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『図書』12月号 【試し読み更新】丸山直子/町田康/ 谷賢一

◆目次◆

国語辞書            丸山直子
古典の言葉           町田 康
愛しの「国語辞典」様      福島暢啓
辞書を小説のように読む     エフゲーニー・ウジーニン
タロー・目が点・広辞苑     さだまさし
『千一夜物語』の謎       深緑野分
「のっぺらぼう」への誘惑     稲賀繁美
十七字で言えること       川本皓嗣
語られたがっている言葉に耳を傾けよ 谷 賢一
土壌と人間           藤原辰史
かざる方程式          橋本麻里
痰のつまりし仏かな       長谷川 櫂
フランキストたち        片山杜秀
孕ませる神           三浦佑之
「アラ現代的」・「オヤ尖端的」だわね 山室信一
こぼればなし
十二月の新刊案内

(表紙=司修) 
(カット=なかじままり) 

◆読む人・書く人・作る人◆

国語辞書
丸山直子

 『岩波国語辞典』第八版が発行された。一九六三年に初版が発行されてから五六年が経つ。初版から携わってきた三名の編者が皆鬼籍に入った後の最初の版となる。私も改訂作業に加わったが、これまでの方針を受け継ぎつつ、時代に合わせた改訂を行った。
 国語辞書には、大型(『日本国語大辞典』―約五〇万項目所収)、中型(『広辞苑』『大辞林』など―二〇万~三〇万項目)、小型(『岩波国語辞典』『三省堂国語辞典』『明鏡国語辞典』など―六万~一〇万項目)の三種があり、小型は特に種類が多い。紙の辞書はもちろん、電子辞書すら使われなくなりつつあり、いまやスマホでネット検索という時代において、これだけの国語辞書が存在し、版を重ねているというのは、奇跡的なことであると感じる。それぞれの編纂者が、変化していく言葉の今を写し取る「鏡(かがみ)」としての側面と、規範性を重んじる「鑑(かがみ)」としての側面のバランスを取りながら、それぞれの特徴を有した辞書を執筆している。
 一方、ネットで利用できる辞書の中には、編纂者が不明で、ネット上の不確かな情報をそのまま拡散させているようなものを目にすることがある。「辞書」を名乗っているために、信頼のおけるもののように見えてしまうことが、きわめて問題であると感じる。ネット社会における情報の在り方の問題である。
 責任ある辞書作りができる環境を守っていく必要がある。紙版、ネット版、アプリ版等様々な形の辞書の在り方を探っていきたい。
(まるやま なおこ・日本語学)
 

◆試し読み◆① 

古典の言葉
町田康

 河出書房新社が出した『日本文学全集』の八巻で「宇治拾遺物語」を現代語訳したせいか、最近、「古典について書きやがれ、クソ野郎」「古典の話をしないとぶち殺すぞ、木っ端」などと声を掛けてくださる方々があるというのはまことに有難く涙が零れる。
 と言うと自分は古典に造詣が深く、昔の文章、すなわち古文、漢文、くずし字などもスラスラ読めるように聞こえるが、そんなことはまったくなく、はっきり言ってチンプンカンプンである。だったら正直にそう言って古典の現代語訳など断ればよかったのだが、ものの弾みで、「へい、ようがす」と威勢よく引き受けてしまった。悲しいことだった。
 
 そんな自分が最初に日本の古典文学と出会ったのは中学校に通っていた時分で、国語の教科書に「平家物語」の確か、「敦盛最期」のところが載っていて、これを級の全員がひとりずつ朗読する、という授業があったのである。
 と言うと、「朗読くらい簡単でしょう」と仰る人がいるかも知れない。その人は毛糸編みのチョッキを着ているかも知れない。そのチョッキは卵色なのかも知れない。上着は灰色で、その上着の胸ポケットには万年筆が何本も何本も差してあるのかも知れない。仮にもしそうでなかったとしても、或いは、そんな人がいなかったとしても、しかし、朗読は簡単ではなかった。
 多くの生徒が、難解な漢字、どこで切れるのかわからない平仮名に当惑し、いたるところでつっかえ、そのうちに茫然自失して立ち止まり、ついにはそこから先に進めなくなってしまった。
 多くの生徒が、なぜこんな難行苦行を強いられなければならないのか、という疑問を抱き、「はやく古典文学から解放されて菓子パンを買い食いしたい」と思い、また、「古典文学など二度と読むか」と思っており、自分もその一人であった。 ところがどういう訳か、この授業によって自分のなかにふたつの文章が残った。それは、

