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『図書』2021年11月号 [試し読み]落合勝人/鷲田清一

◇目次◇

ミルテを植える……落合勝人  
「残念だが、パーティーは次回にお預けだ」……鷲田清一
〈インタビュー〉『宮崎駿とジブリ美術館』を訳す……ベス・ケーリ、安西香月、田居因
城……柳 広司
コロナ・パンデミックという強制休止……栗田隆子
新出・智月宛芭蕉書簡……藤田真一
父と兄の書棚が招いた変な読書……志茂田景樹
意図せざる出会いの豊かさ……土井隆義
レコードの溝として残っている……片岡義男
森村桂という作家がいた……斎藤真理子
一一月、実りの秋の動物たち……円満字二郎
グレフュール伯爵夫人……青柳いづみこ
ことだまよちよち……時枝 正
最後の戦い……中川 裕
混血と身体の周縁……四方田犬彦
こぼればなし
一一月の新刊案内

(表紙=司修) 

 

◇読む人・書く人・作る人◇

ミルテを植える

落合勝人

 本欄「読む人・書く人・作る人」の命名者は、林達夫だという。二〇世紀日本を代表する知識人である彼は、「読む人・書く人」であると同時に、一流の編集者、「作る人」でもあった。現役の編集者である私は、この人物に興味を抱き、『林達夫編集の精神』(八月刊)に収まる論考を、少しずつ書き進めていた。ある時、四方田犬彦さんにそのことを明かすと、食事会の折に、新聞紙に包んだ数本の挿し木を持ってきてくださった。

 ミルテ(ギンバイカ)だという。元々は林達夫の自宅の庭に植わっていた。生前親交のあった中央公論社の笠井雅洋氏が挿し木を譲り受け、その後、四方田さんの手に渡った。

 林達夫は、庭園をめぐるエッセイの名手だった。花田清輝が評するように、一文一文が上っ面の知識ではなく「実践の裏づけ」の上に成り立っている。ヘボな実践家である私は、いただいた挿し木を、早速枯らしてしまった。寛大な四方田さんは、前より多めに挿し木をくださった。花瓶に入れ一冬置くうちに、大小三本の枝から髭が生えてきた。慣れない手つきで鉢に植え替え、今はどうにか根づきつつある。

 一九三八年の時点で思想を植木に見立てた林達夫は、人文書の庭園を枯らさぬよう、実践的な手仕事に従事し続けた。平凡社『世界大百科事典』によれば、ミルテはアフロディテの神木であり、不死や復活の象徴であり、移民の護符として尊ばれた。そこに編集の精神を見いだすのは過剰な読み込みか。ともあれ、移植した小さな命が育つか否かは、これからの日々の行い次第ということだろう。

(おちあい かつと・編集者) 

 

◇試し読み◇

「残念だが、パーティーは次回にお預けだ」

鷲田清一

 時間の感覚が鈍った? クルってる? 麻痺してる? このところ、そんな思いにふと囚われ、考え込むことがある。
 ふだんより時間の余裕はできたはずなのに、時間があっというまに過ぎる。
 あるいは、時間から顔が失せた。緩急や濃淡に乏しく、なんかのっぺりした感じ。
 どの世代に属すか、どういう職場にいるか、どんな気性かなどで、時間の感覚というのもずいぶん異なるとはおもう。けれども「自粛」ということでいろんな行事やイベントを中止したり、「不要不急」の外出を控えたりしているうち、時間がなんだか平板になったと口にする人が、まわりにけっこういる。わたしにもそんな〝症状〟が出ることがこのところ繁くなっている。


