思想の言葉:新しい組織化の時 高祖岩三郎【『思想』2025年5月号】
〈インタビュー〉情のダイナミクスと希望のありか
──知的来歴を語る
酒井直樹/(聞き手)石井剛
屍体をめぐる「倫理」
──医業に対する社会的要請と自戒の歴史から
香西豊子
〈委員会〉/カマリラ
──フロイト的対話の夜から
立木康介
モースはなにを読んできたか、そしてどのように読まれてきたか
カルロ・ギンズブルグ/上村忠男 訳
根拠不在としての自由
──自由に必要な形而上学を再考する
李太喜
昭和農本主義という幻像
──加藤一夫と権藤成卿(後)
蔭木達也
〈書評〉生きるに値する生とは何か
──マーティン・ヘグルンド『この生』を読む
髙村峰生
新しい組織化の時
──デヴィッド・グレーバーなき世界で
アメリカの現在
何が起こるか分からない不安の中で、人々はくらしている。おぞましき恐怖政治がはじまった。民主党の大統領候補は、イスラエルによるガザ侵攻の最中、同国のパレスチナ支配を一貫して支持するバイデン政権に非難が集中したことも手伝って敗北し、第二次トランプ政権が発足した。テックジャイアントが名を連ねるその寡頭体制は、全体主義国家をめざすかわりに、さまざまな国家/公共機関を解体し私有化するために、それらの職員をつぎつぎに解雇し、各種の助成金制度を廃止している。一方的な脅迫の外交、人種的支配を強化する移民の国外追放、妊娠中絶の犯罪化、創造説を公教育に導入するキリスト教原理主義……、これら全ては、アメリカの多様な民衆がどこまで蹂躙に耐えられるか測る「新しいファシズムの実験」とみなしえる。
未完の革命
この事態は、極右の復古主義に対する自由民主主義の敗北として語られている。だがより広く歴史的にみると、それはまずアメリカ民衆闘争に対する支配勢力の計画的な反動である。過去十年ほど、アメリカでは、そして世界では、無数の人々が、不正と弾圧に抗して、これまでにない決意をもって立ちあがってきた。警察暴力に対するジョージ・フロイド蜂起は、合衆国史上最大の反乱であった(1)。反植民地主義的趨勢が地球上で共振し、女性への暴力に対する激しい抗議が、世界南部を中心に連動していた。ガザ連帯の学生運動も、若者たちのパレスチナ人民への揺るぎない共感を訴えていた。たとえばアナキストの古老ベン・モレアは、古今の運動を比較して、六八年の方が激烈だったが、今日の方が強大である、という実感を述べている。しかし今や、反動体制が世界化している中で、その趨勢は一つのサイクルを閉じ沈静化している。
この趨勢は、さまざまな個人や集団や運動体をまきこんだ総体として、民衆闘争が惑星規模で共有しはじめた「蜂起」の志向性に導かれていた。それは、組織化されていない人々の大集団が、同じ怒りを共有して、自然発生的に都市中枢(広場や商業地区)に殺到し、場合によってはそこを占拠し宿営地をつくり、それら全ての推力が、一つの政治体制を倒し、その他の弾圧に挑戦する新しい社会形態を創造する、という志向性であった。これが二〇一〇年にチュニジアとエジプトにはじまり、何百もの国々に、人々が流通させた「通念」であった。そこには、もう一つ「占拠」の志向性が内包されていた。それは場所にねざした「自律圏」をつくる試みで、体制変換をいったん諦めて、生の形式や社会関係をふくむ多領域の変革を同時に進行させる戦略におきかえた。だが、これらはひとまず終息した。「占拠」は撤去されるか衰退し、「蜂起」は弾圧され四散するか、うまくいった場合には、終わることなき内戦か、独裁体制に帰結した。それを世界各地で闘った人々は、一国内の闘争は、一国内の体制に捕獲されるなら敗北する、という認識を共有している。
この出来事をどう受けとめるか? これは人類史上はじめて、地球上の広範な民衆が、同じ指導者も運動体もなく立ちあがり、しかし同時に体制を打倒しなければならないという「革命の不可避性」とであう経験だった。だがそれは未完に終わった。これは反グローバリゼーション運動から自己形成した現代の「活動家」が、それまで知らなかった新しい事態であった。かくしてそれを実感した「活動家」は「敗北した革命家」を自認することになった。無論、歴史上おおよそ新左翼の時代まで、国家権力を奪取するために武装闘争をめざした「革命家」も、解放された世界(共産主義)をつくることはできなかったのだが。
新しい(自己)組織化に向けた対話
二〇二〇年九月に早世したアナキスト人類学者デヴィッド・グレーバーは、この事態をじゅうぶん経験しなかった。わたしにとって、彼の死は象徴的である。今あらためて、彼が生きていたら、何を語り、どのように行動していたか、想像せざるをえない。初期グレーバーは、反グローバリゼーション運動時代のアナキズムと活動に言葉と形をあたえる理論家として登場した。その運動論は、一九九九年シアトルにおける世界貿易機関(WTO)への抗議行動から形をとりはじめた、自由連合を謳歌する反権威主義的な潮流の気風と(アフィニティー(類縁)・グループ、集団的合意形成、直接行動などの)方法を理論化するものだった。それは六〇年代新左翼のレーニン主義への批判から出発し、党派組織から自由連合へ、「革命家」から「活動家」へと運動の主体が転換していることを世にしめした。「蜂起+占拠」の重合は、こうしたアナキスト活動家の批判的後継者が、二〇〇七年の金融危機以降、世界各地で立ちあがった民衆の中に飛びこんで、その他の運動体とともに、偶発的にその趨勢にあたえた形式だった。今やこの趨勢がひとまず力の限界にたっした感を否めない。