 御方の軍兵、雲霞のごとく候
 なくなく頸をぞかいてンげる

の二つの文章で、その後、四十年以上経つが、自分は四十年間、突然、前後の脈絡とはまったく無関係に「御方の軍兵、雲霞のごとく候」または「なくなく頸をぞかいてンげる」と口走り、周囲の人間に気味悪がられ、また、疎んじられ、出世の機会を逃すということを繰り返してきた。
 何故そんなことをしたかというと、その二つの文章を口にすることが無性にたのしかったからである。では何故そのふたつの文章を口にするのがたのしかったのか、というと、それはおそらく声に出して朗読したときの調子が、自分の身体的な拍子の感覚にフィットし、かつ、その言葉の意味を注釈などによって理解できた感動が、当時あったからであろう。
 もっと簡単に言うと、リズムに乗れて、腑に落ちた、ということである。
 だから、黙読してわからないところを古語辞典で調べたり文法を学んで理解しただけではそうならなかっただろうし、ひたすら朗読を稽古して、全文をすべらかに朗唱できるようになったとしてもやはりそうはならず、その両方が、たまたまこの二つの文章に限っては、自分のなかで成立した、ということだと思う。
 
 だからもっと朗読の稽古をして、もっとわからないところを学んで、たのしめる範囲を広げていけば自分は日本の古典を自在自由に読めるようになって、充実して豊かな人生を歩んでいたはずである。ところがそうならなかった。
 なぜかというと自分はその後、ふとした気の迷いからパンクロッカーになってしまったからである。
 と言うと先ほどの卵色のチョッキの人がまた来て言うかも知れない。
 「パンクロッカーだって平家物語の朗読くらいできるでしょう。古語辞典だって引けるでしょう。実際は違うんじゃないですか。本当のことを語ってください」と。
 本当に腹が立つボケナスだ。なぜならそれが間違っているからだ。どういうことかというと、パンクロッカーになるためにはいくつかの手順があって、そのなかのひとつにパンクロッカーらしく振る舞う、というのがある。
 つまり、会社員には会社員なりの、役人には役人なりの振る舞いがあるのと同じようにパンクロッカーにはパンクロッカーなりの挙措、立ち居振る舞い、別の言い方で言うと、美意識、とでも言うのだろうか、そうしたものがあって、それに日本の古典文学が、あまり、と言いたいところではあるがまったく馴染まなかったのである。
 
 なぜ馴染まないか。その最大の原因はパンクロックがそもそも西洋のもので、日本のパンクロックはそれを輸入したというか、有り体に言えば真似をしていた、という点にある。
 要するに、西洋の本物のパンクロック、というのがあり、それをお手本にして一生懸命それに似せようとしていたのである。
 そのときもっとも邪魔になってくるのが、私たち日本人の日本人的なところで、なぜなら日本的なところが強調せられれば、それはお手本の、西洋的な感じ、からどんどん離れていくからである。
 だからパンクロッカーはけっして和装で出歩くことはなかった。というか多くのパンクスは和服を一枚も所有せず、ほぼ全員が洋装、しかも、西洋のパンクロッカーを真似、数多の鋲を打った牛革の上衣や極端に細い黒染木綿の洋袴といった奇矯の風体で天下の往来をのたくって歩いた。同じく三味線や鼓はけっして用いず、エレキギター、ドラムキットといった輸入舶載の楽器を得意げにかき鳴らした。
 