 現実というのはほんらい、いろんなリズムを刻む時間が錯綜しているものだ。内臓の時間、自然の時間、時計の時間、歴史の時間などなど。そのなかでいろんな出来事が「あれもこれも」、「次から次へと」、「ここにもそこにも」と犇(ひし)めく。
 通勤の時間、会議の時間、作業の時間、くつろぎの時間。あるいは、矢のように去る時間、泥のように滞留する時間、予測のつかない時間、いつまでも過去になってくれない時間、緊迫した瞬間の連続……。オン/オフがひっきりなしに交替する。さまざまな出来事が複数の次元で同時に、あるいは少しずつずれて、始まり、終わる。そう、雑然、雑多。複数の時間が絡まり、積層しているのが、わたしたち一人ひとりの現実だ。
 そしてそれらの一つひとつに、さまざまの「折り目」や「節目」といった仕切りが差し込まれている。恒例の季節行事や記念日、始業の日、締め切りの日。それらがしかし、コロナ禍のもとでことごとく延期ないしは中止になった。そしてそもそもそういう仕切りのあったことも思い出しにくくなった。このように「きょうは~をした」と数えられるような行為もわずかになると、時間は表情も律動も失い、のっぺらぼうになる。だからきょうが何曜日かも、あれをしたのは何月だったかも、にわかに言えなくなったりする。
 のっぺらぼうというこの当惑は、表情や律動の消失とともに、いま一つ、時間が宙づり(サスペンディッド)の状態にあることからくる。それは始まりと終わりがないということであり、だから時が滞留し、向かう方向もまた定かではないということだ。
 こうした時の淀みは、具体的な意識としては、生業の再開を辛抱して待つか、廃業もしくは失業をいよいよ覚悟するか、それを決しえないままでいるということであり、また宙づりがついに終わったときも、元に戻ることを意味するのか、戻りえずに別の暮らしへと移行するのか、それも確定的でないということである。未来に希望をつなぐことも、従来のいとなみに幕を下ろす、見切りをつけることもできないという、無様な状態に貼りつけられているということである。
 そういう時間の滞留を打開するためにこそ「折り目」や「節目」が差し込まれてきたはずなのだが、パンデミックは時間のそうした律動をむなしくする。


 昨年の二月、コロナ禍で都市封鎖を余儀なくされたイタリアで、作家パオロ・ジョルダーノはこう書いていた――

 CoV-2に対する抗体は持たぬ僕らも、どんな困った状況にでも対抗できるそれならば持っている。何かにつけ、始まりの日付と終わりの日付を知りたがるのはそのためだ。僕らは自然に対して自分たちの時間を押しつけることに慣れており、その逆には慣れていない。だから流行があと一週間で終息し、日常が戻ってくることを要求する。要求しながら、かくあれかしと願う。
 『コロナの時代の僕ら』(飯田亮介訳)

 その過程で人びとがしきりになしたのは「数える」ことだったと、作家は言う。感染者数を数え、死亡者数を数え、貯金通帳の残額を数え、ワクチンの接種率、病床の使用率を数え、そして災厄の終息まであと幾日かと希望的に観測する。
 だがここでほんとうに重要なのは、「何を希望することが許され、何は許されないか」の「把握」であって、だからこそわたしたちは、未来への希望にすがりつつ数や日を数えることから、「人生のすべての日々を価値あるものにする数え方」を学びなおすことへと移行すべきだったのだと、作家は言う。


 が、それからさらに一年半、わたしたちはその移行への希望からも見放され、当座をしのぐどころか、サスペンディッドという状態の恒久化を怖れつつ受け容れざるをえないと思いさだめつつある。《いま》に永続的に貼りつけられていることに耐えるほかないという予感である。
 《いま》という瞬間に閉じ込められるというのは、ひとにとってカタストロフィックな事態である。人間の意識というものは現在から不在への意識のたなびきのなかにこそ住まうからだ。思い出や後悔はもはや存在しないもの、取り返しのつかないことへの拘泥だし、希望や祈りは未だ存在しないもの、あるいは現在へとついに到来しないものへの懇願であろう。ひとの意識が現在に貼りついたまま不在へと移ろうことがない、その典型は激痛に襲われたときであろう。激痛のなかでひとの意識は《いま・ここ》から外出できない。それは希望と祈り、記憶と後悔といったひととしての尊厳にかかわる意識を不可能にする。さらに《いま・そこ》にいる他者への想像的共感をも不可能にする。そのかぎりで、《いま》という瞬間の連続ばかりがあって、時が流れないというのは、きわめて危うい状況である。


