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『思想』2021年1 月号

◇目次◇

思想の言葉………須藤訓任

『老子』読解の近代――日本とヨーロッパの中国学の交差………中島隆博
1958年,平壌・青年通りにアパートが建つ………谷川竜一
「アメリカの世紀」におけるアメリカ「帝国」………A・G・ホプキンズ
学生非暴力調整委員会の誕生――黒人自由闘争の歴史(1)………藤永康政
正義の女神アストライアの峻険な小径――ヴィーコの『普遍法』を読む(2)………上村忠男
世界への導入としての教育――反自然主義の教育思想・序説(6)………今井康雄

 

◇思想の言葉◇

思想の伏流

須藤訓任


 昨今、「思想の伏流」とでも呼べそうなテーマおよびそれに関連する事柄に思いを巡らすことが多い。以下、そうした思念のいくらかを断想風に披露してみたい。
    *
 もう四〇年近くも前、漫画家デビュー間もない杉浦日向子は、代表作の一つとなった『合葬』(一九八四年)の本編最終章の扉に、明治天皇の肖像と共に、その下こう書きつけた。

 維新は実質上維新(これあらた)なる事はなく
 末期幕府が総力を挙げて改革した
 近代軍備と内閣的政務機関を
 明治新政府がそのまま引き継いだ
 にすぎない。
 革命(revolution)ではなく
 復位(restoration)である。 (ちくま文庫版『合葬』一五一頁)

