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『図書』2021年2月号【試し読み】川端知嘉子/鵜山仁/青柳いづみこ

◇目次◇

声無くして人を呼ぶ………川端知嘉子
シェイクスピアの史劇八作品連続上演を終えて………鵜山 仁
分断を超えるハンセン病文学の言葉………木村哲也
サロンという登竜門………青柳いづみこ
子どもらしさ………畑中章宏
孤独なものたちの行き場………寺尾紗穂
ディアリーの複製芸術………片岡義男
ガリヴァーの囁き(後編)………吉田篤弘
クリスマスの苦い後味………亀山郁夫
周縁と下層………四方田犬彦
シヌタカはどこにあったのか?………中川 裕  
太初に動詞あり………時枝 正
詩人・仲村渠の路地をたどる………斎藤真理子
螺鈿――本質としての表層………橋本麻里
祈り、寄り添うということ………長谷川 櫂
こぼればなし
二月の新刊案内

(表紙=司修) 
(イラスト=佐々木ひとみ)

 

◇読む人・書く人・作る人◇

声無くして人を呼ぶ
川端知嘉子
 荒神口を過ぎたあたりに、気になるギャラリーがあって、バスで前を通過する度に窓ガラスの奥の作品をくい入るように見るのが私の癖になった。思いたって途中下車をして訪ねたそのギャラリーは、所謂アール・ブリュットと言われる作品を展示する場所であった。

 くず箱の中から拾い集めた色糸をひたすらくっつけて、途方もない時間の果てに生み出された鮮烈で美しい衣。画面の外に消えて隠れるように配置される鶴の半身、それは「余白の美」では片付けられない世界だ。美術教育からは生まれない、どこまでも自らの心にのみ忠実な世界に思わず見入ってしまう。

 最近、関谷富貴(せきやふき)の作品図録を(四年待ちで)手に入れた。時代背景もあったかもしれないが、一九〇三年生まれの富貴は「私の仕事は陽(よう。洋画家の夫)を世に出すことですから」と、その才能を認める周囲からの発表の勧めを断ったらしい。一九三〇年に仏留学の経験がある夫のアトリエには、パウル・クレーやカンディンスキーの画集くらいあったことだろう。その影響は疑いないけれど、アトリエに残された短くなったクレパスやパステルで人知れず紡ぎ出された富貴の作品に、有名な大家の作品よりかえって生々しい力を感じてしまう。手際ではなく、魂のありようの時間が作品を作り上げている。

 教育、広告宣伝、流行、そうした情報は外へと向かう梯を掛けるが、一人で黙々と内へ内へ奥へ奥へと降りた所で生まれたものには時間を越えた不思議な力が宿っている。
(かわばた ちかこ・画家・川端道喜代表)
 

◇試し読み②◇

シェイクスピアの史劇八作品連続上演を終えて 
鵜山 仁

 二〇〇九年の十月から昨年の十月にかけて、東京初台の新国立劇場で、ヘンリアドと呼ばれる、シェイクスピアの史劇全八作品を上演した。全編通すと恐らく三日がかり、上演時間にして二十四時間は越えようかという長丁場だ。このシリーズの完結には十二年をかけた。まずは『ヘンリー六世』の三部作でスタートし、その後『リチャード三世』、『ヘンリー四世』二部作、『ヘンリー五世』と上演を重ねてきたのだが、英国史の時系列で言うと、その始まりにあたるのが、われわれのカンパニーでは最後の上演となった昨年の『リチャード二世』。

 この芝居の一幕一場は二人の貴族の対立を王であるリチャード二世が裁定しようとする場面からはじまる。一方はヘリフォード公ヘンリー・ボリングブルック(のちのヘンリー四世)、他方はノーフォーク公トマス・モーブレー。互いに相手を、リチャード二世に対する大逆罪の廉で告発する。容疑の核心にあるのは王の叔父であり、ボリングブルックにとっても叔父にあたるグロスター公の殺害容疑らしいのだが、どうやら殺害の黒幕はリチャード王本人かとも疑われ、二人の訴えのどちらが正しいのか、一向にはっきりしない。
 こういう不可解な状況というか、お互いに脛に傷持つ、いわば灰色の対立がヘンリアドのはじまりなのだ。
 その後『ヘンリー四世』『ヘンリー五世』『ヘンリー六世』、そして『リチャード三世』へと続くこのシリーズ、英仏百年戦争、ヨーク家とランカスター家、白バラと赤バラ、一見明確に色分けされたドラマの背後にあるのは、実はこうしたグレーの世界であり、単純な善悪の対立構造ではない。

