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堀川理万子「キョーキのキョーチを読む」

 堀川理万子さんが『海のアトリエ』(偕成社)で2021年度Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞されました。絵本では初とのこと。おめでとうございます。
 堀川さんには、ジュニア新書夏のフェア(小冊子、ポスター)に絵を提供していただいたのを皮切りに、ジュニア新書『博物館へ行こう』(木下史青)、『哲学のことば』(左近司祥子)、『図書館へ行こう』(田中共子)などのカバーや章扉にイラストを描いていただいています。単行本でも『77冊から読む 科学と不確実な社会』(海部宣男)の表紙、章扉、最近では『さだの辞書』(さだまさし)の章扉にも素敵な絵をいただきました。
岩波ブックレット『3.11を心に刻んで2019』(岩波書店編集部編)には、今回の受賞作につながる視点が見られるエッセイを、可愛らしい絵と共にご寄稿くださっています。
 そこで、受賞記念として、堀川さんからのご好意で、『図書』2017年10月号掲載の「キョーキのキョーチを読む」を特別にweb公開します。

 

キョーキのキョーチを読む
堀川理万子

 わたしはおもに、テンペラという技法で絵を描いている。
 「テンペラ」といっても、馴染みのない人が多いだろう。テンペラの絵の具は、おもに鉱物性の色粉である顔料と、乳液状の糊(乳濁液という)を、自分で練り合わせてつくる。つや消しの描き上がりと、緻密な表現が可能なことが特長だ。あらゆるモチーフを描くが、ある「描きたい感じ」というものがあり、そこをめざしている(作品を見ていただけたら嬉しいな)。
 絵本もつくっている。『今昔物語絵本 もののけの家』(偕成社)が、六月に出たところ。ふだん、ほとんどの時間はこつこつひたすら制作、そして、考えごと。朝から晩まで、何らかの作業や制作と、数十匹ほどのめだかの世話とで、あっという間に一日が終わる。いまは、来年春の個展のための制作と、めだかの絵本のラフスケッチを練り、ほかの絵本作家たちと一緒に開く、おもちゃ展のためのアイディア出しをし、水彩画の技法書をつくりつつある。頭の中も、アトリエの中も、いつもごちゃごちゃしている。
 そして、一日のどこかに読書タイム。本によっては、紙版と電子版の両方を持っている。そのせいで、最近、本代が増えた気がする。両方をしょっちゅう見るのは『平安時代の文学と生活』(池田亀鑑、至文堂、一九六六年)。いま、おひなさまについての絵本を書こうとしているからだ。文字情報だけで、平安時代の空気が伝わってくる。感動する。
 また、絶版になってしまった愛読書を古書店で見つけると、買わずにはいられない(もちろん値段によるけれど)。W・サローヤンの『パパ・ユーア クレイジー』(れんが書房新社、一九七九年/新潮文庫、一九八八年)は、何冊持っているか数えきれない。若桑みどりの『女性画家列伝』(岩波新書、一九八五年)、芝木好子の『群青の湖』(講談社、一九九〇年/講談社文庫、一九九三年)も、何冊でも欲しい本だ。
 同じ本をそんなに持っていてどうするかって? 出版社や判型違いで、バージョンがいくつかあれば、それらは違う本といえる。たとえ同じ本だったとしても、大好きな本が並んでいるだけで、嬉しいじゃない。ちなみにこれら三冊は、どれも創作について書かれている。
 画家や絵画、創作がテーマの小説や伝記を、好んで繰り返し読む。創作の「苦悩」がうまく書かれていると、心にしみる。よくもここまで描けるなぁ、とうっとりする。

