宮本文昭 見たことのない景色へ[『図書』2025年2月号より]
見たことのない景色へ
ふり返って思うと、小澤(征爾)さんと一緒に演奏活動が出来たのは三十数年間だった。それは、とっても長かったような、短かったような……。というのは、サイトウ・キネン・オーケストラ、そして水戸室内管弦楽団での演奏の機会を数えると、多くて一年の内で二回か三回のみだったからだ。
しかも、私のあつかっている楽器(オーボエ)の発音体(リード)の準備があることから、そして私が下戸であることも影響してか、ついぞオーケストラリハーサル後に一緒に飲み食いして騒ぐ、などという、いかにも音楽仲間ではありそうなシチュエーションに恵まれることはなかった。これは今にして思えば本当に心残りなことだったが……。ただし、音楽を「演奏する場」での「時間の共有」という点から見れば、 飲んで騒ぐ場面より、ずっと濃い、密度の高い時間を過ごしたなぁ、と、ふり返ることが本当に嬉しく、誇らしく思えてくる。
特にサイトウ・キネンにしろ、水戸室内管弦楽団にしろ、世界に散らばった仲間が、それぞれ各地で磨きをかけた中味を持ち寄ってぶつけ合う真剣な時間だったことは間違いないことなので、その時間は高密度で濃くならざるを得ず、だからそれ以外の時間を欲しくはなかった、とも言える。そんな、とんでもないエネルギーを携えた数十人の音楽家をたった独りで迎えなければならなかった小澤さん。本当にスゴいパワーと決意をもった人だったと、今さらながら思う。
一度何かのインタビューで答えている小澤さんが「小澤はちゃんと勉強して来たのか? と試される場所──それがここ、みんなが集まってくれているリハーサルの場所です」と仰っていたのを今でも時々思い出す。
お互いのベストを見せ合う、推し量り合う、何より一番それをフムフム……と聴きながら、より一層の高みへ導く……。ご自分では 「ボク、小澤も成長した事の試金石として」と表現はしつつも。
日本人が西洋音楽に最初に触れた時にもった疑問、「この西洋音楽というものを日本人が本当に理解し、西洋人に納得してもらえるレベルまで引き上げることは、一体可能なのか?」という、小澤さんの師匠齋藤秀雄先生の一生の問いかけに答えを出す作業を、小澤さんは必死にボク等と共にされていたのかな? と思う。
ザルツブルク音楽祭の楽屋でコンサート後にポツンと「齋藤先生は今の演奏を聴いていたかな?」と漏らすのを聞いた事がある。あれこそが小澤さんご自身の、そしてボク等を巻き込んだ、いや師匠の齋藤先生も含む我々日本人が一度は問いかけてみたい疑問であり、その先頭に立って問いかけていらっしゃったのが小澤征爾氏なのかな、と思う。
小澤さんとのリハーサルを思い出すとはっきり浮んでくる言葉があって、それは「簡単には終わらせない」という言葉だ。正に言葉どおり、リハーサルを「簡単に終わらせ」てくださったことは一度としてなかった。
もう四回もコンサートに掛けた(コンサートをやってきた)のだから、五回目の今回はリハーサルなしで、そのまま演奏会の舞台の上で会いましょう! 的なことはよくあることなのだが、小澤さんは「一応(リハに)集まってもらったから、ちょっとやっておこうか?」といって始めると、毎回必ず時間一杯まで、本気度100パーセントの形相で我々に要求してこられた。我々としては、「本気」は本番に取っておいて、リハーサルは軽くすませるだろう……などと、最初は期待していたのだが、おつき合いが長くなった人間は、「アッ! やっぱりやるんですね」と心の中でつぶやいて、「はいッ! 本気モード」へと突入していくのだ。
本来演奏家は、本番直前は65パーセントから70パーセントくらいの「感じ」でリハーサルをするもの(他の指揮者も例外なく)なのだが、小澤さんは、一度始まると「常に本気」「常に100パーセント」のヒトなので、ついつい雰囲気にのみ込まれて、こちらも本気になってしまう、というのが常でした。
この「のみ込まれる」「のみ込ませる」達人である事は、多分「小澤征爾」の究極の特技、天からの授かりものだったと、今でも信じている。先に書いたように、本来リハーサルは「65パーセントから70パーセント」のあたりで、というのが当然だし、それに注文をつけて怒ったりする人もいないのだけど、また、思わず本気度100パーセント、だなんて、普通はあり得ないことなのだが、我々は逆にそれ を「気持ちの良い、何度でもやりたいこと」だと嬉々としてやっていた。
