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【特別公開】処刑人を赦した殉教者(踊共二『非暴力主義の誕生──武器を捨てた宗教改革』より)

踊共二『非暴力主義の誕生──武器を捨てた宗教改革』

 今から500年前の1525年、暴力の吹き荒れる宗教改革のさなかに「再洗礼派(アナバプテスト)」と呼ばれるキリスト教の一派が生まれました。彼らは幼児洗礼を否定し、兵役を含むあらゆる暴力を拒んだため、異端視され、迫害されました。

 しかし「非暴力主義」をつらぬいた彼らの長年の信仰はやがて良心的兵役拒否の制度化につながり、現在では修復的正義(司法)、パレスチナ人とイスラエル人の和解の活動などにも影響を及ぼしています。

 非暴力主義のあり方を改めて考えるために、踊共二著『非暴力主義の誕生──武器を捨てた宗教改革』(岩波新書、2025年)より、「愛敵と赦しの精神」にかんする箇所を一部抜粋して掲載します。


芽吹き花咲く火刑柱

 グラウビュンデン出身の再洗礼派指導者イェルク・ブラウロックは、ティロル南部の都市クラウゼンの近くで1529年に火刑に処せられたが、彼は処刑の前、石打ちにあって殺された初代教会最初の殉教者ステパノの最後の祈りの言葉(使徒行伝7章60節)を口にし、「ああ主よ、わたしたちのすべての敵のためにわたしは祈ります。彼らがどれほど大勢であったとしても。彼らの罪を彼らに負わせないでください。わたしはこのことをあなたのみこころに従ってこいねがいます」と叫んだ。ステパノの祈りは十字架につけられたイエスが口にした迫害者に対する神の赦しの祈りを受け継いだものであり、それは愛敵の教えの実践であった。ブラウロックも同じ教えに従ったのである。彼には迫害者に対する神の復讐や罰への期待はなかったと考えられる。

 愛敵と赦しの精神をもって殉教する再洗礼派の数は時の経過とともに増えていった。これはスイスの場合もオランダの場合も同じである。オランダ東部の小都市デルデンで1544年に火刑にされたファン・ベックム姉妹(マリアとその義妹ウルスラ)は、死刑執行の前に2人で次のように祈ったとされる。「神が判事たちの罪を赦してくださいますように。彼らは自分たちが何をしているのか、わかっていないのです」「神が彼らをあわれんでくださり、彼らの魂を天国に迎えてくださいますように」と。処刑に立ち会った人たちは感動の涙を流したとされる。その後、マリアの処刑に使われた火刑柱は緑の葉をつけ、花を咲かせたという伝説がある。付近に住むメノナイトたちは、19世紀にいたるまで、マリアの命日(11月13日)になると処刑場所に緑の枝を飾ったという。ファン・ベックム姉妹は、イエス・キリストの教えを忠実に実践し、迫害者の魂の救いを願うまでに敵を愛し、彼らのために祈ったのであった。

 愛敵の教えは再洗礼派の家庭教育のなかで後続の世代に受け継がれていった。殉教者が家族に宛てて獄中から書いた手紙や遺言は印刷されて信徒向けの読みものの役割も果たしていた。1560年にベルギー北部の都市ヘントで処刑されたソトケン・ファン・デン・ハウトという女性は子どもたちに次のように書き送っている。「あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちに悪態をついたり苦しめたりする人たちのために祈りなさい。他人を苦しめるより自分が苦しむべきです。他人を非難するより自分が非難されるべきです。他人から何かを奪うより自分が奪われるべきです。そして他人を叩くより自分が叩かれるべきです」と。平易な言葉で書かれているが、この手紙は愛敵とノンレジスタンスと受難の精神に貫かれている。

マリア・ファン・ベックムの殉教
マリア・ファン・ベックムの殉教。左側には刑吏に腕をつかまれたウルスラがいる。ヤン・ライケン画。『殉教者の鏡』(1685年版)から。

