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『図書』11月号 【試し読み】坂東玉三郎/ドリアン助川/橋本麻里

◆目次◆ 

思い出 麗子のあれこれ              岸田夏子
大きなシステムと小さなファンタジー      影山知明
人類文明の品格と寿命             家 正則
ブロニスワフ・ピウスツキのアイヌコレクション 荻原眞子
作家の本質                  川村律文
二つの文化をつなぐ (下)             渡辺政隆
俺の人生を聞きにきたのか           赤坂憲雄
ライオン・総社・高校生            さだまさし
明治の空気                  長谷川櫂
WVTR                   片山杜秀
験す神                    三浦佑之
五色譜と「お座なりズム」           山室信一
十一月の新刊案内
 
(表紙=司修) 
(カット=高橋好文) 

 

◆読む人・書く人・作る人◆◆

三島先生、最後の歌舞伎
坂東玉三郎
 
 今から半世紀前の一九六九年十一月、十九歳の私は白縫姫のお役をいただき、三島由紀夫先生が最後に書かれた「椿説弓張月ちんせつゆみはりづき」の舞台を勤めていました。新作の大役、夢中で勤めました。

 しかし後年、先生の「鰯売恋曳網いわしうりこいのひきあみ」や近代能楽集「班女」、或いは「サド侯爵夫人」「黒蜥蜴」を演じてみると、「弓張月」の時はまだ三島先生を理解せずにやっていたなと感じます。

 三島先生が書いてくださった文章のせいか、先生と私が親しくお付き合いしていたように誤解されている向きもありますが、実際にはほんの数回、それもごく短い時間、お目にかかった程度なのです。句読点に注意して臨んだ本読み・・・のとき、先生から「養父(十四代目・守田勘彌)の稽古が厳しいんだろう。これからも句読点、息継ぎを大切に」と褒めていただいたことがあります。やはり作家だな、と思いました。また「君が立女形たておやまをやるようになったら、見せ場だと思って長々やっちゃダメだよ」とも。かけていただいた二、三のこうした言葉が、今も耳に残っているばかりです。「弓張月」は、主人公・鎮西八郎ちんぜいはちろう為朝ためともが「必ず嘆くな。葉月も末の夕空に、弓張月を見るときは、この為朝の形見と思やれ」と言い、海中から現れた白い神馬に乗って去るところで幕になります。

 初演からちょうど一年後の一九七〇年十一月二十五日、三島先生はお亡くなりになりました。この「弓張月」の時点で先生が何を考えておられたか、私にはわかりません。ただ私には、為朝の最期と、先生のそれとが重なって見えるのです。
(ばんどう たまさぶろう・歌舞伎俳優) 
 

◆試し読み①◆

三宅島でトマトを育てる。
ドリアン助川 

 詩は言葉を列ね、紙に書いたり、声に出して詠んだりするものだけれど、ときには自分の人生の一部がそれと感じるなにか、詩を生きたとしか言いようがない時間に変わってしまうことがある。
 
 私の場合、それはトマトと過ごした歳月だった。実際に栽培してみると、発芽から収穫まで細かな驚きや歓びに出くわさない日はなかった。あるいは初摘みの果実を炙り、アチチと噛みつき、冷えた白ワインとの渾然一体を楽しむときなどはどうか。言葉以前の表現衝動が体内を走り回り、出口を見つけようと明滅しだす。そうなればトマトこそが詩の種であり、我が肉体は詩そのものとなる。
 
 といっても、色づいたトマトの果実からタゴールやギンズバーグやねじめ正一が直接滴り落ちるわけではない。まず、トマトを育てるという行為は、生き物であるトマトからも見つめられる座標軸の逆転体験だ。この揺れ動く、それでいてどちらかに行き切ることのない二つの視野を並列で受け入れたとき、新たな地平が覗く。理路整然とはしていないけれど、既視感のないみずみずしい世界。
 
