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『図書』5月号【試し読み】久保田淳/近藤譲/おしどりマコ

 ◇目次◇

 「心見る」女              久保田 淳
偽者と分身、そして永遠         安藤礼二
ジャン=マリー・グリオの俳句を読む   小津夜景
〈対談〉同級生の語らい         川上泰徳,佐藤正午
リヴァラン(riverrun)          近藤 譲
はるかなるナンギヤラ          おしどりマコ
私のこと その4            加藤典洋
藤野先生の「ノート添削」をめぐって(下) 三宝政美
古関裕而                片山杜秀
大仏・林檎・天主堂           さだまさし
花と風の月               辰巳芳子
五月、新緑がまぶしい季節に       円満字二郎
海の幸の賑わい             三浦佑之
北欧のアイコン、世界のアイドルとなる。 冨原眞弓
世界を駆け巡る言葉           山室信一
こぼればなし
五月の新刊案内

(表紙=司修) 
(カット=なかじままり) 
 

 ◇読む人・書く人・作る人◇

「心見る」女
久保田 淳
 
 和泉式部は石山寺に参詣の途中、山科のとある家で休んだが、「家主いへあるじ」が「心あるさま」に見えたので、また帰途にお寄りしましょうと言ったら、「よにさしも」と言われて、歌でこう答えた。
 
  かへるさを待ちこゝろみよかくながらよもたゞにては山科の里 (『後拾遺和歌集』雑五) 
 
 やはり石山寺参籠中のこと。彼女は、恋人の帥そちの宮(敦道親王)から「いつ出山するのか」と問われて、「こころみよ君が心もこころみんいざ都へと来てさそひみよ」(『和泉式部集』)と答えたともいう。「こころみる」(心見る)という動詞は、和歌では『古今集』から用いられているが、和泉式部の使用頻度はかなり高いようだ。彼女は対人関係において、しばしば自身の心と共に相手の心を見ようとし、時には相手にも同じことを求めたのではないだろうか。
 「かへるさを」の歌では、この歌を詠みかけられた「家主」は男だったのか、それとも女主あるじだったのか、その「心あるさま」とは具体的にどんなさまであったのかも、気になる問題である。『後拾遺集』の詞書の「よにさしもといひ侍ければ」に相当する部分は、『和泉式部続集』でのこの歌の詞書には無い。それならばこれは、撰者藤原通俊がこの歌の詠まれた場を想像して加えたのであろう。彼はその場の雰囲気をどのようなものと想像したのだろうか。
 二十五年ぶりに『後拾遺集』を読み返して、改めて解釈に思い悩むことは少なくない。
(くぼた じゅん・日本古典文学)
 

◇試し読み◇ 

リヴァラン (riverrun)

近藤 譲

 三十年ほど前まで、我が家には、リヴァランが棲んでいた。全身つややかな漆黒の毛に被われた、三キロ半ほどの重さしかない小型のプードルである。
 彼は、生涯、我が家で最も上等な緋色の安楽椅子を寝床としていた。とはいえ特定の居場所を定めていたわけでもなく、つまりは、家全体が自分の小屋であり、それを私たち夫婦と共有していると思っていただろう。家の中や庭ではとてつもなく自由奔放に遊び戯れ、そして、家から五、六百メートルほどの範囲の「自分の領域」を散歩するときは、私を引き連れていることを其処此処の飼い犬たちに誇るかのように、胸を張って、馬のように弾んで歩いた。
 しかしまったくの内弁慶で、自分の領域から一歩外に踏み出すや否や激しく動揺して、その不安を収めるためにはいつも抱き上げてやらねばならなかった。私たちの懐こそが、彼にとっての最も安全なシェルターだったのである。たとえ家の中に居ても、彼にとっては悍ましい恐怖の対象でしかなかった雷鳴が轟くと、蒼い顔で一目散に妻の胸元に飛び込む始末である(切羽詰まったときの彼の緊急の避難先は、何故か私ではなく、いつも決まって妻の腕の中だった)。
 
