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『図書』11月号 【試し読み】小谷汪之/赤坂憲雄/円満字二郎

◇目次◇

蘇る『萬國新史』……小谷汪之
〈インタビュー〉女の小説家として生きる……瀬戸内寂聴
重荷をおろして自由になりな……井波陵一
精文館と児童誌『カシコイ』を探して (上)……行司千絵
家……イリナ・グリゴレ
鈴木大拙と山崎弁栄……末木文美士
性食の詩学のために……赤坂憲雄
一一月、紅葉に深まりゆく秋……円満字二郎
風仕事……辰巳芳子
バナナ・ダーウィン・パナマ帽……さだまさし
青春と読書……柳 広司
久保卓也……加藤典洋
単純と複雑……齋藤亜矢
クスノキと舟……三浦佑之
ストックホルムで、生まれてはじめてムーミンを読む。……冨原眞弓
こぼればなし
十一月の新刊案内

(表紙=司修) 
(カット=中山尚子) 

 ◇読む人・書く人・作る人◇

蘇る『萬國新史』
小谷汪之
 
 箕作麟祥(みつくりりんしょう)『萬國新史』が世界史研究所(南塚信吾所長)から翻刻、刊行された。箕作麟祥(一八四六〔弘化三〕―一八九七〔明治三〇〕年)は、ボアソナードらとともに、民法典の起草に当たったことで知られる(この民法は公布されながら施行されなかった)。『萬國新史』は一八七一年から七七年にかけて和綴本一八冊の分冊で刊行されたが、世界史研究所の翻刻本はB5判縦二段組四二五頁一冊にまとめられている。時代的には、フランス革命から普仏戦争後まで、地理的には、東南アジアとサブサハラ・アフリカを除く世界全体をカヴァーしている。
 『萬國新史』は、西欧列強の争覇戦を軸としながらも、その中でさまざまな現地勢力が独自の動きをしたことを重視している。ポーランド分割反対闘争の指導者コシチューシコや、エジプトをオスマン帝国から独立させ、「近代化」を追求したムハンマド・アリーに対する関心は、幕末維新期の対外的危機の克服と「近代化」を喫緊の課題とした明治知識人ならではである。それはさらに、北カフカースでロシアによる侵寇に抵抗したシャーミルや英露対立の中でアフガニスタンの独立を保ったドースト・ムハンマドなどへの関心につながっている。
 『萬國新史』は同時代全体史として、今なお方法的に有意義であるが、歴史研究の精緻化と細分化が進んだ現在、それ以外にも多様な世界史認識の方法が模索されている。岩波書店から刊行され始めたシリーズ「日本の中の世界史」(全七巻)はそのような模索の一例といえるであろう。
(こたに ひろゆき・歴史学)
 
 ◇試し読み◇
性食の詩学のために
赤坂憲雄
 
 思えば、そこには記憶の空白があったようだ。『性食考』はいったい、どこから生まれてきたのか。わたしはたぶん、そのあたりの記憶を、みずから忘却の淵に沈めてきたのである。二〇一一年の小正月のころに、わたしは二十年足らず野辺歩き(フィールドワーク)の拠点としてきた山形を離れて、東京にもどり、それから間もなく東日本大震災に遭遇した。その前後の、とりわけ東北時代の最後の一、二年の記憶が茫漠として、曖昧模糊としているのだ。思いだしたくもない混沌の日々であった。

 『性食考』の前身となる連載に取りかかったのは、二〇一四年九月のことだ。岩波書店のウェブを発表の場とした。その連載企画は半年か一年前には起ちあがっていた。わたしは関連する論考やエッセイ、講演のレジュメなどをまとめて数百枚、担当編集者に電子データで送り、それらを織り込みながら「歴史と民俗のあいだ」という連載のごく簡単なメモを作成している。例によって、書きはじめてみなければ、どのような内容になるのか、どこに向かうのか、わたしはさっぱり承知していなかった。震災後の日々は思いがけず多忙をきわめ、それ以上の記憶は飛んでいる。結局、企画メモでは三部構成であったものが、第一部がふくらんで、その先には進めずにウェブ連載は途切れてしまった。『性食考』はそれを元にして、大幅な改稿と増補のうえでようやく形を成したのだった。