この状況は、第一次大戦前夜、ボルシェヴィキが、世界各地のアナキズムを凌駕しつつ登場した軍事革命の時代を想起させもする。民衆の自然発生的な趨勢を、政治的な革命計画にとり込もうとした時代である。そこでは、国家権力を奪取し、社会主義政権を樹立し、それらの国際的連合組織(コミンテルン)によって世界の解放(共産主義)を実現するという革命論が一世を風靡した。だがこの志向性の失敗の後で、現今の限界が直面しているのは、国民国家の政治を超えた、よりはばひろい実存領域の変革である。民衆の趨勢が求めているのは、人間と他の生命体と地球環境の相関関係をふくむ、より深く広い領域の解放なのだから。つまり革命という理念そのものの転換が、まだ見ぬ地平に向けて起こっている。これが「未完の革命」のもう一つの次元である。そのための組織化とは何か? これこそ、敗北した革命家としての活動家がいま直面している課題である。かくして、いくつかの地域で、それに向けた対話がはじまっている。
新しい組織化の方法論がどのようなものになるか、まだ答えはない(2)。しかるに以下はわたし個人の大雑把な想像でしかない。一つありえる筋書きは、地域的闘争の地球的共振を方法化する新しい国際主義ということになる。
それは「蜂起+占拠」という偶発的重合をあらためて方法化することでもある。つまり固有の場所の占拠(自律圏)と都市的蜂起を、方法的に連動させること、国民国家の政治を横切りながら惑星的に共振させること、これを「共通意志」として組織化してゆくことであろう。その難題は、自然発生的趨勢と計画的政治のあいだの矛盾を、実践的に溶解すること、それも近隣から広域にわたるさまざまな地理的拡張性において、上からの組織化ではなく下からの(自己)組織化によって、超えることにある。したがって、それは確固とした制度の確立というより、ある種オーガニックな形式の共有をもとにした実験となるだろう。
その一つのモデルとしては、フランスの「地球の蜂起(les soulèvements de la terre)」が挙げられる(3)。たとえば日本の三里塚、フランスの空港建設反対闘争「ZAD」、アメリカ先住民スー族の石油パイプライン建設反対闘争「Standing Rock」、同じくアメリカの警察官訓練施設建設反対闘争「Stop Cop City」などは、特定地域の生活と環境を破壊する開発に対して、地元住民が、外からの参加者や集団との連合体を組織することで、彼ら彼女らの土地(自律圏)を防衛する闘いだった。この新しい運動は、こうしたいくつもの占拠闘争を、より広い領域で関係づける「拡張的組織化」の実験である。
現今の組織化をめぐる対話は、まだ見えない「革命」の総合目的に向けて、さまざまな場所の生きた闘争の言葉を―それぞれの苦難と願いと目的を―惑星規模で共有しようとする過程にある。そしてそれらの言葉の間の交流そのものが、新しい国際組織の土台になっていく、これが目下の期待である。
デヴィッド・グレーバーが遺したもの
グレーバーは、この現状を「革命の敗北」と呼ばなかっただろう。絶えざる行動をうながす彼の楽天性は、つねに「未完の革命」を想定していたが、あらゆる宿命的認識を避けていた。わたしは、ニューヨーク/ロンドンと住居が離れていたこともあり、人類学者としての天才を世に知らしめた彼の中期から晩年にかけての言動と、密につきあうことができなかった。しかし彼が、一貫性をもって、自分に求められている要請に応えていたことを知っている。困っている同志/友人の援助、学生との連帯行動、イギリスの闘争と政治、パレスチナやロジャヴァをはじめとする世界の民衆闘争との交流、教職、人類学社会の関係調整、そして公的知識人としての発言と人類学者としての諸著作……。ある共通の知人によると、グレーバーはほとんど寝ていなかった。そして執筆に疲弊した夜夜中に、しばしば浴槽に浸かって英気を養っていた。彼の突如の死について、いくつかの噂が広まったが、そこに過労が重なっていたことは間違いない。何を言おうと、彼は戻ってこない。彼の早世は、「未完の革命」に向けた、わたしたちの損失である。