 しかし、それならば君、ゴーヤは詩ではないのかね? キャベツだって小松菜だってバカにしたもんじゃないよ。そんな声もあがりそうだ。これに対してはごく単純な答えしか持ち合わせていない。私はトマトしか育てたことがないのだ。トマトだけに夢中になってきた。もし他の農作物を愛でた経験があれば、ゴーヤは人生相談そのものであるとか、小松菜は大地の囲み記事であるとか、そうした適当なことを言っていたかもしれない。
 
 すると、トマトは詩の種であるという私のこれまでの主張もなんだか眉唾な感じがしてくる。それはそれで仕方がない。自分で言うのもなんだが、私は根がちゃらんぽらんで、まっすぐなところがどこにもない人間だ。言っていることの大半はいい加減である。
 
 でも、詩の定義だってかなり怪しくはないだろうか。どれだけ知的な言葉を駆使したところで、学問が求めるような定義を送りだした瞬間、詩は一瞬にして姿を失い、どこかの居酒屋で突っ伏している青年の頭のなかに隠れてしまったりする。詩はつまり、見えている部分も、見えていない創造性のなかに於いても、謎のかたまりなのだ。
 
 謎は人を惹き付ける。永遠の商売のきっかけともなる。だからボルヘスの古い講義を持ち出してきて、『詩という仕事について』(岩波文庫)などというタイトルで一冊仕上げると、普段から詩の迷路のなかで行き倒れたり悶絶している人々が群がり、奪い合って買い求め、ホメロスの「ワイン色の海」という比喩を説明するボルヘスの言葉に赤線を引いたりして、いっそう詩がわからなくなり、そして岩波書店はちょっとだけ儲かるのである。
 
 ただし、詩にはいくつかの条件がある。評論はともかく、詩そのものはお金儲けとは関係のない場所で始まらなければならない。古いことを言うようだが、結果的にお金になることはあったとしても、詩人その人はそれが目的になってはいけない。なぜなら詩的であろうとする目的は、まさにポエジーそのものとの出会いのみにあるからだ。
 
 続いて、詩は自分一人ではなく、だれかが読む(聞く)という関係性をもって成り立たなければならない。生む者と受ける者、双方の想像力が深い川に橋を渡し、そこで初めて詩が歩きだすのだ。ディキンソンや賢治のように時間差が生じてしまう例もあるが、詩人なしに読者は生まれず、読者なしでも詩人は生まれない。
 
 もうひとつ。お金にはならずとも、書き連ねた詩こそがその人の生きた証である。比喩のおもしろさを自発的に求めたとしても、しつこく韻を踏んだとしても、それはおべんちゃらではない。内側の「ほんとうの息吹」が積み重ならなければ詩にはならない。提灯記事や忖度は詩の世界ではあり得ない。
 
 これらの詩にまつわる条件は、私が取り組んできた三宅島でのイタリアントマトの栽培の心にほぼ寄り添う。私は大貧乏なくせに復興途中の三宅島に家まで買い、農園のトマト栽培の後押しをしてきた。お金は出ていくばかりで、一度も「こんにちは」と玄関の扉を叩いてくれたことがなかった。だが、多くのみなさんが私たちの調理用トマト「三宅サンマルツァーノ」のファンになって下さった。今年も全国のお客様から、こんなふうに料理して食べましたよと、ソテーや煮込みなど様々なトマト料理の写真が送られてきた。
 
 トマトに導かれたこの旅路は、まさに自分にとっての「ほんとうの息吹」の積み重ねだった。三宅島でイタリアントマトを育てるなんて、最初はだれも賛成してくれなかった。いや、信じてもくれなかった。
 

 思いついたのはニューヨークだ。二〇〇〇年からの三年間、私はあの摩天楼の街で暮らし、歌ったり、本を書いたり、夢を見たりして過ごしていた。そこで偶然、トマトと出会ったのだった。 きっかけは自殺率だった。バブル崩壊後の沈滞状況のなかで、日本の自殺者は増える一方だった。遠い国にいたからこそ、母国のその情報が気になった。では、自殺をしない国はどこなのだろうと調べると、なんとその当時までは五十年連続でお隣のメキシコが自殺率のもっとも低い国だったのだ(他殺率は高そうだが)。
 