 そこまではよかったが、ここに一つの大きな問題が生じた。というのは、そう。言語の問題であった。
 自分らが本当にお手本通りにしようとするならば日本語を完全に捨て去る必要があった。そしてその代わりに英語を用いて日常生活をする必要があった。
 しかし自分らはそれをしなかった。いや、できなかった。私たちはそこまで英語を使いこなすことができなかったからである。そこで私たちはやむを得ず折衷案を採用した。
 どういうことかというと日本語はこれを使う。パンクロッカー同士の会話も歌詞も日本語でこれを行い、これを書く。
 ただし、そこから日本的な情趣、日本的な情感は可能な限り排除し、自分たちの内なる日本を滅ぼす。そうすることによって西洋的な雰囲気、趣き、簡単に言えば、パンクロック的な恰好よさ、を醸し出すことを企図したのである。
 このとき、当然のごとくに日本の古典文学はダサいものとして忌避される。
 ということで自分は「平家物語」をそれきり二度と手にせず、時折、「なくなく頸をぞかいてンげる」と言うばかりでちっとも古典が読めるようにならなかったのである。
 
 しかし考えてみればそれ、というのはすなわち、日本語で表現しながら日本語的なものを排除するということ、もっと言うと日本人でありながら日本人的な感覚を否定して生きる、というのは相当におかしなことで、私はパンクロッカーになってすぐにそのことに気がついた。
 そしておそらく周囲の連中もそのことに気がついていた。
 というのは当たり前の話だ、普段は、「源やん」とか「梅やん」とか呼び合って、きわめて土着的な生活をしている人間が、パンクロックをする段になると急に、話し方や考え方が遠くのなんの所縁も無い土地の人間のように変わる(振りをする)のだから変に決まっているし、もっと言うと滑稽千万である。
 しかしそれより他に生きる術がないので自分たちパンクロッカーは歯を食いしばって、日本語なのだけれども日本語じゃない風な日本語で自己を表現し、生きたのである。そしてその具体的な方法は、空虚に耐える、空虚を空虚と思わないようにする、空虚を横溢と強弁する、の三つであった。
 けれどもこんな空虚に人間が耐えられるわけがない。だから自分は実は日本的なるものにアクセスし続けていた。どうやってか。普通は日本の近代文学の底流に流れる日本的なものを通じて、それをするのだろう。しかし、その日本的な湿り気はパンクロッカーが厳に遠ざけるべきもの、身の内から消し去ってしまうべきものであるから、これはできない。
 
 ではどうしたか。自分は同じく舞台に立って人前ですることという意味では似ているが、その内容や表現の方法がまったく違っている、寄席の演芸、すなわち漫才、落語、奇術、浪曲、漫談、腹話術などから、自分らが自分らの日本語から、取り除いた日本語の実質というか実体というか実態というか、多くの人の頭の中味を外に表して、つながりながら変化してきた、言葉の果ての先端部分に触れて、自分の空虚を満たしたのである。
 そしてこれらはすべて書かれた言葉でなく、語られる言葉であった。
 そのとき(というのは四十年前)、例えば四十歳だった演者は、自分が二十のときに聞いた六十歳の人の語りを記憶している。それは話の内容・趣旨ではなく、ちょっとした言い回しだったり、文字でしか見たことがない言葉の音の高低だったりするのだけれども、そうしたもののなかにこそ人の本当の気持ちが詰まっているのだということが直感的に理解できた。
 いや、理解できたと言うとちょっと違う、自分がそうして言葉に於いて空虚な分、ぐんぐん吸いこんでしまった、と言った方が実際に近い。
 そしてその四十の人が二十のときに六十だった人は、二十のときに八十の師匠に教わったりして、その八十の人が三十だったときの実際に市井で話されていた言葉やその背景の空気感を語りに受け継いでいるから、私たちは現代の語りのあちこちにそれを見出すことができたのである。
 