 一方、時が流れることが人間にとって安定したリアリティをしかと保証するかといえば、ここにもじつは危うい場面がある。一つは(すでに述べたような)時間が切れ目のない均質的なものとして流れっぱなしになるという事態であったが、いま一つは、虚実の境目が曖昧になりがちなことである。何かに没頭していると時間はあっというまに過ぎ去るし、気乗りしない作業をしていると時間は粘り着いて杳(よう)として流れない。つまり時間には主観的な感情が沁み込み、その流れじたいが幻想や妄想と地続きになっている。かつてパスカルが「人生は、定めなさがいくらか少ない夢である」(『パンセ』断章386)と記したのも、そうした夢うつつともいうべき虚実の境界のあいまいさをさしてのことである。
 これは時間に本質的な構造であって、わたしたちが時間のなかにあるということは、時間を流れとして見る(それじたいは時間外の)定点が存在しないということである。ここに、一つたりとも定点のない流れのなかでみずからが流れていることを覚知することの原理的な難しさがある。だからこそ、ひとが夢うつつの状態に閉じこもることがないよう、ひとは社会的な時間の仕切りや区切りを制度として設定してきたのである。


 では、時間の、ひいては生のリアリティのベースになるものはいったい何なのだろう。
 それは《いま》という時間形式であるとともに何ものかの《現前》をも意味する現在が、たいていの場合、他者のもう一つの現在と同時的なものとしてあるということではないだろうか。哲学ではそれを《共-現在》(co-presence/Mit-gegenwart)と呼んだりするが、要するに、複数の主体が同時に相互接触へといわばむき出しで晒(さら)されているという事態である。彼らは一つの現在のなかでまじまじと向きあっている。まじまじというのは、両者が同じ一つの現在に引き込まれ、繋ぎとめられて、そこから任意に退去できないという事態であり、いわばそうした強い磁力で接合されている状態である。これがリアリティというものの「意のままにできない」という性格の内実をなしているのではないか。
 とすれば、他者との《共-現在》の内にない(いいかえると、他者の現在との接触がない)という、そうした現在のありようにこそ、危機が胚胎していることになる。そして本稿の冒頭でふれた時間経験の異様さも、この《共-現在》の不在に起因するようにおもわれる。というのも、この《共-現在》という時間経験の禁止もしくは抹消こそ、このパンデミックのなかでわたしたちが否応なくさせられていることだからである。


 コロナ禍のもとでの都市封鎖(ロックダウン)と、「数える」ことへの人びとの意識の同期化(シンクロナイズィング)は、他なる主体の意識との遭遇、接触、交感を不可能にする。いいかえれば、主体をリアルへと着地させつつ時間に杭を打つ《共-現在》を、自己閉鎖へと反動的に転回させる。エマニュエル・レヴィナスの言葉を借りれば、まさに《自己に反して》(malgré soi/contre soi)である。パンデミックのなかにいるわたしたちの《現在》においては、《自己に反して》という契機が前面に出てくる。足を下ろす地点が見えない、それこそ浮き足だった日々である。
 そして、《自己に反して》というこの契機が、ほかならぬコロナ禍のなかでの奇妙なしんどさ、つまりこれまでじぶんたちが強く推奨してきたことがらがすべて裏目に出るという事態の根底にあるとおもわれる。相互接触を――ソーシャル・ディスタンス以上にふれあいや寄り添いを――、現場感覚を――オンラインではなくオンサイトを――、開かれを――相互隔離(アパルトヘイト)としてのロックダウンではなく相互交通を――、多様性を――同質性・均質性ではなく異質性を――と、わたしたちが口酸っぱく訴えてきた価値をいったん失効させるという、そういう《自己に反して》をずっと強いられてきた一年半である。


