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『思想』2021年5月号

◇目次◇
 
思想の言葉………市田良彦  

国家と不平等――野蛮と文明の人類学………松村圭一郎
メランコリーの織物――〈写真小説〉論にむけて………塚本昌則
〈宗教的なるもの〉の異相――ヴィシュワナータン『異議申し立てとしての宗教』補遺………三原芳秋
グラムシアン・モーメント――グラムシにおけるヘゲモニーと市民社会を再考する………千野貴裕
情報社会の生成と構造――サイバネティックス運動の理路(下の一)………大黒岳彦
正義の女神アストライアの峻険な小径――ヴィーコの『普遍法』を読む(4)………上村忠男
 
 
◇思想の言葉◇
「思想の言葉」あるいは言説なるもの
市田良彦

 なにか書いてくれませんかと依頼され、とまどう。「思想の言葉」、なんと大仰な。私にあらためて口にすべきどんな思想があるというのか。思想なんてものはもうSNSでのつぶやきに任せておけばよいではないか。人類の集合的知性が勝手に生産し、勝手に淘汰してくれるではないか。

 そんなふうに思ってしまったのは、ここ数年共同研究の一環で私としては何十年かぶりにフーコーの著作に耽溺してきたからである。共同研究の成果はこれも単刀直入さによって大仰に響くかもしれない名前―『フーコー研究』―を冠した大著として、岩波書店から刊行されたばかりである。その分厚さ、執筆者の多さが私にはSNS空間のパロディのようにも感じられてしまう―よってたかって少しずつ。けっして同僚たちを貶めているのではない。「誰が語ろうとよいではないか」、フーコーが有名にしたと言っていいベケットのこの言葉のせいである。SNSはおろか共同研究にさえ、もはや「作者」はいないのかもしれない。しかし、これがフーコーの予見した「人間の死」のありようだったのか。

 そんなふうに思えたのは、彼の反人間主義的な「考古学」―六〇年代の自著群にフーコーが自ら被せた主題名である―をめぐってばかりではない。八〇年代つまり晩年の彼が問題にした「パレーシア」についても、私は現代にそのパロディを見ずにいられなかった。「パレーシア」とは「真実を語る」という意味のギリシャ語である。フーコーはその歴史にスポットを当てることで、人間が自ら「主体」になっていく技術について考えた。つまり他者から、煎じ詰めれば「権力」から、主体にされるのではない可能性を探ろうとした。しかし、「パレーシアスト」=「真実を語る人」の系譜のなかには、フーコーの仕事を振り返ればおなじみの「狂人」たち(ルーセル、ヴォルフソン……)や、古代ギリシャのソフィストたち、一八世紀フランスの反動貴族だった歴史家も含まれる(詳しくは論集所収の拙稿「ソフィストはいかにしてパレーシアストになったか」を参照)。「パレーシア」の一語に含まれる「真実」はほんとうの「真実」である必要はまったくなく、嘘でも偽でもかまわないのである。「私はほんとうのことを言うのだ」と言ってなにかを語りはじめる言表行為の機能を、フーコーは問題にしている。だとすれば、現代のパレーシアストとはドナルド・トランプのような人のことではないのか。彼はこう語って大統領になったようなもの―「アメリカの凋落は移民と中国のせいだ、それが真実だ!」。Qアノンの説くところによれば、トランプは権力を裏で操る悪の秘密結社と戦うヒーローであるそうだが、史上最初のパレーシアストである女性、クレウサもまた強姦という不正を働いた神アポロンと戦った。共同研究の時期はちょうど「ポスト・トゥルースの時代」が云々されはじめたころで、「ポスト・トゥルース」がたんに「平気で嘘を言ってよい」ではなく、「ほんとうのことを言う」パフォーマンス―言語行為だ―こそ重要という意味であるなら、現代は紛れもなく「パレーシアの時代」であろう。もちろん「我々は九九パーセントだ」と言ってウォール街を占拠した人々もまた「パレーシアスト」である。

 しかし共同研究の年月は、言説空間としてのSNSや「真実」のインフレに思想のパロディを感じる以前に、ミシェル・フーコーとはなんと食えない人であることよ、と再認識させられる日々であった。「私はフィクション以外書いたことがない」と公言して憚らなかった人について、なにを思想的にまじめに語ればよいのか。現実が思想のパロディのように見えるとは、思想としては一定まとを外したということであるのに、その思想のほうが「これはフィクションですよ」と言っている。なるほど、彼はこれも自ら公言していたように、「私は嘘つきである」と語るソフィストの系譜に属している。その言表を真とみなしても偽とみなしても間違い。フーコー思想をまじめに研究するためにはフーコーを裏切るほかないのだ。少なくとも私(たち)はそうした、と思う。実際、本家フランスを見てもフーコー研究は本人への裏切りによってなり立っている。死後出版なし、という遺言は死後すぐに抜け道を見つけられ、そのおかげで『思考集成』も『講義集成』も私たちは読めている。今日では草稿類の刊行もはじまっているし、国立図書館では手書きのノートをそのまま画像として公開する作業も進んでいる。活字じゃないのだから死後出版じゃない!?