 そして私は容易に近代を超えて近世に、というか、もっと向こうに言葉として、言葉を使うものとしてではなく、言葉に話される、現される者として近づいていくことが、訳がわからないうちにできてしまった。
 これがよいことなのか、悪いことなのか、私にはわからないが、私が古典文学に知らない間に近づいていってしまっていたのはそういう事情による。
 そして、そのことはいま自分が書くことや歌うこと、すなわち生きることにとって、もしそうなってなかったら、古典に近づいていなかったら、今頃は完全に破滅・破綻するか、そうでなかったとしてもかなり残念な人になっていただろうな、と思うくらいのことであるよなあ、と思うくらいのことである。と思う。
 (まちだ こう・作家) 

◆試し読み◆②

語られたがっている言葉に耳を傾けよ
谷 賢一

 二〇一一年三月一一日……いや正確には三月一二日、福島第一原発の1号機建屋が水素爆発した日からずっと、その声は僕の喉元にずっと引っ掛かり続けていた。福島のことを芝居に書きたい。私は演劇作家だ。脚本を書いたり演出をしたり、ときどき海外の戯曲を翻訳したりして口を糊している。そういう者にとってあの巨大災害は見過ごせるものではなかった。
 しかしそれ以上に私を駆り立てるのは、福島が私の故郷だからだ。私の母は原発から二〇キロ圏内に位置する浪江町で生まれ、その後石川町という小さな町へ引っ越し、郡山市で私を生んでいる。私は幼少期、妹が生まれるまでの間や、父親が仕事で海外赴任している間などよく石川町の実家に預けられた。福島の広大な山河と空が私の原風景だ。田んぼ、あぜ道、小川、森、原っぱ、丘、謎めいた山道……。東京ではデパートで買わなければならないカブトムシが無限に捕れ、キュウリもトマトも畑から無限に採り放題、ご近所さんから届くモモだのリンゴだのも無限に食べ放題だった。預けられていた祖父母の家にはバス停が隣接していて、私はずっと縁側でバスが来るのを待っていたらしい。すぐ近所にガソリンスタンドがあって、コンビニエンスストアなんてまだない時代、アイスやジュースが欲しかったらそこでねだって買ってもらう。だから僕の最初に覚えた言葉は「バス」と「アイス」と「ジュース」だったという。思い出すだけでのどかな気持ちになる、静かで平和な田舎だった。
 そしてもう一つ私をこの題材に駆り立てるのは、父の血筋だ。私の父は機械の設計技師をしており、排気や送風の専門家として日本各地の原発によく仕事で入っていた。東海、浜岡、柏崎刈羽(かしわざきかりわ)、そしてもちろん福島原発にも父は出入りし、機械の設置やメンテナンスを行っていた。小さいころ父はよく出張で原発に行き、どっさりお土産を買って帰ってきてくれたから、子供心に原発には良いイメージがあったし、父親もそれを誇らしく語った。父の語る原発は、ピカピカしていて、大きくて、日本の技術の最先端を集めた……幼少期の私にはまるで戦隊ヒーロー物に登場する秘密基地のように思われたものだった。原発の末端に関わっていた多くの技術者たちと同じように、父は原発に対して純粋に、未来とか安全とか可能性とかいう明るいイメージを持っていたのだろうと思う。