 忘れることができない一冊は、バルザックの『知られざる傑作』(岩波文庫、一九六五年)だ。最初に読んだのは、画家になるかはまだわからないけれど、とにかく表現することを仕事に選びつつある二十(はたち)になりたての頃。読後、愕然とした。「これは恐怖小説だ」と。
 無名時代のフランスの画家ニコラ・プッサン(一五九四―一六六五年)が出てくる。「ラファエロ・ティツィアーノらの手法を学び、生涯の大半をローマで送る。細部まで緊密な建築的構成を持つ画風でフランス古典主義絵画を代表」(『広辞苑第六版』)するという人物だ。しかし、主人公は老大家フレンホーフェル。彼には、一〇年間、ずっと描き続けている絵がある。美しい娼婦「カトリーヌ・レスコー」の絵だ。描いて、描いて、描きまくって、どんどんよくなっていく。そしてついに、プッサンがその絵を見せてもらうときがきた。さて、そこに見えたものは……?
 その絵について語る画家自身の言葉によって、大半が「塗りつぶされた」絵に、彼が描こうとしたものが見えてくるような気がする。しかし、じっさい、絵には「足」しか「見え」ない。それが画家の、一〇年の探求と、歓喜の末の作品だとは! そして、それを見たときのプッサンのきつい一言に、老大家が泣きながら「なんにもない、なんにもない。しかも、十年もかかったのに」と発する。傑作のはずの絵に「足」が描かれていること、その滑稽さがかえって残酷さを浮き彫りにする。描かれたのが「顔」だけなら、ここまで残酷な印象にならないだろう。
 この短い小説の中から銃口がこちらを向いていて、ラストに心を撃ち抜かれる。
 傑作をめざすゆえの画家の孤独な魂と、高みをめざすからこそ迷宮に入り込んでしまう、そのおそろしさを思う。そして途方に暮れてしまう。もし「そこ」に入り込んでしまったら、どうやって出てきたらいいのだろう、その答えはこの小説の中にはない。問答無用的な結末が待っているだけ。答えは自分で見つけるしかないのだ。キビシイ。とてもキビシイ。
 一日五〇杯のブラックコーヒーを飲んだというバルザック。激しい苦みをこの小説にこめている。痛いまでの苦みだ。そして、その救いのない苦みこそが、この小説の華だ。

 もう一冊、芥川龍之介の「地獄変」(『地獄変・邪宗門・好色・藪の中』岩波文庫、一九八〇年など)も忘れられない。名作中の名作。
 良秀というすぐれた絵師がいた。非常に偏屈な男だ。彼には非常に美しく気立てのよい娘がいた。剛毅な気性の大殿様のところに小女房としてあがっている。良秀はこの娘をたいそう大切にしていた。
 良秀は、その大殿様の仰せで地獄絵を描くことになり、憑かれたように取り組み始める。弟子を鎖でしばって転がし、いろいろな角度からスケッチする。ミミズクをけしかけて弟子が逃げ回るところを描く。サディスティックに感じられるけれど、「私は総じて、見たものでなければ描けませぬ」という。画家魂が炸裂しているのだ。
 仕上げに良秀は、燃える御所車の中で、上﨟女房(身分の高い女官)が苦しんでいるところを見せてほしい、と大殿様に頼む。闇色を背景に、御所車の豪華さ、庇の紫のふさ、女の顔の白さ、焔の赤さ、桜の唐衣、金粉のような火の粉、白煙、黒煙などによって、情景が彩られていく。芥川が言葉で絵を描いている! そして、大殿様が用意した恐るべきしかけ――車中で大切な娘が焼かれるのを、まさに目にした良房の反応が、驚愕から徐々に変わってゆく。ただ、見つめている。対象として、モチーフとして、その様をつぶさに見る目にかわってゆくのだ。
 なんという光景だろう。良房に、画家の性(さが)を帯びた血がどくどく流れている。表現を仕事にするって、そういうことだよ、というすごいメッセージに感じられる。そう、創作に打ち込むことは、ある瞬間、「針を振り切る」ことなんだ。情感を捨て、ある種の狂気をかかえて、表現していくことでもあるんだ。

 最初の個展を開いたのは二十代。大学院生のときだった。会社勤めの年長者たちから「絵なんていい趣味ですね」と言われて「趣味じゃないもん、真剣に、仕事としてやっていこうとしてるんだもん」と憤慨した。その後、表現のことで悩んで、これじゃだめだ、だめだ、とやっているが、狂気の境地の手前で、じたばたしている。そうなると、「とにかく創る楽しさを感じていたいな」と思う。
 そんなとき、ローラ・カーリン作の絵本『ローラとつくるあなたのせかい』(BL出版、二〇一六年)が、ほっとさせてくれる。鳥の頭をした象、バナナの汽車、えー、そんなこと習えるの? というような学校が登場する。その他いろいろなことを通して、イメージを表現することについて描いた楽しい絵本だ。そして、深い。楽しいコラージュが続いたあとに、次の文章で締めくくられる。

あしたになったら、わたしは また はじめから、あたらしいせかいを つくれるの。
あなたは、あなただけのせかいを、いますぐにでも、なんかいでも、すきなだけ つくれます。
わすれないで。ひらめきは、いまある くらしを みることから、うまれるってこと。

 読むと、心が解き放たれるようだ。表現は自由だ。わたしの世界はわたしの世界。
 さあ、今日もまた昨日のつづきをやるとしよう。

 (ほりかわりまこ・画家・絵本作家) 

*『図書』2017年10月号掲載

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