『図書』2月号 【試し読み】鈴木健一/田代眞人
◇目次◇
不忍池を体感すること……鈴木健一
ニューヨークの南方熊楠……松居竜五
大流行による惨劇から一〇〇年……田代眞人
崖葬墓文化の起源を探る……片桐千亜紀
漱石の公案……小川 隆
『堀越千秋画集』を創る……大原哲夫
京橋川の畔で……竹原陽子
嵐……柳 広司
私のこと その1……加藤典洋
修二会・青衣・輝さん……さだまさし
モダン語、あれ? これ?……山室信一
寒の美味……辰巳芳子
二月、寒さの中に芽生える春……円満字二郎
安物を掴まされた男……三浦佑之
きらめく海を望む「塔のアトリエ」には、ヤンソンの人生がつまっていた。……冨原眞弓
こぼればなし
二月の新刊案内
(表紙=司修)
(カット=佐藤篤司)
◇読む人・書く人・作る人◇
不忍池を体感すること
鈴木健一
その土地についてどんなに知識を持っていても、その場に立ってみないとわからないことがある。風の匂いとか、水のせせらぎとか、名物の味とか、五感を通してのみ得ることができる、その土地の雰囲気としか言いようのないものがあるのである。もっと言うと、その土地が独自に持っている根源的な力がそこには横たわっていると思う。
このたび拙著『不忍池ものがたり――江戸から東京へ』(岩波書店)を刊行した。同書では、一般的に池というものが人の心を慰安する存在であること、不忍池が時代を追うにつれて、江戸的情緒を醸し出す名所から文明開化を象徴する場所へと変化したこと、しかし蓮が名物だという伝統的な美意識は継続していること、などを論じた。そのこと自体興味深いし、広く知っていただけたら、とてもうれしい。
しかし冒頭に記したように、やはりその土地に行ってみないとわからないことがある。その際大事なのは、すでに知識があった上で現地を体感してこそ理解が深まるということだ。特に不忍池のように歴史と文化が豊かな所なら、なおさらである。
予備知識を蓄えた上で、実際にこの池を訪れて、清水観音堂からの眺望、弁天堂のたたずまい、ボートからの四方の光景、隣接する動物園の雰囲気など、感じていただけたら、著者としてこの上なくありがたい。ちょうど今頃は渡り鳥がたくさん来ていることだろう。場合によっては、広重が「名所江戸百景」で描いた雪景色を鑑賞できるかもしれない。
(すずき けんいち・日本文学)
◇試し読み◇
一九一八-一九年のスペイン・インフルエンザの世界大流行(パンデミック)では、当時の世界人口約二〇憶人の三分の一が感染発症し、二千万-五千万人が死亡したと推計されている(中国、アフリカなどを含めると一億人との推定もある)。犠牲者の多くが青壮年であった。さまざまな資料や文献にも、世界中で起こった悲惨な実態と社会機能の停滞・破綻が数多く記録されている。最近、ようやく旧植民地や低開発地域における被害の実態も明らかにされてきた。
一九一八年初春に米国カンザス州の新兵訓練所で、季節遅れのインフルエンザ流行により多数の兵士が入院した。その後、各地へ拡大したが、症状や致死率は通常の季節性インフルエンザと大差なく、とくに注目されなかった。一九一四年に始まった第一次世界大戦に途中から参戦した米国は、一八年春から多数の兵士を欧州へ派遣したが、それに伴って流行は欧州へ、さらに世界各地へ広がった。前線の塹壕から毎日大勢の患者が後方へ移送されて戦力は低下し、後方の市民にも流行が拡大した。しかし一般に健康被害は軽く、パンデミックの先ぶれである第一波の流行は八月までに終息した。
ところが九月、インフルエンザが再出現した。この第二波は激烈で、三カ月のうちに欧州から全世界へと拡大し、壊滅的な大流行を起こした。患者の多くは二十―三十歳代の普段は健康な青壮年で、高熱、頭痛、呼吸困難、チアノーゼ、混迷、出血を呈して次々と死んでいった。生存患者の多くも二次性の細菌性肺炎で死亡した。原因も予防・治療法も不明であった。医療体制は崩壊し、葬儀や埋葬も間に合わず、社会機能は破綻した。そして多くの孤児が残された。
膠着状態に陥った世界大戦の最終局面で両陣営の戦力は激減し、パリに迫る西部戦線では、ロシア戦線から戦力を転用したドイツ軍の最終突撃は中止された。それがドイツ降伏(一九一八年一一月)の原因ともいわれる。第一次大戦の戦死者一千万人に対して、参戦国におけるスペイン・インフルエンザの死亡者はそれ以上、重症患者はさらに膨大な数に上り、総動員体制下での社会・生活基盤にも大きな影響が出た。政府による報道管制にもかかわらず、国民の戦意は低下し、厭戦気分が広がった。休戦後の一九一九年にも第三波が追い打ちをかけ、流行規模は減少したが死亡数はさらに増加した。