語れなかったことと語るべきだったこと
 私が原発に疑問を抱くようになったのは、高校生の頃だ。東海村JCO臨界事故が発生し、作業員の方が二名も亡くなった。東海村には父親も度々出入りしていたので、家族一同ニュースの映像に言葉を失い、血の気が引いたのを覚えている。原爆や水爆はともかく、発電のための原子力で人が死ぬ。そして自分の父親も、同様に事故に遭う可能性があったかもしれない――そんな想像に高校生の私は肝を冷やした。以来私は原子力発電所について疑問を持ち、積極的に調べるようになる。大学に入ってからはチェルノブイリ原発事故を題材にした広河隆一氏の写真展に触れたり、後にノーベル文学賞を受賞することになる作家スベトラーナ・アレクシエービッチ氏によるドキュメント『チェルノブイリの祈り』を読んだりしてチェルノブイリの実態に触れるにつれ、疑問は確信に変わった。原発は危ない。原発は、やめるべきだ。原子力は人間の手に負えない。人類は原子力を手放すべきだ。
 しかし私は、言わなかった。声高に反対を叫ばなかったし、近しい人に話すこともしなかった。二〇〇七年にチェルノブイリ原発事故を題材にした演劇作品を発表したが、その際にもあくまで被害者の声や残された者たちの嘆きを文学的主題として扱うという態度に留まり、原発反対という声明を出すことはしなかった。正直に言えばそこには、演劇というアートに携わる者として「政治的」になりたくなかったという本音もあった。当時ようやくギリギリ演劇で飯(めし)が食えるようになっていた自分にとって、原発賛成・反対という議論に巻き込まれることで客を失うことは本末転倒というか、割に合わないという思いがあったのだ。「余計」なことに口を出して、「本業」で客を失っては困る……。
 そのとき私は、卑怯に振る舞っていたのだ。言うべきこと、語るべきことがあるのに、つまらない理由にかこつけて自分をなだめ、だまし、語らずに済ます。それは卑怯な行為である。僕は3・11の原発事故が起きた後でそれを学んだ。「あのとき言っておけば」と激しく後悔したのだ。もっとも二〇〇七年当時、せいぜい一つの公演で五〇〇人ほどしか動員できていないような小劇場劇団の作家・演出家が原発反対の声を上げたところで、もちろん原発は止まらなかっただろう。周囲で議論すら起きなかったかもしれない。しかし実際に日本国内で事故が起き、福島という故郷を奪われてみると、私はとても自分の卑怯さを許すことができなかった。「黙っている」という選択をした自分は、消極的にではあるが原発に賛成していたのと同じことだ。まして自分はチェルノブイリについて調べる中で、その危険や及ぼす被害について知り抜いていた。しかも私は表現者である。表現者とは太古の昔から神のお告げでも新たな啓蒙思想でも人に伝える使命を帯びた存在であり、炭鉱のカナリアであり、社会の木鐸であった。そんな自分が黙っていたのだから、自分は本当に卑怯な真似をしていたのだ。
 そして私は福島、もっと正確に言えば福島と原発を題材にした作品を書きたいと考えるようになった。そしてそれは、本当の意味で原発反対となるような作品にしたいと思った。僕には母親の血筋があるから、故郷を奪われるというイメージが潤沢にあったし、父親の血筋があったから、一基の原発の背景にどれだけの人間と経済がうごめいているかということがぼんやりイメージできた。度重なる原発事故を経ても原発が推進されるのは、そこに巨大な利権や経済が癒着しているからだ。ただヒステリックにハンタイ・ハンターイ、アブナイ・アブナーイと叫ぶだけでは原発問題は解決しないという予感があった。原発とそれを取り巻く政治や経済を一望できるような作品は作れないだろうか? 原発の人体への危険だけでなく、人心への危険を描くような作品は書けないだろうか? 3・11以降、別の仕事で飛び回っていても頭のどこかでずっとそのことを考えていた。
 しかし考えれば考えるほど、それは不可能に思えてくる。まず第一にスケールが大きすぎる。原発にまつわる政治と経済を解き明かす、ということになれば、物語は当然福島原発の誘致・建設の背景から描かねばならないし、二〇一一年の震災後にどのような被害と地域社会の分断をもたらしたかまで描き切らねばならない。通常の二時間のドラマでは不可能だ。何となく三部作分は必要になるんじゃないかな、と考えたが、二時間かける三部作の六時間分のドラマを作るなんて気が遠くなるような話である。そしてまた現実と生活も、私の夢の道を阻んだ。福島と原発の政治と経済の歴史を解き明かすなんて、言うは易し行うは難し、取材にどれだけの時間がかかるのか皆目見当がつかない。一カ月や二カ月では足りないことは目に見えている。当時の私はありがたいことに引っ切り無しに仕事が舞い込んでいて多忙だったし、しかし同時に仕事を蹴って取材など始めたらすぐに食い詰めるだろうくらいには貧乏だった。演劇屋というのは芸術家に見えて実のところは人気商売・水商売であるから、飽きられたらおしまい、忘れられたらおしまい、つまり働き続けなければ飯(めし)が食えないのである。福島のことが気になりながら、目の前の仕事に大車輪で働き続けた。

