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『オリジンから考える』から『トラブゾンの猫』へ――小田実との最後の旅(玄順恵)

 

 

 
『オリジンから考える』から『トラブゾンの猫』へーー小田実との最後の旅
 玄 順恵
 
 長い歳月のなかでやむなく疎遠になっていた二つの魂が、ある時をさかいに絶妙な音楽を奏で、ひとつに響きあうことがある。
 『オリジンから考える』所収の鶴見俊輔氏による「小田実との架空対談」を読んで、私はそう思った。この本は二人の共著である。
 
 「面と向かって天才とか、偉人とか言ったことはないけど、小田さんへの敬意はゆっくり積み重なって、私自身の一部になった」(以下、同書より)。
 「架空対談」には、それまで言葉にならなかった淡い信義が、かつての「けんか」を越えて確かな敬愛にまで高まってゆく、哲学者自身のみずみずしい鼓動がある。
 鶴見氏は、2006年に出た『終らない旅』を読んで、著者である小田に手紙を送った。この小説では、小田を思わせる主人公は既に亡くなったという設定で、鶴見氏の死と葬儀まで描かれている。
 その後二人の対談が企画された。翌年の春、小田が旅から帰った後に日程まで決められていたが、小田の病いが発見、ついに対談は幻のものになった。
 小田と鶴見氏とは、2004年ごろから年に一度、食事を共にしながら友情を分かち合う時間をもつようになっていた。
 べ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」)の活動で忙しかった若い頃、よく二人で「今は次つぎに起る問題に忙殺され暇がないが、お互い年を取った暁にはうまい中華料理でも食いながらゆっくり話をする時間をもとう」という夢を語っていたそうだ。
 そんな二人の生身の対談は小田の死によって実現されなかったが、架空対談という形で残されたことに言いえぬ感動を憶える。
 
 およそ50ページにおよぶ架空対談は、おもに小田の小説を鶴見氏が読み解くことで進む。
 先述した『終らない旅』に15ページをさきながら、この小説は「歴史に現在がかぶさったかたちで、出てくる。小説の手法でなくて、哲学の手法として、ここに私はおどろいた」と、鶴見氏は述べている。
 大河小説『河』については、主人公の少年と中国人少女の「らくらくとしたつきあい」の描写に、『ライ麦畑でつかまえて』のような世界を見、またアメリカ人の流れ者が主人公に語る「民岩」(民衆は一人ひとりバラバラでいると弱いが、ひとつに結集すれば強固な岩となるという朝鮮の故事)については、「民岩」によって成就した革命後に起こる民衆そのものの分裂と、抑圧への抵抗を呼び覚ます言葉、「自由」へのメタファーを読む。
 そして、1995年刊行の『「べ平連」・回顧録でない回顧』については、鶴見氏自身の実体験を追想しながら、運動のほころびや論争を入り口として、小田が20年近い時をかけてべ平連自体を考え直したことから、「組織の根に向かって掘り下げて考える指導者をべ平連がもっていた」。自分を誤りのない人間の場所に置かないところに、小田の組織者としての力がある、と語っている。私はここに、むしろ鶴見氏の大きさの真骨頂を感じる。
 
 架空対談のほかに鶴見氏が小田と話してみたかったことのひとつに、法律という概念があった。阪神淡路大震災後、被災者生活再建支援のための法律をつくる「市民=議員立法」運動の際、法学者の定義とは違う、小田の法に対する定義の仕方、考え方を聞いてみたかったという。鶴見氏は、震災直後に丸山眞男氏が「市民が法律をつくるという運動をまっとうな筋道と考える」という手紙を小田に送ったことにも触れている。これは、つまるところ主権在民の日常化と関わるテーマだ。
 
 「現場」の記憶には思想が宿る。
 小田は、旅の記憶、震災の記憶、空爆の記憶、焼け焦げた死体の臭いの記憶……歴史や崩壊後の「現場」から世界を見た。
 その根底にある視座は、「大きな人間」の力によって巻き込まれながら巻き返す力をもつ「小さな人間」への可能性をとらえ、『オリジンから考える』におさめられた各作品にも通底しているものである。
 
 古代ギリシャ文学を学んだ小田の終生のこだわりは、デモス=人びとだ。文学への情熱はもちろんのこと、市民運動や市民発議による立法、そして誰にでも打ち解けた話し方ができる人柄も、すべてがデモスへの興味、関心に由来している。
 小田は、「世界は世直しを必要としている」と最期の言葉を残した。今日、デモスの力――民主主義が世界中でもう一度試される時が来ているように思う。
 「大きな人間」は政治、経済、文化などの力を使い必ず過ちをおかす。それを正すことができるのは「小さな人間」の力なのである。
 2018年の秋に刊行された私の『トラブゾンの猫』は、そんな通奏低音を「猫に似ている」私の心が聞いたまま描いたものだ。
 絶筆となった小田の「トラブゾンの猫」(『オリジンから考える』所収)は、短いながら濃密な油彩画の風格をもつ未完の寓話小説である。紀元前8世紀から栄えた歴史をもつトルコのトラブゾンに、トラブゾンの親分猫、トロイの老猫、東方の始皇帝猫、ジパング猫、コリア猫らが集い「人間はなんて愚かな征服と戦争ばかりくり返しているのかね」と語らう。
 それに対して私は、一つの筆墨から七つの色を醸す水墨画の世界を試みた。
 不治の病を宣告され、この世に残された命の時間が限られていると知った小田は、「これまで多くの旅を共にしたけど、どこが一番よかった?」と私に訊いた。とっさの質問に困惑した私は、その時ろくな答えが出来ないでいたが、いまなら言える。それは最後の旅だ。
 民主主義発祥の地ギリシャと、東西文明が交差するトルコの地を訪れたこの旅では、行く先々で猫と出会った。私は、その猫たちそれぞれに物語の意味を象徴する名前をつけた。不思議な名をもつ猫たちが繰り広げる作家との対話は、私と小田が人生の中で共感共有した精神と心そのものになった。
 
 旅の終着地トラブゾンで、『トラブゾンの猫』というタイトルで小田に寓話小説を書くように勧めたのは私だった。
 あれから10年の時を経て生まれた私の作品は、おのずと同じ題名になっていた。
 
 
 
◆玄順恵(ヒョン スンヒェ)
水墨画家.植民地時代に日本へ渡ってきた済州島出身の両親のもと,1953年,神戸市に生まれる.82年に作家小田実と結婚.水墨画の他に,装丁,装画,挿絵の仕事を手がける.著書に『私の祖国は世界です』,『われ=われの旅』(小田実との共著,以上,岩波書店),『おはなしハルマンさま』(文・元静美,新幹社),訳書に『韓国食生活史』(藤原書店)がある.

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