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亀淵迪 ヴォスの「駅長さん」 【『図書』1999年3月号より】

 夕方の汽車でペルゲン(ノルウェー)を発ち、六時過ぎヴォスの駅に降り立った。ここを起点に一泊二日の予定で、ソグネ・フイヨルドを見物しようというわけである。ベルゲンの旅行社の作ってくれたプランでは、夕方七時十分ヴォス発のバスで北上してヴァングスネスまで行き、そこから船でソグネ・フィヨルドを渡り、対岸のバレストランドにて一泊。翌日は船でフィヨルドを見物し、再びヴォスに出てベルゲンに帰る、ということになっていた。乗物や宿の費用はすべて前払いし、代りにクーポンを渡されていた。

 ヴォスは人ロ一万くらいの静かな田舎町。バスの出発まで少し時間があるので、駅の近くの教会や湖のほとりをぶらぶらし、七時前には駅前に戻って待機していた。しかし私の待つ「ヴァングスネス行き」のバスは来ない。ひっそりした駅前には「ソグンダール行き」がただ一台、そしてそのパスはちょうど七時十分に出発して行った。それを見送った途端はっとした――あるいはこれが私の乗るべきパスだったのでは、と気付いて。慌てた私は駅長室に駈けこんだ。

 そこには幸い、若くて威勢のよい駅長さんが居て、まさに私の心配は的中、しかもそれが今日の最終パスだと宣告された。私のパスの行先はフィヨルドの手前のどこかの筈、とばかり思い込んでいたのだが、実際は、パス自体もヴァングスネスで同じ船(フェリー)に乗り込んで対岸に渡り、さらに遠方へと向かうのであった。ともあれ、最終バスを逃しては、私の旅行もクーボンもまったくふいになってしまう。

 しかし、とっさのうちに事情を察した駅長さんのとった行動は、迅速かつ適切そのものであった。電話で先ず隣村の郵便局――ここが次のバス停になっている――を呼び出して事情を手短かに説明し、「パスが着いたらしばらく待たせておくように」と依頼、次の電話でククシーを呼び、「これに乗ってバスを追いかけよ、すまないがタクシー代は自分で払ってくれ」と言いながら、呆然と立ちつくしていた私を車に押し込み、自分でドアを閉め送り出してくれたのである。お礼を言う間もなかった。タクシーにて追走すること十分余、隣村には見覚えのあるバスが待っていて、あたふたと私はそれに乗り込んだ。

 このようにして私は予定どおり――その後はつつがなく――旅を続けることができた。翌日、再びヴォスに帰って来たとき、駅長さんはプラットホームで仕事中だった。今度はお礼を言う暇が十分にあり、彼の名はアルネ・ニルセンだと知った。

 

 右は一九六二年六月十五・十六日、今から三十六年以上も昔の出来事である。当時私は、ロンドン大学インペリアル・カレッジで、理論物理学の研究助手をしていた。他方、この年の五月末から六月にかけて、ノルウェーはベルゲンで「素粒子論・国際春の学校」が開かれており、当初は研究室主任のアプダス・サラム教授(一九七九年ノーペル物理学賞)がここで講義することになっていた。しかし彼に急用ができ、代りに私が出向くことになった。自分の好きなことを話せばよいというので、突然ではあったが引き受けた。このときの講師謝礼が必要経費をまかなって十分だったため、では、この機会にフィヨルド見物でも、と思い立った――これが事の始まりである。ニルセンさんとの出会いも、他の多くの場合と同じく、偶然の連鎖の一産物であった。

 さてロンドンに帰った私は、早速ニルセンさんに礼状を書いた。さらに年末にはクリスマスカードも出したが、これには彼からお返しのカードが届いた。以来、今日に至る三十六年間、このカード交換は二人の間にずっと続いている。外国で世話になった人にその年の暮、クリスマスカードを出すことはよくあるが、こうしたカード交換は数年のうちに、どちらからともなく途切れてしまうのが普通である。しかしニルセンさんとの場合は、まさに例外である。お互いに相手のことをほとんど知らないにもかかわらず、なのである。

 ただし双方ともカードには、お決りの挨拶文以外は書いたことがない。おそらく私のほうからは、挨拶文が印刷されたカードに、サインだけして出したことが何度かあったと思う。しかし彼からのものは、つねに全部手書きであった。そして封筒の裏面には、たんに「アルネ・ニルセン ヴォス ノルウェー」とだけあった。実際、こちらからのカードも、そういう簡単な宛先で届いていたようである。駅長さんともなれば、ヴォスでは誰でも知っている名士なのだろう、と私は想像したものである。

 翌六三年に私は、長年の欧州滞在を打ち切って帰国した。以来、ノルウェーは文字どおり遥かな国となってしまい、結局、三十六年もの間再訪することがなかった。もっとも、欧州の他の国々へは仕事のためよく出掛けていたのだが、この北国にまで足をのばす余裕がなかった、というのが実状である。