グレーバーは、二〇一四年に、超保守派のイデオローグとして有名なピーター・ティールとの『未来はどこに向かったか』と題される公開討論に挑んでいた(4)。ことさら第二次トランプ政権下の今日、これをふりかえることは興味深い。ティールは、シリコンバレーの大起業家の一人で、その後、第一次トランプ政権の実現に顧問として参加した。言うまでもなく、これは本質的に敵対する思想間の衝突だった。彼らに共通の問題機制は、未来をつくるはずのテクノロジーの発展に支障があること、それは政治的に解決不能であること、そしてそこに官僚制の問題があることであった。ティールは、その解決策として「特権化された小集団」による「開発の加速化」を主張した。ここに彼の思想が見てとれる。それは右派的「自由意志主義」に、資本主義を極限まで推進しようという「加速主義」が付加されたおぞましき嵌合体である。全ての国家機関を解体し、寡頭制権力の網状組織をそれらと入れかえようという「新しいファシズムの実験」は、まさにその実現なのだ。
他方グレーバーは、二〇世紀初頭に共有されていた大きな夢を実現するテクノロジーの可能性が奪われていることに注意を喚起する。それは大学や研究機関において研究者が想像力を発揮するための協業的環境を、金融資本に統制された官僚機構が破壊しているためである。彼の発言には、ティールが無視している視点がある。よきテクノロジーの発展は、よき人間関係の発展の外にはありえない、ということである。人がつくってきたもの全ては、社会や国家はもちろん、貨幣から言語から都市からテクノロジーから環境にいたるまで、同時に「人間関係」をつくる実験だったからである。
グレーバーの優位を示すもう一つの視点は、「大小の問題」にかかわっている。わたしたちは固定観念に捕らわれている。小さい関係性は、より平等的かつ機能的で、大きな関係性は、階層序列的で対立抗争とともに機能不全におちいる。そして人類史は、小から大への拡大であった。この観念が、わたしたちの諦念に手をかしている。彼のテクノロジー観は、こうした「大小の史的宿命論」に惑わされぬ知性と想像力をつちかうことで、権力のみが操っている巨大企画の可能性を奪還することを、わたしたちに誘っている。
彼のアナキズムは、人類史における宿命論的認識とたたかう(自己)組織化のための思想であった。彼の人類学は、権力の優位を基礎づけるさまざまな固定観念あるいは起源の神話を覆すことに捧げられていた(5)。彼の民俗誌的かつ考古学的な研究には、平等主義的に形成された古代都市をはじめ、そのための実験事例がつまっている(6)。こうしたアナキスト人類学は、広大な平等主義的共同体を組織する可能性を垣間みせている。そこには今日の民衆闘争が、人間社会の総体としての「世界」にあらためて挑戦し、「新しい国際主義的組織化」を試みるための鍵が眠っている。
グレーバーにとって、この際どい公開討議にあえて挑むことは、自らが情熱的に選びとった闘争の声(報道官)たる使命の一環であった。この役割について、彼は多少やりすぎて批判されもした。しかし直接行動の先端をになうブラックブロック戦術を、自由主義的革新派の非難に抗して擁護しつづけた彼の声を、感涙なしに思い出すことはできない(7)。戦術家としてのグレーバーは、大規模な抗議行動において、群衆の動きを特定の場所や施設に向けて先鋭化するために、優柔不断に動く黒覆面集団と、その緊張感をほぐす道化集団の弁証法的やりとりを重視していた。彼と共に行動したことのある者は知っている。彼の組織化への情熱が真正であったことを。そしてわたしは知っている。グレーバーのような言葉を持たなくとも、彼の気風を共有し、彼のような情熱をもって組織化しつづけている「敗北した革命家」が世界中にいることを。
(1) 河出書房新社編集部編『ブラック・ライヴス・マター―黒人たちの叛乱は何を問うのか』河出書房新社、二〇二〇年。
(2) 日本において注目すべき革命的組織論の試みについては、長崎浩『叛乱論/結社と技術 増補改訂新版』航思社、二〇二四年。
(3) https://lessoulevementsdelaterre.org/ja-jp/blog/nous-sommes-les-soulevements-de-la-terre
(4) https://davidgraeber.org/videos/david-graeber-vs-peter-thiel-where-did-the-future-go-2/
(5) デヴィッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』高祖岩三郎訳、以文社、二〇〇六年、デヴィッド・グレーバー『資本主義後の世界のために―新しいアナーキズムの視座』高祖岩三郎訳・構成、以文社、二〇〇九年。
(6) デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明―人類史を根本からくつがえす』酒井隆史訳、光文社、二〇二三年。
(7) https://libcom.org/article/concerning-violent-peace-police-open-letter-chris-hedges