 あろうことか私は当時、ブルックリンのメキシコ人街に住んでいた。それならば実験だと、彼らと同じ生活をしてみた。同じものを食べ、同じように昼からビールを呑み、すこし寝て、夕方から街角で涼んだり騒いだりしたのだ。するとたしかに、別に自殺なんてしなくてもいつか死ぬんだからこれでええやんか、と思えるようになった。加えてある事実に気付いた。なんと多くのトマトとインゲン豆とペッパーが胃のなかに入っていったことか。詳しくは拙著『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』(晶文社・文春文庫)を読んで欲しいのだが、この体験的取材を通じて、私はトマト料理の虜になってしまった。なかでも近所のメキシカンレストランで一番人気だった「トマトのテリヤキ」にすっかり入れあげた。口に入れる度に甘酸っぱい稲妻が体を走り抜けていった。
 
 この店の調理用トマトはメキシコ産ではなく、最高峰とされるイタリア産のサンマルツァーノだった。生食には向いていない楕円形のトマトだ。いったいこれはどういう植物なのか。ネットで調べるとこう書かれていた。
 
 「ベスビオスやエトナ山などの麓、火山灰でできた土地が名産地である」
 閃いた。二〇〇〇年の大噴火で全島避難となった三宅島。島民の帰還が始まったときにサンマルツァーノの種があれば、復興事業のひとつとして美味なるトマトの栽培を打ち上げられるのではないか。
 
 とはいえ、始めはそう思っただけだった。そして、思うだけに留めようと思った。実行に移すにはあまりにしんどそうだったからだ。だが、帰国後、状況は変わっていった。酒場で周囲に話す度にバカにされた。どうやって内地まで輸送するの? 経費を考えただけで無理だってわからない? 高校の後輩からもそう諭された。私はアヘヘと笑いながらも、「いっちょやったろうやないか」と思い始めた。しかしさすがに三宅島は遠い。まずは自宅のバルコニーにプランターをいくつも並べてトマトの実験栽培を始めた。何年もこれを続けた。普通のトマトなら種から果実まで問題なく育てられるようになった。するとやはり夢が降りてきた。
 
 イメージはこうだ。
 三宅島の溶岩大地に広がるイタリアントマトの畑。一面の緑の葉、無数に煌めく真っ赤な果実。その向こうは青い海だ。収穫祭と称し、私と島民(主に女性)は白ワインのボトルから透明な祝福をグラスに注ぐ。
 これは人を生かす詩なのだ。希望の歌なのだ。でもやはり、踏み出せずにいた。だって本当にそれをやるためには、三宅島に移り住まなければいけませんから。
 
 ところが、とうとうその時期が来てしまった。ハンセン病問題を描いた拙著『あん』(ポプラ文庫)が映画化され、三宅島でも上映となった日、主演の樹木希林さんと島の公民館でトークショーをやることになった。希林さんには以前内緒で、夢のトマト計画を語っていた。あくまでも秘密の話としてだ。しかし集まった島民を前に希林さんは始めてしまったのだった。「ドリアンさん、何か話したいことがあるんでしょう?」と。
 
 やむをえず内なる夢を語った私を、島民は熱烈な拍手で迎えてくれた。「頑張りなさいよ」と希林さんからも激励の声がかかった。こうなるともう引き下がれないではないか。
 
 その後の奮闘は自分の小説で書く予定なので今は語れないのだが、拍手の割に島民は私を信用してくれなかった。政治的意図があるのでは、とも言われた。仕方がない。腹を決めて土地や家を買った。すると、ようやくすこしだけ信用してもらえるようになった。そしてとうとう一緒にやりましょうという農園の主人が現れ、東京都の農業試験場まで巻き込んで栽培は大成功。「三宅サンマルツァーノ」と命名された本当においしいトマトが誕生したのだ。ネット販売だが、出荷も順調だ。
 