 『リチャード二世』に続く二部作『ヘンリー四世』では、リチャード二世から王位を簒奪したヘンリー・ボリングブルック=ヘンリー四世の王子ハルと、その相棒であるサー・ジョン・フォールスタッフのコンビを軸にしてストーリーが展開する。さてこのフォールスタッフというのが、サーの称号は持っているが名誉や勇気という貴族的美徳には縁がなく、酒色におぼれ、窃盗強盗のたぐいも日常茶飯という背徳的な人物なのだ。第二部の最後で、父ヘンリー四世の死後王位に上ったハル=ヘンリー五世は、この相棒を否認する。フォールスタッフはハルが成長するうえで経験しなければならなかったご乱行の指南役をつとめたが、ハルが王となった途端、あっけなくその役割を終えるというわけだ。
 この芝居には「宮廷」と「街場」のシーンが代わるがわる現れ、ハルとフォールスタッフはこの両方を行き来して、二つの世界をつなぐ役割を果たす。しかしその「宮廷」と「街場」にしても、宮廷には街場そこのけのいかがわしい駆け引きがあり、街場には宮廷の人間関係を模して遊ぶ道化芝居のドラマトゥルギーが取り込まれている。つまり「公」と「私」は互いに入れ子細工の関係にあり、それはそのまま、一個の人間の多様性の、社会的反映に他ならないとも言える。

 続く『ヘンリー五世』では、舞台が英仏百年戦争の戦場となり 、英国側の陣営では英語とウェールズ、スコットランド、アイルランドの地方語の出会い、衝突が起きる。そこに更に敵国語フランス語が対置され、異なる言語間のコミュニケーション、ディスコミュニケーションが強調されることで、国家というものの統一性と、それとはうらはらな多義性が浮かび上がる。これはさながら、シェイクスピア流『国語元年』(井上ひさし作)であって、国民国家の成立によって排除されるもの、称揚されるもの、そのコントラストが、言わばコマ落としのスラップスティックとして表現されるのだ。これらの場面は人間の関係性を対話レベルで表現するという演劇の特性にかない、異なる「音」の競演の場としても刺激的なシーンだと思う。

 三部作『ヘンリー六世』の第一部に登場するジャンヌ・ダルク、フランスの聖女と崇められるオルレアンの少女の描かれ方についても、これは英国側から見た反神話であって、実は彼女は俗悪な小悪魔にすぎなかったというのは、あまりに単純化しすぎた見方だ。シャーマンとしての彼女の両義性、聖性と俗性の振幅には、やはり優れて人間的でダイナミックなうねりがある。

 また稀代の悪党とされる『リチャード三世』のタイトルロール、グロスター公リチャードについて私見を述べるなら、ドラマの核心は彼の愛情渇望と、その裏返しの愛情への猜疑にある。確かに病的なまでに過剰なあこがれ、反発には違いないが、彼のあくなき欲望追求の動機が、実は行きどころをなくした愛の暴発だということを見逃してはならない。そしてその彼の所業を妻として母として受け止めるのが、善と同時に悪を生み出さざるを得なかった女たちの存在なのだ。

 以上どの例をとってみても、背後には『マクベス』の魔女の呪文、Fair is foul, and foul is fair.(「いいは悪いで悪いはいい」小田島雄志訳)という世界観がただよっている。世界のエネルギーの源泉は、恐らくFairとFoulの振幅にこそあるのだろう。勿論どの作品も、図式的なテーマに支配されているわけではない。シェイクスピアの真骨頂は、むしろ単純なテーマ化を拒む多様性の交錯にある。
 歴史劇としては、絶対王政という国家統合システムの建設にあたって、古い制度、思弁、人間関係、地域性、これら雑菌繁殖の温床になるようなものをできる限り排除し、ノイズを除去する、その効率化のプロセスが描かれているのだと考えてもいい。しかし例えばフォールスタッフのように、最後にはお払い箱となって抹殺されてしまうノイズの、何と魅力的な事か。というわけで、このあたりがいよいよ、われわれ芸能の出番である。
 国家が不要不急と切り捨てたものを、劇場という汚水処理施設が引き受け、これを芳醇な飲料水として、もしくはワクチンとして社会に還元する。やや我田引水にすぎるかもしれないが、芸能やアートの役割というのは結局そんなものだろうという気がする。

