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『思想』2021年2 月号 【小特集】採掘-採取ロジスティクス――批判地理学の最前線

◇目次◇

思想の言葉………土佐弘之 

〈提起〉採掘-採取,ロジスティクス――現代資本主義批判のために………北川眞也+箱田 徹
多数多様な採取フロンティア――現代資本主義を掘り起こす………サンドロ・メッザードラ+ブレット・ニールソン
身体-領土――戦場としての身体………べロニカ・ガーゴ
採掘主義と家父長制――現代ラテンアメリカのフェミニズム………廣瀬 純
ロジスティクスによる空間の生産――インフラストラクチャー,労働,対抗ロジスティクス………北川眞也+原口 剛
〈インタビュー〉ロジスティクスと採掘主義,あるいは「釜ヶ崎=地中海的な空間」をめぐって………サンドロ・メッザードラ

トクヴィルという謎――利益と徳(4)………宮代康丈
パースという多面体――アメリカ哲学のバロック2――続・バロックの哲学(4)………檜垣立哉

 

◇思想の言葉◇

過度な採取主義の行方――資本の構成的外部をめぐる政治
土佐弘之

  収奪(expropriation)または採取・抽出(extraction)という言葉を聞いて私が連想するのは、セバスチャン・サルガド自身が「労働者への讃歌」だと言った写真集『人間の大地 労働(Workers)』のモノクロームの世界だ。特にサルガドが一九八六年にブラジルのパラ州セーラ・ペラーダの金鉱で撮った一連のショットは肉体労働の世界を独特の耽美主義的感覚でフレイミングしていて見る者に強い印象を残す。露天掘りの鉱山で泥まみれになって働いている労働者の肉体の塊が目の前に迫ってくる感じだ。「泥の豚」とも呼ばれる、その異様な姿は、ある意味で「人間による人間に対する収奪」そして「人間による人間以外の自然に対する収奪」といった二重の収奪を体現しているようにもみえる。その典型的とも言える二重収奪の光景は四半世紀前の過去形として終わった訳ではなく今でも彼方此方で現在進行形として見ることができるのではないだろうか。

 はたして搾取と収奪や採取は、どのように違うのか。マルクスに近い理解に基づいて説明すれば前者は合法的な形で「自由な」労働を通して行うものであるのに対して、後者は時には非合法的な暴力をまじえて土地などの生産手段を強奪するものということになるのだろうが、両者は事実上、連続したスペクトラムの中にあり、現実には自発的な契約労働と強制による使役との間の境界は曖昧で、何処で分節化するかは政治的駆け引きの中で決まることだ。現代社会における問題の一つは、法の支配の空洞化(例外状態の常態化)とともに同意と強制の間の線が見えにくくなっていることで、「ヘゲモニーなき支配」といった形での強制の比重がより大きくなっていること、つまり搾取の問題もさることながら収奪の問題がより深刻化してきているということであろう。強制の比重が大きくなるということは、換言すれば、価値の抽出が収奪(文字通り、ラテン語のex-propriareが意味する「所有物を奪う」)といった契機により大きく依存するようになっているということでもある。その意味では、収奪と採掘・抽出は重なり合わさるような形で顕在化してきているようにみえる。

 そうしたことと関連して、たとえば、「資本による採取的オペレーション(extractive operations)は現在の資本主義の特徴的性格の一つであると同時に、それは様々な形態をとって立ち現れている」という、サンドロ・メッザードラがブレット・ニールソンとの共著『オペレーションの政治(The Politics of Operations)』で提示している見方がある。メッザードラはマルクス『経済学批判要綱▽グルントリッセ△(『資本論』一八五七―五八年草稿)』の独特な解釈を通じて経済還元主義に距離をとりながら革命政治的主体性を強調するイタリアのオペライズモ(労働者主義)、アウトノミアの流れを受け継ぎ、独自の政治社会学的考察(その中には移民による境界の脱構築可能性の探求といったものも含む)を展開していることで知られるが、彼の採取に関する見立ては、(先述した搾取と収奪、採取の位置付けについては見解がわかれるものの)サスキア・サッセンの放逐(expulsions)やデヴィッド・ハーヴェイの略奪による蓄積(accumulation by dispossession)といった表現にもあらわされる現在の資本制社会の特徴とも重なり合うところが多い。それはまた産業資本によって「搾取し続けるために生かしておくべき労働者」として扱われる者に対する金融資本によって「死ぬまで収奪し尽くすべき奴隷」として扱われる者といった類型的対比を使いながら、後者の現代的顕在化を鋭く指摘していた廣瀬純の見立て(メッザードラとの対話も含む『資本の専制、奴隷の叛逆』に提示されているもの)ともオーバーラップしよう。資本による採取主義(extractivism)の新たな段階という問題は、もちろん気候変動を含む地球環境問題の深刻化といった形でも現れているし、あらゆる局面における金融化(financialization)とそれを通じた債務による奴隷化といった問題、さらにはデジタル情報社会におけるデータ・マイニングといったものに象徴されるようにデジタル・コモンズの囲い込みと収奪といったヴァーチャルな次元にまで波及している。