 彼は、自分の生活が私たちに全面的に依存しなければ成り立たないことを深く感じ知っていたが、必ずしも、私たちに対して恭順だったわけではない。毎日朝夕二回の定時には、驚くべき精度の体内時計で時刻を正確に察知して、私たちの都合がどうであろうと、あらゆるやり方を尽くして断固として食事を要求した。また、生活の様々な場面で、妻や私の気配を読み、彼にとって好ましからざる事が起こりそうだと感じると、それを未然に防ぐために、私たちに容赦のない凶暴な攻撃を加えることを躊躇わなかった。しかし、そうした彼の予測は屢々間違っていたから、その結果、私たちはまったく謂われのない攻撃を不意に受けることになる。
 人はそれを、私たちの躾の失敗と云うに違いない。確かにそうなのだろう。しかし、私たちが彼を私たちの生活に取り込もうとするのであれば、逆に彼が私たちを彼自身の生活世界に取り込もうとしたとしても、決して不思議ではない。私たちは彼をこよなく愛おしんでいたから、彼の生(せい)を蹂躙したくはなかったし、彼は彼自身の生活世界を巌のような意志で堅持しつつも、私たちを深く信頼し慕っていた。一方が他方の生活世界を抑圧するのではなく、摩擦を繰り返しつつも、共に闊達な生を分かち合う。それが、リヴァランとの十数年間の生活の幸せだった。
 
 彼が生まれてまだ数ヵ月も経たずに我が家に来たとき、私は偶々、ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を読んでいるところだった。この長大な迷宮のような小説は、“riverrun, past Eve and Adam’s, ……” と書き始められているので、その冒頭の言葉が彼の呼び名になったというわけである。
 私は、自分が作曲した曲に題をつけるときも、屢々、ちょうどそのときに読んでいた本、私を取り巻いていた自然の事象、身の回りにあったもの等から、言葉を選ぶ。私にとって、そうした題は、曲の表現内容の象徴や説明ではなく、謂わば、曲の名前である。名前(つまり、固有名詞としての言葉)は、その曲を指し示す記号ではあるが、「意味」の上で音楽と繋がっているわけではない(「リヴァラン」という名前が指しているのは我が家の犬であって、その犬と「川走(川の流れ?)」という言葉の「意味」の間には何の係わりもない)。
 とはいえ、私が曲題として選ぶ言葉は、作曲していたときの私の生活の一部を成していたものに由来している。つまりその言葉が「意味する」事象は、名付けられるべき曲が生成する過程でその作者である私が体験した主観的な時間の中に在ったものであり、したがって、少なくとも私自身にとっては、そこに生まれてきた曲の生の一部分なのである。
 
 リヴァランとの生活が始まったばかりのころ、私は、或る作品の作曲に取り組んでいた。独りで夢中になって部屋中を遊び回り、やがて疲れていつもの椅子の上で寝息をたてるリヴァランを横目に、彼が放つ音と臭(にお)いと息遣いを感じながら、私は作曲の鉛筆を走らせた。そして、当然、その作品は、「リヴァラン」と名付けられることになった。
 その《リヴァラン》は、電子音楽作品、つまり、楽器や声を用いずに、電子的な発信音だけを素材として、それを色々な仕方で合成しながらアナログの磁気録音テープ(当時は未だ、デジタル録音技術は発達していなかった)に定着していくという方法で作られた曲である。 電子音楽を作曲するとき、私には何故か、過去を振り返る癖があるようだ。以前に楽器のために作曲した曲の発想を、電子音という非常に異なった新たな媒体に適用すると、いったいどんな結果になるだろう? いつもそういう興味に衝き動かされるのだ。
 そして、《リヴァラン》の場合のその「過去」との繋がりは、カウベルという楽器に係わっている。カウベルは、スイスで牧場の牛が首にぶら下げている小型の鐘(ドイツ語でAlmglockenと呼ばれる種類の鐘)のことである。それは、通常の「楽器」のイメージには当て嵌まらないだろうが、私はその素朴な乾いた響きがたまらなく好きで、カウベル二五個だけを使って演奏時間二五分ほどの曲(それは、ベートーヴェンの交響曲丸ごと一曲分の長さに匹敵する)を書いてしまっていたほどである。
 
