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『思想』2019年7月号

◆目次◆


ケンブリッジ学派以後の政治思想史方法論――思想史と因果分析・実証主義………犬塚 元
政治思想史と政治理論――クェンティン・スキナーの自由論をめぐって………古田拓也
政治思想史はまだ存在しているか?………河野有理
「包括政党」以前のオットー・キルヒハイマー――政治科学者の政党研究と政治思想研究者の政党研究………野口雅弘
テクストの分析と影響関係………稲村一隆
コンテクスト主義の難題――政治思想史方法論の二つの段階………ペトリ・コイカライネン
捜査活動としての政治思想史エイドリアン・ブロー

政治的寛容――ポリティーク派からピエール・ベールへ………川出良枝
バートランド・ラッセルがみた1920年代初めの中国――ジョン・デューイにもふれて(下)………紀平英作
 

◆思想の言葉◆

フィロロジーとフィロソフィーの幸福な結婚

川出良枝

 フランス留学中の恩師であるジョルジュ・ベンレカッサ教授がある日授業で語った何気ない一言は,今も筆者にとっての座右の銘である.すなわち,「研究にはフィロロジー(文献学)とフィロソフィー(哲学)の二つがなければならない」.一九九〇年代初頭にあって,氏は,モンテスキューやディドロの言説を構成する論理を美学やレトリックという観点も加味して縦横無尽に論じるという先鋭的な研究で異彩を放っておられた.氏の発言は,実のところ,文献学一本であまり深入りすることなく淡々とモンテスキューのテクストを校訂し続けたある学者に対する皮肉であった.そのため,この一言を聞いた当時は,優れた思想史研究には何といっても哲学が重要なのだというメッセージだと解釈した.だが,後にそれは一面的だったことを思い知らされた.わが恩師は新しいモンテスキュー全集の責任者の一人として,とりわけ草稿研究にもとづく『法の精神』の徹底した校訂作業に没入する.フィロロジーに対する彼の真正の情熱を目の当たりにし,感銘を受けたものである.ただし,彼はその後,全集刊行事業から完全に離れ,新たに全集事業の中心となったのは,ヴォルピヤック=オジエ氏である.彼女もまた輪をかけて急進的な学者で,そもそも「全集」とは何か,また連動して「作品」や「著者」とは何かという既存の理解に抜本的な見直しを行い,全集と銘打つ以上,刊行された作品の版毎の異同やその草稿あるいは書簡のみならず,作家が残した断片的なメモや蔵書への書き込み等もすべて含めるべきだという大胆な方針を立てた.その背景には,既存の「全集」が,編者の恣意的な編集―典型的には何を全集に入れ,何を入れないかを選択するという作為―によって,原著に対して不正確あるいは杜撰な,また時にイデオロギー的な歪曲が加えられたという反省がある.文献学的な精確さや包括性・網羅性を追求し,コンテクストを明示する豊富な校訂註を付した新全集は,専門研究者には宝の山である.その反面,非専門家や一般読者にはハードルが高くなりすぎたのも事実であり,古典離れに拍車をかけるのではないかという批判もなくはない.いずれにせよ,フランスの人文学の良き伝統である学識(〓rudition)と文献学の極北とも言えるような驚くべき水準の全集刊行の試みが着々と進行しているのが現状である.

 フィロロジーの革新が進む一方で,思想史におけるフィロソフィーの現状はどうか.筆者の専門領域に関わる動きということであれば,ジョナサン・イスラエルの名をあげるべきであろう.彼は,『急進的啓蒙』(Radical Enlightenment, 2001),『啓蒙をめぐる論争』(Enlightenment Contested, 2006),『民主的啓蒙』(Democratic Enlightenment, 2011)という大部の三部作において,「急進的啓蒙」の理念を華々しく打ち出した(そのエッセンスともいえる『精神の革命』は二〇一七年に邦訳された).その仕事を一言で述べれば,「大きな物語」の復活であろう.スピノザに発する単一実体説が,反啓蒙陣営のみならず,「穏健な啓蒙」(理神論のように二つの実体を想定する二元論にとどまった思想潮流)との知的戦いをくぐり抜け,徐々に勝利をおさめる.また,哲学上の真理をめぐる勝利は,民主主義(具体的には,政治参加の拡大・人種とジェンダー間の平等・個人の自由・思想信条の自由・政教分離等)の実現という政治的勝利を必然的にともなったというのである.

 イスラエルに対しては,ヘーゲル流の歴史哲学の亡霊か,今さらながらのホイッグ史観かという批判もかまびすしい.実際,二〇世紀後半の思想史学は,「大きな物語」の否定という特徴を共有していた.これを「言語論的転回」とからめて論じることも可能であろうが,草稿・書簡をはじめとする新資料の発見やその公開などを通して精緻な実証的研究が蓄積すると,もはや単純な事実のレベルで,「大きな物語」が維持し難くなった事情もある.イスラエルの場合,なるほどスピノザやオランダの思想状況の描出についての貢献は顕著であっても,それを越えた領域―英仏独伊米のみならず,非欧米圏の啓蒙の運動にまで筆が及ぶ―においては,二次文献に由来するやや古色蒼然とした解釈や図式が並びがちであるという印象は否めない.

 だが,新資料が発見されればより真実に近づけるかというと常にそうではないところがやっかいなところだろう.精緻な実証的研究は政治思想研究において解釈がミクロ化するという現象をうみ,それがやや閉塞感をもたらしているとみることもできる.各国別・各地域別,また細かな年代別に複数の微妙に異なる「啓蒙」があるという説明より,スピノザに発する「啓蒙」の理念の劇的な戦いと最終的な勝利の物語の方が,読者に強烈な印象を与えたという経緯は理解できなくもない.三部作には,ポストモダニズムと多文化主義の趨勢に一人屹立するというイスラエルの実存的情熱が満ちており,それ自体が一つの政治的メッセージとなっている.

 だが,フィロロジーとフィロソフィーがばらばらの方角で独自の展開をみせるという極端な事例だけがすべてではない.やはり王道は,二つが両輪となって思想史の作品に結実することであろう.そうした事例はいくつもあるが,ここでは,イシュトファン・ホントを取り上げよう.その所属や人脈からケンブリッジ学派の一員とみなされることも多いが,スキナーを典型例とすると,ハンガリー出身のホントはやや異質な存在である.その代表作『貿易の嫉妬』(邦訳二〇〇九年)は高度に実証的な研究でありながら,市場における交換を土台とする近代の「商業社会」が人類に何をもたらしたかを徹底的に探求するという哲学的関心に貫かれている.それがさらに凝縮されたのが遺作『商業社会の政治―ジャン=ジャック・ルソーとアダム・スミス』(Politics in Commercial Society: Jean-Jacques Rousseau and Adam Smith, 2015)である.同書のスミスとルソーという問題設定は,かつて内田義彦が『社会認識の歩み』(一九七一年)等で設定した市場と道徳をめぐる重要な考察と見事に響き合う.ホントの一連の仕事は,内田にかぎらず日本の戦後の経済学史研究がいかに高度な水準に到達していたかを照射するものでもあり,その点でも特筆に値する.もちろん,ホント自身,そのことは強く意識しており,かつて筆者も日本語でしか読めない優れた業績をどんどん英訳して欲しいと熱望されたことがある.次なる大きな研究課題に邁進していたホントが道半ばで急逝したことは,つくづく惜しまれる.だが,フィロロジーとフィロソフィーの幸福な結婚が理想の思想史研究を生み出すことを身を呈して示したホントの仕事は,政治思想史にかぎらず,あらゆる思想史研究にとっての一つの導きの糸であろう.

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