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『図書』5月号【試し読み】沢木耕太郎/ピーター・バラカン/橋本麻里

◇目次◇

夢の行き場          沢木耕太郎
「君もそろそろ古代史を」   森本公誠
人類の危機と人文学への期待  苅谷剛彦
ボブ・ディランとぼく  ピーター・バラカン
ベビーブーマーの訃報  石内 都
文庫本文化の楽しみ  東 直子
ノンフィクションの楽しみと出会い直す子どもたち 澤田英輔
漱石全集の読み方 (下)  赤木昭夫
ある日、突然食道狭窄症に襲われた 高橋三千綱
未知を引きずり出すための読書  石川直樹
黄色い本のあった場所(2)  斎藤真理子
傷を記憶すること  赤坂憲雄
いまはこんなCDがある  片岡義男
神々を招く帯  橋本麻里
『おくのほそ道』の宗教地図  長谷川 櫂
エロとグロの後にくるもの(3)  山室信一
こぼればなし

(表紙=司修) 
(カット=佐藤篤司) 
 
 

◇読む人・書く人・作る人◇

夢の行き場
 沢木耕太郎

 ある日の午後、ラジオを聞きながら手仕事をしていたら、女性のシンガー・ソングライターが「夢の行き場がどこにもない……」と少年の心情を歌っていた。

 そのときは聞き流してしまったが、しばらくして、ふと仕事の手を休め、はて、と考えてしまった。「夢の行き場」とはどんなところだろうか、と。

 やはり、その場合の「夢」とは、将来に向けての希望とか願望とかを意味するのだろうか。そうであるなら、「行き場」の存在しない夢、あるいは「行き止まり」の夢というのも理解できないではない。若い時の夢が必ずしも明るいものとはかぎらないが、何かの理由によって未来に霧がかかり、光を失い、夢が道を失うということはよくあることだからだ。

 しかし、それが眠っているときに見る「夢」だとしたら、どういうことになるのか。

 見ている夢に行き場がなくなる。それは夢が凍りつき、動かなくなるということを意味するのだろうか。

 夜、眠りながら見ている夢が動かなくなる。別に誰かに追いかけられるとか、絶壁に立たされるというような恐ろしげな夢でなくてもいい。数日前に経験した些細な出来事が微妙に変形されて現れてくるといった平凡な夢を見ていたとする。その夢が、ある瞬間、スチール写真のように微動だにしなくなる。

 それは、もしかしたら、死を間近にしたような恐怖をもたらすものかもしれない。

(さわき こうたろう・作家) 

 

