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【特別公開】お金の登場(紀元前7世紀前後)[眞淳平『人類の歴史を変えた8つのできごとI』より]

眞淳平『人類の歴史を変えた8つのできごとI

 岩波ジュニア新書のロングセラー『人類が生まれるための12の偶然』『世界の国 1位と最下位』の著者である、眞淳平さんによるコンパクトな人類文明史、『人類の歴史を変えた8つのできごとI——言語・宗教・農耕・お金編』の重版を再開しました。人類史を根底から変えた出来事を紹介するシリーズの1巻目ですが、その第Ⅳ章「お金の登場(紀元前7世紀前後)」より、一部を抜粋して掲載します。


お金の交換機能

 私たちの多くは、当たり前過ぎて、そのことをふだん意識したりはしませんが、お金は非常に便利なものです。

 たとえば、「円」の紙幣や硬貨を持っていれば、日本中どこでもそれを使って買い物をすることができます。海外でも、日本円をそこの通貨に替えることで、物を買ったり、交通機関を利用したり、宿泊施設に泊まったりできる国は、とてもたくさんあります。

 その一方で、お金を得るために、人をダマしたり、犯罪をおこなったりする人のニュースには事欠きません。ある意味でお金には、人の心や行動を支配し、変えてしまう側面がある、といえるかもしれません。

 どちらにしても、お金の持つひとつの機能が、そうした現象を生んでいることは間違いありません。それが、モノやサービスの対価として支払われるという、「交換」機能です。

 現在では、日本なら円、アメリカならドル、のような「法貨」と呼ばれるお金の場合、それを発行した国(円ならば日本)の中では、支払いの対価として使うことを拒めない、という決まりがあります(日本のように、買い手が一度に同種の硬貨を21枚以上使って支払いをしようとする場合、売り手はその受け取りを拒否できる、など若干の例外が設けられているケースはありますが)。そのため、多くのお金を持っている人は、そのお金を使える国や地域であれば、たくさんのモノやサービスを購入することができるのです。

 ただし現在では、経済が複雑になり、お金の役割も交換機能だけではなくなっています。しかし基本的には、お金が誕生した大きな理由は、この交換という作業を、簡単に、そして円滑にすることにありました。

経済の発展とお金の登場

 人類の歴史において、経済は長い間、モノとモノの交換というかたちで成り立っていた、と考えられています。海沿いに住む人々が海産物を運び、それを、農民が育てた穀物や、山で採集した薬草などと交換する、といったようにです。

 しかし経済が発展すると、そうしたモノ同士の交換では、不便も生じるようになります。たくさんの種類のモノが登場する中で、人々の売りたいモノ、買いたいモノが多種多様になり、それらの交換が必ずしもうまく行かないようになったのです。

 たとえば、Aというモノを持ち、Aをあげるかわりに、Bというモノをほしい人がいたとしましょう。この場合、交換が成立するには、Bを持ち、Bをあげるかわりに、Aをほしいという人がいなければなりません。経済が発展する前なら、交換されるモノは、種類のかぎられた生活必需品であることが多く、その交換は比較的スムーズだったでしょう。

 しかし、さまざまな種類のモノがあらわれると、状況は変わります。Bは持っているけれど、Aではなく、CやDがほしい。人々の欲求が多岐にわたるようになったために、そんな人も多くあらわれるようになったのです。これでは交換が成り立たなくなります。

 そうした状況の中から登場したのが、交換のための道具、すなわちお金です。お金というものを媒介にして、すべてのモノの価値をお金に換算する。そしてモノを売る際は、そのお金と交換し、得たお金で別のほしいモノを買えばよい、と人々は考えたのです。

 このように人類の社会は、経済の発展とともに、交換機能を持った媒介物を必要とするようになり、そこからお金というものを持つようになったのではないか、と見られています。

「銀地金」を切って使用する

 知られている中でもっとも古いお金は、紀元前24世紀頃、メソポタミアで使用されていたものです。ただしこのときは、まだ「貨幣」という形態は存在していません。貴金属、とりわけ「銀」に、お金の役割(交換機能)を持たせたのです。