語られたがっている言葉たち
 転機が訪れたのは二〇一六年だった。公益財団法人セゾン文化財団から「セゾンフェロー」という助成金が、私個人というアーティストに対して支給されることが決まったのだ。普通、演劇の助成金は公演(作品)に対して支払われ、しかも年度内に会計をまとめなければならない。しかしセゾンフェローは作品ではなく私個人の活動に対して支給されるため上演の目処のまだ立たない作品の取材活動についても助成が認められたし、かつまた年度をまたぐプロジェクトについても使うことができたので福島の取材のような終わりの見えない計画についても使うことができた。担当者に福島三部作プロジェクトのことを相談してみると、まさにそういった活動・作品にこそこの助成金を使って欲しいとまで言って背中を押してくれた。
 これで取材に関する障壁が取り払われた。ここまで来て動かないのは、卑怯な上に臆病ですらある。私は動き出した。
 まず行ったのは、もちろん徹底した書籍調査である。え、大事なのは現地調査じゃないの? と思われるかもしれないが、だからこそまずは書籍に当たるべきなのだ。だいたい何も知らずにフラリと福島に行ったところで何を聞いていいのか、調べていいのか焦点が定まらない。手に入る限りの書籍をかき集め、時間を作って片っ端から読んでいった。その中では特に、福島原発誘致の政治的背景を描き出した田原総一朗氏の出世作の一つ『ドキュメント東京電力』や、まさに福島と原発の政治的・経済的関係の歴史と発展を一冊に鋭くまとめた中嶋久人氏の『戦後史のなかの福島原発』、そして福島県民がむしろ好意的に原発を受容し「内なるコロナイゼーション」が成されていたと指摘する開沼博氏『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』などが特に参考になった。いずれも単に原発の危険を訴えるような作品ではなく、むしろその経済的魅力……いやもはや魔力とさえ言ってもいいほどの大きな恩恵や癒着を鮮やかに描き出していた。
 その後、フィールドワークと称して現地調査に赴いた。私は諸般の事情から自動車免許を持っていないため、自転車を担(かつ)いで新幹線に乗って福島まで行き、県内を自転車ツーリングして回った。これがやってみると実に良かった。都内と違って福島県内は電車でどこへでも行けるというわけではないから自転車という足があるのは非常に助かったし、どこでも止まれる・止められるというのが私の取材に適していた。今でも忘れられないのが、路上のリンゴ売りのおばちゃんとの長い会話である。「量では青森に負けてるけど、味なら福島のリンゴは日本一なのよ」とお茶目に笑うそのおばちゃんからは、ごくカジュアルに当然のように風評被害の深刻さをリンゴをかじりつつ聞き出すことができた。
 取材をする際、私が自分に課していたルールが一つある。それは「絶対に自分から震災とか原発という単語を持ち出さない」「直接聞かない」というものであった。実際に人が死に、一五万人の人が避難を強いられている災害である。私のような異邦人が、初対面の相手にいきなり聞いていい話題ではないと思ったのだ。「それでは中身のある取材にならないのではないか」と思われるかも知れないが、結果は逆で、むしろ良い効果をもたらしたとさえ言えるほどだった。驚いたことに誰しもが、こちらから「震災」「原発」のことを持ち出さずとも、自然と震災と原発について語ってくれたのだ。リンゴ売りのおばちゃんでも道端の蕎麦屋のおかみさんでも、居酒屋の大将でも作業員風の若者でも、ただ仲良くなって話していれば福島の人たちは自ら語り出した。「震災のときは、この辺でも地割れがあってね……」「原発の事故があったでしょう、だから私の家でも……」「今じゃ少し落ち着いたけど、ちょっと前までは放射線量がこんなに……」等々。トータルで二〇〇人以上は話を聞いたが、一人の例外もなく自分から、まるで語りたがっているかのように、震災や原発について話してくれた。私が異邦人であり、いきなり距離感を詰めなかったことも、彼らが警戒心を緩めてくれた理由の一つだったかもしれない。
 このときに聞いたエピソードは、一つ一つが全く別の輝きを放っている。「輝き」と言ってもどこかに暗い怒りを帯びた、黒い結晶のような輝きである。人の数だけ震災があり、福島と言っても一つではなく、自治体ごとに全く異なる苦しみがあるのだという事実は私を驚かせた。福島は全都道府県中第三位の面積を誇る巨大な県であり、地理的にも浜中(はまなか)・会津(あいづ)それぞれの地方で全く異なる特色を持っている。原発との距離によっても全く異なる避難や汚染の実体がある。飯舘(いいたて)村職員から聞く震災の真実と、双葉町職員から聞く震災の真実は、全く別の真実であった。
 中でも忘れられないのは、……これは結果的には芝居で使わなかったエピソードだが、二本松市の駅前にある小さな居酒屋の大将の話だ。その店は震災から何と五年半、たった一度の例外を除いて、一日の休みもなく毎日ずっと店を開け続けているという。もう八〇歳を超える老店主が一人で、だ。二本松市は福島県下では酒造で有名な地域だが決して人口が多いわけではなく、駅前も閑散としたものであり、居酒屋が毎日開いている必然も需要もないように見える。その店は震災の直後、「食べ物・飲み物があって畳があるから」というだけの理由で、ご店主が善意でボランティアの避難所として開放していたというのだ。いろんな人が泊まっていき、水も食べ物も手に入らない中、手に入る限り飲食物を提供し続けた。震災が落ち着くまでは開けていよう……そう思っているうちに半年が経ち、一年が経ち、いつの間にか毎日開けていることがすっかり普通になってしまって、今でもずっと営業しているのだという。店を閉めた唯一の例外は、共に震災を生き延びた奥様がご病気で亡くなられたときだけ。そして奥様の死があった後ではなおさら、「店を開け続けなければ」という思いを強くしたという。他にも除染の話、除染作業員が起こしたトラブルの話、町の元々の特産品の話など、様々な話を聞かせて頂いた。忘れられない夜である。
 とはいえ二本松である。津波はもちろんなかったし建物の全壊などもなかったというから、被害はかなり軽微な方だ。そんなところでもこういうエピソードがごろごろ出てくる。まして海沿い、原発付近に足を向けると、どんどん過激で深刻な話題が出てきて、そのうちのいくつかはそのまま演劇三部作の三つ目『2011年:語られたがる言葉たち』で使わせて頂いた。そう、まさに福島県内を旅していて私が感じたのは、あらゆる人たちの胸の中に震災にまつわる「語られたがる言葉」が眠っていて、語られるのを待っており、そしてそれらの言葉は家族や友人や私のような異邦人へ向けて幾度も、幾度も語られるうちに、少しずつ浮かばれて消えていくのだろうという感覚だった。語ること自体が鎮魂であり、慰霊なのである。耳を傾けること自体が、死者の魂に手を合わせるのに等しい祀(まつ)りごとなのである。