 私のカウベルの音への溺愛は、実は、更なる「過去」と繋がっている。それは、学生時代、奈良の法隆寺を訪ねたときのことだった。その日は、台風でも近づいていたのだろうか、とにかく並外れて風が強かった。その強風に、五重塔やいくつもの伽藍の軒に吊るされた沢山の風鐸が揺れて、此処彼処でその美しく乾いた無数の音を鳴らし、天から地まで、境内全体の空間をいっぱいに満たしていたのである。その体験は、時を経るにつれて私の想像世界の中で膨らみ、満天に鏤められた星々がそのまま音と化したかのような果てしない響きの海として、今も私の耳に刻まれている。カウベルの音は、その風鐸を想い起させる。私にはそう感じられたのである。
 カウベルの音は、音響学的に見ると、非常に複雑な周波数成分をもっている。《リヴァラン》を作るとき、私は、渋谷のNHK放送センターの中にあった電子音楽スタジオの素晴らしく創造的で経験豊かな音響技師たちの献身的な援けを得て、複雑で歪な周波数組成の音を電子的に合成することで、想像上のカウベルの音――云い換えれば、私の夢の中にある風鐸の音――を実現し、それを素材にして曲を組み立ててみようと思ったのである。つまり、そのときの私にとっての《リヴァラン》の現在には、そのように、「過去」が深く貫入していた。
 
 《リヴァラン》の作曲から六、七年経ってからのことだっただろうか、或る日の昼下がり、武満徹さんから電話があった。「曲のタイトルに近藤さんの曲のタイトルを使いたいんだけど、いいですか?」 彼が新たに作曲したピアノ協奏曲に、「リヴァラン」という題を付けたいというのである。言葉は誰の私有でもないのだから、他の作曲家の曲題と同じ言葉を題にすることに遠慮はいらないし、況してや許可を得る必要などない。それでも彼がわざわざそう尋ねたのは、若い後輩に対するいつもながらの温かい思い遣りであったに違いない。
 「勿論です。そんなこと、私に断って下さるまでもありません」と私は答え、そして、私のその曲題がジョイスの小説よりもむしろ犬の名前に由来していることを付け加えた。彼は何故か、我が家のリヴァランが巨大な犬だと思い込んでいたようだったが、それはともあれ、「そうだったんですね。有難う。じゃあそのタイトルにします。また家に遊びに来てください」。彼は納得がいったようにそう言って、電話を切った。
 
 その更に数年後、ロンドンで、私自身の室内楽作品の演奏会の準備の合間に、オリヴィエ・メシアンの《峡谷から星々へ》の演奏を聴きに行く機会があった。比較的小規模なオーケストラのために書かれているこの曲では、ピアノが独奏的な役割を担って活躍する。そして、その晩それを弾いたのは、武満のピアノ曲もよく演奏していたイギリスのピアニスト、ポール・クロスリーだった。
 リハーサルと本番の間に、楽屋でクロスリーとお茶を飲みながら、話題はいつしか武満の《リヴァラン》に及び、私は、この曲の題を巡っての顛末を語った。すると彼は、「何? 犬の名前? 勿論武満はジョイスからその言葉を引いたに違いないけれど、それにしても、今のお前の話で、私があの曲に感じていたタイトルの言葉と音楽が美しく結びついた夢のようなイメージにひびが入って、壊れてしまったような気がする」と、失望と困惑の色を隠さなかった。
 
