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『思想』2019年11月号 危機の文学

◆目次◆

思想の言葉………池澤夏樹

〈提起〉危機に立ち向かう文学………沼野充義・巽 孝之・木村朗子
世界(文学)とは何か?――理念,現実,実践,倫理………沼野充義

 〈第1部〉 文学の言葉とポスト・トゥルース
ポストモダニズムと「真実の死」………土田知則
共感の製造――1930年代米ソにおけるライフヒストリー・プロパガンダ………亀田真澄
「読む」ことをめぐる闘争――名和小太郎『著作権2・0』とテクストの複数性………紅野謙介
記録・フィクション・文学性――「聞き書き」の言葉について………佐藤 泉

 〈第2部〉 越境と世界
「危きに遊ぶ文体」攷――世界の中の日本文学から異界の中の日本文学へ………ピーター・バナード
ヨーロッパ越境文学の新展開――ドイツ語文学を拡大するハンガリー語からの翻訳者=作者たち………新本史斉
日本語と英語の両方で書くということ………吉原真里
「戦争は企業のものとなっている」,または忠誠心の行方――21世紀のジョン・ル・カレ………上岡伸雄

 〈第3部〉 新たな倫理と可能性を求めて
戦後文学の倫理について武田泰淳が示したこと………木村朗子
言語の下をかいくぐる――ブンガクとマンガの振り子運動………大串尚代・小林エリカ
人形(きかい)になりたい――身体と生殖をめぐるポスト・ウーマンの語り………生駒夏美
パクス・モンゴリカの人新世――ディック,ウォン,ロビンスンに見る歴史改変の想像力………巽 孝之
日記・ボンネット・西部劇――映画と文学のアダプテーション論の余白に………川本 徹
 
◆思想の言葉◆
 
文学の危機、なのか?
池澤夏樹
 

 文学の危機というテーマを貰って、実際にはそれは何を指しているのか、改めて考えてみた。文芸書が売れなくなった、書店がどんどん減ってゆく。電車の中では誰もがスマホかタブレットを見ていて、たまに本らしきものを開いていれば実用書の類ばかり。

 しかしこれは日本における商業的な文芸出版の衰退の姿ではあっても文学の危機ではないだろう。本が手頃な娯楽だった時期があり、国民の教養指向のおかげで文学全集が着実に売れた時期があった。そういうものは社会の変化に応じて盛期もあれば凋落の時期もある。

 それでもトータルで一定量の読者はいるのだ。今でもあざとくメガヒットを仕掛ける出版社はそれなりの成果を挙げているし、地道に少部数の本を出し続ける版元も苦境とはいえまだまだ残っている。売れ行きがピークだった時期から見ればこんなに減ってしまったとなるが、ピークまでの道は登り坂だったはずで、つまりそれ以前はそれほど売れてはいなかったということだ。

 日本では江戸時代に入って書物が大衆化された。木版印刷でコストが下がり、寺子屋で識字率が高まり、流通機構の発達が本屋や貸本屋を広めた。十八世紀半ばになると年間千点を超える数の本が刊行され、十返舎一九や山東京伝、滝沢馬琴のような人気作家が生まれた。日本を訪れた外国人はこの国の人々が実に熱心に本を読むことに感心している。町の至るところで読書に没頭する人の姿が見られ、その中には女性も少なくない。若い子守り女が背中に赤子を背負って歩きながら本を読んでいる。同時期の清には文字が読める女性はほとんどいなかったと言われる。

 世界に目を転じれば、大部数販売の商業出版だけが文学を支えているわけではない。英語や日本語のように優勢な言語で書く者は職業的な文学者として食べていけるけれど、母語としての使用者が数百万となるとその言語の文学で生活を維持するのはむずかしい。多大な時間と労力を要する小説を捨てて、他の手段で生計を立てながら詩を書くことが主流となる(T・S・エリオットは初めは銀行員だった。忙しくて詩が書けないと嘆く友人に「一時間早起きすればいい」と言ったというエピソードがある)。

 近代ギリシャ語圏はまこと詩の盛んなところでK・Π・カヴァフィスのような大詩人を生み、Γ・セフェリスとO・エリティスという二人のノーベル賞受賞者を生んだ。カヴァフィスは生涯をエジプトのアレクサンドリアで過ごし、政府の灌漑局で英語による文書の作成で口を糊しながら詩作に励んだ。書いた詩は出版さえせずパンフレットの形で友人たちに配った。それでも優れた文学は生まれる。

