越高綾乃 読んで、読んで、読み続けて[『図書』2025年12月号より]
読んで、読んで、読み続けて
私はリンドグレーンの書く物語が大好きです。これまで、彼女の物語からいろいろなものを受け取ってきました。改めて振り返ってみると、はじめてリンドグレーンの物語を読んだときから現在まで、リンドグレーンの本を1冊も読まなかったという年はありませんでした。クリスマスが近づいてくると『雪の森のリサベット』や『エーミルとクリスマスのごちそう』が読みたくなりますし、夏には『わたしたちの島で』や『ピッピ南の島へ』を読むのが毎年の定番です。その時々で、手にとる本は違いますが、毎年、少なくとも2、3冊は読み返しています。
もともとお気に入りの本は何度でも読み返したいタイプなので、他の作家の作品でも、何十回と読んでいる本はたくさんあります。でも、同じ作家の物語でとなると、リンドグレーンの本を手にとる頻度は格段に高いと思います。私の脳にはリンドグレーンのお話がなじんでいるとさえ感じます。その理由としては(大ファンだということは前提としてありますが)、著作の数が多いこと、作品の幅が広いことが挙げられます。絵本、幼年童話、児童文学……往復書簡集『リンドグレーンと少女サラ──秘密の往復書簡』や、日々の記録『リンドグレーンの戦争日記 1939ー1945』などを含めると、実に多彩なラインナップです。ゆかいな気持ちにしてくれたり、弱っている心に寄り添ってくれたり、明るく鼓舞してくれたり……どんな時も、自分がいま読みたいと思えるものが必ず見つかるという信頼感があるので、つい手が伸びてしまうのです。
リンドグレーンが自身の子ども時代を振り返って「わたしたちが遊び死にしなかったのは、不思議なくらいでした」と」と語っていたように、リンドグレーンの作品の中には、めいっぱい遊ぶ子どもたちがたくさん出てきます。そりあそびに宝物さがしや、子どもたちで過ごす大みそかの夜、復活祭の卵パーティー、夏至まつりにザリガニつり、そしてなんといってもお誕生日やクリスマス……スウェーデンならではの行事や、自然に囲まれた遊びは、とてつもなく魅力的で、子どものころから何度読んでも心が躍りますし、飽きることがありません。
「やかまし村」シリーズや「おもしろ荘」シリーズは、いきいきとした日常を送る子どもたちの生活が魅力的に描かれていて、読んでいるだけで幸せな気持ちになります。何度も読み返したり、遊びを真似してみたりしていたせいで、今ではここに描かれていることが、私の子ども時代の一部のような錯覚を覚えることもあります。
『やかまし村の春夏秋冬』の中に「アンナとあたしのお買い物」という、リーサとアンナが二人でおつかいにいくお話があります。みんなから頼まれたものを暗記して、意気揚々と自作のあぶりソーセージの歌を歌いながら買いに行くリーサとアンナ。買い忘れのないように、頼まれたものを唱えながらお買い物をする様子や、買い終えてほっとした開放感あふれる帰り道。途中で買い忘れたものに気がついてあわててお店にひきかえすところなど……ひとつひとつのアクションがおかしくてかわいくて愛おしい! リーサとアンナにとっては散々なお買い物になったのでしょうけれど、「こんなふうに歌を歌いながらおつかいに行くのってすごく楽しそう!」と思った私は、すぐに二人みたいに自分で作ったでたらめな歌を口ずさみながら、おつかいに出かけたものです。
やかまし村の子どもたちにとっては、おつかいや畑仕事だって、ゆかいな遊びに早変わり。みんなのようになりたくて、どうにか自分の生活にも応用してみるということを繰り返していたら、私も日常生活の中に遊びを見つけるのが上手になりました。
『おもしろ荘の子どもたち』は、マディケンとリサベットの姉妹の関係性が描かれているところもお気に入りです。一人っ子の私は、実際には姉と妹どちらの立場にもなったことがないからこそ、どちらにも感情移入して読むことができたのも良かったのかもしれません。姉としてちょっとした不平等さを感じたり、妹として理不尽な我慢をさせられたり、時にはお互いにちょっぴり意地悪な気持ちになってしまったり……姉妹だからこそのいざこざもあるけれど、それでも二人の間にあるのはお互いを思いやる優しい気持ちだということが伝わってくるのがすてきです。お話を読むほどに、マディケンとリサベット、そして家族のことも大好きになってしまい、すっかり二人の幼なじみになった気分で見守りながら読みます。
お話の中のことと理解しているものの、やかまし村の子どもたちや、マディケンやリサベットと一緒に遊んだ記憶が、私の中に存在するのは我ながら不思議な感覚です。この感覚は、子どもの頃に想像力を働かせて物語の世界に没入できたからこそ得られたものだと思うのです。いつ、どんなときでも、本をひらけば変わらない光景・変わらない彼らに、子どもの時の感覚のままで出会えるという安心感は、今も私の支えになってくれています。
いつ読んでも変わらずにそこにいてくれると思える物語もあれば、自分自身の成長と共に感じることや受け取るものが変化していく物語もあります。
『山賊のむすめローニャ』は私にとって、読むとその時の内面や思考が映し出される物語です。
