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数学の言葉への脱皮(新井紀子)


数学の言葉への脱皮
新井紀子

 私の研究室の、デスクから一番近いブックラックに数冊のノートがある。
 表紙に「数A1(解析)」「数A1(線形代数)」「数A2(解析)」「数A2(線形代数)」と自分の学籍番号と名前。私の人生を法学から数学へと方向転換させるきっかけとなった、松坂和夫先生の解析と線形代数の講義ノートだ。
 「数A1(線形代数)」の最初のページを開く。冒頭はこうだ。
 
 つまりは、『線型代数入門』の第2章の3節から講義が始まったのである。
 
 私が入学した一橋大学は社会科学系の大学である。にもかかわらず、数学の単位を確か8単位か10単位取ることが3年生に進級するための必須条件だった。多くの1年生が松坂先生の「数学A1(線形代数)」の講義の冒頭で「数学の言葉」に挫折したように思う。
 そこで使われる言葉は、私たちがそれまで好きではないなりにこなしてきた高校数学とは全く異質だった。行けども、行けども、「…で表す」「…と定義する」「…で定める」「…が成り立つ」「…が存在する」で終わる文章ばかり。慣れ親しんできた「…を解きなさい」とか「…を求めなさい」という文章が出てこない。しかも、Vとは何なのか、説明が、ない。「何の話をしているのか」さえ、90分の講義の中で、誰もわからなかった。
 当然である。線形空間とは、自然数や実数のような特定の対象を扱うのではなく、対象の性質を扱う分野だからだ。上記に掲げられた公理を満たせば、どれもが「線形空間」と呼ばれる。
 2017年に上野動物園で生まれたパンダの赤ちゃんが「シャンシャン」である、という具体物のことを話すための言葉ではない。言うならば、私たちは、「シャンシャンの話をする高校生」から「どのような観点から生物が分類されるべきかを考える大学生」になるように、「原点を通る円」について話す高校生から線形空間を理解する大学生に脱皮することを求められたのだった。

 だが、それは、天動説から地動説に宗旨替えをするより、難しいことだった。私たちは、具体物のことしか考えたことがなかったし、具体物以外のことを考えるための言葉をそもそも持っていなかったのだから。
 私たちは、タイムマシンで現代に突然連れてこられた縄文人のように、ここは一体どこなのだろう?私に何が起こったのだろう?という顔をしていたに違いない。そして、かなりの学生が、理解することを諦めようとした。

 けれども、松坂先生は私たちを促したり急かしたりしない方だった。
 静かに私たちが脱皮するのを待つ。その「静かさ」が温かいものであることを、何もわからないなりに学生は気づいていたように思う。見下されている、諦められているという感じは、全くなかった。
 ファーブルがセミの羽化を見守るように、私たちが脱皮するのを根気強く待つ。たぶん、誰もが「自分のやり方で」脱皮する以外、数学という言葉を獲得する方法はないと思っていらっしゃったのだろう。

 わけのわからない「線形空間」を「自分ごと」にするには、どうしたらよいか。私がたどり着いた脱皮の方法は、こうだ。
 自分の知っているリアルな数学の対象の中から、線形空間に当てはまるものを3つ探してみるのだ。
 たとえば、実数はどうだろう。実数は加法が定義されていて、実数倍も定義されている。そして線形空間の公理をすべて満たす。ということは、普通の足し算と掛け算の下で、実数は線形空間である。
 xy平面のベクトルはどうだろう。やはり加法が定義されていて、実数倍も定義されている。線形空間の公理をすべて満たす。だから線形空間だ。
 3つ目の例は、xyz空間のベクトルでも良いのだが、私が自分に課したある種のゲームは、なんでもいいから極端な例、変な例を考えること、だった。「哺乳類」の中に、卵から生まれるカモノハシや、翼のあるコウモリが含まれている、というような感じ。
 たとえば、原点だけから成る集合。0しかないのだから、どう足しても0で、どんな実数をかけても0。やはり公理を満たす。そして、線形空間の定理を証明したら、その証明は、実数のとき、xy平面のとき、原点0の集合のときに、それぞれ成り立つことをイメージで確認する。なので、私のノートには、そのイメージを書いた小さなメモがあちこちにホチキスで留めてある。この方法を覚えたら、『集合・位相入門』にもすっと入っていけるようになった。

 私のやり方が、あなたにも有効かどうかはわからない。松坂先生ならば「それぞれのやり方があります。待つのが良いでしょう」とおっしゃるような気もする。けれども、昭和のように時間がゆっくりとは流れなくなった現代、私が試した「ライフハック」をシェアすることで、何かのお役に立つとすれば幸いである。
(あらいのりこ、数学者)
 
 
新井紀子(あらい のりこ)
国立情報学研究所 社会共有知研究センター センター長・教授。一般社団法人 教育のための科学研究所 代表理事・所長。
東京都出身。一橋大学法学部およびイリノイ大学数学科卒業、イリノイ大学5年一貫制大学院を経て、東京工業大学より博士(理学)を取得。専門は数理論理学。数学以外の主な仕事として、教育機関向けのコンテンツマネージメントシステムNetCommonsや、研究者情報システムresearchmapの研究開発がある。
2011年より人工知能プロジェクト「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトディレクタを務める。2016年より読解力を診断する「リーディングスキルテスト」の研究開発を主導。
著書に『生き抜くための数学入門』(イーストプレス)、『数学は言葉』(東京図書)、『AI vs 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)、『ほんとうにいいの? デジタル教科書』(岩波書店)など。

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