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『思想』2021年3月号【特集】ナショナル・ヒストリー再考――フランスとの対話から

◇目次◇


思想の言葉………岸本美緒

特集「ナショナル・ヒストリー再考」にあたって………高澤紀恵

第1部 『世界の中のフランス史』――紹介・対話・応答
序 フランス史を開く………パトリック・ブシュロン
1789年 グローバル革命………アニー・ジュルダン
1832年 コレラのフランス………ニコラ・ドラランド
〈訳者解題〉現代フランス論から読む『世界の中のフランス史』………三浦信孝
〈講演〉『世界の中のフランス史』――プロジェクトの起源,受容,展望………ニコラ・ドラランド
『世界の中のフランス史』と植民地――「新しい市民」の視点から読む………平野千果子
アナール学派とナショナル・ヒストリー………原 聖

第2部 ナショナル・ヒストリー批判を超えて――日本の状況から
第2部 まえがき………成田龍一
生徒と創る「歴史総合」――ペリー来航の年号から時代を立体的にとらえる………水村暁人
『世界の中のフランス史』から「日本史探究」へ――「〇〇〇〇年 コレラの日本」を考える………山田耕太
〈対談〉ナショナル・ヒストリーと,その向こう ………成田龍一・岩崎 稔

哲学の家郷性と自由の国への助走――ヘーゲルの主体性思想(1)………山口祐弘

 

◇思想の言葉◇

「他者」から読むナショナル・ヒストリー

岸本美緒


 四名の編者を含む一二二名の執筆者の共同作業の成果として二〇一七年に出版された『世界の中のフランス史』という大部の書物が、一年足らずで一〇万部以上を売り上げる成功をおさめたことは、近年のフランス出版史上の「事件」として、驚きを以て迎えられたという。本特集では、その内容や背景について様々な方面から紹介・評論が行われることになっている。歴史学の研究成果をどのように社会的に開かれた形で発信し、広範な読者に届けるかということは、日本で中国史研究をしている私のような者も含め、多くの歴史研究者にとって喫緊の関心事であり、その意味からも、『世界の中のフランス史』の成功は、フランス国内の「事件」に止まるものではないだろう。

 本特集所載の同書序文(パトリック・ブシュロンによる)の訳者解題で三浦信孝が述べるように、編集を主導したブシュロンとニコラ・ドラランドが企画のねらいや背景について述べた論文「ナショナル・ヒストリーとワールド・ヒストリー―二一世紀にフランス史をどう書くか?」の冒頭で、彼らは「グローバリゼーション時代の今なおナショナル・ヒストリーを書くことは可能か?」という問いを立てている。彼らの答は「もちろん可能である。ただし今までとは異なるやり方で」というものなのだが、この問いのみを取り出してみたとき、その背景を知らない読者は、やや不可解の感を抱くのではないだろうか。

 その理由は一つには、グローバリゼーションが往々にしてナショナルな自意識を強化するということは、我々にとって常識といってもよい事柄だからである。グローバリゼーションが国境を超えた「世界市民」意識を生み出すという展望を当為として主張することは可能だろうが、実際には、地球規模の経済的格差や政治的対立、文化的摩擦などに対する不安感や焦慮は、多くの場合、ナショナルな対抗意識となって現れる。その現実を否定し、そうした不安感や焦慮を「誤り」だとして切って捨てることは、誰にもできないだろう。上記の問いは、グローバリゼーションの時代におけるナショナル・ヒストリーの衰退を、本来の趨勢として前提しているように取れるので、一見いささか現実離れした印象を与えるのである。

 第二の疑問は、あえてナショナル・ヒストリーを目指さなくても、ほかに多様な歴史の書き方があるのだから、それぞれの研究者が好きなやり方で自由に歴史を書けばよいのではないか、というものである。フランスの歴史学は、ブローデルの『地中海』からル・ロワ・ラデュリの『モンタイユー』まで、広狭様々な範囲の視点をもつ歴史叙述がそれぞれに広範な読者の心をつかみ得ることを、世界の歴史学界に示してきた。とするなら、なぜわざわざ開口一番、「ナショナル・ヒストリーは可能か」と問わなければならないのか。

