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『思想』5月号 生殖/子ども

◆目次◆

思想の言葉………檜垣立哉

類としての人間の生殖――婚姻と子どもの聖化について……………小泉義之
ささやかな欲望を支える選択と責任――卵子提供で子どもをもつ理由……………柘植あづみ
個体化の哲学における生殖の問題――ヴァイスマン,ベルクソン,シモンドン……………米田 翼
誕生,行為,創設――アーレント『革命論』における「始まり」について……………森 一郎
フーコーの人口論再考……………檜垣立哉
ゲノム編集という名の「パンドラの箱」……………八代嘉美
未来は子ども騙し――クィア理論,非同一化,そして死の欲動……………リー・エーデルマン
羊膜は誰のものか――母/胎児の線引き問題と新マテリアル・フェミニズム……………水島 希
「母であること」(motherhood)を再考する――産むことからの分離と「母」の拡大……………中 真生
 

◆思想のことば◆

生殖・子どもの哲学

檜垣立哉

 生殖や子どもの「哲学」を考えるとき,いつも念頭に浮かぶことがある.

 生殖や子どもを巡る諸問題としては,現代における著しい少子高齢化,家族の機能不全やあり方の変容と,それらに連関するDVや幼児虐待,また生殖テクノロジーの目を見張る発展と,そこに含まれる新たな優生学的内容への倫理的懸念,LGBTQにおける生殖という新たな主題(これは生殖医療とも大きく連関するだろう)など,課題が山積みであることはいうまでもない.だが,「哲学」としては,それら「以前」にある,生殖や子どもとは「何か」という素朴きわまりない問いに,まずは直面せざるをえない.それらが上記の,決して重要でないとはいえないアクチュアルな諸問題とどう関連するのかは,それからの問題である.

 それをここでは,生殖や子どもの唯物性という視点からみてみたい.

 大学で授業をしているとき,こう話すことがある.今ここにいる学生たちも,そして私自身も,百年後を考えればほぼこの世にいない.高齢者医療が超高度化して人間の寿命が格段に延び,ある程度の人は生きているかもしれない.だがそれでもいつかは,全員がこの世から消えることは確実である.とはいえ,私がしゃべっていることは,その言語も含め,何かのかたちで継承されるだろう.ここでいま話を聞いている誰も生きていないとしてでもそうである.どうしてか.それは子どもが産まれ,世代が更新されるからである.人間の思考の内容は,生きて死んでしまう人間を越えて向こう側にいく.それをしゃべり,聞いているすべてのひとが死んでも,ある社会や共同体が滅びないかぎり継承される.一面では,それは言語や教育などの「媒体」の問題だろう.だが同時にそれは,子どもが「実在」し,生殖がなされ続けるからでもあるのである.

 これを逆の方向から,つまり「誰かの子どもとしての私」という方向から考えてみる.普通のひとが自分の祖先をどこまで知っているか,私にはよくわからない.よほどの「家柄」でないかぎり,とりわけ近代以降に農村部からでてきた都市労働者の子孫は,せいぜい数世代上までしか分からないだろう(私も三代前以前は,もうどこの土地にいたか程度しか知り得ない).だが,かつて小泉義之がブログに書いていたことでもあるが,つぎのようにもいえる.私が産まれてくるためには,少なくとも二人の男女が必要である(あるいは現在において,生殖テクノロジーを考えても,ひとつの卵子とひとつの精子が必要である).四世代上を考えると,それだけで十六人が必要である.八世代だと二百五十六人で,十世代で千人を越える.もちろんこれはただの計算にすぎず,さしたる人的移動がないところでは同じ人物が何度も重複し,袋小路のようになるだろう.だが一世代三十年と考えても,たかだか三百年ほどでこれだけの祖先が「実在」する.すると自分の祖先が特定の「誰か」につながっているという語り方が,どこか滑稽にみえる部分がある.千人のなかにはさまざまな,実に多様な特性をもった人がいたに違いない.「私」なるものの形成にはかくも多数の他者の生殖が関与している.その誰一人が欠けても「私」は世界にいない.

 この両者は,方向は逆であるが,生殖や子どものもつ唯物性について明確な問いを突きつけてくる.