◇試し読み⓵◇

ボブ・ディランとぼく
  ピーター・バラカン
 
ディランとの出会い
 はじめて聞いたボブ・ディランのアルバムは一九六三年の『フリーウィーリン・ボブ・ディラン』。たしか、ジョン・レノンだったかな。「ボブ・ディランというすごい歌手がいる」とビートルズのメンバーが薦めていて、当時、ビートルズの音楽に夢中でどっぷり影響を受けていた一二歳のぼくは、どうしても聞いてみたくなった。
 その頃のお小遣いではLPは買えなかったから、父に頼み込んでお金を出してもらい、手に入れました。
 父はディランのがなるような歌い方が苦痛で、「なんてものにお金を出してしまったんだ!」とちょっと怒っていたが、ぼくは歌詞の世界観、メロディ、歌い方すべてにのめりこむぐらい夢中になった。
 『フリーウィーリン・ボブ・ディラン』のA面冒頭の「風に吹かれて」を聞いたときの衝撃はいまでも覚えている。世の中で起きていることについて、こんな率直に歌っているなんて! それまで聞いてきた曲はいわゆる「ふつうのラヴ・ソング」ばっかりだったし、ディランに影響を与えたウディ・ガスリーもまだ知らなかったから、恋とか愛以外を題材にしている歌は初めてだったと思います。
 「Masters of War(戦争の親玉)」のように、権力者に対してストレートに批判するという歌も初めてだった。ディラン自身はfinger-pointing songs(指差し歌)と呼んでいる、こうしたプロテスト・ソングとの出会いには心が揺さぶられた。
 アメリカの政治状況はおろか地理についてもあまり知らなかったけれども、「Oxford Town」の歌詞を聴いているだけで、イギリスの有名な街と同じ名前の土地で起きている問題について歌ってるんだ、ということはわかった。ただ残念なことに、知らないことを簡単に調べられる時代ではなかったから、もう少し大人になるまでは、歌詞の背景となる事件については、おぼろげにしか理解していなかったかもしれない。
 もちろん、詞だけではなくメロディも印象に残った。B面冒頭の「Don’t Think Twice, It’s All Right(くよくよするなよ)」は別れの歌だけれど、しみるほどきれいなフィンガーピッキングのギターと美しいメロディに魅了された。まだ当然、恋の体験もないので、歌詞がほんとうに腑に落ちたのは、もっと歳を重ねてからだけれども。
 どのアーティストも出会いの時が一番衝撃だし、ぼくにとってはいまだにディランでいちばん好き、と言っていいレコードかもしれない。このアルバムが出た一九六三年といえばディランはまだ二二歳。あれだけの曲が作れるなんて信じられないほど神がかっていて、本人もどんどん曲がわくような時期だったはず。その若さでふつうでは考えられないほどの名盤を立て続けに出していたし、何もかもが自己流で進化し続けていた。『ブロンド・オン・ブロンド』までの一連のレコードは、今でもぼくにとって宝物です。
 
映像的な詞、変わり続ける音楽
 ディランの歌詞の面白いところのひとつは、執拗なまでの韻の踏み方。これでもか、というくらいライミングを重ねるんだけれど、ただの見せびらかしではなく意味を発展させていく。
 これは、ディランが昔からあるソングライティングの技術を大事にしていることにつながるかもしれない。彼がDJをしたラジオ番組「Theme Time Radio Hour」をインターFMで放送して、いかにディランが一九二〇年代、三〇年代のソングライターたちの作品に詳しいかということに改めて感心した。
 例を挙げるなら『アナザー・サイド・オヴ・ボブ・ディラン』(一九六四年)の「All I Really Want to Do」。ザ・バーズがフォーク・ロックっぽく演奏したことのある曲で、シンプルな歌詞だけれども、
 I ain’t lookin’ to compete with you
 Beat or cheat or mistreat you
 Simplify you, classify you
 Deny, defy or crucify you
というように畳みかけるような韻の重なりが、イメージを喚起していく。シンプルななかにも力強くて、クスッとするようなおもしろさがある。
 ちょっとやりすぎなほど韻を踏んでいることもあるけれど、どのソングライターよりも、ディランは韻を効果的につかっている。言葉を操る能力、といってもいいかもしれない。だじゃれの好きな人の回転の速さにも、どこか似ている気がする。
 歌詞の意味だけを追うのではなく、英語の原詞を見ながら、音楽を聴いてみて原詞の語呂の良さをぜひ味わってほしい。また、ディランの歌詞には映像的な世界観が滲み出ることがある。一九六五年ごろのシュルレアリスムの影響を受けたぶっ飛んだ歌詞でも、原詞の音を聞いているだけでストレートにイメージが湧いてくる。
 でもやっぱりディランはソングライターだから、詞だけでその世界観が完結することはなく、メロディの素晴らしさも強調しておきたい。
 物を書くのが得意な人はそういう傾向があるかもしれないが、ディランはあまり自分で自分のことをしゃべらない。だからぼく自身の勝手な解釈かもしれないが、とてもシャイで、自分のイメージを作ってほしくない人ではないだろうか。
 『アナザー・サイド~』の中の「It Ain’t Me, Babe」は今でもライヴでよくやるし、ディラン自身も気に入っている曲だが、暗に「勝手な期待を寄せてほしくない」という彼の気持ちも込められていると思います。
 七〇年前後には「どうしたの、ディラン」と発表当時は思ってしまったぐらい、それまでとは別人のようなポップな感じのアルバムを作ったこともあるけれど、本人も勝手なイメージを押し付けないで欲しい、的外れな質問をされたくない、という気持ちがあるのではないか。
 気が向いたらラジオ番組をやったり、最近では〈ブートレッグ・シリーズ〉を精力的に出したり、突如一七分の新曲を発表したりと、相変わらず次に何をやるのかわからない人だけれど、人前で演奏することが明らかに好きで、まだまだ元気にライヴ活動を続けてくれるに違いない。
(Peter Barakan・ブロードキャスター) 
 