 のち、江戸風俗研究家として江戸ブームを牽引し、三四歳での「隠居」後テレビ出演などでも活躍し、わずか四七歳で早逝した杉浦(当時二〇代半ば)の、青春ほとばしるようなこの鮮烈な「宣告」には、攘夷派の面々が元来維新の立役者であったはずなのに、明治政府はなぜいとも簡単に開国へと方針転換したのかも暗示されているようだ。こうした斬新な明治維新観が現在の専門家筋からすると、どのように評価されるのかはともかく、素人の個人的感想としては、いまだ世に根強い明治維新=日本の近代革命という解釈図式からすると昔も今もショッキングなまでにインパクト溢れるように見えながら、しかし他方で、身に沁みついた江戸時代に関する社会通念を背景として、必ずしも拒否反応が生じることもない。おそらく日本社会の底辺に、江戸時代に関する思想の伏流が明治以降一貫して流れ続けていたからだ。第二次世界大戦後テレビ放送において勧善懲悪の時代劇の多くが江戸を題材としてきたのも、その伏流の大衆好みする浮上の諸形姿だったのではないだろうか。
    *
 振り返るなら、西暦二〇二〇年ほど、多事多難という形容がぴったりくる一年も少ない。言うまでもない、新型コロナウィルス感染症の世界的拡大がその最大の要因である。第二次大戦後最大の試練とのさる首脳の言もあった。しかし、多少ともコロナ問題と連動しつつ、天候異変による大小の自然災害も地球規模で、しかも毎年のように繰り返される。それが農業や水産業の収穫にも影響を及ぼす。さらに、政治的・社会的次元では、新冷戦下、人種差別問題を陰に陽に巻きこみながら展開されたアメリカ合衆国大統領選挙とそのぎくしゃくした顚末をはじめとして、きな臭さを増してゆくアジア情勢、また南アメリカ・旧ソ連圏など世界各地で頻発する政情不安や軍事衝突、それに本邦での突然の首相交代がおまけのように付け加わる。まるで時代のステージが巨大な場面変換を引き起こしつつあるかのようだ。もしかしたら、思想のそれも含め、時代の伏流が発生するのはなかんずく、こういう場面変換・位相転換においてなのかもしれない。
    *
 わたしとしては比較的珍しいことに、ここ一、二か月の間に長編小説を立て続けに二冊読了した。一冊は辻仁成『オキーフの恋人 オズワルドの追憶』(初出単行本二〇〇三年)で、もう一冊は笠井潔『哲学者の密室』(同じく一九九二年)である。読んだ順序もこの通り。繙いたのはいずれの書とも一冊本の文庫本ながら、一一〇〇頁余りで、片手では簡単に括れないくらいの分量を誇る。この分厚さにまずは魅了された。というか、恥ずかしいことに、どちらの小説家もそれまで読んだことがないながら、最初辻のこの小説を手に取り、裏表紙にあるその紹介文に惹かれて、一気に読み終え、ついで辻の書以上の嵩の笠井のミステリーを見つけて、それが、特にここ一〇年ほど集中的に興味を寄せているハイデガー絡みであることを知って、慌てて読み始めた次第。
 辻の傑作を読み進めながら、やがて連想は、村上春樹の『1Q84』(二〇一〇年)にたびたび及ぶようになっていった。こちらは単行本で全三巻、分量的には辻も笠井も超えるだろうが、数年前にすでに読み終えている。朝日新聞の二年ほど前の特集「平成の三〇冊」でも第一位に輝いたこの小説の知名度は抜群だろうが、辻の書もまた、ある種パラレルワールドをテーマに取り扱っていて、それが連想の理由となっている。この点はネットにも指摘が見られるようだ。それとともに、内容的にもオウム真理教事件をどこかしら意識しているように感じられ、両書の出版時期からしても、そうした意識があっておかしくないだろう。ところが、笠井のミステリーもパラレルワールドの問題として小説を展開しているように解釈することができ、村上を連想しながら辻の小説を読んだ直後に笠井の書に没頭していたわたしはほとほと眩暈に襲われた感があった。字義どおりにパラレルワールドを小説の枠組みとしているのは村上だけなのだが、辻は現実世界と虚構作品としての小説世界とのパラレル性を、そして笠井は三重密室殺人事件の、一九七〇年代半ばのパリの「現在」と三〇年前の大戦末期のポーランド在ナチス・ユダヤ人絶滅収容所の「過去」とにおける反復としてパラレル関係を打ち出している。笠井の場合にはそこに(出版年代からしてもオウム事件は除外されるが)ハイデガー哲学の問題性(同人のナチス加担や反ユダヤ主義がいま現在も大問題となっているが、笠井の書の出版当時フランス中心に再燃していた)がさらに織りこまれ、あまつさえハイデガーと思しき当人までが登場してくる。三者三様にパラレルワールドと「悪」とが主要テーマとして通底しているのだ。ここにも思想の伏流が認められないだろうか。それは単にいくつかの主要テーマの共通性・類似性ゆえの伏流ではない。三作品は、その発表年代がそれぞれ一〇年の間隔を挟んだ世紀の転換点であり、この転換点であるということほどパラレルワールドというテーマにふさわしい期間はなく、思想の伏流の伏流たるゆえんを際立たせるのである。伏流とは主流からの分岐だからである。その意味で、パラレルワールドとは思想の伏流そのもののあるイメージ化であり、「思想の伏流」に関する「思想の伏流」にほかならない。
    *