 しかしレヴィナスはこの《自己に反して》が、ひとが生きることそのことのうちに確と刻印されているとした。それはひとにおいては、(生の自然に反して)「他者の苦痛に苦しむ」という、いわば倫理の要がそこに懸かっているということである。いま、わたしたちにとっていちばん重要なことは、この間ずっと強いられてきたこの《自己に反して》を、「他者の苦痛に苦しむ」という本来の《自己に反して》へと裏返すことを忘れずにいるということである。

 「残念だが、パーティーは次回にお預けだ」――ジョルダーノがこうわたしたちに呟きかけたのも、そういうことだとおもう。

 (わしだ きよかず・哲学者) 

 

◇こぼればなし◇

◎ 小誌の目次頁にある巻頭コラム「読む人・書く人・作る人」のことを、編集部では単に巻頭言と呼んでいます。三つの「人」のカテゴリーをことさら意識するのは、編集会議のときぐらいでしょうか。寄稿依頼は「読む人」が続かないように気をつけよう、登場頻度が少なくなりがちな「作る人」にも積極的にお願いしよう、などと呼びかけています。
◎ この巻頭コラムは一九三八(昭和一三)年八月の『図書』スタート時からあったわけではありません。一九四二(昭和一七)年一二月号をもって小誌はいったん終刊するわけですが、戦後、創業者・岩波茂雄亡き後の一九四九(昭和二四)年一一月に復刊した際に始まるのです。
◎ 第一回の筆者は安倍能成。「私は時勢を知り、世界を知る必要があり、随ってその点から読書の必要を感ずるのである。楽しむ為の読書ばかりでなく、教えられ啓かれる為の勉強が必要なのである」と、新生日本における読書宣言となっています(原文は旧字旧かな)。
◎ 「読む人・書く人・作る人」という標題は、本号同欄の落合勝人さんコラムにもあるように、林達夫の命名による由(『週刊金曜日』一九九四年五月一三日号、久野収講演録〔『久野収集 Ⅰ』収録〕参照)。この度刊行された『林達夫 編集の精神』の著者である落合さんは現役の編集者ですが、林達夫自身、二〇世紀を代表する思想家で、「編集者」でもありました。『思想』第二期・編集主幹、最初の「岩波講座」である『岩波講座 世界思潮』(全一二巻)編集、平凡社『世界大百科事典』編集長……。
◎ 同書で描かれるのは、一八九六(明治二九)年生まれの林が、時代状況のなかでアカデミズム外に活躍の場をもつ〝知識人/編集者〟の一人となっていく道程であり、戦後へと至る独自の思考と行動です。そこに、関東大震災の被災経験と戦争という時代はどのように関わっていたのか。大震災後の〝書籍の周囲〟の変容、円本ブームや雑誌『キング』の大成功に象徴される「書籍の洪水」「書籍流通システムの激変」はどんな意味をもつのか、という問題意識が貫かれています。
◎ 大震災前、鵠沼海岸のある「御殿」を舞台に息づく知的サロンの光景。岩波茂雄自身が乗り気ではなく、公式の「岩波講座」に含まれていない『日本資本主義発達史講座』との林の関わり。野呂栄太郎との深い交流等々、本書は博士論文が元になっていることを忘れるほど読み物としても面白く、紙幅の制約でこれ以上ご紹介できないのが残念です。
◎ 現在、電子書籍市場の伸長著しく、書籍流通をめぐる再編や改革が急速に進んでいます。私たちにとっての〝書籍の周囲〟はどのような変容を遂げていくのか、それにどう対するのか、読書中、常に問われている気がしました。読む人、書く人、作る人、届ける人、それぞれの視点で興味深く読める本だと思います。
◎ 小誌一〇月号目次で、著者名に誤記がありました。「畑中章弘」は正しくは「畑中章宏」です。畑中さんと読者の皆様にお詫びし、ここに訂正いたします。

 

 

 

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