 まず社会(あるいはそれが含む文化や知)は比較的長い時間残存するのに,それを受け継ぎ伝承する個人はあまり長く生きていない.つまり,人間の文化や知は,それを生きる人間が次々と産まれないかぎり残らない.このことは現代では少数言語に関してよくいわれることである.ネイティヴの話者が途絶えれば言葉は消える.これは稀少種の生物と同じである.この意味で,人間は文化社会的存在であるが,それ自身が生殖し続けるという生物的な事実に徹底して依拠している.だが通常,制度やシステムを考えるとき,個人の関与する生殖の現場は,なぜか切り離されてしまう.

 二番目の事例が示すことは,ひとりの私が成立するために膨大な生殖と多くの人間が関わっているという事実である.もちろんこれを遺伝子的にあれこれいうことはできる.「私」が属している,遺伝子的に大枠が特定される民族や地域性を,ある輪郭をもって示すことは可能だろう.だが千年前,二千年前,三千年前の自分の祖先の数(仮想上であれ)と実在を想像するだけで,それが何を意味するのか個別にのべることは困難になる.「私」に至るまで,限りない生殖が引き継がれてきただろう.だが「私」を考える際,こうした途方もない(特定の属性にはとても押しこみがたい)背景はたいてい考慮にいれられない.

 ここで引きたてるべきは,生物学的な唯物性といえるような基盤である.

 誰も子どもを産まなくなれば社会も文化も消えてなくなる.理性がどのように理屈をつけようと,存続するには子どもが延々と産まれ続けることが不可欠である.そして「私」がここにいるのも,その帰結である.もちろんここから,子どもを「産まなければならない」という命題が引きだされるわけではまったくない.産む/産まないは,とりわけ近代以降(いや,自意識としての「私」が人間という生物に宿ってからはおそらくずっと),どうあっても一対の男女の意識やそれをとりまく社会のあり方,そして「産む側」を担わざるをえない女性の諸事情に依拠してきたはずだ.しかしおおきな規模でみれば,生殖はなされつづける.人間も生物だから,疫病や巨大火山噴火や大規模な気象変動によって特定の集団が絶滅することもあるだろう.しかし同じくただの生物なので,どこかで執拗に子どもは産まれつづける.

 だが,とりわけ近代以降,人間はこうした自分の生物性からは眼を背けたがる.個人であることや意識であることと,生物としてある自己とは別のものだと考えたがる.あるいは眼を背けることが,文化という事象のなかに織りこまれ,それを言挙げすることは何かタブーであるかのように振る舞いがちである.


 これに連関して例にあげてみたいことは,人口学が「予想」において,かなり正確だということである.さまざまな未来予想が失敗するのに,人口については例外的であるといえる.もちろんこれは,いうまでもなく,近代化と産業化を契機とした,〈多産・多子社会〉から〈少産・少子社会〉への移行の帰結である.つまり,子どもは労働力であり,多数の子どもが必要であるとともに,産まれても多くは衛生上の問題から成人まで生きられない社会から,子どもは教育の対象であり多くの投資が必要になるとともに,ほぼ全員が成人になる社会へと変化したことの結果である.現在の日本において急激な少子化が問題になっていることは改めてのべるまでもないが,そこでの予想もほぼ正確だろう.

 人口予測は,実際にはファクターは相当限定されるので,正確なのは一面では当然かもしれない.かつての〈多産・多子社会〉とは異なり,高度資本主義社会において,一国に限定すれば,生殖可能な女性の数も,その婚姻や出産の傾向もほぼ推定できる.だから,移民のような流入・流出が大きな数にならないかぎり,世代別人口数は容易にはじきだせる.一九九〇年の「一・五七ショック」(合計特殊出生率がこの年に一・五七人になったこと)からしきりに喧伝されるようになった少子高齢化問題は,リアルに今後の日本の現実を映すだろう.そして,この数字は二〇〇五年には一・二六になるが,赤川学がつとに指摘するように,政府がさまざまな政策で目標とする程度の多少の数字の変化(合計特殊出産率の小数点以下一桁レヴェルでの変化)では,事情がたいして変わることはない.そして少子化対策が,数を増やすという意味ではほぼ無意味であるのと同時に,数百年後,この列島に誰も人間がいないということも現実的ではない(赤川学『これが答えだ!少子化問題』ちくま新書.いうまでもないが個々の少子化対策は子育てに苦慮している多くの親にとっては,もちろん意味があるだろう).日本の人口は,移民問題を措いても,激減しながら,ある水準で収まるだろう.