◇試し読み②◇

神々を招く帯
 橋本麻里
 
 着物自体が多くの人にとって非日常の晴れ着になって、ずいぶん経つ。多彩な染めや織りを施した絹をまとい、裾をさばき、袖を翻し、複雑に折り畳まれた帯を背に負う装いは、確かに洋服の正装とは次元を異にする、「身をかざる」体験だ。
 一方で江戸時代、さらにそこから遡る桃山、室町の装束に思いを馳せれば、かざりは今に倍する贅沢なものが現れる。草花や流水、雲など自然の景物に取材した意匠を、立体的な浮織で織り出した唐織。地の上に金銀の箔を摺り、緻密な刺繍を施した縫箔(ぬいはく)。紅白の段替わりに枝垂れ桜が降りかかり、その下に御所車が停められた爛漫の春。淡い紅色を透かす紗(しゃ)に、黄金の鳳凰が羽を広げてはらむ風。
 だが残念なことに現代では、それを身につける場も術もない。唯一、舞台衣裳として能楽師がまとい、舞う姿に接するとき、日本人の身をかざるものとして、金属に輝く色石を填め込んだずっしりと重い宝飾品にひけを取らぬ、豪奢の極致を見る思いに駆られる。幽玄といわれ、冷え枯れた感覚がもてはやされた中世に起源を持つというのに、それと対照的であることで均衡を取るように、色と光と質感と意匠を幾重にも重ねた絢爛は、まとう者を天女にも鬼にも変え、眺める者を現世から遠く連れ去ってしまう。そうした「かざる力」を未だに留めた帯をつくる帯匠が、京都にある。

 「締められない帯」をつくりたい。京都・室町で二八〇年続く帯問屋、誉田屋(こんだや)源兵衛の一〇代目当主・山口源兵衛さんは、折々にそう語る。「締めるとか売れるは二次的な要素で、叶うなら何ものかが宿るような、その気配が感じられる帯をつくりたい」と。
 源兵衛さんは十代の終わりに、先代である父が残した莫大な借金と共に、誉田屋を継いだ。どこかでつまずけば、代々の家業は潰え、従業員を路頭に迷わせることになる。それからの数年はひたすら、売れる帯をつくる、売ることしか考えられない日々が続いた。一〇年ほどを経て、何とか完済の見込みが立った頃、売れる帯について考えることにも、つくることにも嫌気がさし、突然「売れない帯をつくったろ」と思い立つ。そして得意先を招いての、恒例の展示会の一角に、「これは売れないだろう、締められないだろう」と意気込んでつくった、それまでの商品とは全く違う、斬新な(つもりの)帯を並べた。「それまでの人生への復讐みたいなもんです。ところが一本を残してすべて売れてしまった。まさか、と思いました。自分はなんて中途半端な人間なんだろうと落胆したし、これでは駄目だと腹も括ったのです」。
 現代の我々は帯について、身体にまとった衣服を固定するもの、という機能を主に考える。だから「締められない帯」と聞くと、帯らしくない帯、本来のあり方に反した帯、不自然な帯、と評価したくなる。だがその価値観は、人類史的には極めて新しいものだ。