 結局作品は三部作として完結を見た。第一部『1961年:夜に昇る太陽』では、なぜ福島県浜通り地方なんていう片田舎に「東京電力の」原子力発電所が作られることになったか……という政治的・経済的背景を描いた。第二部『1986年:メビウスの輪』では原発反対派のリーダーであった男がなぜか原発推進派の町長として選挙に担ぎ上げられ、やがては安全神話の形成に手を貸していくというメビウスの輪的「ねじれ」を描いた。第三部『2011年:語られたがる言葉たち』では震災後、とあるテレビ局の報道部を舞台に、「福島県民の生きる自信と誇りを取り戻す」ことを報道指針として持ちつつも、東京のキー局から過激でセンセーショナルな映像や物語ばかり要求されるテレビマンの苦悩と、そこで報じられる様々な震災の悲劇が描かれた。いずれも実話に基づいており、これ自身が原発と震災の一つの記録資料となることを心がけた。一一月上旬に戯曲が出版予定(谷賢一著『戯曲 福島三部作』而立書房)なので是非手にとってみて頂きたい。
 三部作に渡るサーガとして福島と原発の複雑な関係の一端を書き上げたことで、私の胸の中にあったしこりは随分消えた。あの卑怯な、臆病な自分を少しは締め出すことが出来た気がしている。しかし未だに日本で原発は元気に稼働中であり、国民的議論としても脱原発に収束したわけではない。訴え続けていかなければならないと思う、いかに原発が恐ろしいものであるか。それは放射能の恐怖だけではなく、私が三部作で描いたような政治的・経済的な魅力の恐ろしさでもあるのだ。
 福島を母に持ち、原発技術者を父に持つ私にとって、脱原発へ向けて語り続けることは今後もライフワークとなるだろう。