 さてノイズという言葉からの連想で、この十二年、ヘンリアドの連作を通してわれわれの現場が積み重ねてきた経験、その結論のひとつとして強調しておきたいのは、人間のドラマだけではなく、死者たちの領域をも含んだ自然の呼び声というようなものが、この歴史劇世界を大きく包みこんでいるということだ。台詞として語られるレトリックの一つひとつが、人間世界とこの宇宙との照応を映している。言葉が双方の仲立ちをしているわけだが、生きた自然と生きた人間ののっぴきならない関係を担保するのは、他でもない、役者の「表情」であり「声」であり、つまりライブの身体性なのだ。このレベルでの言語の再構築を、われわれはしばしばなおざりにしてしまう。詩的な言語表現は単なる比喩的装飾ではない。人間の営為と自然との照応に耳を傾け、共生を呼びかける息吹、呪文、複雑微妙な交信コードだと考えるべきだろう。

 今からおよそ二十万年前にホモサピエンスが地上に現れ、六万年くらい前に突然大きな変化があって、それ以前とは全く異なる複雑な石器・道具が生まれ、はるか遠く隔たった場所との交易が始まり、やがてラスコーやアルタミラの洞窟に壁画が描かれた。人類にこの大躍進をもたらしたのは一体何なのか。その答えは実は「言葉」の発見だという説がある。
 「言葉」は目に見えるものの交換に役立つばかりではない、実に様々な現象、感情、観念等、目には見えないものをも取り込んで他者との、そして「宇宙」との交感、共生の道を開く貴重なツールだ。そこにできるだけ豊かな温度、色彩を吹き込み、「声」として、「表情」としてライブの時空に解き放つことこそが、アートの役割だろう。

 更に言えば今われわれに必要なのは、臆面もなく「神を語る」ことではないだろうか。ここで言う神とは、必ずしも一神教の神ではない。僕らにも多少なじみのある、高天原の八百万の神々やオリュンポスの十二神なんかにやや近いかもしれない。つまり動物や植物や岩や水や、もしかしたらウイルスの「表情」や「声」をも、めでたく顕在化させること、それが今われわれの演劇に求められているのではないか。
 コロナ禍のさなか、ひとまずヘンリアドを終えた今、そんなことを考えている。

(うやま ひとし・演出家) 

 

◇試し読み②◇

サロンという登竜門
青柳いづみこ

 若く、無名でお金のない芸術家が世に出る手段は、そうは多くない。二一世紀のこんにちでは、それがショパン・コンクールだったりチャイコフスキー・コンクールだったりするわけだが、一九世紀は貴族やブルジョワのサロンがその役割を果たしていた。
 鹿島茂『馬車が買いたい!』は、バルザックやフローベール、スタンダールの作品の主人公に注目し、田舎からパリに上り、社交界で一旗あげようともくろむ若者たちの算段を具体的に検証した書である。タイトルにもあるように、社交界に乗り込むためには、何を置いても馬車が必要だった。馬車がなければ上流階級のサロンに行くことができず、サロンでデビューしなければ、文壇・楽壇の大立者や文芸の庇護者に出会うこともできなかった。
 時代は少しあとになるが、一八三一年、ワルシャワ動乱でパリに出てきたショパンも同じような努力をしている。
 ショパンの場合、スタートにはかなりのアドバンテージがあった。彼はすでにウィーンのケルンテン門劇場でデビューし、「ウィーン劇場新聞」やライプツィヒの「アルゲマイネ・ムジカーリッシュ・ツァイトゥング」でも絶賛されていた。
 しかしそれだけでは、口の悪いハイネの表現を借りるなら、ピアノの名人たちが「バッタの大群のように」押し寄せてくるパリでやっていくには十分ではなかったろう。
 幸い、彼は二通の推薦状をもっていた。一通はワルシャワでの師エルスネルからパリ音楽院教授で指揮者のルシュールに宛てたもの、もう一通はウィーンでの庇護者マルファッティがパリ楽壇の大立者パエールにしたためてくれたもの。
 推薦状を読んだパエールは、早速ロッシーニ、ケルビーニはじめ有力な作曲家たちにショパンを引きあわせ、ピアノ界の重鎮カルクブレンナーにも紹介した。
 通常は冷たくとっつきにくいと思われていたカルクブレンナーも、目の前で自作の『ピアノ協奏曲第一番』を弾いたポーランド青年の才能に深く魅せられ、自分の作品も含めた演奏会を企画し、ショパンのパリ・デビューを仕掛けた。
 一八三二年二月二六日、プレイエルホールで開かれたコンサートは大成功で、ショパンはユダヤ人のロスチャイルド家のサロンに招かれ、男爵夫人から弟子入りを志願される。