 来年からは同じトマトを手がける農園が増える。復興のお手伝いという意味では、私の役目は終わったようだ。だから、土地や家は手放して、静かに三宅島を去ろうと思う。イメージした収穫祭はできなかったが、主役は農園の人々だ。詩である以上、引き際が肝心ではないか。残ったのは、希林さんには食べさせてあげられなかったという未練だけだ。この哀しみがまた詩的である。
(どりあん すけがわ・詩人・作家)
 
◆試し読み②◆
 
はじまりの紐
橋本麻里

 幅にしてわずか一〇─一五ミリ。女性の和装に帯締が占める面積はごくわずかだが、着物、帯、帯揚と重ねていき、帯締の色柄がぴたりと決まった時の高揚感といったらない。画竜点睛というが、まさに見開いた瞳から、龍の長大な身体に風を巻いて生気が通うように、装う者の指先まで自信を漲らせる。精緻に組み上げられた紐ひと筋に宿る力は、侮り難い。
 
 天平勝宝四年(七五二)四月九日、龍ではなく、鎮護国家の要として造立された大仏の開眼供養法会に際して、導師を務めたインド人僧菩提僊那(ぼだいせんな)が執る筆には、約二〇〇メートルに及ぶ縹(はなだ)色の縷(る)がつながれた。聖武天皇以下法会に参列した人々はその縷を手に、大仏と結縁(けちえん)を果たしたという。衆生と仏とを結ぶ紐はまるで臍の緒のようだが、細く長く柔軟で、ものを結び留める糸や紐が、『古事記』や『万葉集』で「玉(魂)の緒」と呼ばれ、生命そのものを意味していたことを考えれば、あながちこの見立ても見当外れではないのかもしれない。
 
 神の宿る磐座(いわくら)をそれと示すために掛けられる注連縄、天岩戸の前で踊るアメノウズメの「胸乳(むなち)かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れ」た姿、そして楮(こうぞ)や樹皮の繊維を糸状に割き、束ねて榊(さかき)にかけた幣(ぬさ)。人と神仏、人と人を結ぶものとして、歴史のはじまりから紐は存在感を示してきた。糸に緒、縄、綱など、さまざまな名称、形態、素材、機能を持つ「ひも」について、詳細に紐解いていこうと思えば、この連載のすべてを費やしたところで足りるものではない。今回はそのわずか一条、組紐の老舗として知られる「有職(ゆうそく)組紐 道明(どうみょう)」の仕事を手がかりに、紐とは何か、その尽きぬ魅力について考えてみたい。
 

 紐をつくりだす技法には、撚(よ)る、編む、織る、絎(く)ける(縫い目が表に出ないように縫う)などがあるが、今回取り上げるのは「組む」紐だ。道明の八代目当主、山岡一晴(やまおかいっせい)さんはその定義を「繊維状のものを一定単位(一単位は通常数本から数十本の練り糸をまとめたものをいう)に束ね、三単位以上をもって相互に交差させ紐にしたもの(中略)条毎の組み合わせ時点における角度が、常に斜めに交差すること」(松本包夫/今永清二郎『日本の美術三〇八号 組紐』至文堂、一九九二年)と記し、組紐・組物学会監修『組紐と組物 歴史・用途・制作方法・原材料』(株式会社テクスト、二〇一一年)では、「三本(束)以上の糸または繊維束をすでに組み上がっている方向とは逆の方向へ斜めに交差してつくるもの」と書かれている。
 
丸台で紐を組む
 
 組紐の構造を文字のみで説明するのは至難の業だが、身近でより想像しやすい織物の場合、経(たて)糸緯(よこ)糸のポジションは一定で、それぞれが直角に交差することで固定され、織り上げたものが平面的になると、たやすく理解できる。そして一本または数本の糸を、「結び」の連続によって平面、あるいは円筒状の組織にしたものが「編む」紐となる。
 