 更に深刻な事態を考えてみる。

 究極の文学の危機とは絶対的な独裁政権のもとで文学が、刊行も販売も読書も、すべて禁じられているという状況である。それを具体化した文学作品として例えばレイ・ブラッドベリの『華氏451』がある。こういうことを表現するのもまた文学である、という回帰的な文学の構造に注目しておこう(フランソワ・トリュフォーの同名の映画もなかなかいいのだが)。

 この話の中の社会では書物というものが禁止されている。読書も所有も違法で、本を見つけては焼き捨てるファイアマンという公職があって、主人公のガイ・モンターグはこの職についている。任務の意義を疑わなかった男が次第に変わってゆくという展開はまあ凡庸だが、本が禁止された社会で人々が暗記によって文学を保存し、朗読による読書会を開くというところが秀逸。発想のきっかけはやはりナチス・ドイツによる焚書だろうか。

 この作品の終わりの方、林の中で何人もの人がそれぞれ選んだ本を呟いて記憶しながら歩く場面は印象に残る。彼らは一人一人が『伝導の書』であり、プラトンの『共和国』であり、ジョナサン・スウィフトであり、チャールズ・ダーウィンである。紙の本が失われても記憶は残るし、次世代に伝達できる。

 印刷物の配布は抵抗の手段でもある。三十年以上前、ぼくは初期のワープロ専用機とプリンターを買って、これで社会が変わって検閲が厳しくなっても自分の思いを広く人に伝えることができると考えた。広くと言ってもせいぜい百人だろうが、それでも力にはなる。その前には謄写版があったしコンニャク版というものもあった。旧ソ連ではゼロックスのような複写機は厳格な管理のもとにあったと聞いている。同じ理由から今の中国ではインターネットとSNSが厳しく規制されている。

 そしてもちろん今の中国では出版にも規制がある。その一方でSFという分野だけを見てもとんでもない傑作が次々に生まれている。

 対照的な二つの例を見てみよう。

 劉慈欣の『三体』は、天文学にいう三体問題を基軸に、太陽系外の知的生命体との接触、ゲーム、文明の進化と衰退、などなどをダイナミックなプロットに乗せて語る大作で、しかもこれは三部作の第一部だという。SFめいたアイディアが無数に盛り込まれ、それだけでもアシモフやA・C・クラークに比肩しうるほど。具体的には例えば、パナマ運河を行く船を横に張った細くて目に見えないナノワイヤで四十数枚に水平にスライスしてしまうという場面。あるデータを奪取するための作戦なのだが、新物質の応用として秀逸で、前例がないわけではないけれどスケール感で際立っている。

 この作品は冒頭の文化大革命を扱った部分に少しの配慮を加えた形で中国国内でも刊行されベストセラーになっている。それに対して王力雄の『セレモニー』は中国政府の崩壊というテーマのゆえに、またチベットの側から現政権を批判してきた作者の履歴のゆえに、中国では出版が不可能で台湾で刊行された。

 これもSF的なガジェットにはこと欠かない。筆頭は国内で売られるすべての靴に仕込んだマイクロチップで、これによって政府は国民一人一人の行動を追跡でき、何よりも男女間の性行為を把握できる。ベッドのある部屋で靴が動かなければ二人は靴を脱いでことを行っていたと判断される。スマホを持っていない者はいても靴を履かない者はいない。

 日本の出版界が凋落を嘆いている脇で、中国の出版界は隆盛を誇っている。しかし、そういう消長は知的・経済的現象として当然のことだろう。大事なのは、どんな社会にあっても人間は必ず文学を生むし享受するということだ。人はものを考える。それは言葉になり、言葉は文字になり、整備されて文学になる。そしてなんらかの手段で必ず流布される。そうでなくて『イーリアス』や『詩風』や『古事記』が今に伝えられてきたはずがない。

 社会がどんなにひどいことになっても文学はそれに対応して・対抗して、作品を生み出す。文学とはすべてを包む広大な天網であるから。

 今が世界的に政治の危機であるから文学の力を発揮しなければならないという考えもわからないではない。トランプ政権など現実がフィクションを超えてしまったようにも見える。まさに『セレモニー』の世界だ。少し前ならばフィリップ・K・ディックが描くテクノロジーのディストピア。

 しかしぼくは文学に即効性を求めるべきではないと思う。言われなくとも文学はこれまでよく戦ってきた。『アンクル・トムの小屋』ほど露骨なメッセージでなくても、バオ・ニンの『戦争の悲しみ』も、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』も、もちろん石牟礼道子の『苦海浄土』も、人間の苦悩を書きつつ人間の理想を書いた。我々はこれらの作家たちに倣えばそれでいいのだ。簡単なことではないか。

 

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