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『思想』2019年10月号 〈1989〉

◆目次◆

思想の言葉………酒井啓子
〈インタビュー〉1989年の希望と失望………キャロル・グラック/聞き手=岩崎稔
〈鼎談〉1989年を世界史的に考える………小沢弘明・永原陽子・鈴木茂
東ドイツ「平和革命」から30年――元市民運動家の視点からみる1989年の遺産………井関正久
見失われた「1989年」――ポスト冷戦期中国の思想文化動向(1989-2012年)………砂山幸雄
空間の不安――1989年とロシア・ナショナリズムの比較文明学………乗松亨平
ハンガリーにおける体制転換と新たな共同体………家田 修
スロヴァキアのディシデントたちの30年――チャルノグルスキーとミクロシコの場合………長與 進
ユーゴスラヴィアにおける1989年――連邦解体前夜の変革と対立………鈴木健太
「スラング」の機能――チェコ文学の「1989年」………阿部賢一
ポスト東欧革命の映像――チェコ,マケドニア,ボスニア………金子 遊

 

◆思想の言葉◆

世界は「一九八九」を賞賛する.それが中東を貶める
酒井啓子

 「一九八九年」.「ベルリンの壁」の崩壊と,それに続く「東」での体制変動は,ほとんどの世界で歓喜と喝采を以て迎えられた.自由と解放と分裂ヨーロッパの一体化に,誰しもがポジティブに呼応するなかで,そこからこぼれ落ちた国々があった.中東である.それどころか「一九八九年」という年は,中東・イスラーム世界を,反植民地ナショナリズムや解放理論を掲げた国際政治のなかの重要な主人公から,西欧的近代化についていけないただの遅れた社会,非常識なスポイラーを輩出する場所と見なされる存在に,転落させてしまった.

 「一九八九年」に東欧で起きた最後の「民主化の波」は,中東を飲み込むことはなかった.逆にその後,湾岸戦争,九・一一事件,イラク戦争と,「民主化」とは程遠い,別世界の論理がまかり通るような暴力と無法と理不尽に溢れた出来事が,中東を舞台に繰り広げられた.天安門事件と同じ月に起きたホメイニー師逝去は,イスラーム共和政という前代未聞の体制の行く末をますます不透明にしたし,一九八八年にイランとの戦争を終えて疲弊したイラクは,エジプトや北イエメン,ヨルダンを誘ってサウディアラビアなど親米産油国を包囲するアラブ協力機構を結成,翌年のクウェート侵攻の準備を整えていた.

 いや,「東欧の民主化」,あるいは冷戦の終焉の予感が,中東に届いていなかったわけではない.ヨルダンでは一九八九年一一月に二二年ぶりの下院議会選挙が実施されたし,クウェートでも,三年前に停止されていた議会の再開を求める運動が,一九九〇年にかけて発生した.最も激烈な形で「民主化」へと向かったのはアルジェリアで,一九九〇年六月に初めての複数政党制に基づく地方選挙が実施され,反体制派が圧勝した.その結果,九一年末の総選挙は途中で中止となり,軍事クーデタの結果,アルジェリアは一〇年強の長きにわたる陰惨な内戦に突入することになる.

 注目すべきは,これらの一連の「民主化」を求める民衆の運動が,東欧やその他社会主義諸国でのそれに触発されたというよりは,先行して起きていたという点だ.ヨルダンでの選挙実施は一九八九年四月にヨルダン南部で物価暴動が起きたことの反映だし,アルジェリアで複数政党制を認める憲法改正がなされたのも,一九八八年に起きた食糧不足を不満とする全土での大衆暴動が契機だった.

 なにより一九八〇年代末の中東における民衆運動を彩ったのは,一九八七年末から始まったパレスチナでの対イスラエル抵抗運動,インティファーダである.それは,冷戦とは無関係だったが,占領からの自由を求めるという意味では,「一九八九年」と通底していた.素手の抵抗運動として始まった第一次インティファーダが,九〇年代初期に国際社会の歓心を買ったのには,国際社会が「一九八九年」の残像をインティファーダに見ていたからだろう.

 しかし,東欧での「一九八九年」は,「民主化の成功」として記憶されたが,中東での「一九八九年」は,単なる偶発的な出来事として処理された.むしろ,東欧で起きたことは中東の独裁政権にとっての他山の石になった.広場の民衆を前にみるみる顔がこわばるチャウシェスクの姿を見ながら,当時のイラクの大統領,サッダーム・フセインは,イランとの長期の戦争のあと憤懣の溜まった民衆を慰撫するために,カネと地位をバラまいた.バラまくカネが枯渇して,隣国クウェートに侵攻した.