プレイエルホールの内部

 

ショパンのパリ初演奏会プログラム


 評判は「トゥ・パリ」、いわゆる上流社会に伝わり、ノアイユ侯爵令嬢、ヴォーデモン公爵夫人、国王の側近のド・ペルチュイ伯爵、エステルハージ伯爵等々の子弟がこぞってショパンに弟子入りを望む。亡命ポーランド人の有力者がマネージャーがわりに条件を定め、ワン・レッスン二〇フラン(一フラン=一〇〇〇円)という謝礼を告知した。パリ随一の教育者カルクブレンナーが二五フランだったのだから、高額ぶりがわかろうというもの。
 一八三三年一月、ショパンは故郷の友人にこんな手紙を書く。
 「僕は四方八方から引っ張り【凧/だこ】なのだ――上流社会に這入り込み、各国大使やら誰々公爵やら何々大臣やらと同席しているのだが、一体どうしてこんなことができたのか、自分でもわからない。自分からよじ登ろうと思ったわけじゃないからだ。今の僕にとっては、これが一番必要なことで、なぜならここからいわゆる良い趣味が、ここから流行が出てゆくからだ――ひとたび英国大使館かオーストリア大使館で演奏すれば、たちまち人より才能に恵まれていることになるし――ヴォーデモン公爵夫人のお引き立てがあったと言えば、たちまち人より演奏がうまいことになる……」(『ショパン全書簡 1831―1835年パリ時代(上)』関口時正他訳)
 「よじ登ろうと思ったわけじゃない」というのは字義通りに受け取ってはいけない。ショパンは、作曲や演奏の才能もさることながら、リストが「貴族のご落胤のよう」と評したように、みるからに「貴族的」だった。優雅で洗練されたものごし、エスプリに満ちた会話、非のうちどころのない礼儀作法。それは先天的なものもあるだろうし、自身の資質をみきわめた上である程度ターゲットを定めて計算したものでもあろう。
 同じ手紙で彼は次のように書いている。
 「今日はレッスンを五回することになっている。――大儲けだと思うだろう! ――僅かながら【二輪馬車/カブリオレ】の方が高くつくし――それに白い手袋だ――これなしでは作法に適わない」
 まさに「馬車が買いたい!」である。『レ・ミゼラブル』のマリユス青年のような貧乏学生がカブリオレを時間ぎめで雇うと、一乗りするだけで夕食一回ぶんぐらいのお金がふっとんでしまう。貴婦人を訪問するときやオペラ座に行くときは靴に泥がつかないように馬車を使っても、帰りは歩いて帰るのが普通だったという。
 パリに出てきた当座は「だんだんと社交界の人たちと知り合いをつくっているが、ポケットには一ダカットしかない」と嘆いていたショパンだが、二年もたたないうちに流行の最先端をゆくダンディの仲間入りをした。馬車を買うまでのお金はなかったが二輪馬車を借り、御者と召使も雇い、ヴィヴィエンヌ通りの洋服屋でフロックコートを注文し、白麻の下着をつけ、絹のネクタイを三重に巻き、エナメル塗りのブーツをはき、繻子の裏地をつけたマントをはおり、最新流行の帽子をかぶり、身なりをととのえる。
 いわゆる先行投資である。

マリア・ヴォジンスカの描くショパン(1836) 