 西欧の人々が衣服の起源を考えはじめた当初、精神的向上によって人間に羞恥心が生まれ、裸体を恥ずかしいと感じるようになり、衣服をまとうようになった、というアイディアが広く受け入れられていた。旧約聖書の「創世記」には、アダムとイブが禁を破って知恵の木の実を食べ、その結果羞恥心を発していちじくの葉を綴り、身にまとうようになったとする、人間の楽園追放をめぐる物語が語られる。これがローマ以来、キリスト教世界の倫理とされた。
 一方、寒暖や風雨、虫害や外傷から身体を保護するという、実用的な目的のために衣服をまとうようになった、とする説も、ギリシア、ローマ時代から唱えられてきた。
 しかし現代においてもっとも説得力ある起源説とされるのが、異性への性的誇示を含む自己顕示欲も含む、美しく身を飾りたいという人間の心的・文化的欲求から説明する装飾説だ。もちろん考古学の領域でも、これらの起源説にはっきりと白黒をつける証拠を見つけることはできていない。衣服自体が数千年、場合によっては一万年のオーダーで残ることはまず不可能で、染色された植物繊維や衣服に寄生していたシラミなど間接的な証拠物を手掛かりとして、探索することになる。

 他方、フランス南西部ローセルで発見された洞窟壁画(旧石器時代後期)や、アルジェリア南東部のタッシリ・ナジェールの洞窟壁画(新石器時代)からは、衣服を身につけぬ裸体の胴に、紐のようなものを締めた人間の像が見つかっている。そして現代も存在する先住民社会に、衣服を持たず腰紐だけ巻く習慣が見られることから、そもそも衣服が主で、それを固定する従の存在としての帯、という関係すら否定され、人類を動物と決定的に分かつ衣服は、身体全体を包むより先に、まずその胴に紐を巻く、締めるところから始まったのではないかと考えられるようになった。
 神道の祭祀に用い、神霊をのりうつらせる依代となるのが、多数の紙垂(しで。古くは木綿や麻布)を束ねた幣帛(へいはく)、御幣(ごへい)、大幣(おおぬさ)だ。また植物の蔓や花、枝葉を頭髪にさして飾りとしたものが、後に神事や饗宴のときなど冠の巾子(こじ)にさす造花のかざりとなった「挿頭(かざし)」も、植物の生命力を身にのりうつらせ、あるいは枝垂れる植物に神の降臨を願う依代となる。そして豊かに枝垂れ、風に揺れて、神を招き寄せる御幣と、蔦や木の皮を胴に巻き、臍の緒のように魂と結び合わせ、先端を長く垂らした原初の衣服としての帯もまた、神を招く依代のように見える。
 
 日本列島に暮らしていた人々がどのような衣服をまとっていたのか、縄文・弥生時代に遡る確実な資料はほとんど存在しない。この時期のものとしては唯一、『魏志倭人伝』に衣服への言及があるが(男性は布を身体に巻き付け、女性は貫頭衣を着用)、帯を使っていたのか、使っていたとしたらどんなものだったのかはわからない。古墳時代に入るとようやく、埴輪から衣服の概略が知られるようになってくる。男性は丈の短い筒袖の上衣、下半身にはズボン状の褌(袴)を穿き、腰には刀を佩(は)くための細い帯を締めている。女性も同様の上衣に、足首まで届く裳(も)をつけ、上衣の上に裳をつける場合には、その上から帯を巻き、前、または横に垂らしていたらしい。飛鳥・奈良時代には大陸との交流が本格化し、中国からの影響が増す中で、律令に定められた服制の中に帯も取り込まれていった。糸を幅広に組み上げた、色柄もさまざまな組紐の帯が用いられたほか、金属製のバックルに、時に玉(ぎょく)や瑪瑙(めのう)、犀角(さいかく)などがついた革製の帯が登場している。
 平安時代、男性貴族は服制に従って革帯、組紐の帯を使い分けたが、女性の装束は重ね着で、帯が表から見えない形式となり、「腰」と呼ばれた袴の紐を、脇で結ぶだけとなる。衣の色や質感を重ねることに、あれほど執着を見せた時代、帯にはまったく無頓着なところが、いささか不思議な感じもする。