 そこではまず、銀の含有率がきちんと管理された「銀地金(ぎんじがね)」と呼ばれる金属塊が製造されました。そしてそれをもとに、銀の延べ棒(インゴットとも呼ばれます)や小片、銀を細い線状に引き延ばしたもの、などがつくられ、これらが少しずつ人々の間に流通するようになっていったのです。取引の際は、小片や線状になった銀の重さを天秤などではかり、それらを必要な分だけ切って渡すことが一般的でした。

 この時期、メソポタミアでは、王を中心とする「都市国家」が成立しています。そうした都市国家は、その権力によって、銀地金に含まれる銀の含有率を管理し、銀を使った取引が適正におこなわれるよう配慮したのです。

 銀がお金の役割をはたすようになった過程では、注目すべきことも起きました。

 かなり早い段階で、「利子」という概念が生まれたのです。

 実際、紀元前19世紀前後のものとされる「エシュヌンナ法典」(メソポタミア北部のエシュヌンナ王国の法律集、という意味です)や、紀元前18世紀くらいにできた有名な「ハンムラビ法典」(ハンムラビは、都市国家バビロンの王で、のちに勢力を拡大してバビロニア帝国を築いた人物です)には、利子率に関する多くの記載がなされています。

 たとえばどちらの法典にも、銀を貸しつけた場合、その利子率は年率20パーセントだと書かれているのです(『図説 お金(マネー)の歴史全書』)。

 歴史上、利子が誕生したのは、法典がそれを書き残すようになるはるか以前のことだった、と考えられています。もしも利子がなければ、貨幣やあまった穀物などを持つ人々が、持たない人に対して、それを貸そうとはあまり思わないはずです。人類は、そのことを早くから理解し、経済活動の中に利子という考え方を取り入れていったのです。

貝殻の貨幣

 その後、金属以外のものをお金のように・・・・・・) 使う地域もあらわれました。

 たとえば中国もそのひとつです。紀元前15世紀前後、現在の中国・河南省周辺を中心として栄えていた殷(いん)は、貝殻をお金のように使っていました。それが、ヴェトナムなどで取れる子安貝という貝です。おそらく南方の部族などからの献上品だった、と考えられています。

 子安貝は、その形状や、簡単には手に入らないという希少性などから、宝物視され、祭祀のそなえもの、宝飾、高位の人々への贈り物、埋葬の際の副葬品、などに使われました。

 この場合の子安貝は、日常の取引に使う現在のお金とは、やや異なった性格のものだといえます。しかし、「物質としての子安貝」とくらべて、きわめて大きな価値が認められていたことを考えると、お金に似た側面もあったことは間違いないでしょう。

 じつは世界の歴史では、貝殻をお金として使うことは珍しくありません・・・)

 アフリカの一部地域などでは、これが18世紀頃までつづいていたほどです。

 そしてこの習慣は、アフリカを苦しめた「奴隷貿易」にも役立った、とされています。

 少し説明しましょう。アフリカ北西部のマリや、インド洋のモルジブ諸島といった地域では、長い間、貝殻がお金として使われてきました。しかしこのとき、地域によって貝殻と金の交換比率が大きく異なっていました。たとえばマリでは、金とくらべた貝殻の相対価格が高く、モルジブ諸島では、逆に金の相対価格が高かったのです。

 一五世紀末になると、ポルトガルは、アジアの超大国インドとの貿易をさかんにすべく、アフリカの西側をまわる航路を開拓しようと試みます。そしてヴァスコ・ダ・ガマの艦隊が、アフリカ南端の喜望峰を経由する「インド航路」を発見したことで、それが実現しました。

 インド航路を使った航海が活発になると、ポルトガルの商人たちは、地域間で貝殻・金の交換比率に大きな差があること、に気づいたのです。そこで彼らが取った行動は、次のようなものでした。

