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ベンヤミンの「絶望」と「希望」に肉薄する一書(塚本昌則)


堕ちゆく者たちの反転──ベンヤミンの「非人間」によせて 目覚めたまま見る夢
 
書評 道籏泰三『堕ちゆく者たちの反転──ベンヤミンの「非人間」によせて』
 ベンヤミンの「絶望」と「希望」に肉薄する一書
塚本昌則
 

 ベンヤミンとはいったいどんな人物だったのか。残された作品によって定義しようとすると、ハンナ・アレントが示したように、一連の否定形によって語るしかなくなるだろう。ベンヤミンは神秘的な思想をもちながら神学者ではなく、ドイツ・バロックに関する書物を著し、19世紀フランスに関する未完の膨大な研究を遺したが、文明史家でも歴史家でも文学史家でもなく、数多くのエッセイを書いたが文芸評論家でもなく、プルーストやサン=ジョン・ペルスを翻訳したが翻訳家でもなかった……(『暗い時代の人々』)。型通りの肩書きからするりと逃れ、それでいて彼の言葉がなかったとしたら、20世紀という時代について語ることは困難なものとなる、実に不思議な作家なのだ。

 道籏泰三『堕ちゆく者たちの反転』は、肯定的に語ることが難しいベンヤミンの魅力を見事に解き明かした本である。問題は個別の作品がどのような主題をめぐって書かれたかではなく、どのような意志が文章の細部に浸透しているのかを見極めることだというのである。その意志には二つの側面がある。一方には、どこまでも堕ちてゆき、現世のすべてを破壊しようとする意志がある。他方には、転落のある時点で「反転」が起こり、「創造的零点」が出現することへの願いがある。目の前に現れる対象をばらばらな断片の集積に変え、死滅させようとする身振りは、否定のための否定ではなく、何ごとかを構築するためにこそなされる。根源的な創設のために、どこまでも堕ちてゆこうとするところに、ベンヤミンの魅力があるというのである。

 無意味さ、愚かさ、孤立、憂鬱などの非合理なものに彩られた「非人間」になろうとするこの意志は、20世紀という時代を考える上で深い射程をもった視点である。著者は、ベンヤミンが現在を生き生きとした時間ではなく、すべてが生気を失う陰鬱な時間と捉えていたことを、さまざまなテクストの読解を通して明らかにしている。孤高のジャーナリストを扱った「カール・クラウス」、17世紀の演劇を論じた『ドイツ悲劇の根源』、19世紀フランスの詩人ボードレール論、20世紀の文学を代表するカフカ、そしてシュルレアリスムに関する論考──そのいずれの文章においても、現在は骸骨が転がり、アレゴリー(寓意)が闊歩する廃墟として描かれる。近代の英雄は、「剣士、老人、吸血鬼、悪魔、サディスト、屑屋、人殺し、孤独者、失業者、香具師、賭博者など、さまざまな反(非)社会的なアレゴリー的仮面」をまとった人物たちだというのである。

 問題は、現在をすでに崩壊し、死滅したものとみなすこの視線の前に、反転の契機がなかなか現れてこないことだろう。廃墟と化した現在には、その全体の俯瞰を可能とするような人間的な経験や物語はひとつも残されていない。だが、著者によれば、ベンヤミンがとりわけ評価したのは、その貧しさ、アウラの欠けた世界のうちにとどまろうとする姿勢である。自分に固有の経験などもてず、慰めのない非情な世界から、人と世界が感覚を通して通じあう「万物照応」と同じほどの詩情を引きだすことに、ボードレールは成功した。カフカの場合、最終的な失敗を確信したとき、書くことのすべてが夢のなかでのようにうまく行った。シュルレアリストのアラゴンは、当時古びた商店街だったオペラ座パサージュで「革命的エネルギー」に出会い、それがベンヤミンの『パサージュ論』の発想源となった。すべてが充たされる瞬間という理想と、その理想からは絶望的に遠い現実との緊張関係こそが、この時代の詩情の源泉となっているのだ。

 『大衆の反逆』で知られるオルテガ・イ・ガセットもまた、非人間化が同時代の否定しがたい潮流になっていることに注目した(「芸術の非人間化」1925年)。このスペインの批評家によれば、作品のほとんどを人間らしい行動や心情というフィクションによって構成する写実主義的方法への反発が、20世紀の芸術家たちには広汎に見られる。だが、『堕ちゆく者たちの反転』の著者が描くベンヤミンの「非人間」の諸相には、その傾向をはるかにしのぐ、すさまじい気迫がこもっている。それは「作品を壊死させる」という批評家の意志が、救済の問題と分かちがたく結びついているためだと著者は指摘する。破壊は生の境界を押し広げるためになされるのではない。この身を滅ぼす炎が永遠の生をもたらすことを求めるためにこそなされるというのだ。

 ベンヤミンの「非人間」は、現世の生活(内在)だけでなく、彼岸の世界(超越)も見つめている。それだけに、救済の糸口がどこにも見えない「出口なしの絶望感」(『ドイツ悲劇の根源』)は深い。内在と超越という二つの焦点が、何らかの陶酔のうちに解消されることがないまま、クラウス、ボードレール、カフカという「非人間」の作家たちは深いメランコリーにうち沈んでいる。その姿を著者は、ベンヤミンの追い求めた「新しい天使」と、その天使が見つめる現実生活の廃墟が対峙する状態になぞらえている。救済の瞬間が訪れないまま、ひたすら破壊から吹き寄せる風が、天使を中空にとどめおいているというのである。この天使には、オルテガが指摘する、生の領域を拡大するための破壊という楽観的な視点はない。到達不可能な理想を心に抱きながら、現実の廃墟を前にぼう然と眼を見開いていることしかできないのだ。

 しかし、そこにこそ新たな言葉が湧きだす源泉が見出されると著者は強調する。永遠につづくものは、理念ではなく、衣服の裾のひだ飾りである(『パサージュ論』N3-2)、とベンヤミンは語っている。ばらばらにされた断片、それだけでは意味をなさない細部のうちにこそ希望は宿っている。憂鬱な思いにひたる眼差しだけが、ギリシア彫刻に刻まれ、ルネサンス絵画に描かれた裾のひだ飾りのうちに、深い時の感触を捉えることができるのだ。

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著者略歴

  1. 塚本昌則

    塚本昌則(つかもと まさのり)
    1959年生まれ.東京大学文学部卒業,同大学大学院博士課程中退.文学博士(パリ第12大学).白百合女子大学文学部専任講師などを経て,東京大学大学院人文社会系研究科教授.
    【著書】
     ◦『フランス文学講義――言葉とイメージをめぐる12章』(中公新書,2012年)
     ◦『写真と文学――何がイメージの価値を決めるのか』(編著,平凡社,2013年)
     ◦『声と文学――拡張する身体の誘惑』(鈴木雅雄と共編著,平凡社,2017年)
    【訳書】
     ◦パトリック・シャモワゾー『カリブ海偽典――最期の身ぶりによる聖書的物語』(紀伊國屋書店,2010年,第48回日本翻訳文化賞受賞)
     ◦『ロラン・バルト著作集4 記号学への夢 1958-1964』(みすず書房,2005年)
     ◦『ヴァレリー集成II 〈夢〉の幾何学』(編訳,筑摩書房,2011年)
     ◦ポール・ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチ論』(ちくま学芸文庫,2013年)

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