 いまを遡ること四十数年、冒頭の杉浦の宣告以上に古い話だが、物理学者の渡辺慧が「醜い家鴨の仔の定理」なるものを提唱した(同氏『認識とパタン』岩波新書、一九七八年)。そのココロは「すべての二つの物件は、同じ度合いの類似性を持っている」(同書一〇〇頁)ということ、二羽の白鳥の似具合と、一羽の白鳥と家鴨のそれとは等しいというのである。にわかには信じがたい思いもしようが、定理と称するだけあって、数学的に証明可能であって、渡辺は実際にそれを実行して見せている。この定理は類似というものをどう考えるかについて、根本的な問題提起をしている。類似性とは物件同士の間で客観的に成立するのではなく、むしろ、数ある類似性のうちどの類似性に着目するかに依存するのであって、その着目がいかに決められるかは、文化的・社会的また生活的要因に拠るのである。その意味で、類似とは類似を認める人間の側の都合によって成立する、きわめて「主観的」なものである。白鳥を白鳥として同定するとき、われわれはいくつかの特定の有限な特徴に注意を払う。これはほとんど無意識的にして自動的な作用である。この有限な特徴がピックアップされるから、白鳥同士は類似するが、家鴨とは似ていないとされる。だが、違う特徴をピックアップするなら、ある白鳥は別の白鳥とよりもある家鴨との方がよほど似ていると判定されることも十分ありうる。このことは、ある人物の写真よりその似顔絵の方がその人ソックリと感じられることが少なくないことを想えば、なにも不思議ではない。したがって、『哲学者の密室』『オキーフの恋人 オズワルドの追憶』『1Q84』の三著の間に、わたしがパラレルワールドと「悪」の問題性という点で共通性や類似性を見て取ったとすれば、それは三著の側の都合なのではなく、「わたし」の方の事情なのだ。三著相互間の類似性と、『吾輩は猫である』と各著の類似性との間に程度差はないはずだからである。何が「わたし」の方の事情なのだろうか。わたしは村上の小説として『1Q84』だけを挙げたが、村上の愛読者ならそれ以前にも、パラレルワールド的な小説が複数ある旨指摘するだろう。その意味で、わたしの連想はわたしという主観の勝手な思い入れにすぎない。ただし、これは「わたし」の個人的事情に関する指摘である。等しく「わたし」とは言っても、時代の、ないし思想の、伏流としての「わたし」、伏流を感受する「わたし」、個人というよりは時代としての「わたし」というものも考えられるのではないだろうか。
    *
 世に勘と呼ばれる現象がある。先を読むという意味でスポーツやゲームでも言われるが、それはとくに人間関係において発揮されるように感じられる。勘がよいとは上掲「醜い家鴨の仔の定理」に倣うなら、ある人がどういう人なのかなどについて判定する場合、その人のどの特徴をピックアップするのがよいか、その辺が直感的に察知できるということだろう。生まれつきの資質や能力のようにもみなされているが、そこに経験の積み重ねによる学習が大きな役割を果たす可能性を排除しなければならないことにはなるまい。その限り、勘の鋭さは万人に開かれている。勘の学習はしかし、単に知的なものでもなければ、スポーツなどのような主として身体的なものでもなく、強いて言えば、全人的な学習、それも意図的というよりも、無意識的な学習であることが多いだろう。意図的・主体的に学ぶというよりは、知らぬ間・いつの間にやら学ばされている、ないし学んでしまっているという学習であろう。時代のさなかの思想の伏流の「わたし」による感受も、勘のこうした学習に通じるものではないだろうか。というのも、伏流とは「わたし」がすでにその只中に位置してもいるそういう流れのはずであり、多かれ少なかれ「わたし」はそれを感知し身に着けてしまっており、それを発揮せずにおけない。その意味で「わたし」はその圧力下にある。そしてこの圧力とは、なんらかの事象における特定特徴のピックアップを促す圧力、「わたし」に対する時代の圧力にほかならない。ここには明らかに循環がある。例の三著の共通性・類似性をわたしがピックアップしたのは、そういうピックアップを促す時代の圧力を無意識裡に全的に受けているからだが、当の共通性・類似性そのものが圧力を及ぼす時代の思想伏流の内容をなすのだからである。だが循環こそが、ハイデガーも言うように事態の鍵を握る。
 それはなにも、部分と全体の知の相互的規定としての解釈学的循環を謂うだけでない。人の生も時代も、その一コマ一コマと全体とが幾重にも階層をなしながら循環的相互交流するなかで巡行してゆくのにちがいない。いわゆるケーレ以降のハイデガーはそれを最大限のスケールで、「存在の真理」と「真理の存在」との循環(存在の本当の姿と、真実が何でありどうあるかとは一方が他方の根拠や基盤となるのではなく、互いに求め合いまたすれ違いながらその具体相が割り出されてゆくというこの循環こそが、ケーレ(転回)の原義である)として考え抜こうとしていた。そこでは循環は回避されるものでないばかりか、外部への脱出が端的に不可能なものとして「正しくそのうちに入るべき」ものである。ハイデガーは晩年サイバネティクスに強い危機的関心を示したが、それはフィードバックの制御という形で「外」から循環を操作する技術に他ならなかったからであろう。われわれにはもはやこの危機感を共有することすら、困難になっているのかもしれない。
 時代や思想の伏流に身を置きながら、それの囁きに耳を傾けそれとして護り抜くこと―それはパラレルワールド(杉浦日向子にとっては江戸時代の諸相が最高のパラレルワールドであったろう)を感知し、潜在性としてのその身分を堅持・尊重しつつ、そこに潜む正負の未発の可能性を聴き洩らさないことであり、そのことからするなら、伏流の循環にいかに入り込むかが、この先「わたし」たちの行方を占う試金石になると極論して大過ないのではなかろうか。

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