『科学』2025年6月号 特集「五感と身体のウェルビーイング」|巻頭エッセイ「不確実な時代の適応戦略」乾敏郎
◇目次◇
【特集】五感と身体のウェルビーイング
音がつなぐ、こころとからだ──ASMRと音嫌悪症をめぐって……近藤洋史
内受容感覚がひらくウェルビーイング……寺澤悠理
ぶつぶつ模様がもたらす心のざわめき……佐々木恭志郎
匂いがつくる心と社会……岡本剛
手と口で感じる触食感と食体験……小梶直・仲谷正史
からだの境界で自他がゆらぐとき──触ると触られるの交差点……小鷹研理
[巻頭エッセイ]
不確実な時代の適応戦略……乾 敏郎
窒素固定ができる新たな細胞小器官の発見──小さな藻を育てて初めてわかった進化の姿……萩野恭子
夜間人工光による昆虫の攪乱と耐性の進化……高本龍真・高橋佑磨
一電子結合への挑戦──炭素がなす新たな共有結合……島尻拓哉・石垣侑祐
[新連載]
17~18世紀英国の数学愛好家たち1 17~18世紀はどのような時代だったのか……三浦伸夫
[連載]
野球の認知脳科学2 打たれにくい球の本質……柏野牧夫
夜の教室からリュウグウへ──定時制高校科学部の挑戦4 宙をわたったサンプラー……橘 省吾
言語研究者,ユーラシアを彷徨う10 困窮邦人,一家で路頭に迷う──トルコ語とモンゴル語……風間伸次郎
3.11以後の科学リテラシー149……牧野淳一郎
[科学通信]
微小鉱物によるヒ素の集積──放射光X線分析で土壌汚染に挑む……橋本洋平
〈本の虫だより〉スティーブ・ブルサッテ『哺乳類の興隆史』……白石直人
次号予告
表紙デザイン=佐藤篤司
我々を取り巻く環境は不確実性に満ち溢れている。自然災害がいつ発生するか予測することは難しく,感染症にいつ罹患するかもわからない。また,戦争がいつ終息するのか見通しが立たず,不確実な情報やフェイクニュースも蔓延している。このような状況下で,個人のウェルビーイング(心身の健康を保ち,個人的にも社会的にも幸福感を感じられる状態)をどのように捉えればよいのだろうか。
人間は環境と絶え間なく影響し合いながら生命を維持している。より正確に言えば,知覚・運動循環(ゲシュタルトクライス)を通じて環世界を構築し,ゆらぎの定理に従うエントロピーの増大(拡散や崩壊)を防ぎ,低エントロピーの非平衡定常状態を保ちながら秩序(生命)を維持しているのである。生命と心の統一理論であるフリストンの自由エネルギー原理(FEP)によれば,人間は知覚・運動循環を通じて不確実性(情報エントロピー)を最小化して環境に適応している。具体的には常に感覚を予測し,その予測誤差が小さくなるように予測を修正するか,もしくは予測に合うように運動する(予測の自己実現)ことによって不確実性を最小化する。
半世紀以上前に,生理学者J. W.メイソンは,ストレス反応の主たる原因が,新規性,予測不可能性,制御不能性,さらには予期される悪しき事態であると考えた。現在では,個々人が感じる不確実性の大きさによってストレス反応の強さが決まることが知られている。FEPによれば,環境の不確実性が小さく,予測可能な状態であることが,最も安心・安全なのである。また快感は不確実性が大きく解消された時に感じられる(たとえば,初めて聞く落語のオチなど)。
一方,行動選択において重要なのは,環境を探索する認識的行動と,報酬獲得や目標達成を目的とする実利的行動との間で適切なバランスをとることである。認識的行動は未来の不確実性を最小化する適応行動であり,FEPでは顕著性と新規性が最大になる行動である。これは行動を通じて不確実性を解消する新しい刺激を探し求めることを意味している。新規性探索の原動力が好奇心であり,「こうしたらどうなるだろう」という不確実性を解消するものである。
ストレス反応は,環境が変化し,未来のウェルビーイングを守るための行動選択が困難になったときに誘発される。不確実性を解消するには新しい情報が必要であり,新しい情報を得るための処理や行動にはエネルギーが必要である(ランダウアーの原理)。ストレス反応の強さは,脳のエネルギー消費量と相関する。不確実性の高い仕事や環境は,うつ病,認知障害,心筋梗塞,脳卒中などのリスクを高める。一方で,優れた予測能力をもち,長期間にわたって予測誤差を小さくすることが,ウェルビーイングの向上と維持につながる。もちろん,一時的には予測誤差の増加も多々経験するだろうから長期的な努力も必要だろう。不確実な状況に対して予測誤差を小さくできなくても一旦その状況から離れ,別の不確実な状況(関心事,趣味,サークル活動など)に対して認識的行動を実行することで,自ずとレジリエンス(困難に直面した状況にうまく適応できる能力)が高められる。不確実な時代だからこそ,社会活動や他者とのコミュニケーションを通じて,より広い視野に立ちさまざまな不確実性を解消することが何より重要である。