 反植民地主義運動と民族主義運動の時代のスローガン,「アラブ民族の統一」のレトリックを口実に湾岸戦争へと突き進んだイラクは,その後国内反政府暴動の鎮圧,国連の経済制裁,イラク戦争を経験して,数十万人の国民の命を失った.総選挙を取りやめにしたアルジェリアのFLN(民族解放戦線)は,誇り高きアルジェリア独立革命のヒーローの姿をかなぐり捨て,弾圧,内戦の過程で一五万人ともいわれる死者を出した.

 その意味では,「一九八九年」は,第三世界,非同盟中立の輝かしいヒーローだったはずのアラブの民族政権が,自らの延命のためにその後の国民の犠牲を選んでいく出発点でもあった.そこには,「独裁に逆らえば命はない」という「恐怖の壁」が築き上げられる.それが崩れ,長期独裁政権が本当に「民衆の手」で倒されるには,あと二二年,いわゆる「アラブの春」の発生を待たなければならないのだが,その間過去のヒーローの失墜にとって代わっていたのが,イスラーム主義勢力である.だがイスラーム主義勢力が中心となる民衆運動は,「民主化」とは見なされなかった.

 なぜ「見なされなかった」のか.「民主化」のとば口に立ちながら,なぜ中東に「一九八九年」は訪れなかったのか.それは,「一九八九年」が終わらせたと思っていたものが中東では全く終わっていなかったか,終わったとしても別の課題が終わっていなかったからである.

 「一九八九年」が終わらせた「冷戦」,あるいは大国の衛星国支配が,中東で全く終わっていなかったことを如実に表したのが,一九九二年,アルジェリアでの選挙・憲法の停止と軍事体制の復活である.この時,伸長を恐れられた反政府勢力はFIS(イスラーム救国戦線),すなわちイスラーム主義政党である.そのことに,与党FLNもさることながら,アメリカ,フランスが危機感を抱いた.「我々の民主主義支援の政策と矛盾するとはいえ,我々はアルジェリアで過激なイスラーム原理主義者を排除することにした」とは,ブッシュ政権時代の国務長官,ジェームス・ベーカーの発言である(一九九四年『ミドルイースト・クウォータリー』でのインタビューによる).民主化は良い,だがその結果イスラーム主義が台頭されては困るという,その後長く継承される西側先進国による中東の「民主化」に対する姿勢が,ここに露呈している.

 都合の悪い「民主化」を他国が介入して潰す,という構造は,「冷戦」がはるか遠くになっても未だ中東地域に浸透している.シリア内戦,イエメン内戦と,政権を巡る抗争が周辺国や国際社会の介入によって代理戦争と化し,「中東新冷戦」とまで言われる現在の状況は,そのことをよく表していよう.

 米ソ二大大国の対立構造は,終わった.だが,さまざまな種類の対立に大国が介入しあるいは巻き込み,二極対立として決着を付けようとする発想は変わらない.四月にクーデタでバシール政権が倒れたスーダンでは,その後も二カ月以上民衆デモと官憲の衝突が続いたが,デモを阻止するサウディアラビアの軍事政権支援が報じられている.六年前,「アラブの春」で成立したエジプトのイスラーム主義政権を軍がひっくり返したとき,全力でこれを支持したのもサウディアラビアなどの王政諸国だった.サウディアラビアとイランという域内大国を両極として,「一九八九年」以前の対立構造が,亡霊のように中東の域内政治を席巻している.

 もうひとつ,「一九八九年」が中東で終わらせられなかったことは,イスラエルによるパレスチナの占領である.第二次大戦後の「冷戦」は終わらせられても,その前の大戦,中東のすべての災厄の根源を生んだ第一次大戦時の,英仏の諸政策の遺恨は終わらせることができなかった.第二次大戦後,冷戦下で強いられた国境の不具合は正されても,第一次大戦時に定められた国境は動かされない.パレスチナ人だけではない,国家を持たないクルド民族の国家自立への希求も,閉ざされ続けている.

 なぜ,「冷戦の終わり」ばかりを世界は取り上げるのか.なぜ,「冷戦」以外のことに苦しめられてきた第三世界の人々が抱える問題は,「一九八九年」に乗り遅れただけのこととされてしまうのだろうか.二〇一九年は一九八九年から三〇年だが,一九一九年から一〇〇年である.この年,パリ講和会議が始まった.デイヴィッド・フロムキンがその著書で,『平和を破滅させた和平(A Peace to End All Peace)』と呼んだ,第一次大戦の戦後処理である.

 一〇〇年前を問わないままには,中東に「一九八九年」は訪れない.

 

 

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