 いっぽう組紐は、複数条の経糸が互いに斜めに交差することで、組織を形成していく。そのため伸縮しやすく、輪切りにして断面を見れば一目瞭然、立体物として構築されていることがわかる。まるで心柱を軸にトラスを連結した、東京スカイツリーの鉄骨を思わせる、「組む」ことでしか実現できない、いっそ建築的と呼べるような三次元の構造を、組紐は備えているのだ。
 
 ごく簡単な組紐の痕跡は、縄文土器の回転圧痕にも見出すことができ、古墳時代には刀やその鞘(さや)に付随する形で、断片的ながら組紐の実物が見つかっている。こうした基礎的な技術を下地に、仏教の伝来以降、より進んだ大陸の技術と意匠が列島へと流れ込んだ。その絢爛たる精華は、法隆寺、そして正倉院に、服飾用の帯、武具・馬具の紐、調度の紐、宗教用具の紐や芸能用具の紐として、今日まで伝世している。
 
 続く平安時代から鎌倉時代にかけて、組紐の文化――技術と意匠は爛熟を迎える。遺品として伝存するものは平安時代後期以降に限られるが、神護寺に伝わる一切経(いっさいきょう)を包む経帙(きょうちつ)の紐、厳島神社に施入された平家納経を巻き止める紐、四天王寺に伝わる懸守(かけまもり)の紐、西大寺の釈迦如来立像の頭部に納入された紐、そして御嶽神社に奉納された甲冑を威(おど)す紐など、目的と用途に応じた組み技法が案出され、時代が要請する美意識に叶った、典雅な色柄が表現された。
 
 室町時代は、公家が力を失い、戦いの形態が変化して甲冑が簡素化したことなどが重なって、組織の高度化や後に残る名品は実現しなかった。その代わり、組紐の利用が公家・武家だけではなく、経済力をつけてきた庶民へも広がっていく。近世に入ると組紐の利用は一層拡大し、また用途も多様化する。それまで秘伝だった技法を記録する解説書が作られ、産地も増えていった。
 

 上野・池之端の一角に店を構える「有職組紐 道明」が創業したのも江戸時代、承応元年(一六五二)のことと伝わる。一八世紀半ば頃に、当時の当主が道明新兵衛を名乗るようになり、現在代表取締役社長を務める道明葵一郎(きいちろう)さんで一〇代目を数える(八代目以降は新兵衛の名を襲名せず、実名を名乗る)。
 
 いま道明が販売している組紐は、女性用の帯締がほとんどだが、江戸時代に用いられていた組紐は、刀の柄(つか)に巻く柄糸、あるいは刀の下げ緒としての需要が大半で、基本的に男性、それも武士の装身具だった。組紐専門の職人は当然いたが、武士の間でも自らが身にまとうもの、それも刀に関わる工芸として、組紐の色柄や構造の研究が行われ、江戸時代中期以降には、経済的に困窮する下級武士が、内職として手がける事例も少なからずあったようだ。
 
 ところが明治維新後、廃刀令で刀関連の需要がなくなったこと、帯締を使うタイプの帯結びが普及したことなどから、道明の取り扱いも帯締が主へと逆転する。では帯締はいつ頃からつくり始めたのだろう。これは江戸時代に起こった帯の変化と関係がある。
 
 そもそも日本人の服飾の実態が、埴輪などの遺物から明らかになり始めるのは、古墳時代以降のこと。当初は楮のような樹皮繊維、あるいは麻などを用い、やがて中国文化の影響を受けて、絹を組んだ紐や織った帯、革帯などが登場する。五センチくらいまでの幅の狭いものが中心だったが、近世に入って身分や男女に関わりなく小袖が普及し、帯が衣服の表へ出るようになると、帯の装飾的な役割が強まっていった。
 