 やがて武家の勃興と軌を一にして、袴が簡略化され、女房装束であった大袖衣から、下着に着用していた小袖へと表着が変化し、武家女性が袴を着用しなくなっていったことから、小袖の前合わせを幅の狭い帯で押さえるなど、帯が衣服の表面に現れてくる。小袖が一般化した室町時代には、細い紐状の帯、または細幅の平絎帯(ひらぐけおび)を、体の前または後ろで結び垂らした。こうして帯が人目に触れる位置へ出てくると、模様を織り出したり、刺繍を施したり、帯の加飾にも力が入れられるようになっていった。帯の幅や丈が実際どの程度だったのか、正確な寸法が記載された資料は少ないが、服飾史を専門とする長崎巌(共立女子大学教授)は、「近世初期においてはおそらく五㎝前後の帯が使用されていたであろうと推測される」(長崎巌『日本の美術五一四号 帯』至文堂、二〇〇九年)としている。桃山時代になると、前代までの素襖(すおう)に替わって、武家男性は公的な場で裃を多用するようになり、やはり小袖が表面に現れ、帯が服飾の重要な要素となっていった。

 帯がさらに大きな変化を遂げるのは、江戸時代に入ってからだ。桃山時代の小袖は対丈(身体と同じ丈に仕立てること。おはしょりがない)で、身幅が広かったため、幅広の帯を締めることはできなかった。しかし江戸時代になると小袖の身幅は徐々に狭く、丈は長くなっていったため、幅広の帯が締めやすくなった。時代に先駆けて幅広の帯を締めるようになったのは、ファッションリーダーでもある遊女たちだ。「寛永年間頃(一六二四~四四)からすでに一六~一九㎝ほどの幅の帯を用いていたようで、『嬉遊笑覧』(喜多村信節(のぶよ)〈筠庭〉著。文政一三年〈一八三〇〉刊行)によれば、『あづま物語』(寛永一九年〈一六四二〉刊)に記されている遊女の帯は、幅五~六寸であるという。(中略)『女鏡』(慶安五年〈一六五三〉刊)には(中略)二寸五分(約七・五㎝あるいは九・五㎝)を平均寸法にしている」(同書)とある。寛文年間後半から元禄にかけて、帯の幅も長さも増していく。そのきっかけは、京都の人気歌舞伎役者、上村吉弥(かみむらきちや)が舞台上で締めた、丈一丈二尺(約三六〇㎝)、幅五~六寸(約一五~一八㎝)、結びの両端に鉛を仕込み、長く垂らし、後に「吉弥結び」と呼ばれるようになった帯結びのせいだという。
 帯幅が広くなると、腰を境に上半身と下半身が分断される。そこで上下に異なるモチーフを配するようになり、享保(一七一六~一七三六)頃には、帯より下の下半身にのみ模様を配する腰模様や、小袖前面に満遍なく模様を施した、総模様が出現する。江戸時代中期~後期にかけて、帯幅は二七㎝前後で定着、帯芯に綿を入れて厚くするようになり、結び方のバリエーションも増えた。階級や職業、年齢などによって形を異にしたが、大正時代以降は、太鼓結びにほぼ集約されていく。
 
 ともあれ帯は、衣服をまとめ、固定し、道具を身に帯びる機能からではなく、何よりまず象徴的な存在として生まれた。であれば、誉田屋の帯も、「締めやすい」「着物と合わせやすい」ばかりを優先しなくていい道理だ。にもかかわらず――というべきか、源兵衛さんには申し訳ないけれど、私自身が締めたい、身にまといたいと強烈に惹かれたのは、銀の古箔を使った帯だった。
 たとえば、東京国立博物館が所蔵する酒井抱一の《夏秋草図屏風》を思い出してほしい。風に揺れ、雨に打たれる草花が描かれるのは、何百枚と貼り重ねた正方形の銀箔の上だ。年月を経る間に酸化していった銀はうっすらと黒みを帯び、制作当初の輝きこそ薄れさせたものの、代わりにより深い、まさにいぶし銀の底光りを発している。それは輝かしいものが老い、崩れ、朽ちていく過程でのみ獲得される、凍えるような豪奢さだ。だが、指輪や腕輪のように立体的な装身具として加工された銀と違い、絵画の背景に用いる銀箔は、いくら美しくても身につけることは叶わない。最初から装いの選択肢として考えたこともなかった古箔が、そのまま帯となって現れたことに驚き、歓喜した。
 現在では新しい銀箔に即席で古色をつける際、硫黄を用いるというが、半世紀以上にわたって天日干しを重ね、自然に年を取った古箔は、黒ずみ方が違う。これを本金糸を作る時と同じ要領で、漆を塗った和紙に貼り、細く裁断してらせん状に芯糸に巻きつけて銀糸をつくり、帯として織り上げたのだという。古箔を使った帯には、銀箔地そのまま、というものもあれば、銀地の上に模様を織り出したものもある。