(たに けんいち・作家・演出家・翻訳家) 

 

◆こぼればなし◆

 ◎ 気づくと,はや師走.毎年のことではありますが,歳を経るごとに月日の流れが速く感じられます.みなさんのこの一年は,どのような年でしたでしょうか.

◎ 例年のごとく,本誌から生まれた書籍を紹介することから,この一年を振り返ってみましょう.まず二月.柳田国男の『先祖の話』の読み直しをとおしてその思考を『世界史の構造』からさらに深めた,柄谷行人さん『世界史の実験』が岩波新書として刊行されたのを皮切りに,三月には,戦中・戦後の「李香蘭」像を新たに描き直した,川崎賢子さん『もう一人の彼女 李香蘭/山口淑子/シャーリー・ヤマグチ』が.

◎ 四月には,農学者たちによって戦争末期に遂行された国策,満洲報国農場の実態に迫った足達太郎,小塩海平,藤原辰史『農学と戦争 知られざる満洲報国農場』.そして『ジョーカー・ゲーム』シリーズで知られる人気作家が読書の楽しさに読者をいざなう読書案内,柳広司さん『二度読んだ本を三度読む』が岩波新書から刊行となりました.

◎ 五月.注目の書き手が社会的な矛盾や呪縛と闘争した実在する三人の女性の人生を縦横に描く,ブレイディみかこさん『女たちのテロル』.

◎ 六月には,芸術と科学が交錯する場所から認識のあり方を考察するユニークなエッセイ,齋藤亜矢さん『ルビンのツボ――芸術する体と心』.漱石の『こころ』を斬新な視点から大胆に読み解いた若松英輔さん『『こころ』異聞――書かれなかった遺言』も,この月でした.

◎ 一一月.著者による旅先での写真を新たに加えてまとめられた,佐伯泰英さんの『惜櫟荘の四季』は,岩波現代文庫から.そして,ことし五月に急逝された加藤典洋さんの連載をまとめた『大きな字で書くこと』が刊行されました.

◎ こうしてならべてみますと,バラエティに富んだ収穫に恵まれた本誌の一年であったといってもいいでしょうか.連載時にお読みいただいたものでも,一書にまとめるにあたっては著者が手を入れたり,また新稿を加えているものもございます.年末年始のお休みに,ぜひ手に取っていただければと思います.

◎ ことしも,列島各地を自然の猛威が襲いました.台風一五号や一九号をはじめとして,大雨,集中豪雨に暴風雨,河川の氾濫や浸水,土砂崩れによる甚大な被害を伝える映像には目を疑いました.この年末を,生活再建への不安を抱え,思いにまかせぬ環境のなかで迎えていらっしゃる方も数多くおられることと思います.被災されたみなさまには,心よりお見舞いを申し上げます.

◎ 地球温暖化の影響でしょうか,列島を取りまく自然環境は大きく変わってしまったのかもしれません.心の準備だけでは足りず,一〇〇年に一度の災害に対する具体的な対策も必要ということでしょう.来年こそ穏やかな年でありますように,と祈るばかりです.

◎ 本号で,さだまさしさんの連載「さだの辞書」が終了となります.ご愛読いただき,ありがとうございました.

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