 しかし、この論文を読み進めるうちに、これらの疑問は次第に氷解する。ナショナル・ヒストリーを世界に開かれた新たなやり方で書くという彼らの試みは、「学問」としての歴史学の内部で新しい方法を追求するというよりはむしろ、現代のフランスの具体的な政治状況にどのように関わってゆくか、という生々しい政治参加の方向性を持っている。ナショナルな枠を軽々と超え出てグローバルな歴史を書くという、現在の歴史学界でトレンディな方向でなく、あえてフランスの一般の人々の心に訴えかけるナショナル・ヒストリーとして世界に開く、ということが、一国史的な「国民の物語」とナショナルな枠を消し去った世界史との中間の道を開こうとする彼らの挑戦であり、その可能性が問われなければならない所以なのである。

 一般に我々日本の研究者が、グローバル・ヒストリーや様々な方法上の「転回」など、海外の―ということはおおむね「欧米の」と言い換えられるのだが―歴史学の新動向に注目する場合、それらはある程度直接に「学ぶ」ことの可能な方法としてとらえられていたといえよう。すなわち、それらの新動向に直接に「キャッチアップ」しようとするか、或いは若干の保留付きで対処しようとするかはともかくとして、それらはアカデミックな学問の領域で移植することが可能な方法論として注目されてきたのである。しかし、『世界の中のフランス史』は、そのような意味での新方法というわけではない。

 むろん、先史時代から現代まで百数十の年号を選び、それぞれの項目を担当する多数の著者が、単線的で一国的な「国民の物語」の枠を踏み越えて、世界につながる様々な脈絡を魅力的に語ってゆく、という本書の方法は、斬新なものであり、他の国でそれを模倣することは容易であろう。実際に、本書出版以来、イタリアをはじめ、オランダ、スペイン、ドイツなど多くの国で同様の企画がなされてきたという。しかし、編者たちは、それが歴史学の方法として「新しい」ということを標榜しているわけではない。むしろ、アカデミズムの世界では「国民国家」の枠や「方法論的ナショナリズム」に対する批判は耳慣れたものであること、そして、歴史学におけるトランスナショナルな視点という点で、フランスはアメリカ合衆国やドイツなどの諸国に比べて遅れを取っているということは、編者自身が認めるところである。

 本書の目的は、アカデミズムのなかの先端競争ではなく、フランスの現今の政治状況に即して、閉鎖的で排外的なナショナリズムの潮流に抵抗すること、そのために、可能な限り広範な一般読者に、より開かれた―国境を越える広がりというばかりでなく、多様な見解を可能にする柔軟さという意味で―アイデンティティのあり方を支える歴史像を届けようとすることであるとされる。そのために本書は、ナショナリスティックな「国民の物語」に対するアカデミズムの立場からの正面からの論難という形をとらず、また否定的印象を与える抗争や植民地支配に伴う暴力などを強調することを意識的に避け、学術的水準を保ちながらも一般読者に楽しんでもらえる親しみやすい叙述を目指したという。編者の意図通り、本書を構成するそれぞれの文章は、外国人にとっても―私が読んだのは英訳に止まる―が新鮮なテーマでかつわかりやすく、興味をもって読めるものである。しかし、こうした編集意図自体が、現代フランスの政治状況や歴史認識のあり方といった具体的なコンテクストに即して工夫された一種のタクティカルな性格を持つものであるため、それを正確に理解することは、現代フランスの政治・社会状況に詳しくない者にとっては、アカデミックな歴史書に比べて却って難しい面もあるといえよう。その意味で本書は外国の読者に、フランスのナショナル・ヒストリーの独特なあり方についての理解をうながす。そしてそれは同時に、それでは翻って我々の状況はどうなのか、という問いを誘発する。