しかも本当の本番になると「それ以上、昨日以上、過去以上」のレベルをお互いに「見つけ合ってしまう」──そのあたりの誘導が極端にお上手だったよなぁ、と思い出してしまう。その期待をしてしまうから、小澤さんのいる「場」でのオーケストラ演奏は常にハードルが上がり、天井知らずの展開となり、見たことのない景色に連れていってくれる、とんでもない世界──唯一無二の世界だった、と思い返している。
クラシック音楽が嫌いな方々には「何をバカな! 決められた楽譜を決められたとおりに演奏して、《見たことのない景色》に到達するなど、あり得るはずはない!」と一蹴されそうだけど、それが「ある」んですよ! 本当に‼
小澤さんにはそれが出来た。
小澤さんにはそれを引っぱり出す「力」があった。
だから「小澤征爾」なのだろうと思っている。これは一緒の舞台で本番をやったことがないと、そう簡単には腑に落ちないことかも知れない。
はたして、小澤さんがソレを出来る、あるいはソレをさせてしまう「源」って、いったい何だろう? と、たびたび考えてしまう。
ある文筆家の書かれた文章の中に、その答え──全てではないけれど、ある部分は「多分、これなのかな?」と推理させるものがあったのが、強く印象に残っている(これは決して断定しているのではないことだけは、重ねて念を押しておくが)。
その文筆家の方は、「全ての芸術を創り出す人々の原動力、パワーの源は、よく言われ、信じられ易い断定──あふれ、湧き出すものがあるからこそのなせる業──というのは誤解(違う)で、本当は、「自己の中の欠落した部分を、世の中の人に理解してもらおうとする渇望」なのではないか?」とする文脈で述べていた。つまり、「自分はひとから理解され難いんじゃないのか? という焦りみたいなもの……それを言葉、言語というもの以外の「形」だったり、「色、景色」だったり、「音」だったりするもので補いたい、補ってより完全に近づけて伝えたい! という「渇き」みたいな欲求になるのではないか?」とする文脈で。
ここの、自己の中の欠落とは、《自分の中で強く求めずにはいられないもの》と理解するのが妥当と思われ、決して《欠陥》と表現したのではない、と私は思っている。
何かを伝えるために言語を使ってみても、軟骨の周りのようにくるり、コロリとスリ抜けてしまって、本当に伝えたいことは、どれだけの単語や言い回しを駆使しようとも、決して言葉では伝え切れない。それを芸術の中の何れかのツール(音楽、絵画、彫刻、建築物など)を使って伝えようとしているのでは、ということを述べた文章だと思う。
これが全てではないけれど、小澤さんは普段話す際には、何か核心のことを話そうとするときになると、まだるっこしいなぁ、という表情をされているのを何度も見かけたことがあった。
ある時、建築家の方との対談の中で私が「建築家の方はすごく羨ましいです! 作品が消えてなくならずに、確定した形状としてそこに残り続けてくれるんですから」と申し上げたところ、「宮本さん、だから逆に辛いのです」といわれたことがある。今にして思えばその御本人も伝え切れなかった「渇き」のようなものに、次から次へと掻き立てられているのかな、などと思ったりしている。
小澤さんは常に「完全な理想の完成型」を求めて何度でも何度でもトライすることが生きている自分の証明だったのかな、と勝手に空想してしまう。
日本人にソレが可能なのか?
ヒトは「不明なもの」を解き明かしたいという欲求に、強力なエネルギーで向かっていくもので、それは小澤さんの師匠の齋藤先生から小澤さんへ持ち越された。受け継がれた「クエスチョンマーク」を圧倒的なパワーで「問い続け」、向かい続けた日々が小澤さんの一生だったのではないか? と思うのです。
創造する世界が形として残らないからこその素晴らしい自由さと脆さ。それを知った上での飽くなき追求心と集中することの素晴らしさ……。
それらをボク等仲間に、無言で指し示してくれていたのかもしれない。
(みやもと ふみあき・音楽家、小澤征爾音楽塾講師)