 そして迎えた江戸時代、ファッションリーダーだった遊女たちの装いから帯の幅は広がり、長さを増し、年齢や社会的立場に応じた結び方のバリエーションも増えていった。こうして丈が長く、幅が広く、結び方も複雑になった帯が解けたり、崩れたりするのを防ぐために、帯揚や帯締を用いるようになる。
 
 巷間言われるのは、文化一四年(一八一七)、亀戸天神の太鼓橋が落成した折、渡り初めに来た深川の芸者衆が結んでいた新しい帯のかたちが、あたかも太鼓(あるいは太鼓橋)を象(かたど)っているように見えたという。それから「太鼓結び」は江戸で大流行するのだが、この結び余りを紐で押さえるようにしたのが帯締の始まりだ、とする説。実際、文化文政時代(一八〇四─一八三〇年)の浮世絵には既に、帯締や帯留を身につけた女性の姿が描かれていることが指摘されている(長崎巌『日本の美術五一四号 帯』、至文堂、二〇〇九年)。明治、大正以降は、現代に至るまで「お太鼓」と呼ばれる太鼓結びが帯結びの主役の座を譲ることはなく、帯締もまた必須の小物として、必要とされ続けている。
 
 さて、道明の歴史に戻ろう。幕末─明治時代に当主を務めた五代目は岡倉天心らと交流を持ち、厳島神社に残る平家納経の紐の復元なども手がけた。六代目以降、廃仏毀釈の嵐によって被害を蒙った仏教美術の保護や研究、新興の富豪らが蒐集した古美術品の再生のために、正倉院や法隆寺に残る紐の復元を数多く手がけるようになっていく。組紐の歴史をまとめた名著『ひも』(学生社、一九六三年)を残した学究肌の七代目、名だたる歴史的組紐の復元模造を総浚(そうざら)いした八代目、数学の博士号を持ち、新しい構造の考案を得意とした九代目、そして一級建築士として事務所を構えてから、急遽方向転換して道明へ入社し、一〇代目を継いだ現当主の葵一郎さんへと至る。
 
箱に納められた復元紐の数々
 
 歴史的組紐の復元を通じて学んだ技術と意匠を元に、現在も店頭に並ぶ帯締の定番柄は約五〇〇種。にもかかわらず、年間五〇種近い新作を発表し続け、その中から定番入りを果たすのは、わずかに三~四種類。他に類のない商品の独自性、そして質の高さが、「いつかは道明」「締めれば違いがわかる」という声望を、現在に至るまで保ち続けている。
 
 こうした老舗は世の浮沈とは関わりなく、堅い商いを続けてきたのかと思えば、そうではない、と当代は首を振る。そもそも上野のあたりは、江戸時代から繰り返し火災に遭ってきた地域。近いところから数えても、戊辰戦争で焼け、関東大震災で焼け、東京大空襲で焼け、と店の焼失を繰り返して来たため、代々伝わる文書などは一切なく、資料類はすべて戦後に収集してきたものだという。二〇一六年、手狭になった木造二階建ての本店を、葵一郎さんの設計で五階建てコンクリート造に建て替えたのが、道明始まって以来となる、火災を理由としない新築となった。
 「幸い、大きな機械を必要とする仕事ではないので、人と技術さえ残っていれば、焼け跡からでも事業は再開できる。それで何とか続けることができてきたのだと思います」
 
 製造量がピークに達したのは、高度経済成長からバブル期にかけてで、現在の五~六倍はつくっていた。進物やコレクション用にと飛ぶように売れ、お客が店の外に長い列をつくった、という。
 
 ところがバブル崩壊で景気の底が抜けた。矢野経済研究所の調査によれば、呉服小売市場全体での出荷額のピークは昭和五六年(一九八一)で、約一兆八〇〇〇億円、二〇一六年には二七八五億円と六分の一まで縮小している。道明でもリーマンショックを経て社員は高齢化し、人数も減った。売り上げが減る以上に人手が足りず、商品が慢性的に不足する事態に。葵一郎さんも自らの建築事務所の仕事を週に四日、二日を道明での糸染めの仕事に充てていた。それでも自身が社長になるとは考えもしていなかったが、いよいよ手が足りないというので、二〇一二年に入社。間もなく九代目を務めていた従兄から、重いバトンを渡された。
 