 世界をまたにかけて活躍するヴィルトゥオーゾとしては、ショパンは難があった。まず、ピアノを弾く時の音量が小さく、大きな会場やオーケストラとの共演ではよくきこえない。これはカルクブレンナーが指摘したことだが、演奏にむらがあり、コンスタントな演奏活動にはむいていない。作曲家としても、オーケストラ書法に長けていなかったので、オペラや交響曲のような大規模な作品でステイタスを確立させることができなかった。
 量より質、規模より繊細さ、大がかりな仕掛けより精緻な工夫を尊ぶサロンの親密な空間での活動は、ショパンの在り方を活かす、おそらく唯一の道だったことだろう。
 同じようなことは、オペラを書きたがらなかった(結局は書いたが)フォーレについても言うことができる。「五十五歳を迎えても、フォーレの名は未だ世間には知られていなかった」と、ジャン=ミシェル・ネクトゥーは書く。
 「例えば、音楽に明るいアマチュアが楽譜屋で彼のとある歌曲を尋ねると、決まって同名の名高い歌手ジャン=バティスト・フォールの作品が示される有様だった」(『ガブリエル・フォーレ』大谷千正編訳)
 いっぽう、上流社会のサロンでは、フォーレは有名人だった。一八七〇年代に先生のサン=サーンスに紹介されたポーリーヌ・ヴィアルドー夫人のサロンでは、家族の一員のように迎え入れられ、夫人や娘たちのためにいくつかの歌曲を書き、息子のポールには『ヴァイオリン・ソナタ第一番』を献呈している。娘のマリアンヌとは一時婚約したが、こちらはすぐに解消された。