 どうしてそこまでするのだろう。いかにも食えない人であるのに、多くの人々が彼の著作を「食って」きたからである。その影響力をあらためて云々するより、たとえばたった一つの語、「言説」について考えてみればいい。現代では学者世界はおろかメディアでも、あたりまえのように「誰某の然々の言説は……」と語られる。けれども彼のコレージュ・ド・フランス開講講義をまとめた『言説の領界』という本の最初の邦題は『言語表現の秩序』だった。《discours》という語をどう訳すか困ったわけだ。フランス語では日常用語であるとはいえ、フーコー以前に《discours》が主題的に論じられてきた言語学系の書物や論文の邦訳でそれに当てられた訳語はばらばらである。誰かが誰かになにかを語る、という一般的意味が分かったとして、それを彼が「言説形成formation discursive」などという概念にまで仕立てる含意も、「言表 énoncé」という似た語から区別する道理も、それらを解説している『知の考古学』を読んでもなかなか腑に落ちるわけではない。言ってみれば、私たちはフーコーに煙に巻かれているうちに「言説」なる語の使い方だけに習熟したのである。彼は「言説」を私たちの「目の前にある」語にした。その彼は二度目に来日(一九七八年)した際の講演で、単純で日常的なものは隠されている、目の前にあるから隠されていることに私たちは気がつかない、というようなことを語っている。実は出典のある文言なのだが、その出典―ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』―は明かさずに。

 それでも目の前にあるからこそ隠されたも同然の語句(他にも「権力」、「知」、「排除」etc.)を色々と提示したフーコーには、それらを提示した責任を取ってもらわねばならない。それがソフィスト=パレーシアストを自認した者に対する私たちの側の責務ではないのか。というのも、パレーシアとは自己の言表を自己のものであると引き受ける―物であるかのように―言説、これを言うのはまちがいなく、ほんとうに、「私」だと宣言することにともなうリスクを引き受ける言表にして行為だからである。私たちにはフーコーが残した言葉の群れに対し、そこから種々の帰結を引き出す自由と、そもそも彼がどのように「もの=物」的な語や言表と彼の「私」を再結合していたか/いなかったかを探る権利がある。

 フーコーも多大なる影響を受けた言語学者バンヴェニストの議論をうまく要約してドゥルーズ=ガタリが述べたように(『ミル・プラトー』)、人間の「言表」はそれ自体で「間接話法discours indirect」であり、受け取った情報をそれを知らない誰かに伝える機能と、さらに別の誰かに「伝えよ」という指令を含んでいる。しかし誰かが「私はきみに~と語る」と語って、この「きみ」である「私」のほうはなぜ指令を受けたことになり、また別の誰かに同種の指令を発することになるのだろうか。「私はきみに~と語る」と語ることで、「私」は「きみ」に同じ一人称代名詞「私」を使うよう促しているからである。そのような言語的規則に従えと命じている―一人称と二人称の使い方を課している―のである。バンヴェニストによれば、各人が自分を指すのにそれぞれ別の符号を使うようになると、その符号の数だけ「言語」が存在することになってカオスである。それが転換子embrayeurとしての「私」の働きというもの。転換子なる文法カテゴリーを有名にしたヤコブソン(の仏語訳本)によれば、「私」と言うことで人は自分の「私」を他者に「譲っている=疎外しているaliéner」。その機微を理解しない子どもはよくこう言うらしい―「きみは自分のことをぼくと言ってはいけない。ぼくだけがぼくで、きみはただきみなんだ」。若かりしフーコーになじみ深かった「疎外」の用語を当時としてはまだ新しかった言語学に見つけた彼が敏感に反応したであろうことは容易に推測できる。この言語学的知見を彼のよく知っていたヘーゲル哲学流に翻案すれば、人間は「精神異常者aliéné」(=自分ではない者)にならなければ言葉を駆使できない。「主体」は「言説」の働きにより、成立すると同時に失われる。パレーシアストは「私はきみに~と語る私である」とわざわざ強調して、つまり一人称を冗長に、自己言及的に使用して、たんなる言説にすでに含まれているこの本性を明示しているだけだ。「私」から離れた「私」を取り戻し、また、取り戻す身振りにより切り離している。「私」を二人にしている。最晩年のパレーシア論は『知の考古学』への自己言及でもあったわけである。

 こんな例がフーコーにはいくらでも転がっている、と死後出版は私たちに告げる。彼は「言説」を私たちの目の前にある語にしつつ、彼の「私」と既存の、彼と他者の「言表」の結合については多くを語らないままこの世を去った。「言説」と言い続けるかぎり、私たちには私たちなりに両者を再結合させる責務があるのではないか。それが私たちにとってパレーシアストである、ということであるはずだろう。

追記 この文章の初稿を書き終えた後、『フーコー研究』をめぐる公開合評会が開かれた。執筆者三〇名の五九〇頁を通読のうえ講評してくださった重田園江、森元庸介両氏の苦労と重圧はいかばかりであったか。Zoomの画面を眺めながらそれを思うにつけ、私としては飛躍気味に、フーコーには六〇年代言説論から八〇年代パレーシア論にかけて変化もまたあったのだ、と感じていた。誰でもなんでも言えるだろう。広場の真ん中に立って「私は国家総動員令を発する」とすら。しかしそれを言って有効なのは国家元首だけだ。六〇年代のフーコーは有効と無効の分岐点を言説外の「権威」にではなく、「言説形成」の内部に探ろうとした。なにをどう言えば、例えば経済学の言説として耳を傾けてもらえるのか。パレーシア論はこの分岐点を、発話するリスクと勇気に移動させた。学問的「規律訓練」によって習得可能な規則だけでは、言説は通じないのだ。聞いてもらえないかもしれない、通じないかもしれないと知りつつ発せられた言説だけが「真実」の名に値するだろう。それを実感させる場に、「狂い咲く、フーコー」(合評会タイトル)は確実になっていた。

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