 しかしこの間も、ニルセンさんは私にとって、一種独特な存在であった。昔の爽やかな印象の余韻が、心に響いて消えやらぬのである。とくに近年は、年のせいでもあろうか、もう一度彼に会ってみたいな、という思いが頻りに募っていたのである。

 ところで昨年の夏、独・墺両国に所用があって渡欧した。それぞれの用事の間に一週間余り時間的余裕があったので、これを利用して、三十六年ぶりのノルウェー訪問を企てた。目的は、もちろん、ニルセンさんとの再会である。体調は万全ではなく、また、ただでさえ冷夏の欧州で、さらに北方へと旅することには些かの不安もあったが、このような機会はまたとあるまいと思い、実行することにした。今回は妻を伴ってではあるが、再会が目的であるから、いっそのこと、昔と同じ旅――同じルート・同じ宿・同じ場所の観光――を再現してみようと思った。言うなれば感傷旅行である。早速ニルセンさんにその旨を伝えると、こちらの希望どおり、「八月三十一日に会いましょう」との返事がきた。

 

 八月三十一日(月) 晴

 このところよい天気が続く、ドイツより暖いので助かる。昼すぎヴォスに藩き、湖のほとりに投宿。直ちにニルセンさんに電話すると、「四時半に私の家に来て下さい。ホテルから歩いて五、六分の所ですから、私が迎えに行きます」とのこと。

 実のところ、三十六年前にほんの数分間会っただけのニルセンさんの顔を、まったく思い出せなかった。しかしホテルに現れた一老人を目にした途端、これがその人だと直感。握手をして名刺を渡し、改めて昔のお礼を述べる。おそらくこの「某大学名誉教授……」と書かれた名刺により、彼は、初めて、私がどのような生業で、どのような経歴の人問であるかを知った筈である。他方、私はといえば、一九六二年当時ヴォスの駅長だったということ以外に、彼についての知識はなかった。

 しかし、ホテルを出て彼の家に向かって歩きながら、新たに次の二つのことを知らされる。町役場の前に来たとき彼の言うには、「六十年代ここで数年間働いた、町長として」と。私が「その頃あなたは駅長さんだったのでは」といぶかると、その答は何と「あなたに初めて会ったときは、駅の助役でした」。これにはまったく驚いた――三十六年間彼のことを、駅長さんだと信じて疑わなかったのであるから。

 確かに、今にして思えば、三十六年前直接彼の口から、「私は駅長です」との言葉を聞いた覚えはない。ただ彼の漂わせている雰囲気や存在感から、こちらが勝手にそう決めてかかっていたに過ぎないーょうである。しかし、だからと言って、三十六年間も大切にしてきた私の思い込みを、そう簡単に改めるわけにはいかない。(本文ではそれ故、以下彼のことを注叙つき・括弧つきの「駅長さん」とすることを、どうかお許し願いたい。)

 ニルセンさんの住まいは、二階建の建物の二階にあるこぢんまりとしたアパート、つつましやかな暮しとみた。居間に通されて驚いた。ニルセン夫人の他に二人の息子さんとその奥さんたち、一族総出で迎えられたのである。

 それぞれに紹介された後、食堂に移り、フルコースのディナーが始まる。老ニルセンが「三十六年前に、もしあなたがバスに乗り損ねなかったら、私たちがこうして知り合うことはなかったでしょう。ともかくヴォスヘようこそ」と述べて乾杯。こちらも続いて「三十六年前のご親切と、三十六年後の大歓迎に感謝します」と応え、杯をあげる。そして、団子入り冷スープや鹿肉サラミなどの珍しいヴォス料理を、自家製のお酒と共にご馳走になった。

 老ニルセンは七十五歳だというが、血色もよく大変若々しい。今でも「駅長さん」が勤まるくらいである。奥さんのソルヴェーグは石磨きが趣味とかで、ヴォス湖の石で作ったループタイとブローチとをいただいた。また二人の息子さんは父親を継ぎ、長男のアスビョーンは町会議員を、次男のテリエは鉄道員をやっているとか。二人とも明朗にして快活、目もきらきらさせている。現在に十分満足し、将来に対しても確かな見通しを持っているらしいことが、その言動から窺える。ともに英語がうまく、食卓での会話をリード。日本のこと、私の研究生活のことなど、次から次へと訊ねてくるが、それを老夫妻がにこにこしながら聞いている。話しながら私は、老ニルセンも若かりし頃は、この二人のようだったに違いない、と感じていた。