 社長就任後すぐに新しい社員を募集し、工芸高校や服飾系大学のテキスタイル専攻から採用を進め、六〇歳代に達していた社員の平均年齢は、みるみるうちに三五歳まで若返った。
 「この道五〇年、と聞けばすごそうに思えるのですが、今日染め場にいる、工芸高校出身の二五歳の社員は、草木染めまでマスターし、通常商品用の酸性染料による染めも、非常に的確に行っています。経験は確かに大事ですが、取り組む姿勢やロジックを自分で考えていくことで、仕事の精度は十分上げることができる」
 
 同時に、経験を重ね、集中力のある高齢の社員(元職人)を大切にもしている。現在社員の定年は七〇歳だが、希望があれば喜んで再雇用に応じる。最高齢の社員は九〇歳を超えるという。 この年齢もバックグラウンドもさまざまな社員たちは、商品企画や営業、教室運営などの職種に分けて配属はされるが、実は全員がひととおりの紐を組む、染める、といった工程をマスターした、ジェネラリスト。言ってみれば全員のポジション交換が可能な、野球チームのようなものだ。一方、抱えの職人はスペシャリストとして、群馬県にある工場を中心に働いている。多様な組み方をマスターしようとすれば時間がかかるが、職人は一人が一種の組みだけを集中して手がける。だから何十年もかけることなく、半年もあればそれなりのものがつくれるようになるという。
 
 ことほどさように、道明の内部を知るほど、伝統工芸や職人というもののあり方に対する先入観が、音をたてて崩れていく。そしてそれ以上に、道明の組紐そのものが、驚くほど清新な感覚でデザインされていることに驚かされる。和漢の境をまぎらかす、とはわび茶の祖・珠光(しゅこう)の言葉だが、一見デザイン的な自由度の極めて低そうな組紐の上で、和洋の境が見事に紛れているからだ。
 
 たとえば印象派の絵画は、絵の具をパレット上で混色するのではなく、キャンバスに複数の色点を置いていくことで、濁りのない、輝くような風景を描き出した。こうした絵画のあり方そのものをテーマにした組紐では、小さな組目のひとつひとつをドットのように捉え、そこに現れる色を厳密に配置することで、あたかも光の粒子が集まる黄金の輪のような紐を表現している。
 
 あるいはより具体的に、『貴婦人と一角獣』(一五世紀、フランス国立クリュニー中世美術館)の六枚連作となったタペストリーがテーマの組紐もある。むろんモチーフをそのまま写すのではない。基調色である赤と紺、そしてモチーフの背後に舞い散る千花模様(ミル・フルール)を、段染めと柄染め、高麗組(こうらいぐみ)と御岳組(みたけぐみ)という、色と組で抽象的に表現しているのだ。
 
美しく染められ,出番を待つ染糸
 
 復元を先々代、構造を先代が突き詰めた後を受け継いだ自分の役目は、同じテーマで重箱の隅をつつくことではなく、広げていくこと、と葵一郎さんは言う。
 「やはり海外にどう普及させていくかについては、考えざるを得ません。売り上げはまだまだですが、洋装向けのネクタイやアクセサリーなど、新しい商品の開発も進めています。いずれこれを、和装と洋装が両輪となって進んでいくような体制をつくりたい。また神楽坂に小さなショウルームのようなスペースをつくったので、展示や体験教室などを通じて、多くの方に組紐文化を知っていただけるように努めつつ、これから組紐を使って何を作るべきなのか、あらためて考え直したいのです」
 
 海外ブランドからの視察も少なくないというが、そもそもの原価が高いため、組紐をパーツとして供給するようなビジネスは成立しにくい。むしろ自社で原材料から最終的な製品まで一貫して手がけ、そのデザインと品質の高さが総合的に評価される、「メゾン」として外に出ていくのが、「道明」の理想だという。
 