 言葉の意味というものは、云うまでもなく、その言葉がどのように使われるかによって生成し、変化する。ジョイスは、「river」と「run」を連結して一語にした「riverrun」を、『フィネガンズ・ウェイク』の冒頭に置き、その結果、その言葉には、この小説全体の宇宙を想起させる象徴的な意味が与えられることになった。そして、武満のピアノ協奏曲の題としての「リヴァラン」は、当然ジョイスによるその言葉の象徴性を意識させるが、それと同時に、「水」のイメージと強く結ばれてもいる(そのことは、《ウォーターウェイズ》、《ウォーター・ドリーミング》、《海へ》、《雨ぞふる》を始めとして、彼が多くの曲に水に係わる題を付けたことからも明らかだろう)。そこには、ジョイスの文学世界よりもむしろ、かつてガストン・バシュラールが『水と夢――物質的想像力試論』で展開したような詩学が色濃く映っている。つまり武満の「リヴァラン」では、その言葉から発するこうした文学的想像の広がりと、曲の音楽的表現内容とを、象徴的に関連付けて表すという意味作用が意図されているのである。(音楽とその題(言葉)との関係についての彼のこうした姿勢は、ドビュッシーの印象主義を介して、一九世紀からの標題音楽の伝統に通じている。)
 
 一方、私の「リヴァラン」の意味作用は、まったく異なっている。犬の場合にせよ、曲の場合にせよ、それは単に「名前」であるに過ぎず、字義や象徴性といった種類の「意味」とは係わりがない。もしそこに何らかの意味性を見ることができるとすれば、それは、私自身の生のその時その時の体験時間――犬が我が家に来た日に読んでいた本、或いは、作曲していたときに傍らにいてその時間を共有していた犬、更に、そう名付けられた曲の中に貫入している「過去」――との繋がりに於いてだけである。そうした意味性は、純粋に私自身の体験だけに基づいて成り立っているから、極めて主観的で、個人的なものでしかない。このような種類の「意味」は、私自身以外の人に対しては鎖されており、それが働き得るのは、自分だけに理解できる私的な個人言語の時空間の内のみである。
 
 したがって、意味作用の観点から云えば、武満の「リヴァラン」と私のそれは、異なった言葉であり、それぞれが別の次元に属している。だがそれでも、どちらも「リヴァラン」と発音され、「リヴァラン」と書かれる同じ言葉であることもまた確かである。つまりは、この同じ言葉に与えられた次元の異なる意味作用の交錯が、クロスリーの困惑を惹き起こしたのに違いない。
 テーブルの下でしばらくじっと動かずにいた黒い毛むくじゃらの塊が、唐突に歯をむいて私に襲いかかったように、私の「リヴァラン」は、クロスリーの想像世界に不意に手痛い一撃を加えたのである。言葉は生きものであって、しかも、言葉を操ろうとする人間に決して従順ではない。言葉との戯れは常に緊張を孕み、まさにそれ故に、生の豊かな営みの一つなのである。
 
 リヴァランは、山笑う季節の早朝に、私たちの傍らで静かに息を止めた。しかし、それがリヴァランの物語の終わりではない。彼は、私たちの記憶の世界に居を移し、夢という現実の中を今も縦横無尽に駆け回っている。
 (こんどう じょう・作曲家) 

 

 
 
はるかなるナンギヤラ
おしどり マコ

 「おはようございます! その本、もらっていいですか?」
 月に二回、私のとても楽しみな朝がありました、それは紙類の廃品回収の日です。貧しかったうちは、娯楽が本で、団地の子ども会の廃品回収の日は朝から遅刻すれすれまで、「お宝探し」と称して、本を捨てにくる方々に声をかけて本をごっそりもらっていました。これは小学生の頃の話。
 