 現在のフランスで、単線的で一国的な栄光の歴史を語るような「国民の物語」が大衆的歴史認識の根幹をなしているとすれば、アジアの諸地域ではどうだろうか。たしかに、ほとんどのアジア諸国でも、ナショナル・ヒストリーの隆盛は疑いを容れないものである。しかしそれは、即自的で自足的なナショナル・ヒストリーというよりは、西洋の衝撃或いは植民地経験といった契機と切り離せない。そして多くの場合、それらは様々な形で―大衆的歴史認識の表層には必ずしも直接に表れないものの―それ自体のなかに強度のストレスを内在させている。

 例えば、中国の場合を見てみよう。二〇〇〇年以上に及ぶ帝政時代の中国において、歴史学は学問の重要な一部をなしており、無数の歴史書が書かれたが、そのなかでスタンダードと見なされたのは、王朝を中心点として描かれる紀伝体の史書、特に二十四史と総称されるいわゆる正史であった。それは、皇帝の統治及びそれを支える文武官僚や諸制度に重心を置くものであったが、同時に周辺諸民族の伝(外国伝)も含み、その扱う範囲は、当時認識されていた「世界」に広がっていた。そのような伝統的歴史学の否定とともにナショナル・ヒストリーが提唱されたのは、清朝末期、二〇世紀初頭のことであった。

 「「中国史(ナショナル・ヒストリー)」の概念をはじめて中国で定義づけた本格的論説」(岡本隆司他編訳『梁啓超文集』岩波文庫、二〇二〇年、一四七頁、石川禎浩解題)とされる一九〇一年の「中国史叙論」で、梁啓超は、二十四史に代表される従来の歴史学が王朝の歴史であって国民の歴史でなかったことを批判し、また前年の「中国積弱遡源論」でも、「わが国民の大患は、国家の何物であるかを知らないことであり、したがって国家と朝廷とを混同し、しだいに国家を朝廷の所有物とみなすに至っている。これはまことに、文明国民の脳中では夢想だにしないことである」と論難している。日清戦争での敗戦を経た一九世紀末から二〇世紀初めは、列強による中国分割の危機感が知識人を強くとらえた時期であり、中国の「積弱」の原因の探究とその克服をめざす、という課題のなかで、梁啓超は新たな歴史学を提唱しているのである。それは当初より「国民」を覚醒させるという強い指向を持っていた。

 梁啓超は、その新たな国民の歴史を「中国史」と名付けるが、それでは彼の言う「中国」とは何なのであろうか。彼は、上記の二篇の文章中で「従来我が国には国名が無かった」という有名な論を展開する。支那、震旦などというのは、他族の人による呼称であって、わが国民が自ら命名したものではない。秦漢隋唐宋元明清などはみな王朝の名であって国名ではない。それらに代えて「中国」史という呼称を採用するのはやや尊大な印象を与えるかも知れないが、民族が各々その国を貴ぶのは現在の世界の通義であり、わが同胞が名と実の関係を深く洞察してくれれば、それも精神を奮い立たせる一つの道であろう、と。ここで梁啓超は、歴史上「漢人の高い文明が及ぶ範囲」といった漠然とした意味で使われていた「中国」という語に明確な空間的輪郭を与えるとともに、それを支える気概をもつ団結した「国民」を作り出すことをめざした。ただその輪郭は、梁啓超が明確に意識していたかどうかはともかくとして、漢文化の範囲を超え、彼にとっての「我が国」、すなわち清朝の広大な版図に重ね合わされることとなった。このことは、歴史的にそうした漢文化の外にあると見なされてきた人々(統治者である満洲人はもとより、モンゴル、チベットなどの人々)を含む清朝治下の諸地域が「中国」のナショナルな枠に包含されることを意味した。

 清末以来のこうした「中国」の枠を受け継いだ現在の中華人民共和国において、ナショナル・ヒストリーの語り方は、大きなゆらぎを伴って推移してきた。漢人ナショナリズムが表に出ていた一九七〇年代までは、例えば満洲人の清朝は中国(漢人)社会の発展を抑圧した異民族王朝として否定されるのが常であり、「康熙帝の統治にも見るべきところがあり、是々非々で評価すべき」(劉大年「論康熙」一九六一年)といった今日の目から見れば当然すぎる議論が、特異な説として論争を呼ぶような状態であったのである。

