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思想の言葉:財津理【『思想』2025年6月号 特集|哲学史の中のドゥルーズ──生誕100年】

◇目次◇

【特集】哲学史の中のドゥルーズ──生誕100年

思想の言葉 財津理

〈討議〉超越論的経験論と哲学史
宇野邦一・合田正人・檜垣立哉

ドゥルーズとスピノザ、ひとつの気懸かり
──『スピノザ講義』から
上野修

ドゥルーズとドゥンス・スコトゥス
──哲学史の中のドゥルーズ
山内志朗

物体、非物体的なもの、出来事
──ドゥルーズ『意味の論理学』におけるストア哲学受容について
平田公威

発生の空間、時間の動物性、至福
──ドゥルーズ「ライプニッツ小品集の註解」読解
堀千晶

〈内在性の問題〉への前哨
──ドゥルーズと多孔質的思考について
江川隆男

ドゥルーズとキルケゴール
──反復/この世界への信/イロニー・序
檜垣立哉

解釈の「独創性」について
──G・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』の「いま」
須藤訓任

経験の下へ
──ジャン・ヴァールとドゥルーズの忘れられた関係
押見まり

同じものはちがう。ちがうものが同じ
中村昇

 
◇思想の言葉◇

ドゥルーズ哲学は「反―ヘーゲル主義」か

財津理

 以前刊行されていた季刊雑誌『パイデイア』の一九七二年一一号に、フーコー『哲学ノ劇場 theatrum philosophicum』(ドゥルーズ賛美の評論)が掲載されている。この評論のなかに、あの有名な言葉「……恐らくいつの日にか、時代はドゥルーズのものであるだろう」(高橋允昭訳)がある。他方、やはりかつて刊行されていた文芸雑誌『海』の一九七三年新年号に、蓮實重彦「エディプスと形而上学──ジル・ドゥルーズとの対話」(ドゥルーズ紹介とドゥルーズとのインタビューを兼ねた評論。この題名は『海』の目次に記されたものである)が掲載されている。共に半世紀前のことだ。まだドゥルーズの著書は一冊も邦訳されていなかったとき、このフーコーのドゥルーズ賛美と蓮實のドゥルーズ・インタビューが、当時の日本の若い世代──そこには私も含まれる──にドゥルーズへの憧憬を引き起こすきっかけになったと言えるだろう。

 ドゥルーズの諸著作を原書だけで読んでいた蓮實は、『アンチ・オイディプス』が出版された直後にドゥルーズにインタビューを申し込み、ドゥルーズから決定的に重要な「解答」を引き出した。蓮實の評論について言うなら、それは現在でもまったく色褪せてはいず、ドゥルーズ哲学のひとつの核心に触れている。

 

 ところで、二〇〇九年にイギリスで出版された或る論文集に、ドゥルーズのヘーゲル批判を扱った小論が収められている。この論文によれば、ヘーゲルに対するドゥルーズの異議は、ドゥルーズによるイポリット『論理と実存──ヘーゲル論理学試論』の書評から始まったことになる(1)。蓮實はすでに前記のインタビューで、ドゥルーズから次の言葉を得ている──「学問上での指導者は持たなかった。専攻上、イポリット教授と関係を結びはしたが、不幸な結果しか招かなかった」。不幸な結果を招いたのは、ドゥルーズがイポリットのお陰で一九五三年に『経験論と主体性』を出版できたにもかかわらず、翌年彼は、イポリットの『論理と実存』の書評のなかで手厳しいイポリット批判を行ったからである(『無人島1953―1968』所収「2 ジャン・イポリット『論理と実存』」)。