 私がもっと小さい物心ついた頃は、父が大学院に入り直していて、学生寮に住んでいました。学生寮といっても留学生用の家族寮。隣はアフガニスタンのファミリー。三歳のときの友達はアフガニスタン人の姉弟とメキシコ人の男の子。お向かいは中国人の若いご夫婦で、その頃の私は、知らない人を見ると「サローム! ォラー! ニィハォ! あなたの言葉は何? どこから来たの? 宗教は何?」と話しかけていたそう。そして、みな貧しくて、子ども用のおもちゃを持っているファミリーなど一つもなく、いろんな物を譲り合って暮らしていました。
 なので、大学図書館は夢のような場所でした、めったに連れていってもらえなかったけど! 子どもの本は資料用の外国語の絵本しか無かったけど、司書さんが、どうぞ、と運んできてくださって、色とりどりの絵を見ているだけで幸せでした! しんと静かな空間で、小さい私のために大人の司書さんがうやうやしく絵本を集めてきてくださる、それだけでうっとりしました! 本に飽きたら、図書館を探検して、バラバラのサイズのいろんな本が、おすましして整列しているのを見て、背表紙をそっとなでながら歩き、よし、ここに並んでいる本を全部読もう! と決めたことを覚えています。
 
 父の大学院の卒業とともに地元の神戸に戻り、団地に入ります。相変わらず貧しいので、娯楽は図書館。週末は家族で回れるだけの図書館を回っていました。よく行ってた市民図書室は三軒で、私が一人で遠くに歩けるようになってからは隣の校区の小学校の市民図書室にも通ってたなぁ。シートン動物記も江戸川乱歩全集も全て読みました。作者で本を探す、ということを覚えた頃は、灰谷健次郎さん、今江祥智さん、山中恒さんなど片っ端から読んでましたね。
 一番のお気に入りは「岩波少年文庫」のシリーズ(ちなみに、当時から、なんで岩波「少年少女」文庫と違うねーん! とは思っておりました、うふふ)。何周読んだかなぁ……メアリー・ポピンズ、ドリトル先生、やかまし村にエーミールにピッピ、ケストナーやリンドグレーンも片っ端から読みました。ミヒャエル・エンデの影響も大きいな、『はてしない物語』の各章が「これはまた別の話、別のところで…」と結ばれて、話がどんどんはてしなくなるのが好きで、私もちょいちょい取り入れます、うふふ。
 中でも、ナルニア国ものがたり! これは五周は読んでいます、「朝びらき丸」と言われると反射的に「東の海へ!」と言うし、「カスピオン王子!」には「つのぶえ!」と叫ぶでしょう。岩波少年文庫で百人一首みたいなカルタがあったら、私けっこう強いな! ナルニア国ものがたりは私の中にしっかりと入っていて、親戚の家に立派な洋服ダンスを見かけるたび、潜り込んでナルニアに通じていないか調べていました。独立した女の子ルーシィは今も私の指針の一つ。ルーシィは四人姉弟の末っ子で、上の子たちが間違ったことを主張して、結局ルーシィの言うとおりだったとしても、ルーシィはみんなを励まして導きます。「ルーシィは他の女の子みたいに『ほら、やっぱりね』と言わないんだね」。この文章を読んでから、小2の私も「ほら、やっぱりね」は絶対に言わない、と決め、今もそうしています。『頼もしの君』ルーシィを今も目指しています。
 
 図書館めぐりをしていて、私は初めての交渉をします。貸出冊数が大人のほうが多く子どもの方が少ない。あれ? 大人は、子どもに本をたくさん読め! というのに、私はもっと読みたいのに、おかしくない?
 そうして私は、一番読みたい本がそろっている市民図書室の司書さんに、小3のとき「子どもの貸し出し冊数を増やしてほしい」と要望します。が、「決まりのため変えられない」と言われます。そこであきらめる私じゃないんだな!
 それから、子どもの本の文字数と、大人の本の文字数をカウントします。その図書室で、父が借りたものと私が借りたもの、二回分をカウントして、子どもの本の文字数のほうが明らかに少ない、とまとめます。そして「冊数ではなく文字数で考えると、子どもの本のほうが明らかに少ない。子どものほうがたくさん借りてもいいはずだ! せめて大人の貸し出し冊数と同じにしてほしい」と『お願い文』を作ります。再び市民図書室の司書さんに提出し「これはあなた(司書さん)一人ではなくて何人かで話し合って返事をください、できればその結果を手紙で返事をください」と言いました。その結果! 「子どもでも要望があれば、大人と同じ貸出冊数にする」と運用が変わったのです! ちなみにこれはうちの親は知らないことなのですよ、勝手にいつもどこかしらに何か物言いに行ってる私に「首つっこみすぎ」と良い顔してなかったので、このときは親に「何か知らないけど、今週から貸出冊数が増えたー」と報告しただけでした。ごめん、私が三週間かかって交渉した結果でした!
 