 そうした採取的オペレーションのアクチュアリティが示していることは、マルクスが本源的蓄積(ないしは原初的蓄積、primitive accumulation)と命名したものは過渡的な歴史(資本の前史)ではなく、資本主義の危機のたびに間歇的に現れる同時代的現象であるということであろう。植民地制度などの「組織化された暴力」が封建的生産様式から資本制的生産様式への編成替えを促す産婆役であったと指摘したのはマルクスであるが、そうした本源的蓄積を推進する暴力の行使(オペレーション)は現在、新たな形で展開しているとも言える。それは時には「対テロ戦争」という名目の下でジハード主義と対峙する形で、さらには資本主義の危機の表出としての右翼ポピュリズムによる反移民の動きとも連動しながら、いわゆるグローバル内戦という形で推し進められてきている。メッザードラと同じくアウトノミアの系譜にあるマウリツィオ・ラッツァラートらも『戦争と資本』の中で指摘しているように、世界内戦や社会の全面的軍事化を介する形で、資本の本源的蓄積は新しい形態で推し進められているということだ。また付言すれば、フロンティアの消失に伴う宇宙開発競争や一帯一路構想等のグローバル・サプライ・チェーン(ロジスティクス)をめぐる覇権競争など、米中対立の深まりが示しているのは、ヘゲモニー・サイクル(コンドラチェフ長期波動)の移行期における武力衝突の発生という可能性の高まりであり、それはまた資本の暴力的な本源的蓄積の新たなステージを準備しているかのようにもみえる。

 振り返って見れば、本源的蓄積を推進する暴力が切り拓く非資本主義的世界という「外部」が資本の延命の為に常に必要であることを指摘したのはローザ・ルクセンブルクであった。しかし、たとえば、グローバル・シティ内部で進む都市再開発、時には暴力を伴ったスラム地域のジェントリフィケーション等の創造的破壊に見られるように、現在の採取的オペレーションにとっての「外部」とは必ずしも世界システムのペリフェリー(嘗て第三世界と呼ばれた地域)とは限らないのが、現代の採取主義の特徴である。資本にとっての時空間におけるフロンティアは、さまざまな形で、さまざまな次元に拡張されている。たとえば、サブプライム・ローンのように現在支払うことができないのであればローンさらにはそれを担保にした債券という形で未来の時間を売らせるように金融資本によって時間におけるフロンティアが拡張されているし、バイオ・キャピタルによって特定の遺伝子配列さえ特許の形で知的財産制度というレント経済の仕組みに組み込まれるようになっている。フロンティアの無限拡張と資本による絶え間ない「外部」の包摂という現実は、メッザードラも頻繁に引用している『グルントリッセ』の一節、「資本は、自己の制限をのりこえようとする、制限も限度ももたない衝動である」を想起させる。

 しかし、資本による非資本主義的領域の限りなき包摂といったオペレーションは、二一世紀に入って、その「外部」自体の有限性という現実を前に頓挫しつつある。人間を含む地球システム(ガイアという喩えも使われる定常的開放系)を採取し過ぎた結果、気候変動をはじめ、システムそのものの破局的危機の兆候が顕在化してきている。そうしたことを通じて、資本の構成的外部が無限に湧き出てくるものではないことが明らかになりつつある。人間以外の動植物やモノに対する過度な採取主義、その背後にある極度の人間中心主義(anthropocentrism)が、ブローバックする形で人間社会そのものを破局へと導いている。たとえば新型ウイルスによる波状的パンデミックもまたフロンティアの乱開発に伴う未知のウイルスとの遭遇を契機とするものと言われているように、抽出主義の意図せざる帰結は、さまざまな形で現れてきている。いわゆるリベラルなガバナンスにおける言説政治では、「持続可能な開発目標(SDGs)」といった自家撞着的レトリックによって、そうした不都合な真実を覆い隠そうとしているが、それは、ある意味で「資本の構成的外部は無限である」という信仰から依然として自由になれないことの現れとも言えよう。
 少し脇道に逸れるが、資本制社会(資本主義)という問題を抜きにして、人間がその技術をもって「自然」から過酷に採取する傾向があることに着眼した者の一人としてハイデガーがいたことにも触れておきたい。「技術への問い」の中で、彼は、技術に関する中立的道具説を斥けながら、ある種の技術=独自存在論(substantive theory)を展開しながら、次のように述べていた。