 
 前史について触れておきたい。わたしはとても漠然と、こんな説明をしてきた。震災以前に構想を練っていたカニバリズム論が、震災という残酷な現実にぶつかって挫折に追いやられていたが、それをあらためて蘇えらせる形で『性食考』が産み落とされることになった、と。しかし、わたしはそもそも自分がなぜ、カニバリズム論などに関心を寄せていたのか、うまく了解できずにいた。書棚にはたしかに、それらしい関連図書が少なからず群れをなして並んでいたが、とても遠いものに感じられた。そのとき、わたしは『性食考』にはたしかな前史があったことを忘れていたのである。
 
 ここで、前史としての供犠論研究会について語らねばならない。それはほんの偶然から起ちあがった、小さな研究会だった。一九九八年であったかと思う。以前からの知り合いである大阪大学の中村生雄さんから、集中講義に呼ばれた。そこで博士課程に在籍していた六車由実さんと出会っている。誰からの提案であったか、何か研究会をやらないか、ということになった。テーマはすぐに、われわれの共通の関心である供犠やサクリファイスに絞り込まれた。やはり旧知の三浦佑之さんに声を掛けた。実質的な主宰者には、われわれが敬意とともに長老と呼んでいた中村さんがなり、脇を三浦さんとわたしが固めることになった。六車さんが事務局を担当してくれた。
 
 日本文化のなかに供犠は存在したのか。それが研究会のひそかなテーマであったか、と思う。そのためにフィールドワークを積極的に組織したのは、やはり中村さんであり、その手腕はみごとなものであった。昔の資料レジュメなどを引っ張りだして確認してみると、供犠や生け贄にかかわる各地の祭りや儀礼がほとんど網羅的に選ばれている。その調査や見学を経て、研究発表を重ねていった。夜ごとの、侃々諤々の議論は刺激に満ちていた。その場には、歴史学、民俗学、考古学、思想史、文化人類学、文学など、じつにさまざまな分野の研究者が参加していたのだった。

 その当時、わたしが責任編集者であった『東北学』(東北芸術工科大学東北文化研究センター)の誌上には、供犠論研究会のメンバーたちがさまざまに参加してくれた。その特集テーマのなかには、狩猟文化や供犠、日本文化の多様性といった問いの群れがあふれていた。それを継承した『季刊東北学』のなかでも、動物やペットをめぐるテーマが異彩を放っていたはずだ。岩波書店から刊行になった『シリーズ いくつもの日本』全七巻(二○○二―〇三年)や、『狩猟と供犠の文化誌』(森話社)などは、実質的には供犠論研究会の編集であり、研究会メンバーがそれぞれに論考を寄せている。そのほか単行本としては、六車由実さんの『神、人を喰う』(新曜社)、中村生雄さんの『祭祀と供犠』(法蔵館)や『日本人の宗教と動物観』(吉川弘文館)、原田信男さんの『神と肉』(平凡社新書)、中澤克昭さん編著の『歴史のなかの動物たち』(吉川弘文館)、平林章仁さんの『神々と肉食の古代史』(吉川弘文館)など、供犠論研究会の刺戟の元に生まれた研究は数えきれない。

 そして、わたし自身は正直に書いておけば、供犠論というテーマにそれほど熱い関心を持てずにいた。それは、若い頃に夢中になって取り組みはしたが、ひとたび棄てたテーマであり、その時期には、東北学から「いくつもの日本」を抱いたあらたな日本文化論の地平を拓くことに精力を傾けていたのだった。皮肉なことに、わたしが供犠論という場所に回帰していったのは、主宰者の中村さんが病気がちとなり、供犠論研究会がいつしか活動休止状態になって以降のことだった。

 日付けは曖昧であったが、調べてみると、二○○八年の秋であった。わたしはたまたま、盛岡でおこなわれたシェイクスピア学会において、基調講演を依頼された。ほとんどやっつけ仕事のように、『ヴェニスの商人』をテクストにして、それをカニバリズム論の視座から論じるというアクロバットきわまりない講演をしたのである。その準備をしながら、わたしは三十代の異人・境界・供犠の時代を懐かしく思い返していた。講演の下敷きには、E・リーチの動物と侮蔑語をめぐる論文と、レヴィ=ストロースの狂牛病をめぐるエッセイが沈められていた。のちの『性食考』の大切な伏線となった。わたしは講演を終えて、異人・境界・供犠のかたわらに還ろうと、どこか吹っ切れたような歓びとともに考えた。それだけは鮮やかに記憶している。