 本は借りるもの、廃品回収のときにもらうもの、古本屋さんで買うもの、という生活だった私が、初めて、お小遣いをためて買った本があります。『はるかな国の兄弟』という本です。このタイトルを書くだけで、自分の最も重要な約束を漏らしているようで緊張します!
 リンドグレーン作『はるかな国の兄弟』は、図書館で借りたあと、すぐにもう一度借り、何度も何度も借りたあと、この本を手放したくない、ずっと一緒にいたいと思って、近所の本屋さんに注文しました。ハードカバーでケースもついていて、そぅっと持って帰ったあと、机においてじっと見ていたのを覚えています。その後、私は枕の下にこの本を入れて眠り、祖母の家に泊まりに行くときも、どこに行くときも、持ち歩いていました。
 『はるかな国の兄弟』はヨナタンとカールという兄弟の話。兄弟はものがたりの冒頭に死んだあと、はるかな国ナンギヤラに行きます。そしてそこでいろんなことがあって、また死ぬのだけど、ナンギリマに行く光の中で終わります。ヨナタンとカールも大好きだけれど、何が私の中に入ってきたかというと、「ナンギヤラ」です。私も死んだ後、ナンギヤラに行くと決めました。そして私の大好きな人にも伝えて、ナンギヤラで会う約束をせねば、と思いました。
 母に急いでこの本を読ませました。読み終わった、という母に「もし、私が死んでも大丈夫だから、ナンギヤラで会えるからね、ママが死んでもナンギヤラで会おうね!」と言いました。そう、この約束をしていくためにこの本を手に入れることが必要だったんです!
 この約束は時々繰り返し話していて、小6の頃かな、母と大喧嘩して学校に行くとき、口をきかずに家を出る最後、「もし、このまま離れていたときにどちらかが死んだりしても大丈夫だからね、ナンギヤラで会えるからね、気にしなくていいからね」と言ったそう。母は今でも「あのときは、娘に負けた……と思ったよ、自分が意地張ってるのに気付かされて」と言ってました。
 
 中学、高校になってからは『はるかな国の兄弟』を持ち歩かなくなりましたが、ナンギヤラは私の中にずっとありました。そして、また巡り合ったのが大学のとき(鳥取大学医学部生命科学科に入りましたが、優秀な成績で三年で中退して芸人になりました)。医学部の授業で『死ぬ瞬間――死とその過程について』という本が出てきます。キューブラー・ロスが終末期の方々にインタビューしたもので「死に行く者の過程」は、否認、怒り、取引、抑うつ、受容の五段階ある、ということが書かれています。そのインタビュー中、北欧の小さな女の子が病気で亡くなる直前に、母親にナンギヤラの話をしているのです! ナンギヤラで会えるから、と。心配しないで、と。そして母親は小さな娘が亡くなったあと「あの子とはナンギヤラでまた会えるから。今は少し寂しいけど」と。あぁやっぱり、ナンギヤラと決めた方々がおられるなぁ、私もこの親子とナンギヤラで会うかもなぁ、と実家の母に電話して、大学の授業の本でナンギヤラが出たことを伝えました(今、手に入れた『死ぬ瞬間』を調べたらナンギヤラの記載が無い! でも私が授業で手にした後に出た改訂版だからかな? また調べなくては!)。
 今も、ナンギヤラのことは会話に時々のぼります。二〇一一年の東日本大震災から原発事故の取材を始めた私に、実家の母は繰り返し激怒の電話(芸人が事故の取材など止めなさい、仕事干されるでしょ! 政府が国民を守らないわけないでしょ!)をかけてきて、何度か親子の縁を切るのですが、その間も「たとえ親子の縁を切っている間に、どちらかが死んでも、それはそれ。またナンギヤラで会えるから」と思っていました。再び仲良くなってから、答え合わせのように、あのときナンギヤラでまた会えるしね、て思ってたよね、と喋りあっていました。
 