敵を友に変えた殉教者──ハンス・ランディス

 チューリヒ農村部ヒルツェルの再洗礼派指導者、ハンス・ランディスの殉教をめぐる物語もきわめて示唆的である。1614年、ランディスは刑場での斬首を前にパウル・フォルマーという刑吏から「これからわたしがしなければならないことを赦してほしい」と頼まれたとき、「もうとっくに赦しているさ。神もあなたを赦しているよ」と明るく答えたという。それを聞いた刑吏はランディスを縛っていたロープを緩め、両手を天に挙げて祈ったとされる。『殉教者の鏡』によれば、刑吏の意図はランディスに逃走の機会を与えることであったが、彼は逃げることなく静かに処刑を待ったという。そして刑吏は命令(判決)どおりにランディスの首を刎ね、涙を流しながら「この人の血の責任はわたしにないことを神はご存じだ」とつぶやいたとされる。この記述の細部にはチューリヒ市当局がつけた記録と一致しない点があるが、ランディスの赦しの信仰が迫害者を共鳴者に、敵を友に変えたことに相違はない。

 20世紀の公民権運動の指導者キング牧師(1929-68年)は、白人(敵)からどんな仕打ちを受けても愛と赦しをもって応えることによって敵を友に変え、迫害される側と迫害する側の「二重の勝利」「二重の解放」が得られると教えたが、これと同じことが17世紀の迫害社会のなかで起きていたということができる。この倫理ないし信仰の実践の拠りどころは同じ聖書の箇所(イエスの山上の説教)であった。

 愛敵、赦し、受難の信仰と結びついたノンレジスタンスの教えは、1632年にオランダ再洗礼派によって「ドルトレヒト信仰告白」の第14条に明示された。すでに述べたように、スイス系の再洗礼派もこれを受け入れてメノナイト化し、そこから分かれたアーミッシュもこの条文の精神を守りつづけて現代にいたるのである。やや長くなるが、条文の全体を訳出しておきたい。

 

 復讐について、つまり剣で敵に立ち向かうことについて、わたしたちは次のように信じ、告白する。すなわち主キリストは彼の弟子たちとすべての信徒たちに対し、いっさいの復讐、報復を禁じ、悪をもって悪に報いず、呪いをもって呪いに報いず、剣をさやに収めよと言われ、かつて預言者たちが告げたように、剣を打ちなおして鋤とするように命じておられると。マタイによる福音書5章39・44節、ローマ人への手紙12章14節、ペテロの第1の手紙3章9節、イザヤ書2章4節、ミカ書4章3節、ゼカリヤ書9章8・9節。

 それゆえわたしたちは、キリストの模範に倣い、だれにも痛みや損害や悲しみを与えてはならないと考える。逆にすべての人の至福と救済を追い求め、もし必要であれば主のために、ある都市や国から別の場所に逃れ、財産を奪われても耐え忍ばなければならない。わたしたちはだれをも傷つけてはならず、もし打たれたときには報復することなく別の頰も向けねばならないのである。マタイによる福音書5章39節。

 そしてそれだけでなく、敵のために祈り、彼らが空腹であれば食べさせ、渇いていれば飲ませ、かくして善き行いによって真意を伝え、無理解を克服しなければならない。ローマ人への手紙12章19・20節。

 最後になるが、わたしたちは善を行って万人の良心に訴え、キリストの法に従ってわたしたちが自分にしてほしくないことを他人に対してしない姿勢を保たねばならない。コリント人への第2の手紙4章2節、マタイによる福音書7章12節。

 

著者略歴
踊 共二(おどり・ともじ)
1960年福岡県生まれ。1983年早稲田大学第一文学部卒業、1991年同大学大学院文学研究科博士課程を満期退学、2002年同大学博士(文学)学位を取得。武蔵大学リベラルアーツ&サイエンス教育センター教授。専門はスイス史、中近世ヨーロッパ史。著書に『改宗と亡命の社会史──近世スイスにおける国家・共同体・個人』(創文社、2003年)、『図説 スイスの歴史』(河出書房新社、2011年)、『忘れられたマイノリティ──迫害と共生のヨーロッパ史』(共著、山川出版社、2016年)、『記憶と忘却のドイツ宗教改革──語りなおす歴史 1517ー2017』(編著、ミネルヴァ書房、2017年)、『アルプス文化史──越境・交流・生成』(編著、昭和堂、2015年)、『一冊でわかるスイス史』(監修、河出書房新社、2024年)など。

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