 それから、わたしは明らかに、供犠論研究会の導きをそれと知らずに受けながら、異人・境界・供犠といったテーマのあらたな展開を目指すことになる。カニバリズムへの関心は、まちがいなく中村さんや六車さんの影響下にあり、それに対する応答の意味合いを含んでいた。『性食考』では、中村さんの著書は大きく取り上げているが、六車さんの『神、人を喰う』にはまったく触れていない。供犠論研究会のほかのメンバーの仕事にも、ほとんど言及していない。

 この春に、ある不愉快な事情に迫られて、書庫を総ざらえする形で資料を漁らねばならなくなった。その作業のなかで、失われていた記憶がいつしか修復・再現され、そこに前史としての供犠論研究会が浮かび上がってきた。そうして、わたしは自身の二◯◯八年から二◯一一年にかけての埋もれていた記憶との再会を果たすことになった。シェイクスピア学会での講演をひそかな起点として、その翌年であったか、『季刊東北学』の第二十一号から、「エロスとカニバリズム」と題した連載を始めた。しかしそれは、一度きりの掲載に終わり、書き継ぐことができなかった。そのころ、わたしはいくつもの複雑怪奇に絡まり合うトラブルの渦中にいて、勤めていた大学のなかに場所そのものを失いつつあった。連載を続ける余力はなかったのだ。


 それから、わたしは亡くなられた中村生雄さんの後を継いで、二◯一一年四月には学習院大学に移っている。それが思いがけず、重要な転換点となる。そこでは、担当科目の関係で昔話や神話を取りあげる機会が増えて、いやおうなしに新たなテリトリーとなっていった。昔話や神話へと大きく視野が広がり、供犠や境界にまつわる知見が深まることによって、『性食考』はしだいに準備されていった。

 さて、わたしはいま、あらためて出発点に立ち戻った気がしている。そうして『性食考』の続編を書きはじめようとしている。たんに、前史としての供犠論研究会ばかりではない。三十代のころの異人・境界・供犠にまつわる仕事もゆるやかに掘り返している。岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」で、続編がやがて幕を開ける。いずこへとも知れぬ漂流のはじまりでもある。

 『性食の詩学へ』という連載タイトルは、早くに決まっていた。むしろ、自分が書く気になるか否かがわからなかった。しかし、外からの捩れた促しがあって、ならば、書こうと覚悟が定まった。書く以上は、徹底して突き詰めてみたい、そんな、もうひとつの覚悟もおのずと生まれた。いまだ描かれたことがない世界を覗き込んでみたい、というささやかな野心はたしかにある。

 あえて、詩学などという文学寄りの言葉を選んでいるのは、ある確信のゆえだ。食べること/交わること/殺すこと、をめぐっての知の交歓こそが、『性食考』のめざしたことであった。わたしにはそれを、学問の装いを凝らして表現することへの欲望が、まったく欠落している。むろん、そのことには気づいていた。だから、『性食考』はおのずとエッセイ的であるほかなかった。これはエッセイにすぎない、という批評ないし批判にはしばしば出会った。しかし、それはむしろ、あくまで、どこまでもエッセイであろうという確信犯的な意志をもって書かれたものである。エッセイという表現様式の可能性に賭けてみたい、という思いもある。

 なぜ、詩学なのか。それはわたしにとって、たとえばイマジネーションの物質化のための試みである。そう、言葉にしてはみるが、わたし自身がその意味するところをどこまで理解しえているかは、いくらか心もとない。すでに、「指、または恥知らずな冒険」と題したはじまりの章は、試行錯誤の末に書き終えている。頭のなかには、花、土、洞窟、穴、胎児、犬、口唇などの言葉がさだめなく浮遊しており、イマジネーションの受肉を待って、一章ずつ言葉の織物として紡いでゆくことになるだろう。