 そして! 母以外に『はるかな国の兄弟』をお読みなさい! と手渡したのは、漫才の相方であり、連れ合いでもあるケンパルです! けれどなかなか読み進まない、なぜ? すると衝撃の告白をされるのです、「僕は字を読むのが苦手で、一度も本を最後まで読んだことがない」。えー!! そんな三二歳(結婚当初)初めて見た!
 ケンパルは字を読むのも書くのも苦手。小さいときから本を読むのが好きすぎて「本ばかり読みなさんな!」と怒られていた私には衝撃でした! 字を読むのが苦手、ということで、私が漫才台本を書いても、読むことができず、口述で覚えるというやり方。どうもケンパルはディスレクシア(識字障がい)のようでした。書くのも苦手で、鏡文字を書いたり、ひらがなとカタカナが混じっていたり。字を形や模様として捉えてしまい、文字と認識するのが難しいようでした。でも彼はパントマイムや針金の造形に優れた才能を発揮していて、形を捕える脳の仕組みが違っているのだなー、と面白いんです!
 「あのさー「ね」と「れ」と「わ」って区別つきにくいよねー」
 「「大丈夫」って漢字、ほとんどバリエーション違いだよねー」
 彼の文字に対するコメントは興味深くて、せっせと収集しました!
 文字が苦手なケンパルの最大限の意思表示は手紙を書くこと。「マコちゃんへ」の「ちゃ」が、「ち」の横に小さい「や」でなくて、小さい「ち」が並んでいて、これ、どう読むの? と聞いたら、小さい声で「「ちゃ」って、小さい何やったっけ?」と聞くケンパルが可愛らしくてたまりません! 間違いなく、ケンパルが書いた手紙は私宛てが最も多かろう、と思いながら、『はるかな国の兄弟』を読ませて、ナンギヤラで会う約束をせねばなりません! ていうか、本を読まない、というのは、人生が半分以下になってしまうような勿体ないこと! どうすればよいの?
 まず私は読み聞かせをしました。毎晩寝る前。ケンパルが熱を出して寝込んでいるときはずっと。ファージョンの『ムギと王さま』や『天国を出ていく』は小品集だから最適でした! そして頭の回転が速くなるよ! と簡単な文章の速読を毎日一緒にして。二年くらい経って、これ面白いから読んでみて? 芸人の勉強にもなるよ! と渡したのが『月なきみそらの天坊一座』(井上ひさし著)。
 泣いたり笑ったりしながら、ゆっくりゆっくり読んだケンパル、「僕、生まれて初めて本を一冊読めた! もっと僕が読んだらいい本教えて」と欲が出た彼にすかさず、本が読めるということは、いろいろな方の考えや物語を、直接話を聞かないのに手に入れられるということだよ、と言い、様々な本屋さんや図書館に行って「ほら、ここにあるたくさんの本は、古いもの新しいものもたくさんあって、ケンちゃんが知らないことばかりなんだよ! それを選んで持って帰ったら、ゆっくり読めるんだよ!」と言うと、うわぁー! と目が輝きました。今のケンパルは、速度は遅いけど、いろんな本を読んでいます。常にカバンに読みかけの本が入っているという成長っぷり! ケンパルは確実に読むことが、読んで自分の知らないことを知ることが大好きになりました! そしてゆっくり読むケンパルは、私が超スピードで読み飛ばしてしまう部分に、丁寧に泣いたり笑ったり感じ取っています。彼の読み方も勉強になるなぁ! そしてケンパルのお気に入りの小さい本屋さんがいくつかあって、彼によると「本屋さんの本の顔が全然違う。選ばれて胸張ってる感じ」だそう。
 