 しかしもっと厄介な問題は、ドゥルーズにおけるヘーゲル的要素である。上記の英語論文は、ドゥルーズがヘーゲルを批判しているにもかかわらず、ドゥルーズにはヘーゲル的な要素が深く残っていると断じている(同論文集一四三頁)。これは、ドゥルーズの疎外概念に関して言われているのだけれども、蓮實は五十数年前に次のようにドゥルーズに質問している──(「サディズムとマゾヒズム」のような)偽りの二元論を解消しようとするドゥルーズの方法は、いわゆる弁証法とはまったく無縁のものなのか、それとも弁証法だとは人の目に映らないような新たな弁証法なのか、というのも、『差異と反復』のなかに、「即自」、「対自」といったヘーゲル的な用語が生きのびているからだし、『アンチ・オイディプス』の『アンチ』という接頭語が新たな(弁証法の)幻想を生みかねないように思われるからである。これに重ねて蓮實は、現代西欧におけるマルクス主義思想、あるいは弁証法的試みについて、ドゥルーズの批判なり態度なりを聞かせて頂きたいと要望している。ドゥルーズは、この質問に対する「解答」を、そのインタビューの二週間後に文書にして蓮實に手渡している。重要なのは、このドゥルーズの解答である。フランス語原文は公開されていないようなので、フランス語の達人である蓮實の訳文を信用するほかはないし、紙幅は少ないのでこの解答をすべてここで検討するわけにもいかないから、以下で、なるべく蓮實の言葉を生かしてその要点だけを見よう。

 私(ドゥルーズ)の使用する方法が弁証法的であるかどうかは、視点による。弁証法という語を広義に理解して、観念の運動、転位一般をいうのであれば、私の方法は弁証法的である。しかし狭義では、弁証法は、矛盾の方法、否定の使用、対立物の反転を意味する。こうした弁証法は誤れる運動であり、無意識の動きにもふさわしくない。そのことを示すために、私はヘーゲルへの反論を試みた。そして、この反論の原理をニーチェに見出した。……フランスでは、マルクスに帰れ、フロイトに戻れ、テキストを重視せよ、書物を信仰せよ等々が、大はやりである。これは大学教師たちを救う方策である。こうして、最低のスコラ哲学よりも書斎的なやり方でフロイト主義とマルクス主義の弁証法的体系ができあがってしまった。……われわれがマルクスとフロイトの何を必要とするのか、どの著作のどの段落を必要とするのかは、現実の精神分析の貧困、西欧共産党の体制化といった事態から出発しなければならない。今日必要なのは、マルクスとフロイトへの理論的な回帰ではない。資本主義的装置としての精神分析と闘うこと、修正主義的装置としての正統マルクス主義と闘うことである。これは、『アンチ・オイディプス』を書き終えた直後のドゥルーズの高ぶりが感じられる解答であって、『差異と反復』までのドゥルーズの思想的スタンスに基づいてはいない。『差異と反復』にヘーゲルの用語が生きのびているのはなぜかという蓮實の質問に答えていないからである。「アンチ・オイディプス」の「アンチ」という接頭語は、ヘーゲルの弁証法を思わせるのではないかという蓮實の問いにも、ドゥルーズは直接答えていない。

 

 私がこの五十数年前のドゥルーズの解答のなかで注目したいのは、ドゥルーズがヘーゲル批判の原理をニーチェに見出したと述べている点である。周知のように、ドゥルーズが、『経験論と主体性』を書いた後、いわゆる八年の空白の後に、最初に書いた本が『ニーチェと哲学』である。この『ニーチェと哲学』という書物は、全編を通じてヘーゲル批判を遂行しているが、とりわけその「第五章 超人──弁証法に抗って」において、徹底的にヘーゲル弁証法を批判している(ついでにハイデガーのニーチェ解釈も批判している、江川隆男訳『ニーチェと哲学』、原注五二一参照)。『差異と反復』(一九六八)は「反―ヘーゲル主義」の宣言からはじまるのだが、この「反―ヘーゲル主義」というスローガンはすでに『ニーチェと哲学』(一九六二)で言われたものである(同訳、三四頁)。ドゥルーズは、空白の八年の後、「矛盾の方法、否定の使用、対立物の反転を意味する弁証法」を批判するためにヘーゲルへの反論を『ニーチェと哲学』で開始し、カント論、プルースト論、ベルクソン論、マゾッホ論を経て、『差異と反復』というドゥルーズ自身の哲学の試みの書において、ヘーゲル弁証法を、「差異と反復」の論理によって超克しようとした。そして、「誤れる運動であるヘーゲル弁証法」の超克が、つまり「反―ヘーゲル主義」が、とりもなおさず資本主義的装置としての精神分析と闘うこと、修正主義的装置としての正統マルクス主義と闘うことになるとドゥルーズは言いたいらしい。だが、『アンチ・オイディプス』では、ヘーゲルは数回登場するだけである。

