『思想』2019年8月号
◆目次◆
思想の言葉………内山 節
立憲主義と政治的リアリズム――ジョン・ロック国王大権論の検討………山岡龍一
受動的服従の原理と実践――初期近代イングランドにおける国教会聖職者と忠誠宣誓………原田健二朗
政治における虚偽と真実――アレント「真理と政治」によせて………牧野雅彦
哲学のイデアリスムスと存在の理念――カントとヘーゲル………山口祐弘
世界への導入としての教育――反自然主義の教育思想・序説………今井康雄
〈名著再考〉ニクラス・ルーマン『社会システム理論』を読む………渡會知子
〈書評〉ジル・ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介――冷淡なものと残酷なもの』――――新訳の意義と指摘すべき点,そしてこれからなされるべき3つの研究の展望………鹿野祐嗣
◆思想の言葉◆
非合理な世界観
内山 節
私が思想的な勉強をはじめた頃,もっとも大事だとされていたのは客観的に物事をみることだった.客観的な認識,客観的な真理の発見が,何よりも重要視されていた.そしてそのためには,論理的,合理的な考察が必要だと教えられたものだった.
もちろん社会構造や経済構造を分析するというのであれば,その考察は客観的でなければならない.ところがあるとき気がついてみると,人間自身は論理的にも合理的にも生きていないのである.感情的な判断もするし,衝動的な行動もとる.客観的に自己をとらえて生きているとは,とうてい言いがたい.そういう人間たちの集積によって社会はつくられている.とすると,客観的な分析に頼っていただけでは,人々が生きている世界をとらえられないということにはならないか.
そんな気持ちをもっていた頃,私は偶然群馬県の山村,上野村を訪れた.そこは西上州の山並みがつづき,谷底を神流川が流れ落ちる山里である.私はしばしばこの村を訪れ,村人たちとも親しくなって村に家や畑,森をもつようになった.都市部とは隔絶された村だから,ここには共同体的な雰囲気が色濃く残っていた.
共同体とは人間の共同体を指す言葉ではない.自然と人間の共同体である.より正確に述べれば自然と生者と死者の共同体であり,亡くなったこの村の先輩たちも共同体の構成メンバーなのである.村では課題が生まれると集落の寄り合いが招集され,集落の方針が決定されていくが,そのとき生きている人間だけの論理で物事を決めてはいけない.その課題に対して自然はどう考えているのか,村の「ご先祖様」たちはどう思っているのかをつかみ取って判断していかなければいけないのである.
このような考え方があるから,多くの場合は集落の意志はスムーズに決定できる.生きている人間の論理だけに固執したら対立が深まるような課題でも,自然や「ご先祖様」の意志に思いを寄せれば共通の判断がでてくる.さらに述べればこのような村のあり方を維持するために,一年の間にはさまざまな祭りや年中行事がおこなわれる.自然の神々を天から降ろして祭りをおこない,自然からの働きかけが村をつくっていることを確認する.伝統的な山村では自然こそが神仏の本体なのだから,村人たちは自然に支えられて生きていることを感じるとき,村は神仏に守られて展開しているという思いを抱く.そして年中行事を重ねながら,自然や「ご先祖様」とともに生きる世界をつくりだしつづける.
自然と生者と死者が結び合ってこの世界をつくっている.自然と死者たちは神仏と一体化してこの世界をみつめている.上野村という共同体的性格が色濃く残る世界の人々の世界観とは,このようなものだった.この村で一番多く祀られている神は山の神であり,それにつづくのが水神である.水神は水が湧き出るところに祀られていることが多いが,それはときに竜神として祀られ,不動明王や弁財天として祀られる.水神は水源を守るみえない働きであり,このみえない働きが水源や竜神,不動明王,弁財天として姿を現すと考えられている.自然という姿をふくめて,みえているものはすべてみえない本質の表れなのである.ここにもこの村で暮らした人々の世界観があるといってもよい.
このような世界観を,私たちは何と呼んだらよいのだろうか.どう考えても客観的な世界観でもないし,世界の普遍的な真理と呼べるような合理的,論理的なものでもない.しかし,主観的な世界観でもない.なぜならこの世界観が,村という人々が暮らす客観的な社会をつくりだしているからである.
あえて定義づけるなら,それはローカルな共同幻想がつくりだした世界観だということもできる.みんながそう感じることによって生まれた世界観である.だがそれを共同幻想だといってしまえば,近代とは人間たちが大きな共同幻想に取り込まれた時代だということもできるのである.国家なしには社会は成立しないという共同幻想に巻き込まれ,貨幣の量によって価値が計れるという共同幻想が市場経済を支えている.雇用と労働が同一視されるのもこの時代の共同幻想が生みだしたものだし,知性や理性に対する「信仰」も共同幻想の産物だといってもよい.この視点からみれば,ローカルな共同幻想によって成立しているのが共同体であり,グローバルな共同幻想によって支えられているのが近代という時代だということもできる.
はっきりしているのは,それを共同幻想だと言おうが言うまいが,そこから現実の世界がつくられ,人々はそのなかで生きているということである.客観的,合理的,論理的に成立してはいないと感じられた世界,とらえられた世界を根底において,そこから生まれていく現象的世界のなかで人間たちは生きている.だから現象的世界を客観的にとらえただけでは,その内部で生きている人々の世界はとらえきれない.なぜなら人間たちは,この現象的世界を生みだした世界観を根底にもちながら暮らしているからである.この根底にある世界観をみなければ,人間たちの生きている世界はとらえられない.だがこの世界観は,合理的,論理的に形成されたものではないのである.
上野村では,弘法大師が発見したとされる湧き水を引いて,集落共同の水道にしている.といってもこの伝承を信じている人はいない.「言い伝えでは」と言いながらも,みんなニヤニヤ笑っている.森は山の神が守っているといいながら,山の神に出会った人は誰もいない.上野村の三笠山には忉利天のつくる極楽浄土があるとされる.そこは森が終わって岩場へと移る辺りなのだけれど,極楽浄土をみてきた人はいない.この世と極楽浄土では次元が違うのだから,この世からはみえなくてよいのだろうが,忉利天はときどき山を降りてくるとされている.そのときは散歩中の犬のような感じで,上野村の忉利天は熊を連れている.
客観的にとらえれば,それらは土着的な信仰,慣習,民俗があるというだけのことになるだろう.だが大事なことは,そこに自分たちの生きている世界と分離されていない世界観があり,それがあるからこそ現実の世界も生みだされているということである.客観的真理の探究という方法では到達できない人々の生きる世界が,である.