同年のパリ講和会議では、ドイツへの賠償要求を巡ってフランスと米国が対立したが、英国ロイド=ジョージ首相と穏健派の米国ウィルソン大統領が会議中にインフルエンザに倒れた。命をとりとめたウィルソン大統領は精神神経症状を呈して思考・意欲が低下し、病床でフランスによる強硬な講和条約案に無気力の状態でサインしたと伝えられている。
スペイン・インフルエンザの結果、労働人口不足で戦後の経済復興が遅れ、膨大な賠償金でドイツ経済は破綻し、世界はその後の大恐慌を克服できずに不安定化し、ファシズムの台頭と第二次世界大戦への伏線が敷かれたと指摘されている。アウシュビッツをはじめとするナチス・ドイツの絶滅収容所や沖縄、広島・長崎などの惨事や、戦後から現在に至る多くの国際問題も、その延長線上にあるのだろう。このように、一〇〇年前のパンデミックは、中世ヨーロッパの終焉を導いたペスト大流行と並んで、歴史に大きな影響を与えた感染症である。しかしその記憶は視覚に強く残る多くの事件に隠され、貴重な教訓が感染症大流行への準備・対策に生かされることはなかった。
スペイン・インフルエンザ流行当時は、ロベルト・コッホを頂点とする近代細菌学の全盛期で、インフルエンザの病原体はインフルエンザ菌という細菌であると信じられており、これに対するワクチンも開発された。日本でもコッホの高弟の北里柴三郎らはこの説を支持し、対立する帝大学派は異論を唱えていた。
インフルエンザの病原体がウイルスであることは、一九三〇年代になって英米の研究者が初めて証明し、それに基づいて近年の研究発展がなされたと、一般には認識されている。しかし、スペイン・インフルエンザ流行当時、山内保ら三人の日本人研究者が、スペイン・インフルエンザの病原体は細菌ではなく、ウイルスであることを証明し、英国の医学雑誌"Lancet"に発表していた。被検者への感染実験など、現在では問題のある研究方法もあり、長く無視されていたが、最近、世界的に再評価されつつある。詳細は、山内一也先生が岩波書店の雑誌『科学』(二〇一一年八月号、八〇七頁)に書かれている。
一方、ウイルスの性状が解明された結果、診断方法、ワクチンや抗ウイルス剤の開発が進み、細菌性肺炎の合併に対する抗生物質の導入などの医療の進歩と相まって、現在の状況は一〇〇年前とは別世界である。しかし、それらの活用は政策次第であり、地球環境・生活様式の変化を考慮すると、決して楽観視はできない。流行予知とリスク評価は依然、大きな課題である。
この一月、前記の研究のほとんどの局面で世界を牽引・指導してきた世界的インフルエンザ研究者R・G・ウェブスター博士の自伝的著書が、『インフルエンザ・ハンター――ウイルスの秘密解明への100年』として、総勢一三人のウイルス学者の翻訳によって岩波書店から出版された(田代・河岡監訳)。スペイン・インフルエンザに関する疑問の解明を目指し、常に世界各地の第一線に身を置いて経験してきた、成功と失敗に関する回想と教訓である。
インディー・ジョーンズ顔負けの科学冒険物語の中に、インフルエンザ研究の全体の足取りと、誰も予想しなかった自然界でのインフルエンザウイルスの驚異的な存在様式、将来への教訓と問題提起が平易に述べられている。現在、H5とH7亜型の鳥インフルエンザウイルスがヒトでも大きな健康被害を起こし、パンデミックの出現が懸念されている。博士はこれまでの知見に基づき、スペイン・インフルエンザを超える最悪のパンデミックの発生は時間の問題であり、これに対して十分な事前準備の必要を説いている。感染症専門家はもちろん、一般読者や将来研究者・医療従事者を目指す若い人にもぜひ読んでもらいたい。
しかし、統計資料の再検討と、当時の新聞記事などから被害の実態と人びとの対応を丁寧に発掘する歴史人口学の手法により、大きく欠落していた日本でのスペイン・インフルエンザの実態を解明した名著がある(速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ――人類とウイルスの第一次世界戦争』二〇〇六年、藤原書店)。著者の速水先生は、日本がスペイン・インフルエンザからほとんど何も学んでこなかったことを教訓として、その実態を解明し、今後必ず起こるパンデミックの災厄を「減災」するための事前準備と緊急対応の確立を強調している。研究者には有効な対応手段の開発が喫緊の課題であり、行政には市民生活を維持するための行動計画を立て、実施可能に準備しておく責任がある。しかし、現在の科学・技術と行政能力には限界があり、被害ゼロはあり得ない。各自は、想定される最悪の事態における最善の対応方法と、自分はどのように行動すべきかを考え、普段から準備しておくことが必要である。