 八年間、仕事を干されても、原発事故の取材をずっと続ける原動力は何? とよく聞かれれます。それは、病気や自死された記者さんや研究者や裁判の原告や弁護士さんらを見てきたから。余命宣告されたり、自死を決めた方々が、原発事故の問題はおかしい、と動き続けたのを見たから。その方々とナンギヤラで会うときに「私もちょっとだけ頑張ってきました!」と伝えたいので。社会を変えることは難しいと思いがちですが、自分の半径五mを変えていくことは簡単です。それをみなで繰り返すことが社会を変えていくことだと思います。本を一冊も読めなかったケンパルが本大好きっ子になったように。原発事故の取材なんかするなと言った母が今は沖縄の辺野古の基地移設問題に抗議して、生まれて初めてチラシ配りをしているように! 私は私の半径五mを変えていって、できることをできるかぎりやって、そしてナンギヤラに行こうと決めているのです。
 (おしどり まこ・芸人・記者) 

 

◇こぼればなし◇

◎ ドイツの出版事情をご紹介するのも今回が最後となります.

◎ 彼の地の書籍市場も下降傾向にありましたが,ここ数年は安定しており,二〇〇七年と一七年の一〇年で比較してみますと,〇七年の五〇億七〇〇〇万ユーロ(六五九一億円)に対して五一億六二〇〇万ユーロ(六七一〇億六〇〇〇万円)と堅調な推移を示しています.

◎ 他方で書店の数は減っており,年間でおよそ一五〇店舗が閉店している計算になるとか.とくに二〇一四年から一六年にかけては,一四パーセントも減少したそうです.書店間の買収,吸収が繰り返される時期がしばらく続いていたそうですが,現在は落ち着いた模様.

◎ 書籍の売上が減少したことから,数年前には書店業界から出版社に対して,本の価格を引き上げるように要請したこともあったそうです.たとえば『ダ・ヴィンチ・コード』で知られるダン・ブラウンの新刊であれば,ドイツではハードカバーで三六ユーロ(四六八〇円).日本の場合,上下で各二〇〇〇円,計四〇〇〇円といったところでしょうか.ドイツのほうが若干高めの感じですが,「彼の新刊ならば,四〇ユーロ(五二〇〇円)でも読者は買うだろう.この先,本の価格が上昇することはやむを得ない」と書店側は考えているようです.

◎ 彼の地を見聞してきた同僚は,実際に店頭で本の価格にふれ,日本と比較して全般的に高いという印象をもったそうです.『星の王子さま』のドイツ語版のペーパーバックは,九・九五ユーロ(約一三〇〇円).同書の岩波少年文庫版は六四〇円,岩波文庫では五二〇円です.単行本のオリジナル版は一〇〇〇円,愛蔵版は一六〇〇円.小社の文庫版よりは高いが単行本よりは安い,というあたりがドイツ語版ペーパーバックの価格設定といったところでしょうか.

◎ ほかの書籍の定価も,日本の一・五倍くらいの設定になっているように感じたと言います.四月号の本欄でもふれましたが,ドイツでは図書館も有料で利用されています.そういうことを含めて,本はある程度は高額な商品であるという感覚がドイツでは共有されている,ということでしょう.

◎ そんななか,二月号で紹介したオジアンダー書店は,二〇一五年の総売上高が七四五七万ユーロ(九六億九四〇〇万円),前年比で八・五パーセント増を達成しています.この数字を二〇一〇年の売上高と比較すると,四九パーセントもの伸び率になるというのですから,驚かずにはいられません.一八年は一億ユーロ(一三〇億円)の売上高を見込んでいるそうです.

◎ ひるがえって本邦の現状をみるに,彼の地とは相当異なっているようです.二〇一八年の,わが国の出版物の推定販売金額は一兆二九二一億円,前年比五・七パーセントの減.一四年連続の前年割れで,売上のピークであった一九九六年の,二兆六五六三億円の半分以下となっています.この国の本を取り巻く環境は,危機的な状況を迎えています.

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