 私個人は、一条の紐という単純極まりない形状の上に、色と柄だけを表現するという、自由度の極めて小さい、いわば「不自由な」クリエイションの逆説的な強さに、強烈に惹きつけられる。たとえばそれは、極小のフィールドで最大の創造性を発揮する、俳諧のようなものだと感じられるからだ。なんなら結ぶ「用」に供さなくとも、オブジェとして眺めているだけで満ち足りる。
 
 ヒモとカタカナで書けば、何やら頼りないこと夥しいが、それ自体が主役になることは少なく、何かの付属物としてのみ存在する紐が時に発する、雷光の閃きのような創造性――。
 表面的で、非本質的。従属的で、過剰。西洋近代がそのように定義して遠ざけた、装飾/かざりの力と意味を、この連載を通じて、コトとモノの間から見出していきたい。
(はしもと まり・ライター・永青文庫副館長)
 
 
◆こぼればなし◆
 
◎ 歌は世につれ世は歌につれ,とよく申しますが,変ってゆくのは歌ばかりではないでしょう.ことばもまた時代とともに,時代もまたことばとともに変わってゆくのでしょう.

◎ 岩波国語辞典,通称「岩国」が新しくなって登場します.第七版からちょうど一〇年を経ての改訂となった第八版.第七版新版は,常用漢字表の改定に対応しての小規模な改訂でしたが,このたびは新加項目として二二〇〇項目を加えただけでなく,全項目を見直す,通常の改訂となりました.

◎ 第七版新版までの編者であった西尾実さん,岩淵悦太郎さんに続いて,二〇一四年には水谷静夫さんがお亡くなりになりました.今回は,原編者の全員が鬼籍に入られたあとの,最初の改訂ということにもなります.

◎ 第八版の編者は,柏野和佳子さん,星野和子さん,丸山直子さんと,いずれも女性の先生方です.これまでの改訂でも協力者として作業に加わってくださっていましたので,「岩国」のことはよくご存じでいらっしゃいます.こうして原編者と第八版の編者の方々のお名前が並んだのをみるだけでも,代替わりをした,新たな改訂版の登場という感じが伝わるのではないでしょうか.

◎ 編者が代替わりしたとはいえ,改訂の作業自体は,もちろんこれまでと変わることはありません.それは,新しく加えるべき項目を加え,削除すべき項目があれば削除し,ひとつひとつの項目についての内容,表現を改めて検討し,この一〇年の日本語の移り変わりを反映させて,より使いやすい辞書にするということに尽きます.

◎ 新項目では.科学技術やスポーツ,介護,料理といった分野に目配りをしました.すでにある項目についても,「おおぎり」をはじめとして,新たな語義を加えた項目も数多くあります.

◎ 「岩国」の読みどころである「▽注記」においても近年の用法を充実させましたが,こうした,いまの日常生活に対応した「内容の現代化」だけでなく,このたびの改訂では「語釈の書き方の現代化」にも力をいれました.

◎ 初版からは六〇年近くたち,現在の高校生は,初版刊行時に高校生だった方々の孫世代にあたります.たとえば「食う」ではなく,「食べる」で説明したほうが語感としては自然でしょう.項目の見出しも「アーチスト」から「アーティスト」に,「感ずる」ではなく「感じる」のほうに語釈を移すなど,いまの読者に,わかりすく,使いやすくすることで,多くのみなさんに「岩国」をご愛用いただけるよう努めました.

◎ 一一月二二日,全国一斉発売です.本体価格三二〇〇円のところ,二〇年五月三一日まで,完成記念特別価格として本体三〇〇〇円での販売となります.この機会をお見逃しなきよう,よろしくお願いいたします.

◎ 本号から橋本麻里さんの連載「かざる日本」が始まります.どうぞご期待ください.
 
 

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