1868年のフォーレ


 一八八〇年代にはいるとボーニ夫人(のちのサン=マルソー夫人)のサロンに出入りし、有名な歌曲『夢のあとに』を捧げる。一八九〇年代には、豊かな財力をバックに音楽界の影の立役者となったウィナレッタ・シンガー(のちのポリニャック大公妃)、プルースト『失われた時を求めて』のゲルマント侯爵夫人のモデル、グレフュール伯爵夫人の寵愛を得、前者には『五つのヴェネツィアの歌』、後者には『パヴァーヌ』を捧げている。
 九二年からは、富裕な銀行家夫人エンマ・バルダックのサロンに出入りし、夫人に『優しき歌』を捧げ、娘のエレーヌの誕生に際して連弾組曲『ドリー』を書くことになる。
 ある新聞記者のインタビューに応えてフォーレは、「私は社交界での生活に夢中になり、何人かの良き理解者にも恵まれました。大衆には認められなくても、こういった友人たちに理解してもらえたことで、私は満たされていました」(『評伝フォーレ』J・M・ネクトゥー著、大谷千正監訳)と語っている。
 しかしまた、環境さえ許せばもう少し「本格的な」作品を書くこともできたわけである。ネクトゥーによれば、フォーレが作曲家としてデビューした一八七〇年春、パリの音楽雑誌の記事はオペラとその歌手たちの記事で埋めつくされていたという。マイアベーアやアレヴィ風の「グランド・オペラ」がもてはやされており、それ以外では、オッフェンバックのオペレッタと民衆的なカフェ・コンセールが人気を集めていた。
 こんな状況を打破したのが、一八七一年にサン=サーンスやヴァンサン・ダンディによって設立された国民音楽協会である。会員たちの新作を初演し、劇場音楽以外の作品にも発表の場を与えることで作曲界に風穴をあけた。
 フォーレも、一八七〇年以前にはソナタや弦楽四重奏曲を書きたいとは思っていなかったと語っている。
 「当時は、若い作曲家の作品が演奏される場などなかったからだ……。サン=サーンスが一八七一年に国民音楽協会を設立した大きな目的は、まさに若い作曲家たちの作品を演奏することにあったのであり、私もそのために室内楽曲を作るようになったのです」(前掲書)。
 名作『ヴァイオリン・ソナタ第一番』はこうして誕生した。
 サロンの女主人にも、新しい音楽を好む人はいた。前衛びいきで知られるグレフュール伯爵夫人は、一八九〇年代はじめ、当時の会長フランクの死去で保守化した国民音楽協会の改革に奔走している。このアイディアがのちの独立音楽協会に発展した。
 ポリニャック大公妃のサロンも、シャブリエからストラヴィンスキーまで前衛音楽の発表の場となっていた。ストラヴィンスキーには『狐』、サティには『ソクラテス』を委嘱し、フランス六人組のプーランクやミヨー、タイユフェールにも作品を委嘱している。
 二〇世紀にはいると、サロンが開かれるのは必ずしも貴族の邸宅ではなく、作品や演奏を売り込む場から、異なるジャンルの出会いの場、前衛芸術の発祥の地へと移っていく。
 ラヴェルも、作曲の師フォーレのつてで上流社会のサロンに出入りしていたが、彼をより支援したのは、アテネ街二二番地に住むゴデブスキ家だった。彫刻家の息子シーパとイーダ夫妻は、芸術家たちのために自宅のサロンを開放し、新時代の作曲家や文学者が集った。ラヴェルの『ソナチネ』は彼らに、『マ・メール・ロア』はその子供たちに献呈されている。
 シーパの異母姉ミシアは、ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の出資者の一人として知られる。彼女は生涯に三度結婚しているが、二番目の夫エドゥワール(『ル・マタン』紙の社主)は大富豪で、一九〇五年にラヴェルが作曲家の登竜門であるローマ賞に五度目の失敗をしたとき、傷心の友を誘って、ヨットで豪華なクルーズの旅に連れ出している。
 こうした新しい潮流の恩恵をもっとも受けたのが、エリック・サティだった。若いときはモンマルトルの酒場でピアノを弾き、「戸棚」と呼ばれた、横にならないと身の置き場のない部屋に住んでいたサティは、もう少し人間的な住処を求めてパリ郊外のアルクイユに転居し、仕事のために徒歩でモンマルトルのカフェ・コンセールやミュージック・ホールに通っていたが、暮らしは一向に楽にならなかった。
 上流階級のサロンとは縁がなく、アルクイユで子供たちのためのコンサートや音楽教室を主宰していたエリック・サティを中央に引き出したのは、自分を評価しない国民音楽協会を脱退して一九〇九年に独立音楽協会を立ち上げたラヴェルだった。『サラバンド』や『星たちの息子』など初期作品の革新性に注目したラヴェルは、一九一一年初めにガヴォー・ホールでサティの個展を企画し、「天才的先駆者……四半世紀も前に、大胆にも未来の音楽の隠語で話していた人騒がせな新語開発家」と紹介した。
 その後に起きたことは、まるで出世すごろくのようである。サティはカフェ・コンセールの歌手ポーレット・ダルティの家で、まだ二〇歳の作曲家ロラン=マニュエルに出会い、すっかり意気投合してしまう。マニュエルは自宅でサティの喜劇『メデューサの罠』を私的に上演し、それを見にきた画家のヴァランティーヌ・グロスは、自宅のサロンでジャン・コクトーに引き合わせる。
 一九一六年四月、モンパルナスのユイガンス音楽堂で「ラヴェルとサティの会」が開かれ、従軍中のコクトーも休暇をとってヴァランティーヌ・グロスとともにやってきた。コクトーはロシア・バレエ団のために台本を書いた『パラード』の音楽をサティに依頼し、一九一七年五月、シャトレ座での歴史的な上演が実現する。
 『パラード』は、ポスト・ドビュッシーを模索していた次世代の作曲家たちを集結させるきっかけとなった。オーリックとデュレ、オネゲルはユイガンス音楽堂でサティを讃えるコンサートを開く。プーランクは『黒人狂詩曲』を書いてサティに捧げる。
 ヴァランティーヌ・グロスがいなければ『パラード』は生まれなかったし、『パラード』が生まれなければ、六人組もまた生まれなかっただろう。
 このような展開は、残念ながら集団合議制のコンクールでは望みにくい。
 サロンもまた、選別の場ではある。グレフュール伯爵夫人は、リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』にしても、マーラーの『交響曲第二番』にしても、まず自分のサロンで試演会を開いてからホール主催者にコンタクトをとった。興業主からアルトゥール・ルービンシュタインの売り出しをもちかけられたときも、まず別荘のサロンで弾かせてみた。有識者に意見を求めたにしても、最終判断は彼女たちの審美眼、嗅覚にかかっている。
 国際コンクールでは、さまざまな国のさまざまな経歴のさまざまな世代の審査員たちが、さまざまな国のさまざまな経歴のさまざまな資質の若者たちを審査する。当然そこにはさまざまな政治的要素、国家や民族の都合、主宰者側の都合、楽器メーカーの都合、審査員や教師たちの都合がからみあう。
 ときどき、音楽に民主主義は似合わないと思うことがある。誰か一人の審査員がすばらしいと思っても、他の審査員がよい点をつけなければ、勝ち抜くことはむずかしい。一九八〇年のショパン・コンクールでは、ポゴレリチの予選敗退を不服としてアルゲリッチが審査員を辞退してしまった。
 芸術に競争は似合わないと思うこともある。ショパンがショパン・コンクールに出場していたら、一次予選で落ちていたろうというのは、音楽学生たちがよく笑い話にする。ショパンのような才能を発掘するためには、コンクールはまったく向いていない。
 そしてまた、ローマ大賞に五回失敗したラヴェルも、コンクール向きではなかった。
 ましてや、サティにおいてをや、である。

