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北斎という山に登る(日野原健司)

葛飾北斎「富嶽三十六景 山下白雨」(太田記念美術館蔵)
 

 私の人生を変えた絵画をひとつ挙げるとするならば、それは、葛飾北斎の「富嶽三十六景 山下白雨」である。高校生の時に浮世絵の画集で見た衝撃が、大学で浮世絵を研究するきっかけとなり、さらに現在では、浮世絵専門の美術館で学芸員をするまでに至ったからだ。

 葛飾北斎の「富嶽三十六景」と言えば、「赤富士」の通称で知られる「凱風快晴」や、海外で「グレート・ウェーブ」と呼ばれる「神奈川沖浪裏」を、誰しも思い起こすことだろう。「山下白雨」は、それらに次ぐ「富嶽三十六景」の三大傑作の一つに数えられ、好事家たちの評価は昔から高いのだが、知名度となるとガクッと落ちてしまうことは否めない。しかしながら、常人には思いつかない発想をする北斎らしさが最も発揮された作品として、私はこの作品を一番に推したい。

 この絵は一見したところ、非常にシンプルだ。画面いっぱいに巨大な富士山が描かれているだけである。だがその色は、どうも私たちに馴染みのある色ではない。試しに富士山のイラストで画像検索をしてみると、白い雪が積もった山頂以外の部分は、青い色で塗られていることが多い。一方、北斎の富士山は、下三分の一が黒く塗り尽くされている。そして、画面の右下には、鋭角に折れ曲がった橙色の線。その線の勢いから、これが稲妻であると直感できるだろう。「山下白雨」という題名の通り、富士山の麓が白雨、すなわち、激しい夕立に見舞われているのである。細い線で雨足を描くというありふれた描写を用いることなく、たった二色の色と抽象的な形で夕立という天候を表現しているのだ。

 だが、私がこの「山下白雨」から受けた衝撃はそれだけではない。最初は題名に記された白雨の表現だけを注視していたのだが、よく見ると、山頂は黒雲に覆われていないことに気が付く。その瞬間、ふと、幼い頃に飛行機に乗った時の記憶を思い出した。地上では激しい雨が降っていたのだが、離陸して雲の上に出ると、周りはどこまでも広がる晴れ。そして着陸すると、再びの大雨。何ということのない当たり前の話だが、幼い時分には、雨雲の上が晴れているという現象に驚きを感じたものであった。この北斎の「山下白雨」は、まさしくその状況だ。3776メートルという日本一の高さを誇る富士山の山頂は雨雲よりもはるか上にあり、太陽の光に燦々と照らされているのである。

 古今東西、風景を描いた絵画は山ほどある。だが、煌めく太陽の輝きや豪雨の激しさを表現した名画はあっても、雨と晴、二つの相反する天候を、一枚の画面の中に完璧に共存させた絵画を私は知らない。しかも余分な表現を削ぎ落とし、ここまでシンプルにしたものがあっただろうか。そしてこの表現は、写真やCGといった現在の技術があったとしても辿りつけるものではない。まさしく神のごときスケールの広い視野に立った、北斎ならではのイマジネーションによるものであり、そのアイデアをさらりと表現してしまう描写力に圧倒されたのである。

 私は、大学の卒業論文で北斎の「富嶽三十六景」をテーマにしたが、その時から今になっても変わらずに解き明かしたいと考えているのは、北斎の発想の根源はどこにあるのか、である。

 卒論を書いていた頃と比べれば、浮世絵のみならず、江戸時代の絵画や地誌などについての私の知識量は格段に増えた。同時に、インターネットの広がりによって、「富嶽三十六景」の舞台となった、日本各地の名所に関する情報も飛躍的に集まりやすくなっている。今回、岩波文庫の『北斎 富嶽三十六景』(2019年1月刊)で各図を紹介するにあたり、その場所が北斎以前にどのように扱われてきたか、経験や情報を元に検証することを試みた。有名な場所であれば、北斎はどれだけ過去の作例を意識しているのか、あるいは、無名な場所であれば、なぜそのような場所を選んだのかを考えることによって、北斎のオリジナリティーを明確にしようとしたのである。それによって、北斎が定番の表現に縛られないところや、実際の風景に基づくことよりも絵画としての面白さを優先しているところなど、北斎のアイデアを幾分かではあるが腑分けできたかと思う。

 しかしながら、未だに頭を悩ますのが、「山下白雨」という雨と晴を同時に描く壮大な発想に、北斎はどのようにして辿り着いたのかということである。もしかすると、北斎は実際に富士山の山頂まで登り、足元に広がる雲の中から雷の音を聞いたという体験をしたからなのかも知れない。それでも、江戸時代の絵画の歴史、あるいは北斎の画業の変遷に照らし合わせれば、その発想の飛躍はあまりに大きく、自分が納得できるような結論は見つけられていないのである。

 富士山は、頑張って登り続ければいつかその頂上に辿り着くことができるだろう。しかし、北斎という山は、登っても登っても、そのアイデアの根源という頂上に辿りつける気がしない。なんとも険しく、そして登り甲斐のある山である。

 

【関連サイト】 北斎 富嶽三十六景 特設サイト

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著者略歴

  1. 日野原健司

    1974年千葉県生まれ.太田記念美術館主席学芸員.慶應義塾大学非常勤講師.慶應義塾大学大学院文学研究科前期博士課程修了.江戸時代から明治時代にかけての浮世絵史を研究.
    『北斎 富嶽三十六景』(岩波書店),『ヘンな浮世絵 歌川広景のお笑い江戸名所』(平凡社),『かわいい浮世絵』『歌川国貞 これぞ江戸の粋』『小原古邨 花咲き鳥歌う紙上の楽園』(東京美術),『戦争と浮世絵』(洋泉社)など著書多数.

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