 まず最初に、金の安い地域で、金を大量に買い入れます。そしてそれを、金の高い地域に持っていって高く売り、その代金として貝殻を安く買います。次に彼らは、貝殻が高く、金が安い最初の場所に戻り、今度は貝殻を高く売って、金を安く買い入れました。

 つまり彼らは、両地域の間を往復し、金と貝殻をうまく交換するだけで、巨額の利益を得ていたのです。その後、17~18世紀になると、ヨーロッパで大きな力を持つようになったオランダとイギリスも、この貿易に参加するようになりました。

 そしてここから得られた利益の一部は、現在のベナンなどアフリカ西海岸等でおこなわれていた奴隷貿易の対価としても使われるようになった、といわれています。

 このこと自体、マリやモルジブ諸島などの人々には、なんの責任もありません。現在のように、情報が世界中を瞬時に飛びかう時代と違い、当時のほとんどの人々は、離れた外国のことを知る手段をなにも持たなかったからです。

 それに対し、ポルトガル人やイギリス人などは、海洋航路を積極的に開拓することで、世界のさまざまな場所の情報を入手できるようになります。これこそが、彼らの力の源泉となったのです。15世紀中頃から始まる「大航海時代」以降、ポルトガルやスペイン、イギリスといった国々は、世界各地に勢力を広げ、多くの地域を支配していきます。そしてこの現象の背景には、情報のいち早い入手とその独占、という要素がありました。

規格化された「貨幣」の登場

 お金の話に戻りましょう。

 広い意味での貨幣には、ここまで紹介してきたように、銀の小片や貝殻なども含まれています。一方、狭い意味での貨幣は、現在、私たちの日常生活の中でも使われているもののように、形状が規格化されています。そうした貨幣が、この後、登場するようになったのです。

 世界ではじめてこうした貨幣があらわれたのは、紀元前七世紀前後。現在のトルコ西部に当たる地域を治めていたリュディア王国においてであった、と考えられています。

 本書ではひとまず、このときをもってお金(狭義のお金)の登場としましょう。

 そこでは、周辺地域から産出するエレクトロン(金と銀が自然にまざって合金になったもの)を使って、卵形のコインがつくられました。

 リュディアのコインにはいくつかの種類があり、17.2グラムとか16.1グラムとかといった大型のものと、重さがその約100分の1のものとに分かれていました。コインの重さはきちんと定められていて、それに沿って個々のコインが製造されます。表面には、王国が発行したことを示す刻印が押され、ライオンの頭などの彫り物がされることもよくありました。ただし当時のコインは、重さには規定があったものの、かたちが微妙に違ったりするなど、規格の統一はまだきちんとなされていません。

図12 紀元前6世紀頃にリュディアで使われていたエレクトロン・コイン 完全に規格化された形状ではなかったことがわかる ©Classical Numismatic Group, Inc. (出典)Wikipedia

図12 紀元前6世紀頃にリュディアで使われていたエレクトロン・コイン 完全に規格化された形状ではなかったことがわかる ©Classical Numismatic Group, Inc. (出典)Wikipedia

 このときのコインは、つくられた量も比較的少なく、使われる地域もかなり限定的でした。そのためこのコインについては、神への祭祀に使ったとか、王国への従属者たちに対する贈り物だったとかいった説もあります。

 紀元前6世紀の半ば頃、リュディア王国がペルシャに滅ぼされると、エレクトロン・コインの製造はすたれました。

 かわって貨幣の役割をになうようになったのが、金貨と銀貨です。これらは、最初にリュディア王国でつくられ、とくに銀貨は、その製造法が周辺地域に伝わって、そこで広く流通するようになりました。現在のギリシャやイタリア本土、シチリア島、キプロス、南フランス、トルコ、エーゲ海の島々、アフリカのリビア東部に当たる地域からは、この時期に製造された、取引用の銀貨が発見されています。

 地中海沿岸地域で、銀貨の普及が急速に進んでいったのです。 

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