 ドゥルーズが哲学とは概念をつくる技術であると宣言した晩年の著作『哲学とは何か』(一九九一)では、「反―ヘーゲル主義」は影も形もないし、「精神分析と闘う」、「正統マルクス主義と闘う」という態勢もまったく現れていない。だがそれにしても、哲学は何のために概念を創造するのだろうか。そのような疑問はすでに、「哲学について」と題された対談(一九八八)のなかで、質問者からぶつけられていたのだが(宮林寛訳『記号と事件』所収)、『哲学とは何か』ではその点について明瞭な説明はない。しかしドゥルーズは、その対談の冒頭で、問わず語りにこう述べている──「哲学は、絶えず新たな概念を創造する限りにおいて、本性上、創造的であり、あるいは革命的でさえある。」だが、これでもまだ、概念創造の理由は、はっきりしない。もう一度問おう。哲学は何のために概念を創造するのか、哲学によって創造された概念は何の役に立つのか。

 

 ドゥルーズが自死したのは一九九五年一一月四日のことである。その二年前に、あの『ミシェル・フーコー伝』の著者ディディエ・エリボンに、ドゥルーズは、自分にまつわる様々なことを話している。それから二年後、すなわちドゥルーズが自死した年の同じ月に、その話の一部が、フランスの週刊誌『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』一九九五年一一月一六―二二日号に掲載された(その邦訳は「思い出すこと」という題名で、『批評空間』第Ⅱ期第九号、一九九六年に掲載された)。この『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』の掲載文にドゥルーズの手が入っているのかどうかはわからないが、ともかくここでドゥルーズは、以下のように概念の創造活動について語っている。それを上記の疑問に答えてくれるものとみなしてよいだろう。「……概念の創造活動として理解される哲学とまったく同じものに、私が新機能主義とでも呼びたいものがあります。一定の社会的な場(un champ social donné)のなかで機能するような概念を創造すること、これが肝要でした。これは、フーコーのケースでは明白です。なぜなら、こうした概念創造に徹底的に取り組んだのはほかならぬフーコーであり、その際彼は、いくつかの概念、例えば私から見て本質的な概念である「規律社会」という概念をつくりました。それは、ひとつの内在場(un champ dʼimmanence)のなかで機能する概念たちでした。……」(以上は『批評空間』に掲載された訳文のままではない)。概念創造を説くドゥルーズ晩年の『哲学とは何か』は、非政治的な哲学書ではない。

 最初のトピックに戻ろう。ドゥルーズ哲学は反―ヘーゲル主義だろうか。しかし、そもそも「ドゥルーズ哲学」とは何だろうか。ドゥルーズの著書・論文をすべてひとまとめにして見渡すと──そんなことができるとして──そこに一個の「ドゥルーズ哲学」が立ち現れるのだろうか。あるいは、ドゥルーズの特定の作品が代表してドゥルーズ哲学を告げているのだろうか。私はそうは思わない。だが、『差異と反復』は確かにひとつのドゥルーズ哲学を語っている。そして、ヘーゲル批判を遂行しているのだから、『差異と反復』の哲学は反―ヘーゲル主義である。私は今、『差異と反復』の全面的な改訳を進めている。そしてこの改訳と同時に、ヘーゲルの諸著作、とりわけ畏怖すべき『大論理学』を読み直している。約束されていない国への道を、ヘーゲルの弁証法的論理に、『差異と反復』そのものの論理をぶつけることによって探すためである。

 

(1) Bruce Baugh “G. W. F. Hegel” in Deleuze's philosophical lineage, edited by Graham Jones and Jon Roffe, Edinburgh University Press, 2009, p. 131.

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