(あおやぎ いづみこ・ピアニスト・文筆家)

 

◇こぼればなし◇

◎ 世界中のファンが訪れる「三鷹の森ジブリ美術館」が開館したのは、二〇〇一年一〇月のことでした。どのような建物にして、何を展示しようか。お客様にどんな楽しみを届けようか。宮崎駿監督は、その構想を実際のかたちにするため、多くのイメージやアイデアを絵に描き、スタッフの方たちと試行錯誤しながら練り上げていかれたそうです。

◎ この度刊行をみた『宮崎駿とジブリ美術館』(スタジオジブリ編)は、「美術館をつくる――イメージボード、スケッチ集」と「企画展示をつくる――2001年~2020年の軌跡」の二冊セットが化粧函に収められた、まさに豪華本。監督によって描かれた膨大な数の「イメージボード」(水彩によるイラスト)やラフスケッチ、メモや図面、制作資料や解説文、漫画、図解イラスト、落書き等から選りすぐりの九〇〇点余をカラーで、英訳も付して収録しています。

◎ ジブリの鈴木敏夫さんによると、宮崎監督は「絵でモノを考える」人。「ぼくの知る限り、そんな人は彼をおいて他にいない」「しかも、描いた絵の情報量が半端じゃない」「そして、自ずと、アニメーションの作り方も分かる仕掛けになっている」(『宮崎駿とジブリ美術館』内容案内「刊行によせて」より)。

◎ さて、「考える方法」と不離のこととして、「考える力」、自ら問いを立て探究する力が、今後いっそう大事になりそうです。三月に創刊される「岩波ジュニアスタートブックス」(通称「ジュニスタ」)という新シリーズのコンセプトも、そこに肝があります。どのように自分で考えるのか、どうやって主体的に学ぶのか。いま熱いこの大テーマに、新しい世代の読者と一緒に取り組みます。

◎ 岩波ジュニア新書のきょうだい分ともいえる本シリーズのねらいは、探究型学習やグループ学習、調べ学習の授業が増えてきた主に中学生を対象に、一方通行の教科知識の習得だけでない、幅広く多様なかたちの学びをサポートすることです。豊富な図版とともに、専門家が論理的に分かりやすく工夫して書いた文章をじっくり読み進めていく、初めての経験。それが人生の重要な出会いや選択につながるかもしれないという意味では、生徒さんはもちろん、先生にとっても、貴重な「探究」をお手伝いするシリーズとなるでしょう。

◎ 初回配本は『未来をつくるあなたへ』(中満泉著)、『地震はなぜ起きる?』(鎌田浩毅著)、『俳句部、はじめました』(神野紗希著)、『地球温暖化を解決したい』(小西雅子著)の四点です。

◎ 日本文学者ドナルド・キーンさんの功績を称えて創設された第四回ドナルド・キーン賞大賞に、川本皓嗣さんの『俳諧の詩学』が選ばれました。キーンさんの三回忌をこの二月に迎えますが、一周忌には、美しく軽妙な装幀の『黄犬キーン交遊抄』が刊行されています。

◎ 本号から、ピアニストで文筆家の青柳いづみこさんによる新連載「響きあう芸術 パリのサロンの物語」がスタート。華麗なる群像劇をご堪能ください。

 

 

 

 







 

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