭がするので、これはやめにして、代わりに母の自筆になる信仰告白を載せましょう、ということになった。
プリンストン市内の「エドワーズ通り」の写真は、留学時代ではなく客員教授で一年を過ごした時のものである。ダグウッドの花が満開になった暖かい春の昼下がり、エドワーズ宅(つまり旧学長公邸)のあった小路の角で、背景にはメインストリートに移転する前の古いユニバーシティ・ストアが写っている。実はこの写真、研究休暇中だったこともあり、バンダナにサングラスといういでたちで、脇に愛犬を抱え、要するにかなり気の抜けた自分が写っている。Sさんとのやりとりでは、画像処理をして本人を消してもらいましょう、という話になったのだが、それでは写真がどうにも不自然になる、という製作担当の判断で残ることになった。これもやっぱりちょっと恥ずかしい。
他に、第一男子寮のイニシエーションの集合写真も提案してみたところ、これはさすがに編集者の健全な良識で掲載しないことになった。女装コンテストに新入生全員が並んだ写真は壮観で、わたしは見事三位に入賞したのだが、入賞が適切だったかどうかの判断を読者にしていただく、という願いは残念ながら叶わなかった。
刷り上がったばかりの『魂の教育』を読み返してみると、再読本が多いことに気づく。過去に読んだ本を後になってもう一度読むと、昔の読書体験がふわりとふくらんで浮かび上がってくる。マルクスの『ヘーゲル批判』も、ウェーバーの『古代ユダヤ教』も、森有正の『ドストエーフスキー覚書』もそうである。北森嘉蔵の『神の痛みの神学』や大木英夫の『ピューリタン』にも目を通しているはずだが、それらは著者たち本人が授業で語ったことのほうがずっと印象深いので、再読といっても以前に聞いたことを本の中に読み直す、という作業になった。アマチュア無線の雑誌『CQ ham radio』のように、年月を経て対面するのにかなり覚悟が必要だったものもある。
何十年も前に読んだ本のことを覚えているということは、本の内容もさることながら、その本を読んだ自分のことを覚えている、ということだ。自分がその時どんな人生の段階を生きていて、どんな思いでその本を読んだのか、そのことを覚えているのである。だから、読み直すという作業は、過去の自分が追体験していたことを現在の自分がさらに追体験する、ということだ。
後半は、二〇世紀の神学者たちがどんな思いで歴史を刻むことになったかを、わたしなりに脚色して書いたものである。無名の田舎牧師だったバルトが当代最高の知的権威ハルナックに挑戦し、近代啓蒙のお花畑に爆弾を投げ込んだ時、彼を支えたのはどんな信念だったのか。スイスの神学者ブルンナーが世界中の読者を待たせたまま、創立間もない小さな私立大学の招きに応じて戦後すぐの日本に赴任した時、彼はどんな覚悟だったのか。そしてその二人が歴史的な決裂から三〇年後、人生の最期に和解の挨拶を交わした時、彼らの心にどんな思いが去来したことか。
二〇世紀初頭に解釈学という学問を発進させたディルタイによると、「人間の幸福の大部分は、他人の心境を感じ取ることに起因する」。われわれの幸福は、たしかに他人の心をどう解釈するかにかかっている。自分の愛しい人が口元をほころばせている。あるいは眉根を寄せている。手紙やメールでこんなことを書いてきた。それらがいったいどのような心境をあらわしているのか。その解釈に必要なのは「追体験」である。そして、追体験の能力を養うには読書がいちばんである。人は読書を通して他人の世界を擬似的に体験し、そこに自己を移入して解釈の領野を拡げる。だから本を読むと、人は幸せになる能力が高くなるのだ。たぶん。
(もりもと あんり・神学、宗教学)
<『魂の教育』刊行記念イベント>
幸せになる能力高めます(たぶん)──『魂の教育』を書き終えて
日程|2/23(日)15時00分~
会場|MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店 4階イベントスペース
登壇者|森本あんり(東京女子大学学長、国際基督教大学名誉教授)
詳細は下記サイトよりご覧ください。
https://online.maruzenjunkudo.co.jp/products/j70065-250223