 書かなかったかもしれない続編ではある。こうして、みずから書くことになった。そうである以上は、少しでも遠くへと駆け抜けてみたい。そこが、わたし自身にとってこそ思いも寄らぬ、未知なる場所であってほしい、と願う。わたしはそのように、物を考え、物を書く端くれとしての仁義を抱いて生きてきた。それは、これまでも、これからも変わることはない。
(あかさか のりお・民俗学・日本文化論) 
 
 
 
 
連載 漢字の植物園in広辞苑①
一一月、紅葉に深まりゆく秋
円満字二郎

 学生時代、先輩に誘われて、俳句を少しかじったことがあります。飽きっぽいので長続きはしませんでしたが、その時の名残で、その後もたまに、折々の植物に心を惹かれるようになりました。漢和辞典の仕事をするようになってからは、当然のように、漢字で書き表される植物名が、気になります。
 そこで、『広辞苑第七版』の植物項目を題材に、植物と漢字について思いつくままに書き連ねてみようという次第。いったいどんな内容になりますことやら。しばらく月々お付き合いください。


 01 紅葉が美しいフウ

 一一月は、紅葉の季節。紅葉といえば、なんといってもカエデでありましょう。漢字では、もちろん「楓」と書きます。
 「楓」は、中国の漢詩にもよく出てきます。出版社で国語教科書の編集をしていたときのこと。ある漢詩に使われている「楓」にわざわざ注が付けてあって、「からかえで」と書いてあるのを見つけました。中国のカエデのことだろう、と見当はつくものの、一応、どんな植物か調べて、びっくり仰天。そんな名前の植物は、『広辞苑』をはじめとする国語辞典はおろか、植物辞典の類にも出てきません。調べ回った結果、わかったのは、中国語での「楓」は、カエデとは別の植物を指すということでした。
 その名は「フウ」。何のことはない、「楓」の音読みです。
 「ふう【楓】」という項目は、『広辞苑』にもあります。ていねいなことに、その解説文の最初には、「カエデとは別種」と断り書きがあります。 『広辞苑』によれば、カエデはムクロジ科の植物ですが、フウはフウ科。イラストで見ると、フウの葉は、たしかにカエデの葉と似ています。しかし、イラストの中央に伸びている実は、チアガールが振り回すポンポンのようなボール型。竹とんぼを小さくしたようなカエデの実とは異なります。まったく別種の植物だということが、よくわかります。
 つまり、中国の詩に出て来る「楓」は、カエデではなくフウだと解釈しないといけない、という次第。ただ、漢詩に出て来るフウも、紅葉の美しさが印象的。とすれば、カエデに置き換えて鑑賞しても、まったくの的外れにはならないのでしょう。
 教科書で「からかえで」と注が付けてあったということは、かつては、フウのことを「からかえで」と呼ぶことがあったのかもしれません。漢字で書けば「唐楓」でしょうが、こう書いて「とうかえで」と読む別の植物があるから、困ったもの。『広辞苑』によれば、トウカエデはムクロジ科で、やはり紅葉が美しい樹木だということです。
 
ふう【楓】
 

 02 カリンをめぐる三角関係

 漢字の世界では、「楓」のように、一つの漢字が二つ以上の植物を指していることが、よくあります。それとは違って、同じ一つの日本語が二つの植物を指し、漢字で書くと別の書き表し方になってしまう、ということもあります。「カリン」がその例です。
 『広辞苑』で「かりん」を調べると、「下臨」「火輪」のあとに、二つの植物名が並んでいます。一つめは、漢字では「花櫚」と書く、マメ科の高木。二つめは、「榠樝」というむずかしい漢字を使って書き表される、バラ科の高木です。
 私たちが知っている、一一月ごろに出回る果実を漬け込んでお酒にしたり、のど飴の原材料になったりするのは、バラ科の「榠樝」。マメ科の「花櫚」は「家具・細工物などの高級材」だと、『広辞苑』には書いてあります。この二つが同じ名前で呼ばれる理由については、調べてみたところ、木目がよく似ているからだ、という説があるようです。
 ところで、「カリン」には「花梨」という書き表し方もあって、漢字が簡単でかわいらしいところから、よく使われています。『広辞苑』のみならず、多くの国語辞典では、「花梨」は、お酒や飴になる「榠樝」と同じだ、という説明。ただ、中国の辞書には、「花梨」は「花櫚」だと書いてあります。
 実際、孫悟空が大暴れする『西遊記』には、「花梨」の木箱が出てきます。また、一八世紀に才子佳人の恋模様を描いた長編小説、『紅楼夢』には、「花梨」の机が登場します。「花梨」は家具の材料となるのです。
 とすれば、「カリン」には、「花櫚」と「榠樝」という二つの植物があるだけではなく、「花梨」と書いた場合には、日本と中国で指す植物が違うという、たいへんややこしい事態になっているわけです。植物の名前と、それを書き表す漢字との関係はかくも複雑で、辞書編集者泣かせなのです。
 