はじめて読んだとき、小学生だった私は100パーセント、ローニャに感情移入していました。敵対する山賊の子どもであるローニャとビルクが、反発したり小競り合いをしながらも、深い友情でむすばれていく様子や、時に美しく、時に厳しくもある自然の中でそれぞれたくましく成長していく冒険に夢中になりました。
思春期の頃に読み返した時は、ローニャとマッティス親子のやりとりが心に刺さりました。外の世界に触れ、新しい友情に出会い、自我や正義感が芽生えたローニャが、これまで無条件に大好きで尊敬していたお父さんであるマッティスの行動を否定する場面では、せつなさと心苦しさにぎゅうっと胸がしめつけられたものです。
そして、大人になった今では、マッティスの視点に立って読むことができるようになりました。そうすると、まったく同じ場面を読んでも、今度は自分が守ってきたはずの子どもに、これまでの生き方を否定される父親の気持ちが想像でき、これまでとは違う意味でせつなく、やりきれない気持ちになりました。
同じ本を読んでいても、その時々によって受け取るものは変わっていきます。これまで理解できなかった登場人物の気持ちがわかるようになったり、別の視点から物語を捉えることができるようになったり……ここ数年は、定点観測的に同じ本を読むことが、その時々の自分の成長や内面を確認する機会にもなっています。この先もっと年を重ねて『山賊のむすめローニャ』を読んだとき、自分がどんなことを感じるのか、今からとても楽しみです。
『はるかな国の兄弟』や『ミオよ わたしのミオ』など、リンドグレーンはしばしば「死」を想起させるお話を書いていますが、彼女は「死」を闇雲に怖がったり恐れたりするのではなく、誰にもいつか必ず訪れるものとしてフラットに描いていると感じられます。
『はるかな国の兄弟』は、リンドグレーンが幼い兄弟の墓碑から着想を得て書いたということからも、幻想的で美しい物語でありながら、「死」が根底にあります。だからといって悲壮感の漂うお話ではなく、懸命に生きようとするクッキーとヨナタン、兄弟の冒険物語です。私は、これまでの人生の中で、いちばん生きづらく、もがいていた時期に何度もこの本に助けられました。物語を読んでいるうちに、生きていることの延長線上に、「死」が存在しているのは当たり前のことだと思うことができるようになり、すごく気持ちが楽になったことは今でも忘れられません。闇の中にいた私の心を照らしてくれた大切な存在です。今の私の死生観が形成されるのに重要な役割を果たした一冊ともいえます。
『リンドグレーンと少女サラ』には、リンドグレーンが長い間文通をしていた少女サラとの往復書簡が収録されています。手紙のやりとりがはじまったのは、リンドグレーンが63歳でサラが12歳のとき。私ははじめ、スウェーデンの国民的作家であるリンドグレーンがなぜ特定の少女と文通をしていたのか不思議に思いましたが、80通にもおよぶ手紙の内容に目を通していくと、そんな疑問はすっかり頭から消え去り、サラという少女に抱いたほんの少しの嫉妬心も吹き飛びました。二人の手紙は生々しく、切実でした。リンドグレーンからの手紙には彼女の優しさ、思慮深さ、信念の強さ、ユーモア……私自身が彼女の作品から受け取ったものが詰まっているように思えたのです。不安定でうまく自分をコントロールできないサラに寄り添う姿勢や、励ましの言葉の誠実さ、暖かさに胸がいっぱいになり、リンドグレーンという人のことをますます好きになり、尊敬するようになりました。
二人の年齢差は51歳もあるものの、リンドグレーンは子どもだからといってサラを軽んじたり、無闇に指導しようとすることなく、常に尊重しています。その姿勢はそのまま、彼女の書く物語にも反映されていると思うのです。リンドグレーンの作品には、ピッピや、やねの上のカールソンなど、世間からは非常識だと捉えられがちな人物がしばしば登場しますが、常識にとらわれない自由さがとても魅力的で目が離せなく、子どもたちからは熱烈に支持されています。『長くつ下のピッピ』の主人公ピッピといえば、彼女のキャラクターがあまりに奇想天外なので、はじめにお話を読む時は、どうしてもそこに注目してしまいますが、じっくりお話を読んでいくと、自由気ままで破天荒なふるまいをしているように見えるピッピにも、彼女なりの理屈やポリシーがあることがわかります。ピッピは「世界一つよい女の子」ではありますが、彼女が力を使って誰かを懲らしめるときは、ちゃんとそれなりの理由があります。また、お父さんからもらったたっぷりの金貨を景気よくつかいますが、そのほとんどは周りの人になにかをプレゼントするため。みんなのためにポンと金貨を出すピッピの気前の良さには、惚れ惚れしてしまいます。大人の常識からは逸脱しているかもしれませんが、あくまでも自分で考えて自分の責任で行動しているピッピは、強いだけではなく自立した優しい女の子なのです。大人になって読み返すほどに、彼女が「世界一つよい」というのは、腕っぷしの強さではないということが理解できますし、つくづく最高にかっこいい女の子だなって思います。
リンドグレーンの物語を読んだときに感じる安心感は、彼女の子どもを尊重する姿勢と愛情深さが隅々にまでゆきわたっているから。これまで多くの人に愛されてきた理由はそこにあるような気がします。これからも多くの人に読まれていくことを心から願っています。
(こしたか あやの・書店員、エッセイスト)