 しかし,子どもが産まれる現場,すなわち妊娠に関しては,多くは一対の男女の意志が反映される.もちろん子どもは授かりものであるというように,意志があったから産まれるわけではない.そもそも望まないケースがあり,望んでもさまざまな理由で産まれない場合があり,意に反する妊娠もある.生殖医療による妊娠や人工妊娠中絶には,それぞれの場面での個人の意志が強く効いている.さらに,これも赤川のいうように,一対の男女が出会い,性関係を築くにいたる事情も本当は考慮すべきである.だが,こうしたすべてをひっくるめて,生殖の数が,統計上ほとんどある傾向に揃うということはやはり不思議である.生物であれば,成員の数は環境との関連に影響されうるだろう.〈少産・少子社会〉の人間にとっては,そこでの環境とはおもに経済なのかもしれない.だがそれが示す数は,個々の出産それ自身とは切り離されている.

 それは人間社会の本性であるのかもしれない.そもそも社会学の発端のひとつがエミール・デュルケームの『自殺論』であり,そこでは個人的意識の外側にある何かをみいだし,それを実体のように扱うことがなされたという事情がここにそのままつながっているのかもしれない.ミシェル・フーコーののべる「生政治学」では,人口統計が権力の統治において重要な対象となることが,これにかさなりもする.

 だが,まさにフーコーもその立場をとる哲学からみれば,生殖とは一対の男女の営みであるにもかかわらず(LGBTQと生殖医療の進展,そこでの生殖の多様な可能性を含めれば,いまでは「男女」といえない場面もあるが,それでも生殖において,何らかの「二者」の意志は不可欠である),その帰結としての出生数は自然科学の対象のようにみえることを考えるべきだろう.それはあくまでも社会的で人間的な事象なのに,自然物のような唯物性を示してしまうのである.

 一連の議論は,身体の生物性を強調するとわかりやすいかもしれない.身体はあくまでも生物的に進化したものであり,人間の人間性は思考や意識にありつつも,身体を離れては実在できない.身体は一定の時間がたつと老い,どうしようもなく死んでいく.だが身体は,生殖によって次世代を産みだし,現在の人間すべてがいなくなっても,その実在をつなげていく.生きているこの「私」も誰かが産んだものである.またそこで「別の私」が,「私」と「他の私」の行為によって現れる.そしてそうした身体は,その生物性そのままに,自然法則に従うかのような増減を繰り返す.近代以降は,生殖に個人の意志や好悪や感情が強く介在できるはずなのに,〈少産・少子社会〉でも,その数は不思議と決定される.

 生病老死に悩み苦しみ考え抜き,科学や技術や思想によって,自然の所与としての身体をコントロールするのが人間のひとつの本性であろう.だが,そうした人間的営為自体は,生物的な身体に依拠せざるをえない.生病老死を扱うとしても,それは自然としての身体の枠組みを超えられない.そもそも社会が存立するためには,身体が産まれ続けなければならない.繰り返すが,これはだから「産まなければならない」という倫理的命題を導くものではない.むしろいかなる場面で何が起ころうと,ある程度子どもは産まれることがどこか驚きなのだ.それが少子化的な傾向を示そうが,それは数の減少であり,消滅を示すものではない.それはむしろ統計がかいまみせる身体のロジックや,生物学的な唯物性がいかに強固であるかの露呈ともおもえる.

 「私」が個人として独立し,生殖という場面において自律した判断をなし,生殖は深く特定の他者との関係において成立するのに,そうして次に産まれる「他の私」は,「私」という「個人」の意識にはのぼらない生物的な唯物性によってつながり,数字としてもそれに従う.この不思議さは,「私」とは何かをとらえる上で少し考慮にいれてもよいのではないか.「私」も産まれたものだし,「私」ではなくとも,結局は「誰か」が産むことを継続することで,「私」があることがつながっていく.そしてつながりのなかで,不可思議なことに意識を備えた生命が繰り返し更新されていく.

 もちろんこうした哲学的思考が,少子化対策や生殖医療の諸問題や新たな優生学への対抗などの諸問題について何かの答えを用意するなどということはありえない.それらはまったく別の問題である部分もあるだろう.だが,こうした生殖でつながれる生物的な唯物性の上に「私」があり,その身体的ロジックを基盤とし,あるいは一面ではそれに逆らってしか,その意識がありえないのも事実である.生殖や子どもの哲学を考えるとき,個人と生物種との相互依存と対立とでもいうべきこうしたあり方に,どこかで触れざるをえないのではないか.

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