かりん【榠樝】


 03 ケンポナシは仙人の甘味

 ところで、辞書の編集担当者になると、その辞書を最初から最後まで、何回か通読することになります。ただ、その内容が全部、頭に入るわけではありません。悲しいことにほとんどは忘れてしまうわけですが、中には、妙に記憶に残るものもあります。
 私にとって、ケンポナシは、そんな例の一つ。「椇」という漢字がケンポナシという樹木を表す、と漢和辞典に出ていたのですが、ことばの響きがおもしろくて、なんとなく、意識の底に残ったのでした。だいぶ経ってから、テレビ番組『探偵!ナイトスクープ』を観ていて、枝の膨らんだ部分が食べられることを知り、びっくらこいたものでした。
 『広辞苑』で「ケンポナシ」を調べると、ちゃんと「秋、花穂の枝は赤みを帯びて肉質になり、甘味があり食用」と書いてあります。ただ、漢字での書き表し方は、「玄圃梨」が挙げてあるだけです。
 「玄圃」とは、文字通りには、黒い田畑といった意味。ただ、中国の伝説には、仙人が住む「玄圃」という山が出てきます。なんでも、宝石がゴロゴロしているすばらしい土地なのだそうです。
 『探偵!ナイトスクープ』では、ケンポナシのことを「てんぽぽなし」とも言っていました。また、『広辞苑』には、ケンポノナシとかテンボナシという別名が載っています。だとすれば、「玄圃」と書くのは、当て字なのでしょう。とはいえ、この当て字を考えた人の頭の中に、仙人が住む山のイメージがあったと想像するのは、たのしいことです。 ケンポナシの「花穂の枝」は、かなり甘いとのこと。仙界の味がするのかどうか、いつか、食べてみたい気がします。


 04 三つの名前を持つイチョウ

 話を紅葉に戻しましょう。カエデと並んで紅葉の美しい樹木といえば、イチョウ。そこで、『広辞苑』の「いちょう」という項目を見てみましょう。
 すると、そこには、漢字での書き表し方として、「鴨脚樹・銀杏・公孫樹」の三つが載っています。どれも、イチョウの中国名に由来するものです。
 このうち、「鴨脚樹」というのは、あの葉っぱの形を、「鴨の脚」にたとえたものでしょう。ユーモラスというか、リアルというか、中国人のセンスが光ります。
 「銀杏」については、一六世紀の中国で書かれた『本草綱目(ほんぞうこうもく)』という植物辞典に、「実がアンズを小さくしたようで、中が白いからだ」という説明があります。白いことを「銀」と表現しているのが、まぶしいですね。
 最後の「公孫樹」については、『広辞苑』に「こうそんじゅ」という別の項目があって、そこに「老木でないと実らず、孫の代に実る樹の意」と説明があります。孫が食べられるようにと願いながら、イチョウを植えたのでしょうか。大家族制の中国伝統社会らしい命名です。
 それはともかく、漢字的に見逃せないのは、「イチョウ」の語源。『広辞苑』には、「〈鴨脚〉の近世中国音ヤーチャオより転訛したもの」とあります。「鴨脚」をふつうに音読みすれば「オウキャク」ですが、一一~一二世紀ごろ以降の中国語ではこれを「ヤーチャオ」と発音し、それが変化したのが「イチョウ」という日本語だ、というわけです。
 ただ、これは定説とはいえないようで、『広辞苑』でも、続けて「一説に、〈銀杏〉の唐音の転」と書いてあります。「唐音」とは先の「近世中国音」と似たようなもので、こちらの説でも、「イチョウ」は語源的には中国語だ、ということになります。イチョウの日本への伝来は一四~一五世紀ごろだといいますから、「イチョウ」の語源がそのころの中国語だったとしても、おかしくはありません。


 05 サザンカだけが特別か?