 現代技術をくまなく支配している開蔵[Entbergen]は、いまやしかし、ポイエーシスの意味での〈こちらへと―前へと―もたらすこと〉としてその働きを展開することはない。現代技術のうちに存する開蔵は一種の挑発[Herausfordern]である。この挑発は、エネルギーを、つまりエネルギーそのものとして掘り出され貯蔵されうるようなものを引き渡せという要求[Ansinnen(無理難題)]を自然にせまる。(『技術への問い』関口浩訳、平凡社、二〇〇九年、二三頁)


 もちろん、ハイデガーは、「水素爆弾が爆発することなく、地上での人間の生命が維持されるとき、まさにそのときにこそ、アトミック・エイジとともに世界の或る不気味な変動が始まる」と述べるにとどまり、たとえばイリイチのような独特の異端派的カソリシズムに立脚した反時代的な現代技術・文明批判にも踏み込まなかった。しかし、「開蔵」という彼の造語を、メッザードラらの採取主義という視座に接続させながら、現代の状況をみると、その西洋独自の人間中心主義的世界観が加速した資本回転の採取主義により、さらにグレードアップした構図が見えてくる。

 その飽くなき採取(「開蔵」)主義が現れている最近の現象として象徴的なものの一つは北米で広く行われるようになっているフラッキングによるシェール・ガス採取であろう。フラッキングは地下水の汚染など深刻な環境問題を引き起こしていることは広く知られるようになっているが、先述した『オペレーションの政治』の共著者でもあるブレット・ニールソンは、『消尽というデザイン(Depletion Design)』という用語集の中で、「フラッキングは、「石油の終焉はカーボンの終焉を意味しない」とするファンタジーであり、消尽のためのデザインであるだけでなく枯渇したデザインである」と痛烈な批判を加えている。しかし、そうした批判など、全く意に介さない政治的勢力が厳然として影響力を行使し続けているのも、もう一つの現実である。たとえば、二〇二〇年末の米国大統領選挙の最終テレビ討論会で、トランプ大統領(当時)が、「石油産業を破壊しようとするバイデン候補」という印象を強めようと、「フラッキングを禁止する」という言質をとろうと躍起になっていたのは、まさに採取主義の一側面を垣間見せるものであった。気候変動問題に対するトランプ政権の対応のように採取主義的オペレーションに依存する既得権益集団は自らの利益に合致した信条体系を頑なに守り不都合な真実を認めない。そのため、彼らの存在が過度な採取主義を是正することの大きな障害となっているといった、とても厄介な政治的現実が我々の前に立ちはだかっている。

 だが一方で、採取的オペレーションは環境破壊などを通じて先住民の権利を実質的に剥奪することもあり、ダコタやキーストーンなどでのパイプライン建設反対運動の例に見られるように各地でさまざまな強い抵抗に遭ってもいる。収奪を通じた奴隷化の趨勢は、逆に、コモンズの死守という形での叛乱を引き起こしている。換言すれば、過度な収奪ゆえに、資本制社会による構造的規定を攪乱する形でカウンター・オペレーションを主導する多様な政治的主体性が立ち上がりつつある。それは、かつて炭鉱労働者や鉄道労働者らが立ち上がってロジスティクス(物流)を一時的に止めることで産業資本に揺さぶりをかけた「カーボン・デモクラシー」(ティモシー・ミッチェル)の一齣も想起させる。資本のオペレーションは必ずしも構造的規定として抑圧的に働くだけではなく、民衆の主体性を通じた自発的な叛乱を思いがけないさまざまな形で引き起こす。それが脱成長的(定常的)システムを志向するポスト資本主義社会への移行を推し進める可能性もあるであろう。しかし、一方で脱成長といった政治的オルタナティブへと転換する力が及ばず資本の採取主義に歯止めがかからなかった場合、破局へと突き進む可能性もある。いずれにせよ資本による新たな囲い込み、過度な採取主義から(人間のみならずノン・ヒューマンをも包摂した)コモンズの関係性を守るとともに新たに構築していくことができるか否かが今後の趨勢に大きく影響することは疑いない。ハイデガーが言っていたのとは全く別な意味で「世界の或る不気味な変動」が起きつつある。

*本稿の修正にあたり北川眞也氏(三重大学)より有益なコメントを戴いた。

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