 中でも、現代美術作家の松井冬子の作品とコラボレートした帯は、誉田屋らしい古箔使いの本領が、この上ない形で発揮されていた。松井がデビュー作《世界中の子と友達になれる》(二〇〇二年)でモチーフにした満開の藤の花房、その花の間に潜む異様な数のスズメバチを、一見そうは見えないほど黒々と焼けた銀を背景に、モノクロームで織り出した帯(図1)。原画では紫に彩られた藤を、銀の光とそれを浸食する闇とで立体的に、幾重にも重なりあい流れ落ちる花房の滝として表現する。そして目に見えるものばかりでなく、腐り落ちる直前の熟れた果実にも似た甘い香りを嗅がせ、銀のモノクロームの底に揺蕩(たゆた)う紫の影を見せる、幻惑的な帯でもあった。
 
 
(図1)

 あるいはボストン美術館が所蔵する、宋時代の《鯉魚図》をモチーフにしたという帯(図2)。こちらは真正のモノクロームの水墨画を元に、筆墨による黒の階調を、織りで表現している。墨の濃度やにじみを水と筆でコントロールしてつくり出すグラデーションが、どうして糸の重なりで再現できるのか、いくら目を凝らしてもわからないのが、この帯だ。古箔の中でも最も古い、一〇〇年近く経ったものを使ったというが、箔が薄れ、下地の漆が透けている糸が、数百年を経た絵絹の質感へと、見事に置き換えられている。激流から飛沫を上げて踊り上がる鯉の体は、登龍門の語源となった龍門を乗り越えれば、龍へと変じ、天に駆け上っても不思議ではない力感を備える。艶めいた黒い眼の光は、漆で点じたものだ。
 
 
(図2)

 絹糸だけではない、金銀プラチナの箔、漆、螺鈿(誉田屋の帯には螺鈿を織り込んだものまである)、胡粉、柿渋、古裂まで、他ではほとんど見かけることのない、さまざまな素材を加え、帯の形にまとめあげてしまう。刀剣の外装が、革、染織、金工、漆工など複数の工芸技術を総合して構成されているように、誉田屋の帯も染織だけに留まらない、工芸技術の結晶となっている。

 その集大成として、二〇一九年の初めに完成させたのが、《那智瀧図》(鎌倉時代、根津美術館所蔵、国宝)を写した帯だ。《那智瀧図》は熊野三所権現のひとつ、滝そのものを神体とする飛瀧(ひろう)権現を表した画で、上方の岩峰には月輪がかかり、轟々と落ちる滝が月明かりを受け、夜闇の中に白く浮かび上がる。帯は古くは「タラシ」とも読み、『古事記』には「名に帯の字を多羅斯(タラシ)と謂ふ」、また『日本書紀』には「みおびのしつはたむすびたれ(御帯の倭文服結び垂れ)」という記述があるとおり、結び垂れるものであった。帯そのものが垂れ、その帯の上を滝が落ちていく。帯は神の依代となる幣帛のようであり、同時に飛瀧権現そのものでもある。