 その後、改革開放政策の進展とともに、中国政府の政策は、現在の中国の不可分性を強調し、多くの民族を含む「中国」の統合が歴史的基礎を持つものであることを主張する方向へと転換した。それに伴って、清朝に対する評価も逆転し、特にその盛期の一八世紀は、清朝がその優れた政策によって多民族統合を実現し、世界に冠たる大帝国を築いた中国史上まれに見る栄光の時代として評価されるようになった。それは政府や学界のレベルに止まるものではなく、一般庶民のレベルにおいても一九九〇年代以降、「清宮戯」すなわち清朝皇帝や皇族を主人公とする時代劇テレビドラマが、相当に荒唐無稽なものも含めて爆発的人気を得るという状況を生み出した。

 満洲王朝である清朝の成功という観点からすれば、多民族的「中国」の統合の基礎となるものは、漢文化のエスニックな内容からは切り離された、より抽象的な何等かの理念であると考えられるかもしれない。しかし実際には、現在の中国の主流的見解において、清朝の成功の理由は、満洲人の為政者が漢文化を積極的に取り入れ「中国化」したという点に求められている。一方、この二十数年来の欧米(特にアメリカ合衆国)の清史学界では、このような「漢族世界中心の語り」に挑戦して、むしろ清朝為政者の非漢族的性格に多民族統合の鍵を見出す見解が注目を集めてきたが、このような「新清史(New Qing History)」の潮流に対して中華圏の歴史研究者(大陸のみならず台湾出身の学者も含めて)が時として示す反発の強さは、外国の観察者をしてややたじろがせるほどである。「新清史」の主張が、清末の西洋列強による中国周辺部進出や戦前の日本の「満蒙は中国に非ず」論と重ね合わせて批判されることもある。「清史」をめぐる問題が、単なる学説上の対立ではなく、まさに政治的な問題であることは、研究者の共通認識となっている。

 現代中国の「ナショナル・ヒストリー」は、その内部に激しい緊張を内在させている。その緊張は、単純な閉鎖的エスニック・ナショナリズムと開放的な世界史的視野との対立ではない。むしろ、伝統的な政治体制のもつ開放性と、外部世界の圧力のもとで作り上げられた「中国」の枠との間のきしみが、その緊張を生み出しているのである。多民族統合の基礎として、政府は漢族のエスニック・ナショナリズムを直接表に出すことはできない。といって、エスニックな多様性を超えた何等かの明確な理念―フランスの「共和国の理念」のようなもの―があるわけではない。多民族を含む領土の保全は、現在の中国の為政者から見て、疑う余地のない「核心的利益」として守られなければならないが、それを基礎づけるものは、漠然とした「歴史」のなかに求められざるを得ない。

 そのような中国の状況と対比すると、日本の「ナショナル・ヒストリー」は、また異なった形の問題をはらんでいた。梁啓超が中国の旧歴史学を批判した「朝廷あるを知りて国家あるを知らず」という語は、例えば福沢諭吉『文明論之概略』(一八七五年)の「(すべ)てこれまで日本に行わるる歴史は、ただ王室の系図を詮索するものか、あるいは君相有司の得失を論ずるものか……大抵、これらの箇条より外ならず。……概して言えば日本国の歴史はなくして、日本政府の歴史あるのみ」(岩波文庫版、二一七頁)という旧歴史学批判とほぼ変わりはない。ただ、梁啓超のいう「我が国に国名無し」問題は、日本ではほとんど認識されることはなかった。そのことは、福沢が極めて自然に「日本国の歴史」という語を用いていることからも察せられよう。「日本」という国号がスムーズにナショナル・アイデンティティに接続できたのは、王朝交替に伴う国号変化を経験しなかったということもあるが、中国という強大な隣国が常に意識されていたことも大きな理由といえよう。梁啓超にやや先だって「我が国に国名無し」と論じた黄遵憲は、その理由として、「余の考えるに、我が国は古来一統なれば、故に国名無し。国名とは隣国に対するの言なり」(『日本国志』巻四、鄰交志上一、一八九五年)と述べている。中国では近代に至って初めて、強力な他国の存在を認識するなかで「中国」が国名として浮上した。それに対し、「日本」の場合は、もともと「異国(あだしくに)にしめさむため」(本居宣長「国号考」)に古代に作られた国の名前がそのまま近代へと接続していったのである。