 食事の後、老ニルセンが書斎に案内してくれる。壁には家族の額入り写爽が沢山掛かっていて、その説明が始まる。中央に大型のものが二枚あり、「テーブルの正面が国王夫妻、そのすぐ右側が首相の、左側が外相の定席、他は一般の閣僚たちで、ここに居るのが私」と言うではないか。またまた大変な驚きである。O・ノルドリス率いる労働党内閣で二期にわたり自治相(一九七八-七九)と社会問題相(一九七九-八一)を務めたという。町長くらいは予想もしていたが、大臣にもなる「偉い人」だったとは。郵便の宛先が、「ヴォス ノルウェー」で十分だったわけである。

 「終りにヴォスの町や湖を見晴らせる丘に案内しましょう」とのことで、テリエの車で老ニルセンと共に出掛ける。ドライヴの途中、小学校の前を通ると、車の中の二ルセンさんを認めた男の子が、片膝をつき挙手の敬礼をする、とニルセンさんもそっと右手をあげて答礼――こんな微笑ましい情景もあった。

 丘の上から見たヴォスの町は少しかすんでいた。湖の右はじに家々が散在し、そこに私たちのホテルも見える。眺めもさることながら、辺りの、私たちを吸い込んでしまうかのような静けさに圧倒された。丘の道を少し歩くと農家があり、男が二人、立ち話をしている。するとニルセンさんが気軽に語りかけ、話はなかなか終らない。どうやら私たちのことが話題になっているらしい。そこで私もテリエの通訳で、三人の会話に加わった。

 丘を下りてホテルの近くまで送ってもらう。そして「今度は三十六年以内にお会いしましょう」と言いながら握手をし、ニルセン父子と別れた。「明朝はバスを乗り損ねないよう注意します」と、私はさらに二人の後ろ姿に声をかけた。

 別れた後私たちは、えも言われぬ、ほのぼのとした気分になっていた。そして、こういうことがあるから人生は楽しいのだ、と思った。そのままホテルに入るのは惜しいので、湖畔のベンチに腰をおろし、暮れていく湖と山なみを眺めていた。

 喜び、楽しみ、そして驚きの一日……

 

 以上が「ヴォスの『駅長さん』と私」に関する全歴史である。三十六年前の一日本人旅行者としか知らなかった筈の私と、その妻を、このように手厚くもてなしてくれるとは――一家の人びとの心の優しさと豊かさの程を、今もしみじみと思っている。

 帰国して調べたところによると、ニルセンさんは、二十年間(一九六五-八五)にわたって労働党所属の国会議員を務め、この間先にも述べたように大臣になること二回、さらにその後の五年間(一九八一-八五)は、下院(に相当するノルウェー国会の一部)の議長にもなっている。

 このような「偉い政治家」だったというのに、ニルセン家の食卓ではその素振りすら見せず――家族の人たちもまたそのことに触れず――私との関係はあくまでも「『駅長さん』と一旅行者」のままだったのも、私には大変心持よいことであった。このように床しく庶民的なところが、ドライヴの折の情景にも見られるように、彼が町の人たちから敬愛されている所以なのであろう。人柄もさることながら、政治家としての適性も、私との出会いのときに示された彼の行動から窺えるというものである――判断カ・即応性・実行力、そして何よりも他人への思いやり。

 それにしても、ごく小さな出来事から始まった二人の結び付きが、三十六年以上も続いてきたとは、われながら実に珍しいことだと思う。息子さんたちによると、家族を始め周囲の人たちは、私とのことについて、日頃彼からよく問かされていた由である。彼自身も、この「珍しい結び付き」を大切に思っていてくれたようである。そしてこのことが、激職にあるときも、一票の助けにもならない遠い国の人間に、クリスマスカードを書き続けさせたのであろう。

 これらの事どもをまとめ、「政治家アルネ・ニルセン像」を描くとすれば、以下のようになるかと思う。すなわち、たとえ大臣や「下院」議長であっても、それは社会に必要な仕事の―つを、たまたま自分が受持ったに過ぎず、故に少しも偉ぶったりはせず、ただ淡々と日々の任務を果していた――こういう謙虚な政治家ではなかったろうか。現在の生活ぶりも、傍から見て、ごく普通の一市民の老後と何ら変るところがない。三面記事にしばしば登場する、さる国の政治家たちと、何と大きな隔たりのあることか。思うに、ニルセンさんのような政治家をもつ国の人々こそ、まことに幸いなるかなである。そしてそのような国のことを、本当の意味での先進国というのではなかろうか。これが、ヴォスの元「駅長さん」と三十六年ぶりの再会を果して帰国した私の、偽らざる感想である。(この稿を草するにあたり、ArneNilsen氏の政治的経歴その他についてご教示いただいたノルウェー王国大使館広報部に、あつくお礼申し上げます。)

(かめふち すすむ・日本大学・物理学)

このエッセイは『図書』1999年3月号に収録されたものです

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