 さて、一一月は、美しい紅葉に秋が深まる月であるとともに、サザンカが咲き始めて冬の訪れを告げる月でもあります。この「サザンカ」については、漢字では「山茶花」と書くのに、どうして「サンサカ」ではなく「サザンカ」なのかが、よく話題になります。
 その答えは、「エレベーター」を「エベレーター」と言ってしまうのと同じように、「サンサカ(あるいはサンザカ)」を「サザンカ」と言い間違えたのが、定着した、というもの。『広辞苑』にも、「字音サンサクヮの転」と書いてあります。言語学では、こういう現象を「音位転換」と呼ぶそうです。
 なるほど! と膝を打つ説明ですが、ひねくれ者の私などは、「サンサカ(サンザカ)」って、そんなに言い間違えやすいことばかなあ、とも思ってしまいます。そもそも、それが「サザンカ」に変化するなら、同じく植物の「サンザシ(山査子)」だって「サザンシ」になってもいいんじゃない? 疑い出せばきりがないのが、ことばの世界。この問題についても、絶対的な正解など、存在しないのでしょう。
(えんまんじじろう・辞書編集者) 
 
 
◇こぼればなし◇

 台風21号の通過に伴う暴風雨が関西圏を中心に大きな被害をもたらした九月四日。吹き飛ばされる自動車や、海上を漂い迷走する巨大タンカー、舞い上がる家々の屋根の映像が生々しくその衝撃を伝えるなか、時を経ずして、北海道胆振(いぶり)地方を震源とする地震が発生しました。

 九月六日、午前三時八分。マグニチュード六・七、最大震度七の揺れが北の大地に残した爪痕は、広範囲におよぶ大規模な土砂崩れや、道内各地の液状化による隆起や陥没、家屋の倒壊だけではありませんでした。

 道内全域での停電、いわゆるブラックアウトが発生。鉄道、航空など交通機関もストップし、携帯電話をはじめとする通信網が不通になるなど、震源から離れたところでも日常生活に甚大な影響を受けることになりました。

 近年をふりかえってみますと、台風もその規模だけでなく、これまでにはなかった進路をとって列島に接近する数が増え、地震のもたらす影響もまた、かつてとは異なる様相を示しているように感じられます。「備えあれば患いなし」とは事あるごとに使い古された言かもしれませんが、災害がもたらす想像していなかった事態に直面してみますと、これまで想定していたものとは違った「備え」が必要なのかもしれません。

 台風21号、また北海道東部胆振地震の被害に遭われたみなさまには、心よりお見舞い申し上げます。

 様相が変わってきたのは、列島を取り巻く環境もそうでしょう。「暑さ寒さも彼岸まで」という言も、実感からは離れつつあるのではないでしょうか。

 総務省消防庁は、ことしの熱中症による救急搬送人数の調査を四月三〇日から開始していますが、九月三〇日までの累計で九万五〇七三人(速報値)に達しています。昨年五月から九月までの同一の累計は五万二九八四人(確定値)でしたから、対前年比四万人以上の増加です。そのことへの驚きと同時に、この夏の酷暑の異常さを思わずにはいられません。かつての暑さに対する構えとは異なる「備え」が、ここでも求められているということでしょう。

 京都の紅葉も、年を追うごとにどんどん遅くなっているとか。見ごろは一〇月から一一月に移り、場所によっては一二月でもたのしめると仄聞します。暦と季節感のギャップは、ますます大きくなってゆくのでしょうか。

 本誌の前身、「岩波書店新刊案内」が「岩波月報」と名称をあらため毎月発行となったのは、岩波新書の刊行が始まったのとおなじ一九三八年の一月五日。さらに同年八月五日(小社の創業記念日)に『図書』と名づけられ、現在まで続くことになりました。岩波新書と同様、戦中期の休刊があったとはいえ、本誌もことしが創刊八〇年にあたります。ある小社OBの方から思わぬご指摘をいただくまで気づかぬとは、担当者として汗顔の至り。本誌も傘寿を迎えました。

 本号から円満字二郎さんの連載が始まります。ご期待ください。


 

 
 
 
 

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