 「国民」の歴史としての「ナショナル・ヒストリー」が日本で出現したのはいつからか、といえば、それはやはり明治以後ということになるのだろう。しかし、ナショナリズムの基底に「忘れえぬ他者」―すなわち自己を主張する際に必ず引き合いに出される愛憎半ばする一種のオブセッションとしての「他者」―が存在することを指摘し、近世日本の国学における中国をその好例とする三谷博の議論は説得力のあるものである(『愛国・革命・民主―日本史から世界を考える』筑摩選書、二〇一三年、第2講)。

 近世以前の日本においては、「忘れえぬ他者」はもっぱら中国であったのに対し、一九世紀半ば、開国以後は、その役割は「西洋」へと移行した。しかし、「忘れえぬ他者」の一つとしての中国に対する愛憎半ばする意識は消滅したわけではない。日本の歴史学(或いは日本論)は、「西洋」に学びつつ対抗し、また中国を中心とする「アジア」から離脱すると同時に強引に連携しようとする、複雑な自意識のなかで展開した。西洋を参照軸としつつも、日本史と東アジア諸地域の歴史との共通性に着目するのか、或いは中国や朝鮮とは異なる日本の歴史の独自性を強調するのか、そしてそれらをどのように評価するのか、といった問題は、戦前・戦中から今日に至るまで、日本の歴史学の底流の一つとして存在し続けている。その錯綜した過程をここで簡単にまとめることは不可能だが、例えば二〇一一年に出版されて話題となった與那覇潤『中国化する日本』(文藝春秋)は、くだけた文体もあって一見戯作風の読物とも見えるものの、百年来のこうした議論の問題関心が今日の広範な読者にも刺激を以て受け取られることを示したものといえよう。「日本(史)とは何か」という問いは、必然的に、広い世界との対抗や比較の切実な意識を伴っており、仮にそれが尊大な日本中心主義として現れたとしても、即自的・牧歌的なエスノセントリズムというわけではなかったのである。

 中国や日本のナショナル・ヒストリーの形成過程に内在するこうした緊張と屈折は、おそらくあらゆる国のナショナル・ヒストリーに見られるものなのであろう。むろん様々な違いが存在することは疑いなく、例えば「フランスにおいて「忘れえぬ他者」的存在はあったのか」といった問いを立ててみることもできるだろう。ブシュロンとドラランドの論文を読むと、フランスで受容されている「国民の物語」は一見、かなり単純素朴で一枚岩のようにも見える。しかしこれは言うまでもなく私の知識の不足によるものであり、或いはまた、『世界の中のフランス史』編者たちのタクティクスの一環として、そのように描かれているのかもしれない。

 現在の世界は、多数の国々のナショナル・ヒストリーがせめぎ合う場である。グローバル・ヒストリーの潮流は、そのなかで経済的・学術的優位にある国々に主導されてきたものであり、それは一九世紀のイギリスの経済的覇権に基づく自由貿易主義を想起させないでもない。これらのナショナル・ヒストリーは、往々にして頑なで閉鎖的であり、自己賛美的である。外国史を専攻する研究者は、そのなかに、頑固な他者を見出すとともに、その背後にある一種の切実な感情を感じ取り、緊張を伴った居心地悪さの中に置かれる。「世界に開かれる」ことに伴う衝突の感覚は、必ずしも快いものではない。

 『世界の中のフランス史』は、「他者」の視点を組み込み、「違和を感じさせる(dépaysant)」語りによって、居心地のよい自足したストーリーから一歩踏み出ることを目指している。ただそれは、広範な読者にとって楽しい刺激を与える適度な他者性と違和感の範囲に巧妙に止められている。そこに、『世界の中のフランス史』という試みのもつ慎重な工夫と熟練した技があるのであろう。

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