 着想自体は四〇年前のことだが、源兵衛さんが「これならいける」と確信できる技術やつくり手が揃うまで、長い時間を要した。誉田屋の帯は、これまで西陣を中心として、確かな技術を持つ職人に、それぞれが得意とする技術を担ってもらう形で仕事を発注、分業で仕上げてきた。だが職人の高齢化が進んでいることもあり、六年前に「その先」を見据えた新しい会社を奄美大島に設立。今では現地で採用した二十~三十代の職人が五人、六十代が二人、七人が帯の制作に携わっている。織りの主力は、本格的に手織りを始めてからまだ五年にも満たないという、二十代の女性。糸に古箔や胡粉でニュアンスを加え、奄美で古くから行われてきた泥染めも駆使しながら、《那智瀧図》の気配を写した帯は、「何ものかが宿るような」という源兵衛さんの願いのとおり、神の依代として完成された。

 かざりを眺めるだけでなく、わが身をそれでかざりたい。あるいはかざりの招く霊威を身につけたい、いや、いっそ霊威で身をかざりたい。そんな欲望が、人間と動物を分かつ初源の衣服を、そしてそのもっとも象徴的な存在である帯を生み出した。世界の服飾を見渡してみても、和装ほど初源の帯の気配を色濃く残す様式は珍しい。誉田屋の帯をまとうたび、人間を人間たらしめたかざりが、未だに力を失わず、容易に手の届くところで息づいている喜びに、胸を締めつけられる。
(はしもと まり・ライター・永青文庫副館長) 
 

◇こぼればなし◇

 ◎ 本稿執筆時(三月下旬)、中国に端を発した新型コロナウイルスが世界的に猛威をふるっています。感染の拡大はとどまることを知らず、各国で非常事態や緊急事態が宣言され、渡航制限や入国制限がグローバルに広がっています。

◎ 小社があります神保町には、海外からのバックパッカー向けの宿泊施設もあることから、これまでは古本屋街をめぐる多くの観光客を目にすることが日常でしたが、ここ最近はまったく見受けられなくなりました。おそらく、インバウンド(訪日外国人旅行)をターゲットに事業を展開していた地域には、今回の新型コロナウイルスのパンデミックは深刻な影響を与えていることと思います。

◎ たとえば、海外から多くの観光客が訪れる場所といえば、桜の季節、春の京都でしょう。新型コロナウイルスが京都の観光業にどのような甚大な打撃をもたらしたか、京都簡易宿所連盟がまとめたアンケート調査をご紹介しましょう。

◎ 「簡易宿所」と言われてもピンとこないかもしれません。ホテルや旅館との違いは、建物の大きさや客室数の面で小規模であること、相部屋がある宿が多いことで、ホステル、ゲストハウスとお考えいただければいいでしょう。京都市内ではホテルや旅館よりもこの簡易宿所の数がもっとも多く、地域観光を下支えするインフラ的な役割を担ってきました。

◎ 連盟が三月一〇日から一六日に行った調査によりますと、二月の客室稼働率が二〇パーセント未満の宿が四七パーセント、二〇パーセントから四〇パーセント未満の宿が二七パーセント、あわせると七四パーセントに達します。三月についても、五一パーセントの宿が稼働率二〇パーセント未満と予想しています。

◎ こうした状況を反映し、売上見込みも大幅に落ち込んでいます。二月段階でマイナス八〇パーセント以上が一四パーセントを占めていましたが、三月の見込みになりますと三九パーセント、ほぼ四割の宿が売上八割減を予想しています。

◎ 今後の事業継続については、四二・九パーセントが継続すると回答する一方で三八・六パーセントが廃業を、一八・六パーセントが事業転換を検討中と回答しています。

◎ 客室の稼働率が二割にも満たない宿が半数を占めるという壊滅的な打撃は、中国を中心とするキャンセルから始まりました。それがヨーロッパ、アメリカ、韓国、台湾、オーストラリアと、感染拡大とともにその対象国が増え、自粛による邦人のキャンセルも相次ぎ、新規の予約はほとんど入っていないといいます。

◎ 感染しないよう、手洗いなどの自衛手段は個々人で対応できますが、経済危機がもたらす大きな影響に対処することはできません。京都の観光業は一例であって、他の業界でも深刻な事態に至っているところはあるでしょう。

◎ 本号がお手許に届くころ、事態がどのように推移しているか予断を許しませんが、読者のみなさまにはくれぐれもご注意いただいて、罹患されぬようお気をつけください。

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